「嫌われる勇気」岸見一郎他
基本情報
初版 2013年
出版社 ダイヤモンド社
難易度 ★★☆☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 296ページ
所要時間 3時間00分
どんな本?
全ては自分次第!嫌われたっていい!自分を受け入れ、他人を信頼し、社会の中で生きよ!と説くアドラー心理学の入門書。フロイトやユングの陰に隠れた巨匠を日本に紹介した大ベストセラー。
「人間関係で悩むことが多い人」「他人の目や評価が気になってしまう人」「人生に充実感を感じられない人」に特におすすめ。「対人関係の悩み、人生の悩みを100%消し去る”勇気”の対話篇」というやや誇大広告気味のキャッチコピーもあって、売れに売れた一冊。
著者が伝えたいこと
人間関係が上手くいかないとき、理由を自分の外側に求めてはいけない。原因は必ず自分の中にある。
例えば親と上手くいかない原因を、過去の厳しい指導に求めるのは間違えている。親と上手くいかない理由は過去にあるのではなく、自分自身がそれを望んでいるからである。自分が望めば、関係は改善できるのだ。常に自分自身が決定権を持たなければいけない。原因を自分の外側に求める限り、何も変わらない。
承認欲求に振り回されてはいけない。行動原理を自分の外側に求めてはいけない。常に自分自身が行動を決めなくてはいけない。そのためには、周囲から嫌われることを恐れてはいけない。「嫌われる勇気」を持たなければいけない。あなたのことをよく思わない人がいるのは、あなたが自由に生きている証なのだ。
以上のことに留意して、決して自己中心的になることなく、「仕事」「交友」「愛」という3種類の対人関係と向き合い、共同体の一員として生きていかなくてはいけない。
その際に重要なのは「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」である。つまるところ、人間の幸福とは共同体に対する「貢献感」なのだ。それは自分自身の主観的な感覚であって、他者から評価されるものではない。だから人間は誰でも、勇気さえ持てば、幸せになることができる。
過去は変えられない、未来は見えない。今、この瞬間を真剣に生きることは重要だ。迷った時には「他者貢献」という導きの星に向かえばいいのである。
著者
岸見 一郎 1956-
1987年、京大大学院満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。
その後、精神科医院などで多くの青年のカウンセリングを行う。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。
アルフレッド・アドラーとは
アルフレッド・アドラー
Alfred Adler
1870-1937
オーストリア出身の精神科医、心理学者。フロイトおよびユングと並んで3大心理学者と呼ばれる。
1895年ウィーン大学医学部卒業。初めウィーンでフロイトに学んだが、「性欲が行動の原因」とする説にあきたらず,フロイトと別れて個人心理学の学派を打ち立てた。
<3大心理学者の主張>
フロイト(1856~1939)
人間の行動には全て「無意識な性欲」という心理的裏付けがある。
アドラー(1870~1937)
人の心は「その人だけのもの」であり、他人や過去の影響は受けない。
ユング(1875~1961)
人の行動を規定する「全人類に共通な無意識」が存在する。
こんな人におすすめ
人間関係で悩むことが多い人、他人の目や評価が気になってしまう人、人生に充実感を感じられない人
要約・あらすじ
第1夜 トラウマを否定せよ
■アドラー心理学では、人の行動原理を過去の「原因」ではなく、現在の「目的」に求める。ある人が家に引きこもる理由は、過去の虐待等ではなく、現在外に出たくないために生み出している不安ということになる。何故なら、虐待を受けた人全てが引きこもりになるわけではないからだ。よって、全てのトラウマは否定される。
■人は10歳頃に、自分の「世界観」を自分の手によって確立する。そこには性格や気質といった一般的に先天性と思われている要素も含む。よって「自分を変えたい」と願う人がいるとすればそれは可能だが、その「勇気」が無い人が多い。自ら「変わらない」という決心を繰り返しているのだ。
■すなわち、アドラーの目的論によると「これまでの人生に何があったとしても、今後の人生をどう生きるかに対しては何の影響力も持たない」ということになる。
第2夜 すべての悩みは対人関係
■アドラー心理学では、例えば赤面症が気になり告白できないでいる女性は、男性に振られるリスクを回避するために、自ら赤面症を創り出していると考える。そして、今の自分を受け入れ、結果がどうであっても前に踏み出す勇気を持ってもらうことを「勇気付け」と呼ぶ。
■劣等感とは、主観的な思い込みである。背が低いことを「威圧感を与えない」とポジティブに考えるか、「恰好悪い」とネガティブに捉えるかはその人の「世界観」次第である。自慢癖や自分への権威付け癖は劣等感の裏返しであるし、不幸自慢も自分を特別扱いしてほしいという劣等感に由来する。
■他人と競争しようとしたり、打ち負かそうとしたりすべきではない。その後、必ず「復讐」が待っている。他人からの挑発に心が動じるのは、競争しようとしているからだ。周囲と比べるから人は苦しむ。すべての悩みは対人関係から生じるのである。
■アドラー心理学では、人間の行動面と心理面に明確な目標を掲げている。
①行動面:自立すること、社会と調和して暮らすこと
②心理面:私には能力があると意識すること、人々は私の仲間であると意識すること
これらの目標は、人間が社会的存在として生きていく際に避けられない「仕事」「交友」「愛」という3種類の対人関係と向き合うことで、達成される。
第3夜 他者の課題を切り捨てる
■承認欲求を満たそうとしてはいけない。我々は他者の期待を満たすために生きているのではない。そして同時に、他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない。
■あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと— あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること— によって引き起こされる。他者が自分をどう思うか、どう評価するかは、他者の課題である。そこまで自分で抱え込む必要はない。課題は分離すべきだ。
■つまり、自分軸で自由に生きるとは、他者から嫌われることを恐れないことであり、他者から無能と思われることを恐れないことである。
第4夜 世界の中心はどこにあるか
■人間関係のゴールは、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」という「共同体感覚」を持つことである。
■自分は世界の中心ではないし、他者は自分のために生きているのでもない。自分はあくまで共同体の一部なのである。「自己への執着」を「他者への関心」に変換することで、「仕事」「交友」「愛」という対人関係のタスクと向き合い、共同体に貢献する必要がある。
■共同体といっても、家庭や学校といった狭い常識だけに従うのでは、人間関係に行き詰った際に逃げ場がなくなる。その時は、より大きな国家・地球の常識に従ってみるべきだ。また、共同体の中の人間関係は、「褒める、褒められる」といった縦の関係ではなく、対等である横の関係で構成されるべきだ。
■人は「私は他者や共同体に貢献できている」と思えた時に、自分の価値を実感する。行為だけでなく、たとえ寝たきりの老人でも、存在を通じて世界に貢献しているのである。
第5夜 「いま、ここ」を真剣に生きる
■自己への執着(self interest) を他者への関心(social interest) に切り替え、共同体感覚を持てるようになると、人は幸せを感じられる。そこで必要になるのが、「自己受容」と「他者信頼」、そして「他者貢献」の3つである。
自己受容:ありのままの自分を受け入れる(肯定的諦め)
他者信頼:他者を無条件に信用する
他者貢献:仕事を通じた社会貢献(not自己犠牲)
この3つは円環構造として結びついている。自己受容するからこそ、裏切りを怖れることなく「他者信頼」できる。人々は自分の仲間だと思えているからこそ、「他者貢献」できる。他者貢献するからこそ、「わたしは誰かの役に立っている」と実感し、「自己受容」することができるのだ。
■大富豪が巨万の富を持っているにも関わらず、引き続き働いたり慈善事業に従事するのは、他者貢献を通じて共同体感覚を持ちたいという願望に基づく。すなわち、幸福とは「貢献感」なのである。それは他者から評価されるものではなく、完全に自分の主観で構わない。
■人生とは過去から未来に一直線での見ているものではない。過去は変えられないし、未来は見えない。今、目の前のこの瞬間の人生を真剣に生きなければいけない。迷った時には「他者貢献」という導きの星に向かえばいいのである。
学びのポイント
全ては自分の気の持ちよう
(例えば)自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。いずれも主観に委ねられているからこそ、わたしはどちらを選ぶこともできます。
つまり、われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのです。
われわれは、客観的な事実を動かすことはできません。しかし主観的な解釈はいくらでも動かすことができるのです。
(一部編集)
この「苦しみの原因は客観的事実ではなく、主観的解釈」という考え方は、非常に古くから多くの人が言及している。
もちろん全ては網羅できないが、主要なものを年代順に列記してみる。
事態が人間を不安にするのではなく、事態に対する見解が人間を不安にする。
エピクテトス
・事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、わずらわしいのはただ内心の主観からくるものにすぎない。
・我々が怒ったり悲しんだりする事柄そのものにくらべて、これに関する我々の怒りや悲しみのほうが、どれほど苦しみをもたらすことであろう。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』
人生の幸不幸の境目は、みな人の心が作り出すものである。釈迦も同じことを言っている。
洪自誠『菜根譚』
現実世界のいかなる出来事も、主観と客観という二つの側面から成り立っている。
だから、客観的半面が全く同じでも、主観的半面が異なっていれば、また、これとは逆に、主観的半面がまったく同じでも、客観的半面が異なっていれば、現在の現実世界はまったく別様なものになる。(中略)
「客観的に現実にいかなる事態なのか」ではなく、「私たちにとって、いかなる事態なのか、私たちが事態をどう把握したのか」が、私たちを幸福にしたり不幸にしたりするのである。
ショーペンハウアー『幸福について』
・悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。
・私は義務の第一位に上機嫌を持ってくるに違いない。人生の些細な害悪に出会っても、不機嫌で自分自身の心を引き裂いたり、それを伝染させて、他人の心を引き裂いたりしないように、努めねばならない。幸福の秘訣の一つは、自分自身の不機嫌に対して無関心でいることだ。
・人間にとって、自分以外にほとんど敵はいない。人間は、自分の間違った判断や、杞憂や、絶望や、自分に差し向ける悲観的言動等によって、自分自身の敵になる。ソクラテスの時代、デルフォイにあったアポロン神殿の入口には「汝自身を知れ」と書いてあるではないか。
アラン『幸福論』
世の中の人は皆、幸福を求めているが、その幸福を必ず見つける方法が一つある。それは、自分の気の持ち方を工夫することだ。幸福は外的な条件によって得られるものではなく、自分の気の持ち方一つで、どうにでもなるのだ。
デール・カーネギー『人を動かす』
悲観主義者はすべての好機の中に困難を見つけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす。
A pessimist sees the difficulty in every opportunity; an optimist sees the opportunity in every difficulty
イギリス首相 ウィンストン・チャーチル
ミュンテ博士らは、笑顔に似た表情をつくると、ドーパミン系の神経活動が変化することを見いだしています。
「ドーパミン」は脳の報酬系、つまり「快楽」に関係した神経伝達物質であることを考えると、楽しいから笑顔を作るというより、笑顔を作ると楽しくなるという逆因果が、私たちの脳にはあることがわかります。
池谷裕二『脳には妙なクセがある』
実に2000年前のローマ皇帝から、現代の脳科学者までもが「幸せとは気の持ちようや解釈である」と主張しているのである。そして「気の持ち方」の最も簡便な方法は笑顔になることである。コストゼロの投資、是非皆さんにも試していただきたい。
使えない人間だと思われたくない心理
例えば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。
なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。
社会人であれば、少なくとも一度は、何なら常に感じたことがあるのではないだろうか。
「自分がどうしたいか」より「上司がどうしたいか」を優先することは、組織人としてはあり得る。しかし、目的が「よい仕事をすること」ではなく、「上司に気に入られること」となった瞬間に、評価軸は他人に握られてしまうことになる。「使えない人間だと思われたくない」という恐怖も同様だ。
アドラーはそれを厳しく戒める。我々は他者の期待を満たすために生きているのではない。
考えてみればよい。上司に気に入られるように頑張って主任になったとして、次は係長、課長、部長、常務・・・社長になるまで、ずっと上司の評価を気にするのだろうか。小さい失敗をするたびに「ああ、これ以上の昇進はないかも」と悲しむのだろうか。
そんなことは何十年も続かない。自分の評価は自分で決めていくしかないだろう。
存在自体に価値がある
存在のレベルで考えるなら、われわれは「ここに存在している」というだけで、すでに他者の役に立っているのだし、価値がある。これは疑いようのない事実です。
これは文字どおり、人間は存在するだけで価値があるということを言っているが、精神科医で著述家の神谷美恵子は著書『生きがいについて』で、宇宙全体の存在に敷衍している。
人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。考える力を失ったり、病気に苦しむような人、野に咲く花のように、ただ「無償に」存在している人も、大きな立場からみたら存在理由があるに違いない。
もし彼らの存在意義を問題にするなら、人類全体、動植物全体、宇宙全体の存在意義も同時に問われなければいけない。
(趣旨要約)
また、経営の神様、松下幸之助は短編随想集『道をひらく』で、多様性という観点から以下のように言っている。
もし日本に、花は桜だけ、木は杉だけ、鳥はウグイスだけしかなかったら、現在の自然の豊かさはなかっただろう。人間も多様性があっていいのだ。他人と異なることを嘆くより、その違いの中に無限の妙味を感じたい。
松下幸之助
中国の荘子も、似たようなことを言っています。
世間でどれほど無価値と烙印を押されても、それが存在する以上、必ず存在する価値や意味があるはずだ。
荘子
どれも、世界や人間の存在をポジティブに捉えていて、実にあたたかみがある。
制御できるものを制御し、制御できないものは諦める
「神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」(キリスト教社会で古くから口承されてきた「ニーバーの祈り」)
これはそのまま、ストア派哲学の世界観と言える。
ストア派哲学とは、古代ギリシャのゼノンという人物による思想で「禁欲主義」と呼ばれる。
ストア派哲学の世界観
・人間は幸福に生きることを目的にしなくてはいけない。
・財産や地位といったものは人為的で生きる目的にならない。宇宙や自然を支配する秩序や法則に従って生きることこそが、人生の目的となり得る。
・幸福とは、この宇宙を支配する秩序に従い、理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制して、不動心(アパティア)に達することである。
・不動心に至るには、我々にはコントロールできるものとできないものがあることを自覚し、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものに囚われないという態度が必要である。
自分では制御できないものに心を乱されたり、逆に自分で制御できるものを勇気や思慮が足りず制御しきれなかったりすることは、厳に慎まなければならない。
不動心があれば、この世の中はもっとずっと生きやすくなるだろう。ストア派が「ストイック」と呼ばれる所以である。
なお、ドイツの法学者であり思想家のヒルティは、著書『幸福論』で、以下のように述べている。
人間にとって負の効果をもたらす要素には2種類ある。一つ目は自ら制御できる「欲望・嫌悪・怒り・不機嫌」で、二つ目は自分では制御できない「病気・死・貧困」だ。
前者は自らの手で積極的に避けるべきだし、後者は何をしても無駄だから、素直に受け入れるのが良い。
ヒルティ『幸福論』より一部を要約
ヒルティはストア哲学に影響を受けているので、同じような考え方を示している。
人生のすべての要素に真剣に向き合う
家庭での仕事、子育て、地域社会への貢献、趣味、あらゆることが「仕事」なのであって、会社など、ほんの一部にすぎない。会社の仕事だけしか考えないのは、人生の調和を欠いた生き方です。
これには「耳が痛い」と思った方、あるいは「そういう人、いるよなあ」と思った方がいるのではないだろうか。
寿命も長くなった今、アドラーの言う「共同体感覚」を感じられる居場所を積極的に作っていくことは、ますます重要になってくるだろう。
人間を取り巻く基本的な構成要素には、大きく、
①家族・親族
②仕事・社会
③友人・プライベート
④自分自身
の4つがある。
しかし、この4つの要素全てにおいて、常に「共同体感覚」を感じられるわけではない。家族とうまくいかないこともある、仕事でミスが続くこともある、友人に裏切られることもある、自分自身の感情をうまくコントロールできないこともある。
しかし逆に、全てが全て上手くいかない、ということも多くない。例えば、何かが上手くいかなくとも、別の何かが自分を支えてくれるはずだ。仕事がうまくいかなくても、家族が話を聞いてくれるかもしれない。友人とモメても、自分に気力があれば乗り越えられるかもしれない。だからこそ、常にこの4つとは真摯に向かい合っておく必要がある。
もちろん、これら4つのうち、何を最も大切にするかは個人差があるだろう。自分一人の時間を大切にする人もいるだろうし、仕事第一という人もいるだろう。しかし、何か一つに依存しすぎるとバランスを欠いてしまう。
ちなみに、経営学の大家ピーター・ドラッカーは1999年発行の著書『プロフェッショナルの条件』で、以下のことを主張している。
寿命は延び、第二の人生を設計しなければならなくなった。方法は主に3つである。
①病院や大学などの非営利組織に転職する
②うまくいっている仕事はそのままに、パラレルキャリアを持つ
③ソーシャルアントレプレナーとして非営利の活動に従事する第二の人生を持つことは、仕事・家庭・プライベートで挫折した場合の居場所を作る意味でも重要だ。(要約)
人事部長のつぶやき
ケネディ大統領の演説
「この人は私に何を与えてくれるのか?」ではなく、「私はこの人に何を与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットです。
これは「嫌われる勇気」からの引用ではあるが、どこかで聞いたことのあるフレーズではないだろうか。そう、第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディの就任演説の言葉である。
「Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country」
「国があなたのために何ができるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問うてほしい」
当時、共産主義陣営と自由主義陣営が激しく対立する冷戦の真っ只中だったこともあり、ケネディはアメリカ国民に「国への貢献」を求めた。これも一つの「共同体へのコミット」と言える。
ケネディの演説レベルであれば問題ありませんが、仮に共同体へのコミットがナショナリズムと結び付くと、ちょっと怖いですね。