【人事部長の教養100冊】
「愛するということ」
E・フロム

愛するということ

「愛するということ」
エーリッヒ・フロム

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基本情報

初版   1991年(日本、新訳)
※世界的な初版は1956年、日本は1959年
出版社  紀伊國屋書店
難易度  ★★★★☆
オススメ度★★★★★
ページ数 216ページ
所要時間 2時間30分

どんな本?

「愛とは自然に発生する感情ではなく、幸福に生きるための技術であり、学ぶことができる」「生まれながらに愛するということを出来る人はいない」「愛の技術を習得するには練習と努力が必要」「ほかの人を愛するには、まず自分自身を愛さなければならない」と説く、実践的な愛の哲学。

あなたは大切な人を「能動的に」愛することができていますか?愛されることばかりを考えていませんか?普段あまり意識することのない「愛」について、深く考える機会となる必読の一冊。

著者が伝えたいこと

愛とは自然に発生する感情ではなく、その人の意思であり技術である。愛とは、自分が「意識的に」相手を尊重し、その生命と成長を積極的に気にかけることであって、自分自身と相手が一体になることである。

相手を愛するためには、まず自分自身の人生を充実させ、成熟した人格と愛を生み出す能力を備えなければならない。自分のことを愛せない人には、他の人も愛せないのである。また、フロイトのように愛を性欲の一形態と見るのは不健全である。

著者

エーリッヒ・フロム
Erich Fromm
1900-1980

エーリッヒ・フロム

ドイツの精神分析学者。1930年より3年間フランクフルト社会学研究所に勤務し、その後コロンビア大学、ベニントン大学、メキシコ国立大学で教壇に立ち、1962年にはニューヨーク大学教授となる。

フロイト以降の精神分析の知見を社会情勢全般に適応した。代表作『自由からの逃走』では、ヒトラーという狂気を生んだ悲劇の根源は、「自由」という恩恵の重荷に人類が耐えられず、新たな依存先を求めた結果であると説いた。

こんな人におすすめ

欧米人の考える「愛」を分析的・実践的に理解したい人

エーリッヒ・フロム
(紀伊国屋書店)

※弘中綾香アナや出口治明学長も推薦する珠玉の名著!

要約・あらすじ

第1章「愛は技術か」

■愛とは感情ではなく技術である。つまり、愛は医学や音楽、工学等と同様であるから、その理論を学び、その後、実際に習得することになる。

■世の中の人は「いかに愛されるか」しか考えておらず、「どう愛するか」に考えが至っていない。「いかに愛されるか」は相手次第であり、自分の制御は及ばない。しかし、「どう愛するか」は自分次第であり、自分の意思でその技術を身に付けることが出来る。

第2章「愛の理論」

①愛とは

■人は孤独から逃れるために、集団に同調する。しかしそこには、人間同士の真の一体感はない。完全な答えは、他者との融合、すなわち「愛」である。

■成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったまま、二人が一人になり、しかも二人であり続けるというパラドクスが起こる。

■愛とは、愛する者を能動的に尊重し、その生命と成長を気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。また、愛とは、特定の人間に対する関係ではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度や方向性のことである。

■愛するためには、自分自身が成熟した人格と愛を生み出せる能力を備えなければならない。自分自身の人生が充実していなければならない。そうでないと、自分自身を相手に与えるのが怖く、従って愛する勇気も持てない。

②愛の対象

■隣人愛(兄弟愛)
あらゆるタイプの愛の根底にある、最も基本的な愛。あらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、理解。聖書にある「汝のごとく、汝の隣人を愛せ」の後半部分とおり、排他性の全くない、人類の連帯意識。

■母性愛
一方が助けを求め、一方がひたすら与えるという、利他的で自己犠牲に基づく不平等な愛。異性愛と異なり、離れ離れだった二人が一つになるのではなく、一体だった二人が離れ離れになる。

■異性愛
他の人と完全に一つに融合したいという願望。隣人愛がベースだが、相互に排他的。自分という存在の本質を愛し、相手の本質と関わる。

■自己愛
「汝のごとく、汝の隣人を愛せ」の前半部分のとおり、あらゆる愛の前提。自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せない。

■神への愛
孤立を克服して合一を達成したいという欲求に由来する点で、人間への愛と変わらない。西洋思想における神への愛は、神の存在を信じるという思考上の体験である一方、東洋思想では瞑想における神との一体感という感覚上の体験である。

第3章「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」

■精神分析家によって、夫婦愛は以下のように定義されてきた。
フロイト・・・夫婦愛は基本的に性的現象である。
サリヴァン・・・夫婦愛の本質は協力体制でありチームワークである。

■しかし、どちらも資本主義社会が生んだ「孤独」からの逃避に他ならない。現代西洋社会における崩壊した愛と言える。

■未熟な男性は、女性に母親から受けた無償の愛情を求める。他にも、偶像崇拝的な愛や感傷的な愛などがあるが、どれも不健全で崩壊した愛である。

■本当の夫婦愛とは、相手を尊重し、その生命と成長を積極的に気にかけることで、自分自身と一体になることである。

第4章「愛の習練(=繰り返しの練習)」

■愛とは医学や音楽と同様に、繰り返しの練習で身に付け、実践すべきものだ。技術の習得である以上、規律・集中・忍耐・高い関心が必要だ。

■愛を実践する人が備えるべき特質の面では、まず「愛は能動的に実践できる」という理性に対する信念・信頼が大切だ。

■加えて、自分自身を愛し、信じることだ。「自分の人格や価値観は確立していて、将来の自分も現在の自分と同じだろう」という確信が無ければ、人に対して誠実にはなれない。自分自身を愛せなければ、他の誰も愛せない。

■愛について語ることは、どんな人間のなかにもある究極の欲求について語ることだ。この欲求が眼に見えないからといって、それが存在しないということにはならない。

学びのポイント

まずは自分と自分の人生を愛すること

聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。

自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ。

これはつまり、自分自身のことを愛せない人には、他の誰も愛せない、ということである。当たり前のことを言っているだけのようにも聞こえるが、これは奥が深い。

誰でも自己愛は持っている。しかし、心の底から自分のことを愛するにはどうしたらいいか。それは、自分の生き方そのものを好きにならなくてはいけない。自分自身ですら理想の生き方ができていない人に、他人を愛し、他人の生き方と融合しようとする資格などない。

「いいんだよ、愛なんか感情なんだよ。自分の生き方なんか関係ないんだよ」と言う人は、動物と変わらない。フロムが厳しく批判するフロイト的な「愛とは性欲の発露」そのものと言える。

フロムは「異性愛とは2人が完全に融合することである」と説く。不完全な自分を相手と融合させることは、間違いなく「愛」ではない。自分が理想とする生き方にどれだけ近づけるか、人格をどこまで修養できるか、どこまで成熟した人間になれるかが、相手を本当に愛せるかどうかを決めるのだ。

なお、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、著書『二コマコス倫理学』の中でこう述べている。

アリストテレス
アリストテレス

善き人は自分自身に価値を見出すので自分を愛する。それと同様に、他人にも価値を見出すので他人も愛する。

自分を愛することのできない人に、誰かを愛することはできない。

趣旨要約

また、ロシアの文豪トルストイは著書『人生論』で、同じ趣旨のことをこう述べる。

トルストイ
トルストイ

幸福のためには、まず自分自身が幸福である必要がある。

自分の人生が無意味ならば、周囲の人生も無意味で、その集合体であるこの世は全て無意味ということになってしまうからだ。

趣旨要約

傾聴の大切さ

他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。

たいていの人は、相手の話をろくに聞かずに、聞くふりをしては、助言すらあたえる。その結果、会話している二人はどちらも疲れてしまう。

そういう人に限って、集中して耳を傾けたらもっと疲れるだろうと思いこんでいる。だが、それは大間違いだ。どんな活動でも、それを集中してやれば、人はますます覚醒し、そして後で、自然で快い疲れがやってくる。

この「傾聴」は、ありとあらゆる人が説く、人類普遍の課題である。無意識のうちに相手の話を聴き流したり、重要な(と自分に思われる)部分だけ頭に入れたり、相手が話を遮って「要はこういうこと?」と言ってみたり、否定してみたり、、、皆さんにも心当たりはないだろうか。

ちなみに自己啓発本の最高峰『人を動かす』で、著者デール・カーネギーは、

聞き上手は相手に好かれる。相手の話をじっくり聞く。その際、話は決してさえぎらない。どんな褒め言葉にも惑わされない人間でも、自分の話に心を奪われた聞き手には惑わされるのだ。

という趣旨を述べている。特に人の上に立つ人は、肝に銘じておくべきだろう。若干回りくどい話でも、5分や10分を投資だと思ってじっくり耳を傾ける方がいい。その人のその後のパフォーマンスで恐らく回収できるのだから

理性で感情を制御する

疲れを感じたり、気分が滅入ったりしたら、それに屈したり、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれて気分を助長したりしないで、「何が起きたんだろう」と自問するのだ。

どうして私は気分が滅入るのだろうか、と。同じように、なんとなくイライラしたり、腹が立ったり、また白昼夢にふけるとか、その他の逃避的な活動にふけったりしたときも、それに気付いたら、自問するのだ。

「愛は技術である」と説く理性主義者のフロムらしい発想である。感情は理性で制御すべきということだが、これは西洋のストア哲学に根底として流れる考え方だ。

【ストア哲学の基本的な考え方】

・人間は幸福に生きることを目的にしなくてはいけない。

・財産や地位といったものは人為的で生きる目的にならない。宇宙や自然を支配する秩序や法則に従って生きることこそが、人生の目的となり得る。

・幸福とは、この宇宙を支配する秩序に従い、理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制して、不動心(アパティア)に達することである。

・不動心に至るには、我々にはコントロールできるものとできないものがあることを自覚し、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものに囚われないという態度が必要である。

気が滅入ることはコントロール不能だが、それを自分がどう捉えるかはコントロール可能であるということになる。

フロムの他にも、似たようなことを説く偉人は多い。特に最後に引用した西郷隆盛の主張は、フロムとほぼ一緒である。

克己の精神を持つこと。いろいろな場合、たとえば病気の場合でさえも、機嫌良くしていなければならない。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス「自省録」

人間にとって負の効果をもたらす要素には2種類ある。一つ目は自ら制御できる「欲望・嫌悪・怒り・不機嫌」で、二つ目は自分では制御できない「病気・死・貧困」だ。

前者は自らの手で積極的に避けるべきだし、後者は何をしても無駄だから、素直に受け入れるのが良い。

ヒルティ『幸福論』より一部要約

人が行くべき道は、天から与えられた道理を守る、すなわち天を敬うということだ。また、(人は天より生まれたものであるから)周囲の人を愛さなければならない。

そのためには身を修め、常に意志の力で自分の衝動や欲望を制御する、つまり己に克たなければならない。

西郷隆盛「南洲翁遺訓」

西洋的なユートピア

西洋において、人類を「信じる」という信念は、宗教の分野ではユダヤ=キリスト教にあらわれているし、世俗的には、過去150年間の人道主義的な政治・社会思想にあらわれている。

すなわち、人間には可能性があるので、適当な条件さえ与えられれば、平等・正義・愛という原理にもとづいた社会秩序をうちたてることができる、という理念である。

人間は理性的な存在であるから、必ず理想的な社会を作れるはずという、西洋思想そしてフロムの思想の根底に流れる信念である。

そもそも「愛は感情ではなく技術だ」というフレーズ一つとっても、人間は理性で愛を制御できる、或いはすべきものという考え方が見える。

この「理性主義」の歴史は古い。ソクラテスは、「ある命題が真かどうかを、論理を積み重ねて愚直に探求する」という姿勢で、理性的・論理的に真実を追求し、哲学の祖と言われている。

ソクラテス
ソクラテス

その弟子のプラトンも、諸々の感覚的存在を超越し,ただ思惟によってのみ把握されうる自己同一的な存在としての真実在(=イデア)の存在を主張した。

プラトン
プラトン

ちなみに時代が下って、デカルトは思考の出発点として、誰もが真実であると認められる「共通了解事項」を探したところ、それは「何かを疑っている私自身は、誰にも否定することはできない」という極めて内面的な真理に至る。

デカルト
デカルト

一方、東洋思想の代表格である孔子はといえば、論理的に真実を追求するわけでも、神の存在を認めるわけでもなく、ただ「徳を用いて良く国を治める方」という徹底した実利を追求している。

孔子
孔子

ソクラテスやプラトンを「観念的・理性的・形而上的」と呼ぶなら、孔子は「実用的・経験的・形而下的」となるだろう。世界を理性で理解しようとか、世界を理性でよくしよう、という発想は、歴史的に見ても、東洋民族には馴染みにくいのである。

一方、西洋の言う「理性」を、儒教的な「人としての道」とか「人徳」と言えば何となく理解できるかもしれない。ちなみに福澤諭吉は著書「文明論之概略」で、東洋的なユートピアをこう表現している。

福澤諭吉
福澤諭吉

世界の人民は礼を空気として、徳の海に浴している。これが「文明の太平」である。今から数千年後には、このような状態になるだろうか。私には分からない。

西洋思想と東洋思想の違い

西洋思想 東洋思想
信じる対象神とは一体となる対象
正しい思考尊重されるもの正しい行為
唯一無二の真理を
信じない者は劣等
異端への態度①神との一体化は
あくまで個人の行為
不寛容異端への態度②寛容
真理の追求⇒科学の発展結果行為の追求⇒人間の発展

西洋思想と東洋思想の違いに関するフロムの主張を簡単にまとめてみると、上の表のようになる。

神への愛は西洋でも東洋でも人類愛と同じであるが、西洋思想では、神への愛は、神の存在を信じることと同義で、本質的に思考上の体験と言える。一方、東洋思想では、神への愛は神との一体感という感覚上の体験である。

日本人として、これは感覚的に理解できるのではないか。そもそも東洋思想の場合は「神」と呼ぶより、「悟り」と呼んだ方がしっくりくる。もちろん仏教も真理を追求はするが、「全知全能の神」という概念はない。自分自身が「悟り」に近づいていくのである。禅宗における座禅は、自分の内にある仏性に気づき、身も心も一切の執着から離れるという「悟り」との一体化体験と言える。

母性愛と父性愛

母親には子どもの安全を守るという役目があり、父親には社会が押しつけてくる様々な問題に対処できるよう、子どもを教え導くという役目がある。

父親は自然界を表わしているのではなく、人間の生のもう一方の極、すなわち思考、人工物、法と秩序、規律、旅と冒険などの世界を表わしているのである。子どもを教育し、世界へつながる道を教えるのが父親である。

母親的良心と父親的良心の双方が統合されることで、精神の健康や成熟が達成される。

一部順序を入れ替えた上で要約

これは人類普遍の事実として、直観的に理解できるのではないだろうか。フロムは合わせて、母性愛は無条件、父性愛は条件付き、と説く。

母性だけでは進歩や自立性、決断力や社会性が育まれないかもしれない。一方、父性だけでは思いやりや協調性、受容力や忍耐が育たないかもしれない。

ちなみに、最近の日本では「ジェンダー(社会的・文化的性差)」と「セックス(生物学的性差)」がごっちゃになって議論されることが極めて多い。フロムは母性愛と父性愛をセックス(生物学的性差)から論じているのであって、たまにジェンダー差別反対論者がこの手の議論を批判するが、全くの筋違いである。

生物学的には女性が先、男性が後

(フロイトは)性を本質的に男性的なものと考え、性の特に女性的な側面を見落としてしまった。

「小さな男の子は女性を去勢された男とみなし、女性自身も男性性器を持たないことに対してさまざまな補償を求める」というフロイトの理論にも、同じ考えがより合理的な形で表現されている。だが、女は去勢された男ではない。

フロムは、愛を「人間の孤立の克服」「合一願望の実現」の表れであると説く。また、男女には生物学的な合一欲望はあるが、男性が女性的性質を持つこともあるし、その逆も然りであって、そこに優劣はないとする。

フロイトは上記引用の通り考えたが、生物学的には全く誤りであることが分かっている。生物の基本はメスであり、遺伝子に多様性を持たせるためにオスという役割が後から付与されたのである。

その観点では、「女性は去勢された男性」なのではなく、「男性は特殊任務を負った女性」と言える。同じく、イブがアダムの肋骨から作られたというのも、科学的には順序が逆である。

なお、英語で自分のパートナーのことを”the better half”(最良のもう片方)と呼ぶことがあるが、これは古代ギリシャの哲学者プラトンの著作『饗宴』の以下のエピソードが由来となっている。

太古の昔、人間は球形をしていて、1人の人間に頭や生殖器が2つずつ、手足は4本ずつ備わっていた。性別は男・女・アンドロギュノス(男女双方の特長を兼ねる)の3つが存在した。

しかし人間達は神に反抗したので、ゼウスは人間の体を真っ二つにすることにした。

すると人間達は、元の自分の片割れを求めるようになった。この全体性への欲求と追求をあらわす言葉こそ「エロス」である。

いわゆる「マインドフルネス」

(集中力を鍛えるには)いくつかのごく簡単な練習をしてみるといいだろう。例えば、リラックスして椅子にすわり、眼を閉じ、自然に呼吸をする。

そこから「私」を感じとれるように努力する。私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自身を感じとるのだ。

少なくとも、こうした練習を毎朝20分ずつ、そして毎晩寝る前に続けると良い。

一部略

これは、いわゆる「マインドフルネス」のことを言っている。フロムは、愛という技術を習得するには、自分自身の根本に意識を向けられる集中力が必要だと説き、「逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件だ」と言っている。

しかし21世紀の現在においては、メディアは情報を流し続け、SNSやライブチャット等も普及し、ますます「周囲から何らかの刺激を受けている」「常に誰かと繋がっている」状態が当たり前になってしまっている。

ドイツの哲学者ショーペンハウアーは著書『幸福について』でこう言う。なかなか辛辣だが、本質を突いているのではないか。

ショーペンハウアー
ショーペンハウアー

自己の内面の空虚と単調から生じた社交の欲求が、人間を集まらせる。

また、ドイツの思想家ヒルティは著書『幸福論』で同じようなことをこう表現している。

ヒルティ
ヒルティ

ある程度、孤独を愛することは、静かな精神の発展のためにも、また、およそ真実の幸福のためにも、絶対に必要である。

ある大きな思想に生きて、そのために弛まず着実な仕事を続ける生活のうちに、幸福は見出される。これは自然、無用な「社交」を排斥することになる。

人事部長のつぶやき

人はいつ恋に落ちるのか

二人の人間は、自分の交換価値の限界を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。

いやあ、これは身も蓋もないですね笑。

仮に「魅力番付」で男女を並べた時、自分と同じ順位かそれ以上の異性と付き合えたら「勝ち」とすると、完全に情報が公開された自由市場であれば、自分と同じ順位の人としか付き合えない。3位の男性と4位の女性が出会っても、3位の男性は3位の女性を探し求めるはずだから。

となると、フロムの言うことがやっぱり正しいんだなあ、、、

まさに「不都合な真実」ですね!

エーリッヒ・フロム
(紀伊国屋書店)

※弘中綾香アナや出口治明学長も推薦する珠玉の名著!

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