【人事部長の教養100冊】
「人生の短さについて」セネカ

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人生の短さについて(表紙)

「人生の短さについて」
セネカ

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基本情報

初版   AD49年
出版社  光文社古典新訳文庫等
難易度  ★★☆☆☆
オススメ度★★★★★
ページ数 約50ページ
所要時間 1時間30分

どんな本?

古代ローマの哲学者セネカが説く「主体的な時間管理論」。愚人は無意識のうちに周囲に時間を奪われるが、賢人は過去の英知に学ぶことで、人生を豊かにする。

50ページの薄い本なので一気に読める。「時間」という人生の基本要素について、2000年にわたり読み継がれている古典中の古典。長い一生のうち、一度は読んでおくべき一冊。普段忙しくて自分を省みる時間がない人におすすめの「人生の処方箋」。

著者が伝えたいこと

凡人は忙しく過ごすことで、考えることから逃げている。しかし、だからといって惰眠や娯楽に興じるのは、時間の浪費だ。

賢人は欲望や見栄や怠惰に惑わされず、静かで落ち着いた生活の中で、先人たちから受け継いだ学問的財産を次の世代に渡す仕事に打ち込むべきだ。

著者

ルキウス・アンナエウス・セネカ
Lucius Annaeus Seneca
BC1 – AD65

セネカ

古代ローマの政治家。ストア派哲学者*としても著名。初代皇帝アウグストゥス(在位BC27-AD14)亡き後のローマ帝国動揺期に、悪名高い第5代ローマ皇帝ネロのブレーンとしてその治世を支えた。最期はネロに謀反の嫌疑をかけられ自害する。

*ストア派哲学=BC3世紀にアテネで活動したゼノンに始まる学派。理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制して、不動心(アパティア)に達することを理想とし、確固たる自己の確立を目指した。stoicの語源。

こんな人におすすめ

時間をうまく使えていない人(orその意識すらない人)、他人に流されがちな人、時間を持て余してしまう人

\本書は30日間、無料で読めます!/
\専用端末無しで読めます!/

セネカ
(光文社古典新訳文庫)

※読みやすい光文社版がおすすめ!

要約・あらすじ

■人生は有限なのに、多くの人はそれが無限であるかのように時間を浪費している。そして、死ぬ間際になって初めてそれに気付く。

■大したことのない感情の起伏、飽くことのない欲望、他人の目を気にする愚、甘い社交の誘惑、何もせず無為に過ぎていった時間等々、一度自分と向き合って、時間の使い方について棚卸しすべきだ。

■皇帝アウグストゥスは、その仕事でローマと人々の役に立ち、他人からは幸福な人生に映った。しかし常に戦争し、陰謀と戦い、次から次への悩みのタネが生まれて疲弊し、最後は閑暇を願い出た。自分と向き合う時間がなかったからである。

■生きるということから最も離れているのが、多忙な人間だ。放っておくと自分の時間は必ず侵食され、誰かに奪い去られる。それは明確な「損失」だ。

■ただし、いくら時間があるとはいえ、惰眠や大衆好みの娯楽に興じるのは、時間の浪費と言える。彼らには「為すべきこと」がないのだ。次から次へと楽しみに飛びつき、その楽しみは刹那に過ぎ去ってしまう。

■一方の賢人は、英知を手にするためにしか、時間を使わない。賢人たちは、日々の雑事に惑わされず、人類が築き上げてきた学問的財産を引き継ぎ、自分の時代に付け足すことで、人生を豊かにする。それゆえ、賢者は並みの人間の限界を超えるのだ。

■そのためには、忙しさから離れなければならない。賢者は徳を愛して実践し、欲望から解放され、生きることと死ぬことを知り、深い静寂の中で生きるべきなのだ。

学びのポイント

投資・消費・浪費のバランス

あなたは、たくさんの人たちが、こう言っているのを耳にするだろう。五十を過ぎたら仕事を引退しよう。六十になれば、公の役目からも解放されることだろうと。

だが、あなたがそんなに長生きする保証が、どこにあるというのか。自分が死すべき存在だということを忘れ、わずかな人たちしか達することのない年齢になってから人生を始めようとするとは、どこまで愚かなのか。

一部要約

人生100年時代の現代、そのまま文面通りには読みにくい。現代風に解釈するために、時間の使い方を以下3つに整理してみる。

投資・・・将来のために、現在、何かを為すこと(英語の勉強等)

消費・・・現在のために、現在、何かを為すこと(趣味のカラオケ等)

浪費・・・無駄遣い(ダラダラスマホなど、自分で不本意と思った時間全て)

20代や30代の頃は、まだまだ人生、先が長いので「投資」部分を充実させておくべきだろう。投資に時間を使っても、向こう数十年で回収できるからだ。だからと言って、あまりに「消費」を抑え込むと、人生自体がつまらなくなる。要はバランスである。一方、浪費は極力圧縮するべきだ。

40代や50代になると、「消費」部分を増大させて良いだろう。これまで投資のために我慢していたことを始める、周囲に忖度することなく自分らしく生きる。20~30代の投資を回収しつつ、人生を充実させていく時期だ。

60代以降は、セネカの言うとおり、自分の身にいつ何が起きるか分からない。投資はやめて、全面的に人生を楽しむ(=消費)時期にして良いのではないだろうか。

意識しなければ時間はどんどん奪われていく

彼は、自分の自由になる時間と交換できるほど価値のあるものなど、なにひとつ見出さなかった。彼は、とてもけちな、自分の時間の守り手なのである。だから、彼には十分な時間があったわけだ。

これに対して、あの多忙な人たちに時間がないのは当然のことだ。人々の群れが、彼らの人生から、たくさんの時間を奪い去っていったのだ。

これも誰しも、思い当たるフシがあるのではないだろうか。自分の時間というものは、放っておくと、どんどん奪われるようにできている。

SNSをダラダラと無目的に見る、LINEの返信に頭を悩ませる、大して楽しくもない飲み会に惰性で長時間付き合う、スマホゲームで夜更かしする。。。自分の時間を守るのは至難の業だ。どこかで線引きしないと、必ず自分の時間は侵食される。

それは何故かと言えば、「自分の時間でやりたいことがないから」だろう。何らかの勉強をする、やりがいのある仕事がある、誰かと会いたいといった「やりたいこと」を見つけることが、短い人生を有意義に生きる必要条件と言えるのではないだろうか。

無為な社交の愚

食欲や性欲にふける連中のふるまいは、唾棄すべき恥辱でしかないのだ。(中略)

彼らがどれだけ長い間、ご機嫌とりをしているか。どれだけ長い間、ご機嫌とりをされているか。どれだけ長い間、宴会をしているか。観察してみればよい。

いまや、宴会に出ることが仕事になってしまっているではないか。

これはなかなかに辛辣ではあるが、ビジネスパーソンの皆さんであれば、このような上司の一人や二人、すぐにでも顔が浮かぶのではないだろうか。

似たようなことをドイツの哲学者ショーペンハウアーは著書『幸福について』でこう表現している。実に小気味良い。

ショーペンハウアー
ショーペンハウアー

・自己の内面の空虚と単調から生じた社交の欲求が、人間を集まらせる。

・くだらぬ人間は皆、気の毒なくらいに社交好きだ。

・優れた人たちがこういう一般の人間と交際したとして、いったい何の享楽が得られようぞ。

愚人たちの楽しみは不安と表裏一体

愚人たちの楽しみは、それ自体が不安に満ちており、様々な恐れでざわついている。そして、楽しんでいる真っ最中に、不安な思いがよぎるのだ――「これが、いつまで続くのだろう」と。

このような気持ちから、王たちは、自らの権勢のゆくえを案じて、涙を流してきた。高い地位にあっても楽しむことができず、むしろ、いつか訪れるであろう破滅を思い、おびえていたのだ。(中略)

多大な苦労をして手に入れたものを保持するためには、さらに多大な苦労をしなければならない。

自分の時間をどう使うか(投資・消費・浪費のポートフォリオ)に信念のある賢者は、時間を「消費」しているときでも、それは主体的に選択した結果であって、何のうしろめたさもない。消費を失っても確固たる投資の時間があるから、「失ったらどうしよう」と思い煩うこともない。

現代風に言えば、自分の信念に基づいて仕事をし、その結果として出世したようなビジネスパーソンは、古代の王たちとは異なり、「この地位を失ったらどうしよう」とは思わない。そのまま信念を貫き通すだけである。しかし、出世を目的に努力してきた場合は、常に評価が下がる恐怖に怯え、退職するまで努力を続けなければならない。

賢者は「主体的に自らの時間をコントロールする」ので、不安も後悔もないと、本書では繰り返し主張されている。

仕事に人生を捧げるのか

高官の着用する服を幾度もまとってきた人を見ても、議場や法廷でその名がもてはやされている人を見ても、うらやましいと思ってはいけない。

そのようなものを手にするためには、人生を犠牲にしなければならないのだ。

先ほどの議論の続き。私も含めて、ビジネスパーソンは常に選択を迫られている。土日も出勤して仕事すれば、成果はあがるかもしれない。それが評価されて出世するかもしれない。しかし、それは自分の時間を犠牲にすることになる。

このような場合には、まず時間の使い方に信念があり、それに応じて仕事に配分する時間量が決められているのが理想だろう。結果として出世するならハッピーだし、そうでなくとも自分の人生に後悔はない。

最悪なのは、大したポリシーもなく、「評価されたい」「使えないヤツだと思われたくない」といった些事に惑わされて、そもそもの信念を曲げてしまうことだ。

人事部長のつぶやき

流されているだけでは航海と言わない

ある人が、港を出たとたんに、激しい嵐に襲われたとしよう。彼は、あちらへこちらへと流されていった。そして、荒れ狂う風が四方八方から吹きつけ、同じところをくるくる引き回された。

さて、どうだろう。あなたは、その人が長く航海していたとみなすだろうか。否、その人は長く航海していたのではない。たんに長く振り回されていただけなのだ。

自分の人生は、自分で制御しなければならない。自分の時間は自分で使わなければならない。そうでなければ、人生を生きたことにはならない。非常に分かりやすい、良く出来た比喩と言える。

時間は使い方次第

どれだけの水を注ぎ入れても、それを受けとめて蓄える容器が下に置かれていなければ、何にもならない。

それと同じように、どれだけたくさんの時間が与えられようと、それを溜めておくものがなく、ひび割れて穴の空いた心からもれていくなら、何の意味もないのである。

こちらも優れた比喩。流入する水の量は誰でも一緒。それを有意義に使うか、無駄に垂れ流すかはその人次第。

今この瞬間を大切に生きる

彼らは、夜を願って昼を失い、朝を恐れて夜を失う。

愚人には、まずもって「為すべきこと」がない。賢人は英知を得るために時間を使うが、愚人は時間の使い方を知らない。娯楽の時間はあっという間に過ぎてしまうため、愚人は時間を持て余す。すると「夜を願って昼を失い、朝を恐れて夜を失う」ことになる。

本書の文脈ではこのような解釈になるのだが、根がネガティブな私にとっては「今、この瞬間を心から楽しめ!」という金言として理解している。

家族と楽しい時間を過ごしていても「ああ、明日は仕事か。あれとこれをやらなきゃ」などと憂鬱な気分になる。仕事に行ったら行ったで「ああ、早く帰らないと家族が機嫌を損ねる」と、またやきもきする。せっかくの金曜でも「ああ、土日が終わればまた仕事か」とため息をつく。

これでは一生幸福になどなれない。まさに「夜を願って昼を失い、朝を恐れて夜を失」っている。そうではなくて、今、目の前にある瞬間を懸命に生き、楽しみ、後悔のないように過ごすことが、大切なのであろう。

なお、18世紀の思想家ルソーは著書『エミール』の中で、このよう「今を大切にせよ」と主張している。

ルソー
ルソー

人生は短い、と人々は言っているが、わたしの見るところでは、人々は人生を短くしようと努力しているのだ。(中略)

ある者は明日になればと思い、ある者はひと月たてばと思い、またある者は、いまから十年たてば、と思っている。だれひとり今日を生きようとはしない。だれひとり現在に満足しないで、みんな現在の過ぎ去るのがひどく遅いと感じている。

セネカ
(光文社古典新訳文庫)

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