「昭和16年夏の敗戦」猪瀬直樹
基本情報
初版 1983年
出版社 中央公論新社
難易度 ★★☆☆☆
オススメ度★★★★★
ページ数 283ページ
所要時間 3時間00分
どんな本?
首相直轄の「総力戦研究所」は対英米戦のシミュレーションで日本必敗を結論付けていたにもかかわらず、なぜ日本は戦争への道を進んでいったのか。主に開戦直前の半年を描き出すノンフィクション作品。
薄い文庫本なので、一気に読んでしまえる。若手エリート官僚同士の熱いぶつかり合いや、日本という国が誤った判断を下していく過程を生々しく描き出し、日本的組織の構造的欠陥を暴く。作者は元東京都知事の猪瀬直樹氏。シンプルに、面白い本。
著者が伝えたいこと
日本政府が開戦決定へと至ったプロセスと並行して、政府は日本必敗の結論を得ていた。日本人全員が軍国主義で頭がおかしかったわけでも、軍部だけが独走したわけでも、能力的に劣っていたわけでもない。
研究所の結論は若手がしがらみのない中で得たもので正確だった一方、報告を受けた内閣は全員が組織の代弁者であり、誰も責任を取ろうとしなかったのだ。
著者
猪瀬直樹 1946-
日本の作家、政治家。2002年に道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。2012年からは東京都知事を務めるが、医療法人徳洲会からの資金提供問題で翌年辞任。2022年より参議院議員(日本維新の会)。
こんな人におすすめ
組織の「意思決定」に関心のある人。制度や仕組みが意思決定に与える影響について考察を深めたい人。
書評
薄い文庫本なので、カフェあたりで一気に読んでしまえる。若手エリート同士の熱いぶつかり合いや、日本という国が誤った判断を下していく過程を生々しく描き出しており、どんどん引き込まれていく。学びも多い。シンプルに、オススメ。
要約・あらすじ
■昭和15年(1940年)10月、内閣総理大臣直轄の研究所として「総力戦研究所」が発足。翌4月には若手官僚・軍人・民間人1期生35名が入所。窪田角一総理大臣を筆頭に研究生で「模擬内閣」を組織。
■模擬内閣は「対英米戦」をシミュレーション。昭和16年(1941年)8月、当時の第三次近衛内閣に次のような結果を報告。
昭和16年12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、結局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。
だから、日米開戦は何としても避けねばならない。
しかし、近衛内閣はこれを考慮に入れることはなかった。
■開戦派だった東條英機陸軍大臣は、1941年10月に首相になる。これは、内務大臣木戸幸一の逆転発想と言われており、開戦に積極的ではない天皇陛下の意向を踏まえ、陛下を絶対視する東條を首相にしてしまうことで、開戦を回避しようとした。
■東條は思惑通り開戦回避のために力を尽くすが、強硬派の陸軍に押されるとともに、11月にアメリカから通告されたハル・ノート(中国・仏領インドシナからの完全撤退等)もあり、結果的に日本はアメリカとの戦争に入っていく。
■開戦可能の根拠の一つとなった「オランダ領インドネシアを武力で奪った場合の期待石油産出量」は精緻なものではなく、例えば、総量は計算していたものの、内訳(ガソリン・重油等)までは考慮に入っていなかった。
■開戦後、蘭印で奪った油田は想定以上の産出量を記録するが、日本に石油を運搬するタンカーは軒並みアメリカ軍に沈没させられた。これは「総力戦研究所」の描いたシナリオ通りだった。
■大東亜戦争は、原爆投下を除き、総力戦研究所の想定どおりに進んでいくことになる。
学びのポイント
「サンクコスト(埋没費用)」という考え方
大東亜戦争前、アメリカは蒋介石政権をバックアップする立場から、日本に「支邦撤兵」を要求していた。しかし陸軍は、満州進出以来の「戦果」を清算するなど考えられなかった。
(趣旨要約)
現代から振り返れば、満州に固執してアメリカと戦争に入り、本国を滅亡に導いた当時の日本政府の判断は誤っていたということになる。しかし、それはあくまで結果論。日本が10年以上、満州に費やした資源を考えると、引くに引けなかった。
東條陸軍大臣は「支那大陸で生命を捧げた尊い英霊に対し、申し訳が立たない」という趣旨の内容を閣議で発言している。
しかし、日清・日露以来の英霊20万人は、満州から撤退しようがしまいが、返ってこない。日本がアメリカと戦争した場合にどうなるか、を冷静に考えなければならなかった。結果、日本はアメリカに敗れ、民間人を含む310万人の犠牲者を出してしまった。ここは、「理性>感情」であるべきだった。
同じような例は経営の場面でも見られる。例えば超音速旅客機コンコルドは「これまでの投資が無駄になる」と言う理由で開発が続けられ、250機で採算ラインと言われていたところ、16機しか製造されない大失敗作だった。
この「満州からの不撤退」は、経済学的に言えば、本来除外しなければいけない「サンクコスト(埋没費用)」を未来に向けた意思決定において考慮してしまった事例、ということになる。
「統帥権」という明治憲法の制度欠陥
帝国陸軍が満州事変から大東亜戦争へと暴走した一つの理由として「統帥権にかかわる制度欠陥」が指摘される。
大日本帝国憲法では、軍隊を指揮監督する最大の権限(=統帥権)は天皇にあり、陸海大臣(予算・兵力量策定・部隊編成などの軍政)と陸海軍の長(作戦行動等の軍令)がその統帥下に含まれる。
つまり、
①内閣(陸海大臣)には陸海軍の指揮権がない
②天皇は「君臨すれども統治せず」という立場にあったため、陸海軍の指揮権を行使することはない
ことから、軍部の独走を許してしまう欠陥的構造があったと言える。
(趣旨要約)
どれだけ優秀な人材が揃っていたとしても、特定目的を持った集団は、生来的にその特定目的のみを志向する(=部分最適)ので、どのような組織であっても、大局を見るという機能を持ったポジション(=全体最適)を作らなければならない、という好例。
ではなぜ、日清・日露戦争期には軍部が独走しなかったのか。
もちろん軍事的に未熟だったということもあろうが、明治政府には、大局を見る「元老」というポジションがあった。加えて、その元老たちは政治と軍事が未分化だった江戸時代の武士階級の流れを汲んでおり、全体最適を志向することができた。
天皇の統帥権が、陛下の意向に反し、軍部の意向で乱用されるようなことも想定していたと思われる。
元老という制度がベストか否かには議論があるが、大東亜戦争前、(少なくとも政府内では)少数であった開戦強硬論がまかり通ってしまったことは、明らかに制度的欠陥である。
しかし、だからと言って、当時の日本人に大日本帝国憲法を改憲できたかと言えば、天皇の権限に触れる事柄であり、難しかったであろう。であれば、「大局に立った運用」をすべきであるが、昭和軍人にその能力はなかった。
「人の能力を過信してはいけない」「可能な限り、起こり得る不具合は制度で担保しておくべき」という教訓だろう。
ちなみに日本国憲法下においては、防衛省と自衛隊は同一組織で、当然ながら防衛大臣が自衛隊の指揮権を持っている。
部分最適と全体最適
総力戦研究所が今日評価されるとしたら、各省・各軍・各社から取り集められた客観的なデータを全てさらけ出して、事態を曇りない目で見抜いた点である。
それは縦割り行政の打破と言ってもよい。
これも部分最適と全体最適の話。当時は陸軍・海軍の間でも、お互いの石油備蓄量を明らかにしなかったという。これを「昔の日本人はダメだった」で片付けていいだろうか。いや、現代の企業においてすら、このような部分最適vs全体最適の議論は尽きていない。
大手企業が新規ベンチャーに進出しても失敗することが多い。これはどんな人材を当該事業に振り向けるかといった判断は全体の中でなされることに対し、事業そのものは部分最適で判断していかなければならないからだろう。
例えば、ある生命保険会社が介護事業に進出したという。介護事業には介護事業に向いた人材が必要だ(=部分最適)。しかし、世の中の常で、生命保険業で適性なしと言われた社員が左遷のような形で介護事業に従事する(=全体最適)。
この場合、左遷された側もモチベーションが上がらない。この仕組みは機能するだろうか。
一方、ワンマン企業が新規事業に成功するのは、純粋に当該事業のみを見た部分最適を追っているから。そして、ある程度の規模になると勢いが止まるのは、組織が大きくなり、全体最適を見なければならないのに、体質がワンマンベンチャーのままだからと言えるのではないか。もちろん例外は多数あるが。
「感情」で決着がつかなければ「理性」に頼る?
石油の供給を止められたことが直接の開戦の原因であり、その石油を獲得するために南進するくらい、石油は大切な資源だった。
しかし、武力でオランダ領インドネシアの油田を奪った場合の期待産油量や、その後の予想消費量なとが計画されたのは、石油が禁輸される数ヶ月前だった。つまり、リスク管理が全くできていなかった。
そして、開戦回避派は日本の石油が2年で底を尽きることを論拠としていたが、陸軍省と民間人のたった4名で作った「蘭印期待産油量」を加味すると、石油は足りるという結論になった。
それまで主戦派と和平派の間で続いていた「主観的」論争は、このたった4名で作った「客観的」数字を以て終焉し、内閣は全会一致で開戦を決める。
数字自体が正しいかどうかの検証が不十分なまま、「数字」という理由だけで全員がそれにすがった。
(趣旨要約)
日本が兵隊一流、戦略三流と言われる所以。いくら現場が頑張っても、いわゆる計画部門がこれでは、全体として力が発揮できない。日本は武力戦・外交戦・情報戦・経済戦のいずれも劣勢だった。日清・日露戦争を戦った民族と同一とは、とても思えない。
明治人は謙虚かつ優れていて、昭和人は驕り劣っていたと片付けることは簡単だが、やはり上記「統帥権」のような、構造的・制度的欠陥が人の行動を規定していった側面も、大きいと思える。
また、今回の場合は「数字」の魔力とも言うべきか。感性・定性論で結論が出ない時、人は理性・定量論に頼りたくなる。「スキル(才)」と「人間力(徳)」とはで述べた通り、理性・定量論は、誰の目から見ても明らかで、判断基準としては極めて分かりやすいからだ。
しかし、その理性自体が正しいかどうか、冷静に判断しなければならない。今回は算出した数字がいい加減で、誤った判断をしてしまった。仕事でも日常でも、こういったことは起きる。言うは易いが、行うは本当に難い。
組織を背負うと冷静な判断ができなくなる
総力戦研究所の「日本必敗」を聞いた当時の東條陸軍大臣のコメントは、以下のようなものだったという(記録として残っておらず、その場にいた人間の記憶をもとに筆者が再現した)。
諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習であって、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではない。
日露戦争でわが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。しかし、勝った。あの当時も列強による三国干渉で、止むにやまれず帝国は立ち上がったのであって、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。
戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利に繋がっていく。従って、君たちの考えていることは、机上の空論とは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものを考慮していない。
まず、「意外裡の要素」が日本有利に働くのか、アメリカ有利に働くのか分からないという点で、既に論理破綻している。アメリカ有利に働けば、日本は負けるわけである。
もう一つ考えるべきは東條陸軍大臣の立場。陸軍は支邦撤兵反対の開戦論者である。そのトップの東條は、個人的な考えはどうであれ、少しでも和平派に近い発言をすれば、陸軍から猛攻撃を受けることになる。
組織を背負うと、人は組織の出した結論に固執してしまう傾向があるのではないか。これもビジネスでよく経験することである。
例えば、A支店は古くなったオフィスを1,000万円かけてリニューアルしたいと思っている。そのために支店長は本社の経理部長に話を通さなければならない。支店の社員は皆、支店長に期待している。
しかし、資金支出全体の優先順位を考慮すると、経理部長は首を縦に振れない。A支店の部分最適と、経理部長の全体最適の戦いである。支店長は、全社的な事情は理解するものの、支店の期待を一身に背負い、簡単には引き下がれない。メンツの問題もある。
いずれ支店長は強硬な意見を言うようになる。支店長会議をボイコットしたりする・・・となれば、陸軍とあまり変わらない。「組織を背負うと冷静な判断ができなくなる」というのは、組織にもあり得ることだ。
人事部長のつぶやき
彼を知り己を知れば百戦殆うからず?
約2500年前、孫子はこう言っている。
事前の図上演習の段階で勝算が多い者は実際の戦闘においても勝利し、勝算が少ない者は勝つことができない。
ましてや勝算がまったくない者においてはなおさらである。私はこの方法で分析するので、勝敗は事前に自ずから明らかになる。
敵の実情を知り、また自軍の実態を知る。そうすれば、百たび戦っても危ういことはない。
当時の日本は、日米の工業力・軍事力・資源力の差などを認識していたにも関わらず、勝てない戦争に突入していったわけです。
「敵の実情と自軍の実情を知っていたのに、敗れた」というのは、孫子も想定していません。そして、孫子が「戦争を始める際に考慮すべき5つのこと(政治・自然条件・地理条件・人・法)」には当然ながら(東條の言う)「意外裡なこと」は入っていません。
他にも、孫子はこんなことを言っています。
戦争の原則に照らして必ず勝てる見込みがあれば、たとえ主君が戦ってはならないと言っても、戦ってよろしい。
戦争の原則に照らして勝てる見込みがないときには、たとえ主君が必ず戦えと言っても、戦ってはならない。
太平洋戦争前、「主君」と「将軍」は以下のような態度でした。
天皇・・・戦争は回避したい。
海軍・・・戦争は回避したい。やっても短期決戦。
陸軍・・・アメリカの求める中国からの撤兵などあり得ない。これまで中国大陸で多数の英霊が亡くなった。戦争賛成!(ただし対英米戦の主力は海軍なので、自分たちはほぼ出番なし)
つまり、主君も将軍(対英米戦の主力である海軍)も、開戦には消極的であったのに、開戦どころか、短期決戦の望みが消えても、原爆投下まで戦争を続けてしまったわけです。
「主君も将軍も戦争を望んでいないのに、開戦した」というのも、孫子は想定していません。日本は、2500年前に指摘されていた普遍的な原則すら、実践できなかったということです。
学問とは何か、歴史を学ぶとは何かを改めて考えさせられる出来事だと思います。
個人を責めるのは簡単。組織や仕組みに問題はないのか
個人を責めるのは簡単。組織や仕組みに問題はないのか、大東亜戦争関係の本を読むと、いつも「責任」について考えさせられます。
開戦当時の首相東條英機は、天皇陛下のご意向は理解しつつも、陸軍の代弁者としての立場から、戦争を回避できませんでした。
その陸軍は「アメリカは中国からの撤兵を要求しているが、これまでの先人たちの犠牲を考えるとそれはできない。だからアメリカと戦うしかない」、つまり中国のことしか考えていません。
しかし実際にアメリカと戦うのは海軍です。そしてその海軍は、アメリカとの戦争に「勝てる」とも「負ける」とも言いません。山本五十六連合艦隊司令長官は「1年から1年半は存分に暴れてみせる」と曖昧なことしか言いませんでした。
これは個人を責めても仕方なく、組織や仕組みに焦点を当てるしかないのではないでしょうか。最大の問題点は、陸軍の強硬意見が通ってしまったことです。これは、上記の統帥権問題が根本にあります。
様々な意見はあるものの、私は個人的に、大東亜戦争を始めてしまった理由を考えるのであれば、大日本帝国憲法の立て付け、具体的には第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」まで遡る必要があると考えています。
ちなみに、山本五十六は次の2つの名言で有名ですね。
天下の連合艦隊司令長官でも、人を動かすのに苦労していたんですね。何だか身近に感じられます。
なお、ポリティカルコレクトネスの時代、「男の修行」は「人間の修行」に要変更でしょうね。。。
空気に流されないことの難しさ
こういった、日本が戦争に入っていく様を描く本を読むたびに、時代の「空気感」を客観的に見る(=自分なりの価値軸で判断する)ことの難しさを痛感します。
大東亜戦争では、世論と陸軍は概ね開戦派でした。政府もそれに引きずられ、日本の「ベストアンドブライテスト(=最も賢い人々)」が「必敗」と結論を出していた戦争に突き進むわけです。
若い皆さんはご存知ないでしょうが、バブル景気も今振り返れば異常でした。土地や株の値段が収益力を無視して上昇し続けるなどあり得ないことは誰でも分かるはずなのに、当時の日本人たちはその「空気」に見事に踊っていました。
また、バブル期のエナジードリンクのCMでは「24時間戦えますか」というフレーズが流行りました。バブルの頃、「働き方改革」などという言葉はなく、土日や深夜を含めて働くことは(少なくともホワイトカラーの間では)不思議な現象ではなかったのです。これも「空気」の為せるワザでしょう。
若い人は知らないかなあ。リゲイン。僕ら世代(40代)はみんな知ってるのですけどね。
では今は、どんな「空気感」が蔓延しているのか。皆さんはどう思われますか?
現代の空気感として個人的に思うのは「少子化問題は本当はヤバいのに誰も本気では気にしてない」「日本全体がAI時代に乗り遅れている」「みんなSNSに依存しすぎ」あたりです。