【人事部長の教養100冊】
「運命を創る」安岡正篤

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運命を創る(表紙)

「運命を創る」安岡正篤

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基本情報

初版   2007年
出版社  プレジデント社
難易度  ★★★☆☆
オススメ度★★★★★
ページ数 248ページ
所要時間 3時間00分

どんな本?

昭和の知の巨匠、安岡正篤が「徳」と「修養」の大切を説く人間学入門。安岡は昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務めた人物。昭和天皇がラジオで語った「終戦の詔書」に最終的に目を通し、手を入れたのは安岡と言われている。

「大局観を持った教養人」のロールモデルともいえる安岡の代表的著作として必読。本書のほか「活眼活学」「人物を修める」の3冊をまとめて読むと、安岡の思考・思想を網羅的に追体験できる。タイトルは若干怪しげな新興宗教風だが、そのような要素は一切ない。

著者が伝えたいこと

宇宙はその本質として日々、創造変化している。人間もまた、学問と修養によって、自己を変化させ、世の中の役に立つために日々精進すべきだ。

日本人は終戦後、堕落してしまった。徳や大局を忘れ、経済発展のみにひた走っている。人間を人間たらしめている本質的要素は「徳」や「修養」であって、明治以降の近代教育が詰め込んできた「知性」や「技術」は、あればあっただけ良いが、単なる付随的要素でしかない。日本人よ、今こそ徳と大局を見つめ直せ。

著者

安岡やすおか正篤まさひろ 1898-1983

安岡正篤

大阪市生まれ。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大学卒業後に文部省に入省するも、半年で辞めてしまう。その後、1923年に「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。同年より拓殖大学東洋思想講座講師となる。

1932年には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、近衛文麿らとともに「国維会」を設立し、官僚を育成するようになる。同団体から廣田弘毅(第32代内閣総理大臣)が入閣したことで世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後には解散に追い込まれる。

1945年8月、天皇陛下の「終戦の詔書」がラジオで放送されたが、この「詔書」に最終的に目を通し、手を入れたのは安岡と言われている。

昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた。

こんな人におすすめ

昭和における知の巨人、安岡正篤の人間学に触れてみたい人。東洋的な修養に関心のある人。

書評

非常に平易な言葉で書かれているので、初心者でも安岡哲学の雰囲気を感じることができる。

あくまで入門編といったところで、これ1冊で安岡哲学のエッセンスが網羅的に学べるわけではないが、「運命を創る」「活眼活学」「人物を修める」の3冊を読めば、安岡哲学の神髄の一端を理解することは可能。

安岡正篤
(プレジデント社)

※昭和歴代首相のブレーン 安岡正篤による「人間学」入門!

要約・あらすじ

■日本が明治維新を成功させたのは、江戸時代の武士階級が、教育・道徳・修練・躾に優れていたからだ。

■しかし明治以降、教育は画一的になり、江戸時代のような多様性は失われた。また、人物・徳性を養う科目は修身教育ぐらいになって、知識・技術の習得が主眼となってしまった。結果、功利的・知識的な才人が輩出され、人物・器量ができていない秀才ばかりになってしまった。

■第一次大戦では犠牲らしい犠牲を払わずに、戦争に便乗して大儲けをした。この時、日本に初めて成金というようなものができて、日本の頽廃と堕落が一度に吹き出した。

■そして昭和になり「昭和維新」が叫ばれるようになる。明治維新と違ったことは、その中心人物たちが伝統的な教学と修養に欠いていたことだ。理論闘争は非常に盛んではあるが、人間は練られておらず、大局のないままに五・一五事件、満洲事変、二・二六事件へと流れ込んでいくことになった。

■そして日本は大東亜戦争に敗北し、憲法から社会制度まで、全てアメリカの言いなりになった。同じ敗戦国でも、矜持を守ったドイツとは好対照である。これも、日本人がしっかりとした人徳、修養、そして大局観を持っていれば、避けられた事態であった。

■人間は「本質的要素」と「付随的要素」から成る。本質的要素は「徳」のことであり、これをなくしてしまうと人間が人間でなくなる。付随的要素は「才」や「知性」のことで、大切なものではあるが、少々足りなくとも人間であることに大して変わりない。

■人間の存在や人生を「命」という。その命は、宇宙の本質たる限りなき創造変化、すなわち動いてやまざるものであるがゆえに「運命」という。そして、人間がどういう素質・才能を持っていて、それがどういう関係でどうなっていくという法則を探って、これを操縦して、我々が、我々の人格・生活・社会を創造していくものを「道学」と言う。

我々は学問・修養によって、自己を変化させ、世の中の役に立つことができる。そのことを確信して、日々精進することが大切である。

■大きな会社に入ると、人は堕落する傾向があるので、意識してこれを脱しなければならない。

①付き合う人が限られて、ものの考え方が固定化・狭隘化する
→職業外の友人を大切にし、つまらない同僚や友人とは付き合わないようにする。

②勉強は学生時代で終わりとばかりに、本も読まなくなれば、ものも考えなくなる
→識見を養う優れた人生観・世界観の書を読む。座右の書を持つ。

③仕事では専門性が高くなり、能力を発揮する分野が限定され、人としての成長が止まる(専門的堕落)
→海老のように、常に自己の殻、仕事の殻、学問の殻を脱皮させ、いつまでも自分を成長させる。

④会社の地位、サラリー、娯楽といったようなもの以外に何も求めなくなる
→仕事を通じて徳を発揮し(=真・善・美の実践)、周囲のため、社会のため、世界のために貢献することが、人生を豊かにする。

■私は六然、そして六中観という考え方を大切にしている。
(1)六然
①自ら処すること超然(ちょうぜん):自我に囚われないようにする
②人に処すること藹然(あいぜん):人に接する際は人を楽しくさせ、人を心地良くさせる
③事あれば斬然(ざんぜん):事がある時は、愚図々々しないで活き活きと行動する
④無事には澄然(ちょうぜん):事がなき時は、水のように澄んだ気でいる
⑤得意には澹然(たんぜん):成功した時にはあっさりしている
⑥失意には泰然(たいぜん):失意の時は泰然自若としている

(2)六中観
忙中閑あり、苦中楽あり、死中活あり、壺中天あり(別の世界を持て)、意中人あり(大切な人を持て)、腹中書あり(本を読んで学べ)

学びのポイント

日本は敗戦慣れしていなかった

日本の政府は、大東亜戦争敗戦後の国民に、良心と勇気を取り返し、大革新をやり、新たな日本を創造しなくてはならんということを教え、努力すべきであったが、アメリカの占領軍の政策の前に恐れ伏してしまった。

新憲法も、あれを受け入れるならば、「日本が独立の暁には、この憲法は効力を自然に失う」という付則をつけておくべきであったのが、そういうことも何もしていない。

ドイツなどは、それをちゃんとやった。ドイツ人は、なにしろ昔から勝ったり負けたりを繰り返してきているから、たまたま負けても動ずるところがない。日本人もそれを見習うべきだった。

占領軍に憲法も変えられ、修身、歴史など全部禁止されてしまう。神道、神社は国家から切り離されてしまう。何もしないで所得倍増、産業回復、GNPのそろばん勘定、日本人は本当に下司な商人になってしまった。

現在、改憲の議論が盛んである。日本国憲法は、世界の成文憲法を保有する188カ国で古い方から14番目で、改正されていない成文憲法のなかでは「世界最古の法典」となっている。

日本国憲法の中には、明らかに敗戦国ならではのフレーズがちりばめられている。例えば、前文の一部にこんなものがある。

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

うーん、そのまま受け入れてもいいのだろうか。日本以外の国は、「平和を愛し」「専従と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」のであろうか。いやいや、ヨーロッパ列強がアメリカ大陸やアジアを侵略し、蹂躙し、植民地化した事実はどこへ行ってしまったのか。そんな国々を「信頼」してもいいのか。

安岡の言うとおり、日本は近代に入ってから、下関戦争のような局地戦を除けば、敗戦したことがない。国家レベルの敗戦は7世紀の白村江の戦いまで遡る必要があるだろう。

ゆえに、ドイツのように「敗戦慣れ」していなかった。後知恵ではあるが、ここまで卑屈になることはなかった。その意味で、日本人の手で、新しい日本国憲法を起案する必要があるのではないか、、、皆さんはどう考えるだろうか。

そして、「日本人は下司な商人になってしまった」という指摘も興味深い。ただ、戦前の日本人が、今に比べて取り立てて道徳的に素晴らしかったかと言えば疑わしい。一部のエリート層が人徳・才知ともに優れていることは、昔も今も変わらないのだろう。

戦後は社会における活躍の裾野が広がり、非エリート層が目立つようになっただけなのかもしれない。

日教組という左派集団

日本を全く骨抜きにするアメリカの占領政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいは、これに乗じて野心家が輩出してきた。日教組というものがその代表的なものであります。

そのほか悪質な労働組合、それから言論機関の頽廃、こういったものは皆、この政策から生まれたわけであります。

アメリカがどのような意図を持って日本の占領政策を進めたかについては、ヘレン・ミアーズ著『アメリカの鏡 日本』に詳しい。

ミアーズは同書の中で、「アメリカ軍による日本占領は、一般の戦争における賠償を遥かに超える『懲罰と拘束』であり、目的は日本を二度と戦争を起こせない国家体制に『改革』することであった」という趣旨のことを述べている。

そして、安岡が指摘するのは、そのアメリカの政策に乗じて出てきた日教組や悪質な労働組合の存在である。日本人の統治機構がしっかり機能していれば、このような団体は出てこなかったはずだ。

日教組については、最近の若い人は知らないかもしれない。元教員で教育評論家の森口朗氏は日教組をこう定義する。

以下のような左翼思想に対して共感している教職員を中心とした職員組合

・憲法9条を遵守すれば未来永劫日本は平和である
・戦前の日本の歴史は侵略の歴史である
・国旗掲揚や国歌斉唱の強制は良くない
・教育に競争原理を持ち込むべきではない

そもそも、特定の政治思想に染まった人間が「教育」という仕事に就いていることが恐ろしい。これまでの幹部の発言などを見ていると、明らかに中国・北朝鮮寄りだ。私が通っていた公立中学の教員も左翼思想の持ち主で、私のクラスでは「日本国憲法は変えてはいけないもの」と教えられた。

しかし、高校に行き、大学に行くと、当然ながら、日本の平和を守っている主体が「憲法」ではないことを知るようになる。その昔、田中美知太郎京大名誉教授は「台風来るなと憲法に書けば、台風は来なくなるのか」という趣旨の発言をしたと伝えられているが、まさにその通りだ。

日本の採るべき外交政策は、昔も今も変わらない

孫子は「上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む」と言っている。

つまり、外交において最上なのは、相手の政策・戦略・謀略を間違わせること。次が交友関係にある諸国の結束を伐つこと。日本で言うなら、日米の親善、アジアの自由諸国の結束を破壊すること。最後に戦争に訴えることである。

これは1962年に国会議員向けに行われた講演の一説であるが、現代の東アジア情勢にもそのまま当てはまる。

まず「謀」では、日本は中国・北朝鮮・ロシアからのサイバー攻撃にさらされていることは間違いない。

さらに、スパイも相当程度入り込んでいると考えるのが妥当である。戦前には、朝日新聞記者で近衛内閣の顧問でもあった人物(尾崎秀実ほつみ)が、ソ連のスパイだったこともある。(ちなみに尾崎がスパイだったことを知った近衛首相は「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と天皇陛下に謝罪している)

そして「交」では、中国・ロシア・北朝鮮は、日米韓の同盟関係に楔を入れようと躍起になっている。そして、現時点において、「日米」と「韓」を離間させることにはある程度成功している。

まず2017年、中国は韓国に対して、①THAAD(アメリカ陸軍が開発した弾道弾迎撃ミサイルシステム)を追加配備しない、②米国のミサイル防衛へ参加しない、③日米韓安保協力を同盟にまで発展させない、という約束をさせた。

そして2019年夏、韓国の文在寅左派政権が、日韓間のGSOMIA(軍事情報包括保護協定)を破棄すると宣言した(結局、撤回)。この協定は日米同盟・日韓同盟を補完する性質のもので、中国の立場から見れば、孫子の「交を伐つ」を着実に進めているということになる。

安岡が講演した1962年も約60年後の現在も、日本を取り巻く環境や日本が成すべき外交政策は変わっていない。ただし、これまでの「大陸国家&共産主義国家(中国・ロシア・北朝鮮)」vs「海洋国家&自由主義国家(日・米・韓・台・豪・印)」という構図は変化し、韓国は「大陸国家」側に移ろうとしている。

海洋国家vs大陸国家

この時、日本の採るべき立場はどういうものか。ちなみに私の個人的な結論は以下のとおりである。

・現行の日米同盟を基軸とし、中国と対峙する。

・ロシアは経済にしろ政治にしろ、強い時と弱い時がある。経済はエネルギー市況に、政治は共産党のリーダーに拠る。現在はプーチンをリーダーとし、軍事的・経済的にも「強い時」なので、経済では協力しつつも、政治的には妥協しない。領土交渉も進めない。

・一方、ロシアは必ず「弱い時」を迎えるので、その時に一気呵成に領土問題を解決する。その後は、基本的価値観を共有しない経済パートナー(戦略的互恵関係)として付き合う。

・韓国とは基本的価値観を共有できないものとして割り切る。基本的には無視すればよいが、北と南が統一し、核を持った大陸国家が生まれることは、日本の国益に反する。

・また、韓国は大陸国家vs海洋国家のバッファゾーンであるべきなので、日本はあらゆる手段を用いて、南北を分断させておく。

・2022年に尹錫悦大統領が選出されて、若干は海洋国家側に戻りつつある感もあるが、またいつ左派政権になるかも知れず、基本的に韓国は信用しない。

もちろん、色々な主張はあろうが、少なくとも中国は孫子を熟知しており、「謀」と「交」の戦略を駆使していることに間違いない。それにどう処していくかを真剣に考えていく必要がある。

安岡も説く「徳と才」

人間は「本質的要素」と「付随的要素」から成る。

「本質的要素」とは、これをなくしてしまうと人間が人間でなくなるという要素であり「徳」とか「道徳」という。

具体的には、人を愛するとか、人を助けるとか、人に報いるとか、人に尽くすとか、あるいは真面目であるとか、素直であるとか、清潔であるとか、よく努力をする、注意をするといったような人間の本質部分である。

もう一つは「付随的要素」で、大切なものではあるが、少々足りなくとも人間であることに大して変わりないというもので、例えば「知性・知能」や「技能」といったものである。

ことに戦後の学校教育は非常に機械的になり、単なる知識や技術にばかり走っている。近来の学校卒業生には、頭がいいとか、才があるとかという人間はざらにいるが、人間ができているというのはさっぱりいない。

そのために、下っ端で使っている間はいいが、少し部下を持たせなくてはならないようになると、いろいろと障害が出るといった有様だ。これは本質的要素を閑却して、付属的方面にばかり傾いた結果である。

このサイトで繰り返し言及してきた「徳>才」を、安岡流に喝破している「なぜ「教養」なのか」をご参照ください)

もちろん「知性・知能・技能」も大切であるが、社会で役立つ知性とは、記憶力や知識量ではなく、

①複数の要素を組み合わせて課題解決への道筋を付ける論理構成力

②物事の本質部分のみを無駄なく把握する力&それを伝える力

③知的タフネス(粘り強く考え続ける力)

といった力である。これは学校では習えず、仕事の中で体感しながら覚えていくしかない。

そしてこれらよりも大切なことは、やはり「徳」の部分である。

①何が正しいか、何が善いことか、何が美しいかを判断し、追求する力

②高い視座、広い視野、深い思考を併せ持つ力

③周囲にやる気と成長をもたらせる力

社会人も、管理職になると、「知性は必要条件、徳は十分条件」になる。しかし、なんと多くの「徳の身に付いていない人」が、出世していることか。

本サイトを閲覧していただいている皆様には、知性は当然の前提として、是非とも読書や仕事を通じて「徳」を身に付け、社会に対する影響力を発揮していただきたい。

人間の根本とは

人間には、社会的地位・学歴・財産・親族などを剥奪されても、なお奪われない何かがなければいけない。

それは、突き詰めると、何らかの信仰、信念、哲学ということになる。それを持っているか否かが、その人の根本である。

安岡は様々な場面でこう主張する。しかし、特定の宗教を信じていない人が多い日本人の場合、「何らかの信仰、信念、哲学」を言語化することは難しい。皆さんは、どうお考えになるだろうか。

ちなみに私は自らの哲学というか、生き方を以下のように整理している。

1.人生の目標

「思慮深く美しい人生を生きること」

⇒自分の人格と能力を正しく発揮して、社会や周囲のためになること

2.前提

自分と家族が心身ともに幸せであること(自分の人生が大切でないなら、その他の人の人生も大切なものであり得ない)

3.公人として

真善美の判断&理想を示す
⇒何が正しく、善く、美しいかを見極め、理想に導く

②広高深の判断&結果を示す
広い視野で多角的に、高い視座で長期的に、深い思考で合理的に判断し、結果を出す

③周囲をやる気にさせる、成長させる、心理的安全性を確保する
⇒「職業としての上機嫌」で周囲にいる人たちも幸せにする

3.私人として

①明るく楽しく前向きに生きる【進化生物学】
⇒人間は生存に適する形で進化してきたのであって、幸せになるようには設計されていない。悲観主義は気分、楽観主義は意志である。

②修養を続け人格を高める(本・仕事・体験)【東洋哲学】
⇒徳は才の主にして、才は徳の奴なり。目先のスキルではなく、徳を追う。

③理性で感情を制御する【ストア哲学】
⇒制御できるもののみに集中し、そうでないもの(評判・他人など)は気にしない。
自分自身の魂の中ほど平和で閑寂な隠れ家はない。

人事部長のつぶやき

状況は悪化、危機感は希薄

ソ連と北朝鮮と中共という三大共産国家を前にしているから、日本などひっくり返されるのは朝飯前。

幸いなことに、それぞれ内に悩みを持ち、それぞれ必ずしもしっくりいっているとは思われない。それでどうやら救われているのです。

これが昭和の情勢認識である。では、令和はどうか。これが全く何も変わっていないどころか、ロシアはともかく、中国は50年前とは比べ物にならないくらい経済的にも軍事的にも発展し、北朝鮮は核を持つにまで至っている。

この令和時代、安岡のように、日本を取り巻く国際環境を冷静に判断し、日本の進むべき道を語れる人物はあまり見当たらない。どうにも小粒なジャーナリストが溢れている。日本にも明治時代のような「大局観を持った少数のエリート」を作っていく必要があるのではないか。

エリートといっても、偉そうにふんぞり返るのではなく、日本と日本の行く末を本気で憂う人物のことです!

酒は身を滅ぼす

昔は三菱で出世をするための一つの難関として、試練に及第をすることがあった。

人間にとって一番の誘惑は、やはり酒色である。しかし、そのきっかけはやはり酒である。たいていの人が酒でしくじる。したがって、いくら酒を飲んでも正気を失わぬ、酒では乱れぬということを見ることは、確かに人間を吟味するのに非常に機微をうがった面白い試験方法と言える。

「たいていの人は酒でしくじる」、まさに名言である。酒を嗜む人で、酒で失敗や後悔をしたことのない人というのはいるのだろうか。

少なくとも私は後悔の連続である。まず酒を飲むとテンションが上がってしまい、言わなくてもいいことを言ってしまう。そして酒を飲んだ後は、妙なテンションが続いてしまい、それが収まるのに時間がかかる。

ああ、あんなことを言ってしまった、誰かの気に障っていないかななどと気に病む。落ち着いた後は何もする気が起きず、生産性が激減する。

酒で乱れるのは気心の知れた仲間内の時が良い。決して会社の人の前で乱れてはいけない。自己制御力に疑問符を付けられるだけだ。そもそも、会社の人とそこまで親密になる必要もないのではないか。

会社の人との酒席は、「楽しく過ごそう」などと考えないほうが身のためです!そんなに会社の人と仲良くなりたいですか?

反面教師に

大きな会社に入ると、人は堕落する傾向がある。

①付き合う人が限られて、ものの考え方が固定化・狭隘化する

②勉強は学生時代で終わりとばかりに、本も読まなくなれば、ものも考えなくなる

③仕事では専門性が高くなり、能力を発揮する分野が限定され、人としての成長が止まる(専門的堕落)

④会社の地位、サラリー、娯楽といったようなもの以外に何も求めなくなる

こういう人、思った以上に多い印象。特に④。自分のことは少し棚に上げるが、会社の人と飲みに行っても、まあ仕事の話、会社の人の話、仕事の昔話、その他くだらない話くらいしか話題がない。

昭和や平成前半は、それでも上司からの飲みの誘いは断れない雰囲気があったのだろうが、今や令和時代。若者が仕事とプライベートをしっかり分けていることは頼もしい。

して管理職世代が公式な場などで若者と飲む際には、「ああ、この人の話は面白いな(funnyという意味ではなく、interestingという意味で)」と思ってもらえるくらいの教養や経験を積んでいなければならない。

働き方改革もあり、「夜は居酒屋、休日はゴルフ」のような時代はとうの昔に終わっています!

安岡正篤
(プレジデント社)

※昭和歴代首相のブレーン 安岡正篤による「人間学」入門!