「幸福について」ショーペンハウアー

  難易度 ★★★☆☆
オススメ度 ★★★★☆
 所要時間 4時間30分

幸福について自分らしく生きるための哲学
この記事を書いた人
人事部長


一般企業に入社以来、経営・財務・営業・人事・海外事業・役員秘書等を経験し、現在は約30名の部下を持つ人事部門のマネージャです。

「才徳兼備」を目指す部下に紹介している「骨太の教養本100冊」を、順次web上にも公開しています。

慶應義塾大学経済学部卒業、シカゴ大学経営大学院修了(MBA)、米国公認会計士。

「幸福について」ショーペンハウアー

基本情報

初版   1851年
出版社  光文社古典新訳文庫等(日本)
難易度  ★★★☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 427ページ
所要時間 4時間30分

著者

アルトゥール・ショーペンハウアー 1788 – 1860

ショーペンハウアー

ドイツの哲学者。カントとプラトンから影響を受ける。主著『意志と表象としての世界』では、人間は絶えず満たされない欲望を追求するから、人生は苦になると説いた。また、世界は各個人の主観の表象であるから、各自が主観(=意志)を否定すれば苦から逃れることができるとした。これはニーチェに大きな影響を与えることになる。

ショーペンハウアーの考え方は仏教に近く、事実、彼は仏陀に倣って、苦しみに満ちた世界から解脱する道を模索した。

『意志と表象としての世界』は当初全く売れず、ベルリン大学では当時大人気だったドイツ観念論の確立者ヘーゲルと同じ時間に授業を設定するも、聴講者は一ケタ台だったという。ショーペンハウアーの知名度を飛躍的に向上させたのは、晩年になって発行された本書『幸福について』を含む『余禄と補遺』という一般読者向けの箴言集であった。

何度か恋愛の機会もあったが、生涯独身を貫く。「結婚は権利を半分にし、義務を倍にする」とは彼の名言の一つ。

こんな人におすすめ

人付き合いに疲れてきた人、自分らしく生きたい人、若い頃のギラギラ感から逃れて心穏やかに生活したい40代~50代の男性

一行紹介

「苦悩に満ちた世界を、いかに心穏やかに生きるべきか」を、ドイツの厭世哲学者ショーペンハウアーが一般読者向けに易しく説いたベストセラー。賢者と愚者を比較して論証を進めるので、自分を賢者側と見る青少年の「中二病」を助長する側面はあるかもしれない。

作者の伝えたいこと

私たちは幸福になるために生存しているわけではなく、苦悩の中に投げ込まれた存在である。よって、生にまつわるあらゆる出来事は「苦」なくして語りえないのだから、人は出来る限り快適かつ心穏やかに生きる技術を身に付けるべきだ。

愚者は日常生活を目的とするから、何かを失った時に不幸になる。賢者は自分の内なる精神世界を目的とするので、不幸になることなどない。

幸福や快楽は欲望としか対にならない幻想のようなもので、主観的で移ろいやすい。一方、苦痛や悩みは幻想ではなく実在し、客観的かつ普遍的である。だから、幸福や快楽を追わず、苦痛や悩みを回避するようにすれば、人生は充実する。

要約・あらすじ

第1章 根本規定

■人間の運命を左右する要素は3つある。

①その人は何者であるか(人格、知性、美、健康など)
②その人は何を持っているか(財産)
③その人はいかなる印象を与えるか(名誉、地位、名声)

■このうち決定的に重要なのは①である。なぜなら、②と③は相対的かつ可変的であるが、①は絶対的かつ不変的であるからだ。

■その人が体験するすべては、常にその人の人格や知性といった主観を経由するのであって、世界をどう捉えるかは全てその人次第である。事実そのものではなく、それをどう解釈するかが、人の幸・不幸を左右する。

第2章「その人は何者であるか」について

■人格や知性のうち、直接的に私たちを幸福にするのは陽気さや快活さである。陽気さや快活さによって、世界はポジティブに捉えられる。人間の幸福の主たる源泉は、自らの内面にあるのだ。

■仕事以外での人間の「楽しみ」は以下3つに分類できる。このうち、成熟した賢者のみが、③を享受できる。

①生きる楽しみ(飲食、睡眠など)
②身体的な楽しみ(スポーツ、行楽など)
③精神的な楽しみ(読書、思索など)

■それ故、賢者は孤独を好む。何故なら内面に備わっているものが大きく、外部刺激を必要としないからだ。逆に愚者は①と②しか楽しみがないから、是が非でも気晴らしや社交を求め、空虚な自分から逃れようとする。

多くの人が、味気なく空虚で悲しみに満ちた日々の生活そのものを目的とする一方、賢者は精神的生活が人生の目的となる。多くの人は日々の生活を象徴する財産や名誉などを失うと不幸になるが、賢者にとってそれらは単なる手段である。

第3章「その人は何を持っているか」について

■富や名声は海水のようなもので、飲めば飲むほど、喉が渇く。富や名声が拡大する際は喜びを伴うが、すぐにそれにも慣れてしまう。

■生来的に貧しい人は、財産を手にすると、湯水のごとく使ってしまう。仕事でも目上に媚びることが多い。一方、財産を相続したような人は、お金の使い方は心得ているが、仕事では無礼になりがちだ。

■よって「その人は何を持っているか」は幸福の源泉にはなり得ない。

第4章「その人はいかなるイメージ、表象・印象を与えるか」について

■人間は「他人からどう見られるか」という他人の思惑の奴隷になっている。自分自身でコントロールできないものに自分を委ねてはいけない。

■この「他人の思惑」という要素を理性的に正当な程度まで制限し、引き下げることほど、私たちの幸福に役立つものはないが、それは非常に難しいことである。

第5章 訓話と金言

■快楽は幻のようで直ぐ消えるが、苦痛は具体的で継続する。人は快楽の多い人生ではなく、苦痛のない人生を追うべきだ。

■ある人が幸福かどうかを判定するには、何を悲しんでいるかを問うべきだ。気に病んでいる事柄が取るに足らぬものであればあるほど、その人は幸福である。

■もし今、大きな苦痛がなく、まずまず耐えうる人生を送っているなら、あなたは幸せだ。病気になったり、苦しくなったりすれば、今が失われた楽園のごとく思い出されるだろう。

■時と物事は移ろいやすい。今、幸せなら不幸を、友情には敵意を、愛には憎しみを、今が逆ならその反対を常に想像していれば、不測の事態にも対応でき、思慮深い人生を送ることが出来る。

■日記は付けておくべきだ。なぜなら、時間が経つと、以前の環境や境遇が醸し出していた気分や感情を思い出せなくなるからだ。しばしば自省し、自分の希望と到達点の差異を検証することで、人生は思慮深くなる。

■人は孤独でいる時が、最も自由であり、自分自身の個性や価値を享受できる。人付き合いには他人への気遣いや節制が必要だからだ、結果、自分自身に価値のある人間は孤独を好み、そうでない人間は自らの空虚さと単調さを埋めるために、やたらと群れることになる。凡人は他人には耐えられるが、自分の空虚さには耐えられない。

■孤独を愛する気持ちは先天的なものではなく、とりわけ知性が高く高貴な精神の持ち主において、年齢とともに成長するものだ。ただし孤独に慣れると、感受性が敏感になり過ぎ、必要最小限の社交すら苦痛になってしまう。

■凡人は外的刺激に反応し続け、快楽を追う人生を送る。一方賢者は、物事を客観的に把握する知性を持ち、より高次な精神的充足を追う人生を送る。

■他人を変えようとしても無駄だ。世間を生きていこうとするなら、他人を変えるのではなく、それをうまく利用しようと考えるべきだ。

第6章 年齢による違いについて

■若い人は、自分もいずれ素晴らしい幸福や快楽に出会えるはずと考えている。歳を取ると、そんな幸福や快楽は幻のようなものだと達観し、安らかな気持ちで現在を享受できるようになるし、それどころか些細なことにも喜びを感じるようになる。

■青年期の教育では、小説を読ませてはいけない。世間に幸福や快楽があるかのような幻想を抱かせるからだ。代わりに「フランクリン自伝」のような実利的なものを読ませるべきだ。

■歳を取ると、精神力は衰えるが、それを補って余りある経験と学識が備わる。物事をあらゆる側面から考察・熟考する時間と機会を持てる。それ故、世の中の道理が理解できるようになり、人生は円熟する。

学びのポイント

世の中は客観半分、主観半分

現実世界のいかなる出来事も、主観と客観という二つの側面から成り立っている。

だから、客観的半面が全く同じでも、主観的半面が異なっていれば、また、これとは逆に、主観的半面がまったく同じでも、客観的半面が異なっていれば、現実世界はまったく別様なものになる。(中略)

「客観的に現実にいかなる事態なのか」ではなく、「私たちにとって、いかなる事態なのか、私たちが事態をどう把握したのか」が、私たちを幸福にしたり不幸にしたりするのである。

これはつまり「事実は変えられないが、解釈はその人次第」ということを言っている。

友人が約束の時間から30分遅れるという客観的事実は変えられないが、それに対して「むかつく!」と思うか、「本を読む時間ができた!」と思うかはその人の主観である。

この「世界は考え方次第」という哲学における基本命題は、これまで様々な人が話題にしている。

事態が人間を不安にするのではなく、事態に対する見解が人間を不安にする。

エピクテトス

克己の精神を持つこと。いろいろな場合、たとえば病気の場合でさえも、機嫌良くしていなければならない。

我々が怒ったり悲しんだりする事柄そのものにくらべて、これに関する我々の怒りや悲しみのほうが、どれほど苦しみをもたらすことであろう。

自分自身の魂の中ほど平和で閑寂な隠れ家はない。そこに帰れば心が完全に安らかになれるのに、一体君は何に対して不満に思っているのか。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』

人生の幸不幸の境目は、みな人の心が作り出すものである。釈迦も同じことを言っている。

洪自誠『菜根譚』

・悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。

・私は義務の第一位に上機嫌を持ってくるに違いない。人生の些細な害悪に出会っても、不機嫌で自分自身の心を引き裂いたり、それを伝染させて、他人の心を引き裂いたりしないように、努めねばならない。幸福の秘訣の一つは、自分自身の不機嫌に対して無関心でいることだ。

・人間にとって、自分以外にほとんど敵はいない。人間は、自分の間違った判断や、杞憂や、絶望や、自分に差し向ける悲観的言動等によって、自分自身の敵になる。ソクラテスの時代、デルフォイにあったアポロン神殿の入口には「汝自身を知れ」と書いてあるではないか。

アラン『幸福論』

人が自分にどのような態度・反応を示すかは、全て自分の心が整っているか否か次第である

佐藤一斎『言志四録』

世の中の人は皆、幸福を求めているが、その幸福を必ず見つける方法が一つある。それは、自分の気の持ち方を工夫することだ。幸福は外的な条件によって得られるものではなく、自分の気の持ち方一つで、どうにでもなるのだ。

D.カーネギー『人を動かす』

悲観主義者はすべての好機の中に困難を見つけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす。
A pessimist sees the difficulty in every opportunity; an optimist sees the opportunity in every difficulty

イギリス首相 ウィンストン・チャーチル

「鈍感力」の大切さ

賢者は、精神的欲求が強く、如何に生きるかという、より高次で美的な喜びを追求するので、多くの人が満足するような事柄も味気なく感じられ、楽しむことができない。

その意味では、精神的な欲求がなく、肉体の幸せに寄与するような外部刺激だけで満足できる俗物の方が、幸せなのかもしれない。

ただし、肉体的快楽はいずれ底を尽き、疲労をもたらすが、観念的快楽には限界がない。これは難しい問題で、ソフォクレスは、相反する二つの箴言を残している。

1.思慮分別があれば、大いに幸福にあずかる。
2.最も快適なのは、無思慮に生きること。

これはなかなか深い議論である。ある程度「鈍感」で「あまり深く物事を考えない」人の方が、しばしば幸せそうで、悩みも少ないという事例は多く見られるのではないだろうか。

例えばパワハラ体質の人。自分自身は厳しい口調で指導されても何も思わないからこそ、他人にも厳しくできるのであろうし、「こんな言い方したら傷つくかな」といった思慮もなく、のうのうと生きている。

あとは、パチンコやスロットが趣味という人。明らかに外部刺激だけで満足できる体質ということだろう。時間を持て余し、やたらと群れる人も、ここに入る。

ただ、世の中はこの「無思慮」な人がマジョリティーを握っている。内面世界など持っておらず日常の生活が全てである人であり、知的水準という意味では偏差値40~60くらいの人。テレビも映画もあらゆる娯楽はこの層をターゲットに作られている。

その意味では、この世はマジョリティーに属している方が幸せに生きられるのかもしれない。精神世界が充実している人、感受性に優れる人、賢い人にとっては、いかに内面を充実させ、自分自身で精神世界における楽しみを生み出せるかが大切になるだろう。

自分の道を生きられるか

他人の目にどう映るかで、生き方の価値の有無が決まるとしたら、みじめだろう。真の幸福の宿る場所が、大衆の頭脳なのだから。

およそ生あるものは、自分自身のために、何よりもまず自分のために独自の生を営み生存するほうがよい。──どんな在り方でも、自分自身にとって最優先すべき最も大切なことは、「自分は何者なのか」ということだ。

これはビジネスの場面でもそのまま当てはまるだろう。

自分の信念さえ曲げなければ、自分の仕事がクライアントや社会から評価されるように頑張ることは良いことと言える。自分の能力を正しく社会に還元することに繋がるからだ。

しかし、上司から褒められたいとか、出世したいとなるとどうだろうか。真の幸福の宿る場所が上司の脳の中では、あまりに人生は貧しい。

上司の評価は時と場合によって変化する。しかし「自分は何者なのか」という自分の信念は変化しない。自分の人生の評価を他人に委ねるのか、自分で握り続けるのか、大きな違いを生むはずだ。

快楽を追うより苦痛を避けよ

私はあらゆる生きる知恵の最高原則は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』でさりげなく表明した文言「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」だと考える。

幸福論は、幸福論という名称そのものがいわば粉飾した表現であり、「幸せな人生」とは、「あまり不幸せではない人生」、すなわち「まずまずの人生」であると解すべきだという教えから始めねばならない。

幸福と快楽は、遠くからははっきり見えるが、近づくと消えてしまう蜃気楼のようなものであるのに対し、苦悩と苦痛は、リアリティーをもち、直接的に自己主張し、私たちを不意打ちするのだ。

この前後でショーペンハウアーは以下のような主張を展開している。

・快楽は実体が無くすぐ消えるが、苦痛は実体があり継続する
・快楽を追うと苦痛が付いてくるのだから、快楽など追うべきではない
・苦痛がないことは人生の幸福を測る物差しである

ショーペンハウアーらしい厭世的な幸福論ではあるが、大きな意味では「幸せは自分の心持ち次第」という幸福論に分類される。或いは「享楽を求める煩悩を振り切れ」とする仏教に近い。以下、幸福論の典型例を整理しておく。

①利己的遺伝子説②理性万能論③幸せ脳内物質説④仏教
幸せになどなれない幸せは自分で決める幸せを人工的に創る幸せを追わない

①利己的な遺伝子説

人間は他の生物と同様、生存に適した形に進化してきたのであって、幸せになるようには設計されていない(例えば、100%楽観的な人間より、ある程度心配性な人間の方が、生存には適していたであろう)。人間はDNAに支配されており、外からの刺激に機械的に反応しているだけであって、幸せになどなれない。

②理性万能論

人間は放っておけば刺激に反応するだけの物体だ。しかし人間には理性の力がある。必要なのは、信じ、期待し、微笑むことだ。人生の幸不幸の境目は、みな人の心が作り出すものであって、幸せになれるかどうかは、自分の心持ち次第。幸福は自分で作るものだ。

③幸せ脳内物質説 

人間の幸福は、神経やニューロン、シナプスや、セロトニン・ドーパミン・オキシトシンといった化学物質の作用により感じられる。薬物によって人は幸せになれる。

④仏教

人生は思い通りになどならない。あらゆるものは変化するのに、人間は何か特定のものに執着する。あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になれば、結果として幸せに生きることができる。つまり、幸せを追わないことこそが、幸せなのだ。

ショーペンハウアー的「孤独論」

そもそも人間は、自分自身を相手にしたときだけ、「完璧な調和」に達することができる。友人とも恋人とも「完璧な調和」に達することはできない。個性や気分の相違は、たとえわずかではあっても、必ずや不調和を招くからだ。

だから、心の真の深い平和と完全な心の安らぎという、健康に次いで最も貴重な地上の財宝は、孤独のなかにしかなく、徹底した隠棲のうちにしか見出すことができない。偉大で豊かな自我の持ち主は、そうした場合、このみじめな地上で見出しうる、もっとも幸福な状態を享受するだろう。

価値と豊かさを内面に備えた人は、他人との連帯を得るために多大な犠牲を払ったりはしない。それは自分ひとりで満ち足りた心境にあるからだ。凡人は、これと反対の気持ちから社交的になり、調子を合わせる。凡人は、自分自身に耐えるよりも他人に耐えるほうが楽だからである。

この引用は、ショーペンハウアーの人間観を端的に表している。

聖書には「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という表現があるが、これは自分自身を愛するのは当然という前提が含まれている。自分自身を素直に愛せる人は、「完全な調和」のもと、孤独を楽しむことが出来る。

また、「愛するということ」の著者であるエーリッヒ・フロムは、こう言う。

エーリッヒ・フロム

人は孤独から逃れるために、集団に同調する。しかしそこには人間同士の真の一体感はない。完全な答えは、他者との融合、すなわち「愛」である。

ショーペンハウエルは、どちらかと言うと他者との融合には否定的だが、フロムは「愛」をもってすれば可能であるとする。愛がなく、単に自分の空虚さを埋めるために人を求めるとすれば、それこそが空虚ということであろう。

議論は避け、誤りは指摘しない

他人の意見には反駁しないほうがよい。相手が信じ込んでいる不合理をいちいち説得して思いとどまらせようとしたら、時間がいくらあっても足りない。

また会話の際に、よかれと思ってしたことでも、相手を矯正する論評はひかえたほうがよい。相手の心を傷つけるのはたやすいが、翻意させるのは、不可能とまではいかなくても、難しいからである。

この教訓はかなり普遍的なようだ。自己啓発本の元祖「人を動かす」の著者デール・カーネギーはこのようなことを言っている。

デール・カーネギー

デール・カーネギー

1.議論を避ける

議論で相手を打ち負かしても何も得られない。やっつけられたほうは劣等感を持ち、自尊心を傷つけられ、憤慨するだろう。

2.誤りを指摘しない

人は自分の誤りを指摘されると自己防衛本能を働かせてしまう。よって「それとなく気付かせる」方法を取るべきだ。こちらの出方が優しくて巧妙だと、あっさり非を認め、むしろ自分の率直さや大らかさに誇りを感じることさえある。

歳を取ることの効用

青年期には、世間で素晴らしい幸福や享楽に出会えるはずで、これに行きあたるのが難しいだけだと考えている。

しかし老年期になると、世間から得られるものは何ひとつないと達観し、すっかり安らかな気持ちで、まずまずの現在を享受し、それどころか些細なことにも喜びを感じるようになる。

若いころは「歳を取るなんて嫌だ」と思っていたけれど、いざ歳を取ってみると思ったほど悪くない、と思う方々はそれなりにいらっしゃるのではないだろうか。

ショーペンハウアーが言うように、歳を取ると「幸せや快楽への諦念」が情緒を安定させてくれる。周囲と自分を比べることも無くなり、自分は自分と割り切れる。

加えて、若い頃は自分のことがよく分からない。何が得意で、何をしている時が充実していて、どんな人といる時が幸せなのか、そういったことが分からない。だから「この仕事を続けてていいのかな」とか「パートナーはこの人でいいのかな」と迷ったり、自分とはもともと合わない人たちとの人間関係で悩んだりする。

歳を取ると、朝まで飲んだり、情熱的に恋愛するようなことは出来なくなるが、自分のことがよく分かるようになるので、迷いや悩みは減る。やりがいがあって、残業がなくて、給料がいい仕事なんて無いことが分かるから、自分の仕事にそれなりに満足できるようになるし、自分の好きなことが見付かるから趣味に没頭できるし、自分と合わない人とは付き合わないようになる。

歳を取る効用、というのは確かにあるように思える。皆さんはどう考えるでしょうか。

人事部長のつぶやき

「陽気さ」の重要性

現在、直接的に自分を幸せにしてくれるのは陽気さに他ならないのだから、陽気さこそが幸福の実体、いわば幸福の正貨であり、他のものはみな幸福の単なる兌換紙幣にすぎない。

したがって私たちは、他のいかなる努力よりも、この財宝の維持増進を最優先すべきであろう。

厭世主義のショーペンハウアーらしくない一節ではある。しかし、組織で働くビジネスパーソン、特に管理職やリーダーにはこの「陽気さ」という要素は欠かせない。

リーダーが陰鬱な組織は下も陰鬱になるし、リーダーが陽気な組織は全体も陽気になる。全く同じ能力を持った人がいた場合、陽気と陰気なら、どちらがいいだろうか。40代を超えたら、考えるべきテーマであろう。頭が良いだけでは、組織のリーダーには相応しくないのである。

ショーペン節炸裂

自己の内面の空虚さから逃れるために、人は社交する。賢者は内面に備わっているものが大きく、外部刺激を必要としないが、愚者は内面が空虚なため、それを気晴らしや社交で埋めなければならない。

最近、多くの人がSNSに夢中になり、通勤電車でもカフェでもトイレでもひたすらスマホを眺めているのを見ると、これを思い出す。彼らの内面の空虚さが、外部刺激を求めさせるのだろう。

「外部刺激に反応し続けるだけの機械」には、なりたくないですね。

自分に対する評価で一喜一憂しない

一般に他人の意見の大部分は好意的ではなく、自分について言われたことを残らず耳にし、また、いかなる口調で噂されたかを聞き知ったら、ほとんどだれもがひどく憤慨するだろう。

これは時代を問わず、真理なのであろう。北宋時代の宰相・大臣クラスの箴言をまとめた『宋名臣言行録』にも、次のようなエピソードが紹介されている。

呂蒙正が副宰相になる儀式の際、ある者が「あんな男まで副宰相か」と指をさした。
蒙正の同僚は怒り、人物を特定しようとしたが、蒙正は「もしその名前を知ったら、一生忘れられない。知らない方が良い。聞かないでおいてどんな損になるのか」と言った。人々はその度量に感服したそうだ。

自分の信じる道を歩んでいるのであれば、他人からの評価は気にしすぎない方が良い。これは謙虚でないわけでも、不遜であるわけでもない。自らを正しく守る術と言えるだろう。

現代では絶対に表明できない考え方

結婚において、女性は男性に(生活基盤から子供の世話まで)あらゆるものを求めるが、男性が女性に求めるものはただ一つである。女性は結婚と引き換えでなければ、男性に体を与えない。女性の繁栄はこの制度が機能するか否かに掛かっている。

だから女性は、結婚という制度の枠外で性的交渉をする女性を袋叩きにする。それを認めてしまうと、男性に美味しいところだけを持っていかれてしまうからだ。

一つの見識ではあるが、現代で発表したらそれこそ袋叩きに遭うだろう。ショーペンハウアーは上記のような考え方の持ち主であるからか、生涯独身を貫いており、「結婚するとは、彼の権利を半分にして、義務を二倍にすることである」という名言を残している。

でも、ショーペンハウアーの言っていることは、一つの真理と言えますね

たまには立ち止まって考えてみる

自分の幸福にとって、もっとも大切なものは何か、それから、これに次いで第二、第三の地位を占めるものが何かを、知っていなければならない。

人は普通に生活していると、「自分は何をしている時が幸せなのか」「どんなことなら頑張れるのか」「どんなことを避けたいのか」といったことを考えない。就職活動のような節目ではみんな「自己分析」するが、それを終えると再び何も考えなくなる。

日々の雑事に追われて、惰性で生きている人のなんと多いことか。たまには立ち止まって、自分の人生にとっての優先順位を見つめ直す機会を作るべきだろう。

ショーペンハウアー的孤独論~比喩篇~

社交とは、極寒のなかで人々が押し合いへし合いして体を暖めるように、人々が互いに触れ合うことで精神の温もりを求めるものとみなすことができる。けれども、自ら精神の温もりをおおいにもつ人は、このような集団をつくる必要がない。

ヤマアラシの一群がある寒い冬の日に、寒さをしのごうと体を寄せ合っていた。しかし互いの体の針が痛くて、体を離す。寒さに震えてまた体を寄せ合うと、また針が突き刺さる。こうして寒さと痛さの間を行ったり来たりしながら、最後にやっと我慢できるお互いの適当な間隔を見出したという。

後半部分は、「余禄と補遺」という別の書に収録されている有名な比喩である。人間関係とは、まさにこういうことだろう。

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