「進化は万能である」
マット・リドレー
基本情報
初版 2015年(米)、2016年(日本)
出版社 早川書房
難易度 ★★★★☆
オススメ度★★★☆☆
ページ数 437ページ
所要時間 5時間00分
どんな本?
人類が生み出してきたあらゆる文明(科学技術・宗教・文化・政府・経済など)は、生物の進化と同様、自然淘汰でボトムアップ的に形成されてきたものであると主張する。
ダーウィンの進化論を他の分野にも敷衍し、あらゆる事象は環境や人間活動による自然淘汰の結果として形成されたものとする「進化生物学」の思考軸を身に付けたい人に特におすすめ。
著者が伝えたいこと
世の中の森羅万象は、神のようなデザイナーがいるわけではなく、自然環境や人間の生存活動の結果として説明できる。
特定の神や人物がトップダウンで人類に何かをもたらした例はなく、科学技術・宗教・文化・人格・政府・経済・教育・通貨からインターネットにいたるまで、全て人類がボトムアップで作ってきたものである。
しかし人間は弱く、科学的・論理的に説明できない事象に対しては、すぐに「神」や「その他の何か」を持ち出す傾向がある。これは戒めなければならない。
著者
マット・リドレー
Matt Ridley
1958-
サイエンスライター。オックスフォード大学で博士号(動物学)を取得。エコノミスト誌科学記者を経て、英国国際生命センター所長等を歴任。英国王立文芸協会フェロー、オックスフォード大学モードリン・カレッジ名誉フェロー。
こんな人におすすめ
ダーウィンの進化論を他の分野にも敷衍し、あらゆる事象は環境や人間活動による自然淘汰の結果として形成されたものとする「進化生物学」の思考軸を身に付けたい人。
物事の本質を見抜くツールの一つとして「進化生物学」の考え方を学びたい人。
(早川書房)
※「進化生物学」の思考軸が身に付く一冊!
要約・あらすじ
■西洋では、神がトップダウンで世界の在り方をデザインしたとする考え方が根強い。しかし、あらゆる現象は、ボトムアップの、自然な原因の結果である。科学的な理解を諦め、すぐに神を持ち出して説明しようとすることを「逸脱」と呼ぶことにする。
■道徳は十戒のようにトップダウンでもたらされたものではない。互いに道徳を守ったほうが社会のためになるという計算があったにすぎない。イギリスなどで見られるコモンローは望ましい判断のみが残るという意味で、自然発生的秩序の見事な例だ。
■ダーウィンの進化論は現代では常識だが、生物界はあまりに複雑で、特定の「デザイナー(=神)」がいるはずであるという主張はなくならない。しかし生物は、特定の意図を持って進化したのではない。環境に合わせて変化してきただけだ。人類は常に「逸脱」の誘惑に駆られるのだ。
■言語の進化は生物の進化に似ている。どちらも進化のデザイナーはおらず、ランダムな変異によって変化し、淘汰される。理由は明らかではないが、赤道付近で種類が多様で、極に近づくにつれてそれが減るというのも類似している。
■他にも、科学技術、宗教、経済といった分野も、全て人間が環境に合わせて、自らの幸福を追求し、活動してきた結果として現れたものである。誰かが意図を持って作ったものではない。科学技術は特定の人物がいなくとも今日の形で発達したであろうし、神はそもそも人為的なものであり、政府がコントロールする経済はことごとく失敗してきた。
学びのポイント
人はなぜ、生きるのか
リチャード・ドーキンスは著書の中で「生物は、遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく、盲目的にプログラムされた自動操縦の乗り物なのだ」と唱えた。
事実、人間のDNAには人間の生存自体には役立たない機能が備わっている。その最大のものは、逆転写酵素(遺伝子を自己複製して、その複製をまき散らすパーツ)であり、これはDNAが人間に寄生しているしるしである。
これは本当に面白い議論だ。長年哲学者を悩ましてきた「人は何故生きるのか」という問いに対する進化生物学の答えは「遺伝子が生き延びるため」ということになる。
私たち人間が、つまらないことに腹を立てたり、悩んだりしていることの意味は一体何なのか、進化生物学の世界で相対化すると、空しくもなってくるが、哲学や宗教とは明確に異なる視点を提供してくれている。
しかし、この議論の危ないところは、「子孫を残さなかった人」の存在を否定しかねないことだ。遺伝子自身が「自分は生き延びる必要ない」と判断したから、人は(結果的に)子供を作らなかったということになる。
それでは、子孫を残さない人に存在意義はないのか。いや、これは本書でも紹介されているが、例えば、働き蜂が自分の命と引き換えに敵を刺すのは、女王蜂を守り、ハチという種の遺伝子を残すためだいう考え方がある。
これを人に当てはめれば、たとえ子供を作らなくとも、例えば働いて税金を納めたり、仕事を通じて何らかの社会的貢献をすれば、間接的に人類の遺伝子を残すことに寄与することになる。「人は何故、生きるか」は、このように理解することもできる。
科学技術は必然、芸術は偶然?
ケヴィン・ケリー著「テクニウム」によると、温度計には6人の異なる発明者がいる。その他にも、皮下注射器には3人、予防接種には4人、電報には5人、写真には4人、対数には3人、蒸気船には5人、電気鉄道には6人の発明者がいることが知られている。
発明または発見は、生まれるべくして生まれるのであって、特定の人物に依存するものではない。これも「自然発生的」なのだ。
これは直感的に理解できる。仮にアインシュタインが相対性理論を発表しなかったとしても、他の誰かが同じ結論に達していただろう。科学の世界においては、まったく独創的な理論が、それまでの積み重ねを超えて非連続的に表れることはない。
よって、極論すれば、科学や技術の世界においては「特許」という概念はそぐわない。いずれ誰かが発見・発明するものなのだから。ただ、特許による独占がないと、発見・発明に要したコストを回収できなくなる。
なので、特許は「コスト+適正利潤」を回収するに足る適切な期間(これはこれで争点だが・・・)に限るというのが本書の論旨に則った考え方である。
しかし一方、芸術の分野ではどうだろうか。1960年代のイギリスでビートルズと似たようなバンドは人気を博したかもしれないが、Hey JudeやLet It Beといった名曲や、Abbey Roadのような普及の名盤は生まれただろうか。
確かにビートルズの音楽もそれまでの音楽史を踏まえており、非連続に生まれたものではないが、他の誰かにあの名曲の数々を紡ぎだせただろうか。
この違いをどう考えるべきか。科学や技術は自然法則という縛りがある一方、芸術には物理的な縛りがない、ということか。なかなか興味深いテーマと言える。
マルサスは正しかった
マルサスは著書「人口論」の中でこう主張している。
人口の増加には限界がある。すなわち、際限ない人口の増加は、土地、食料、燃料、あるいは水が枯渇した時、悲惨な状態、飢餓、そして病気をもたらす。その第一の対策は「晩婚化」である。
これまで人類は増える人口を抑制しようとして、一人っ子政策(中国)やアウシュビッツのガス室(ドイツ)といった「手法」を取ってきた。確かに人口は抑制されただろうが、前者では男子偏重の結果として男子過剰となり、後者はそもそも倫理上の体をなしていない。
そしてマルサスの言うとおり、先進国は晩婚化で人口が減っている国が多い。その先頭はこの日本だ。
日本の少子化の直接的な原因は晩婚化(+未婚化)である。日本では海外移住する人は少数で、移民の流入もないから、人口は女性が「どれだけ早い時期に、どれだけ多く子供を産むか」に直接的に依存する。結婚が遅ければ産める子の数も限定的になるということだ。
各年齢層別の未婚率を見てみると以下のようになる。
つまり、ある政策立案者がある国の人口を抑制したいと思えば、直接的に人を減らすことを考えずに、教育・医療・インフラを整えて先進国にし、女性の社会進出を進めればよい。
まず何より赤ん坊の死亡率を下げれば、人は安心して赤ん坊の数を減らすだろう。後進国を先進国にすることが、最適な人口抑制策なのだ(ただし、移民の流入は考慮に入れていない)。
これはなかなか逆説的だ。人口が爆発的に増えている後進地域を想像するとよい。教育・医療・インフラを整えて暮らしやすくすれば、もっと人は子供を作ろうとするのではないか、と考えるのが普通ではないか。
しかし、人口爆発の解決策は、強制と計画ではなく、豊かさと幸福を追求するという人間としての当たり前のメカニズムにあったのである。マルサスの先見性に脱帽である。
スモールスタートは進化論的にも正しい
「中央政府こそが経済をコントロールできる」と考える政府の「特殊創造説」はなかなか消えない。知識階級の大半は、ボトムアップの進化的展開より、計画に基づいたワンパターンの経済政策を打ち出し、GDPの創出を図ろうとする。
しかし、ボトムアップ式進化の駆動力も沸き起こっている。特にIT分野では、プロジェクトは小さくはじめ、早めに失敗し、早いうちにユーザーからのフィードバックを得て、やりながら進化していくという手法が多くみられるようになってきた。これは計画と統制とはかけ離れたものだ。
私たちが利用するものは全て、壮大な計画ではなく、小さなステップの積み重ねによって生まれているのだ。
これはビジネスパーソンにとっては示唆に富んでいる。通常、会社で何かを始める際は、やることは決まっているのに、向こう5か年の収支とか、将来考えられるリスクとか、そういったものを、理屈をこねてなんとなく綺麗な「ストーリー」に仕立て、万人の腹にすっと落ちるように社内の経営会議で説明しなければならない。これは管理職にとって必須の能力だ。
しかし、筆者の言う通り、最近のアプリなどでは、とにかくβ版を早めにリリースしてしまう傾向が強い。最初は不具合が出まくって、ユーザーにフルボッコにされるのだが、その過程を経ることで、製品は強く、より良くなっていく。
初期投資の大きい社会インフラなどでは難しいだろうが、ICT時代、この「スモールスタート」の手法は、ベンチャーやIT企業だけでなく、一般企業でも応用できるはずだ。
物事の本質を見抜くツールとしての進化生物学
神は明らかに人間の創造物であり、その逆ではない。人間が宗教に導かれて進化したのではなく、人間が宗教を進化させてきたのだ。
古代ローマでは、様々な宗教の神々が互いに無縁に並立・乱立していた。一つの大きな帝国にとって、この神々の「整理統合」は避けられない状況だった。
何千という独立経営のカフェが、質に勝る製品をより魅力的に提供するスターバックスのような巨大チェーンに取って代わられたのと同様、ローマ帝国も宗教チェーンに乗っ取られることは避けられなかった。
これはローマ帝国で「キリスト教」が広まった理由にはなっていないが、特定の宗教が広まる素地があったことを示している。
歴史を紐解けば、古代ギリシャはギリシャ神話、古代ペルシャはゾロアスター教、イスラム帝国はイスラム教と、帝国は宗教と結びつきやすい。スペイン・ポルトガルも、勢力拡大に宗教が一役買っている
(ちなみにこれは西洋世界の特許なのか、アジアはモンゴル帝国にしても大漢帝国にしても、宗教との結びつきは相対的に弱い)。
キリスト教徒は「キリスト教だからこそ、ローマ帝国に広まったのだ」と主張したいだろうが、その素地があったことは見逃してはいけない。本書に通奏低音として流れている思想だが、あらゆる事象には、その背景となる状況がある。この考え方は一つのツールとなり得るのではないか。
例えば、スタバが爆発的に流行ったとする。原因をスタバ自身に求めることは簡単だ。良いコーヒー、適切な立地、おしゃれな空間などなど。しかしそれだけでは本質を見誤る。
背景として、人がWifiにアクセスできる場所を求めていなかったか、コーヒー健康説が流布するような状況になかったか、少子高齢化が何らか影響していないかなどなど、進化生物学の考え方は、物事の本質を見抜く一つのアプローチと言える。
そしてこのツールは「逆方向」にも使える。つまり、現状○○だから、○○という新しい技術・サービス・考え方が生まれるはずだ、という考え方だ。5Gが当たり前になったら、どんな新しいものが出てくるのか、AI・ビッグデータの世の中になると、人の生活はどう変わるか、少子高齢化が進むとどんな不具合が出てくるのか。
状況の変化に応じて将来を予測するという観点を持つと、人より一歩進んだ発想を出すことができるだろう。
人事部長のつぶやき
キリスト教が広がった説得力のある仮説
古代の農耕・牧畜社会においては一夫多妻が一般的であった。しかし、キリストは結婚とは二つの魂が一つの「肉体」になる神聖な状態だと説き、初期のキリスト教は一夫一婦制への転換を図った。
これにより喜んだのは、夫を独占できるようになった上位の女性と、セックスが可能になった大勢の下位の男性だっただろう。初期キリスト教が広く普及したのは、これら底辺男性の心を動かしたことが大きい。
これはなんとも大胆な仮説であるが、非常に説得力がある。古代において、何故キリスト教が広まったかについては諸説あり、代表的なところでは、
・(ユダヤ教徒の対比で)どのような人でも信者になれ、戒律も厳しくなかった
・神の前では皆平等、という弱者に受け入れられる教えだった
・医療や教育と結びついた
などがある。しかし、土着の信仰を捨ててまで、綺麗に西ヨーロッパ全体がキリスト教化されるものだろうか。
その点、性的理由というのは、痛快かつ明快で分かりやすい。過去、ビデオの規格争いでVHSvsベータというものがあったが、アダルト作品で先行していたことがVHSの勝因であるとされている。インターネットが爆発的に進化したのも、定量的証明はできないが、男性の性的欲求が大きく関与していることは想像に難くない。
男性の性欲は世界を動かす、、、こともありそう
ちなみに著者は、一夫一婦制も、
・(安定的なセックスの相手を確保することで)若い男性を穏やかにする
・男女比率のバランスを保ち、社会の結束感を生み出す
・犯罪率を下げ、男性を喧嘩から労働に促す
という利点があったため、生物の進化と同じく、自然淘汰の中で生き残ってきているのではないかと説明している。
管理職に求められる「ストーリー創出力」
「学びのポイント」で、管理職に必要な能力の一つとして「ストーリー創出力」をあげた。そう、これは管理職には必須である。
前任者がある仕事を作ったが、手間のかかるのでそれをやめたいとする。でも、あらゆる仕事には目的があるので、単に「手間だからやめる」と言うと前任者に角が立つし、上司からは「本当にやめて大丈夫なのか?」となどと言われたりする。
そこで出てくるのが、ストーリー創出力だ。
・以前、○○という仕事をしていたのは正しかった(前任者を立てる)
・しかし昨今、○○というように状況が変わっている(実際には大した変化でなくても構わない)
・よって、既存の○○で十分対応できるようになっている(だからやめる)
といった感じ。
自分が管理職になって初めて分かったが、この「ストーリー」を綺麗に整理してくる部下は重宝する。何故か?それは、その「ストーリー」が美しければ、私自身の上司にも同じ「ストーリー」が通用するからだ。つまり私がラクできるということ。
人はこうやって「聞き心地の良いストーリー」に傾倒していく。例えば「本部目標売上まであと○○足りないから、○○をターゲットに、○○部にあるリソースと連携して、○○するのが良い」といった、本サイトで言うところの「才」、つまり理屈、ロジック、定量論を振りかざすようになる。
しかしストーリーに頼りすぎると、本サイトで言うところの「徳」、つまり、それが本当に社会や会社にとって良いことか、正しいことか、美しいことか、社員はやる気になって取り組んでくれるのか、といった観点が往々にして抜けてくる。
ロジックや定量論はあくまで必要条件であるということを、改めて肝に銘ずる必要がある。
つまらない「ストーリー創出マシーン」みたいな人って、意外に多いですよね!
(早川書房)
※「進化生物学」の思考軸が身に付く一冊!