【人事部長の教養100冊】
「南洲翁遺訓」西郷隆盛

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南洲翁遺訓(表紙)

南洲なんしゅうおう遺訓いくん」西郷隆盛

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基本情報

初版   1890年
出版社  角川ソフィア文庫
難易度  ★★☆☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 256ページ
所要時間 3時間00分

どんな本?

西郷隆盛を慕う庄内藩士が、西郷の言行をまとめたもの。西郷は著書を遺さなかったため、結果的に西郷の思想を知るための唯一の書となっている。

あの勝海舟をして「恐ろしいくらいの大人物」と言わしめた西郷隆盛の政治・経済・外交・人生に関する大局観が縦横無尽に展開される。「敬天愛人」はとりわけ有名。視野がぱっと開けるような、読んでいてワクワクする一冊。

西郷隆盛が伝えたいこと

正道(正しくて道理のあること)は天が示している。その天を敬い、周囲の人を愛し、自らを謙虚に制御することこそが、人として生きる道である。生きる指針は他者からの評価ではなく、正道に則っているかどうかだ。

本書成立の背景

西郷隆盛
西郷隆盛 1828-1877

幕末動乱の最中である1867年、庄内藩は幕府側として江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした。一方、幕府と薩長の力関係が逆転した1868年の鳥羽伏見の戦い後、西郷率いる薩摩軍は庄内藩に攻め入るが、薩摩藩邸焼き討ちの報復をすることなく、総じて寛大な処置を取った。

それに感服した庄内藩士が鹿児島の西郷を訪ね、西郷から見聞きした内容を一冊の書物にまとめたのが本書。

こんな人におすすめ

幕末~明治という時代が生んだ大偉人の思想・哲学・大局観に触れてみたい人。西郷の名前は知っているし、大河ドラマも見たけど、「どんな人?」と問われてもいまいち漠然としてしまっている人。

西郷隆盛(語り手)
(角川ソフィア文庫)

※西郷の思想を直接知るための唯一の書

要約・あらすじ

1.為政者について

■天皇の政府の役人になり、政治を行うということは、天から与えられた道理を実現することであるから、少しも自分自身や出身藩や出自の利害にこだわってはならない。

■古代中国の「書経」にあるとおり、徳のある者には官位(役職)を、功労のある者には俸禄を与えるのがよい。いくら維新で功労があったからと言って、徳の無い者に地位や権力を与えてはいけない。

■天が指し示す道理というのは、人為によって左右されるものではない。よって、政府の仕事をする際には、私心を挟んではいけない。

■政治の大要は、教育・軍事・経済(農業)の三つである。優先順位はその時々で変わるが、この三つの課題をあと回しにして、ほかのことを優先することはあり得ない。

■人間は苦しい経験を経て、志が定まる。真の男は潔く玉となって砕けることを本懐としなければならない。子や孫のために美田を買うような、私利私欲にまみれてはいけない。

■人材を登用する際、徳の有り無しだけで見てはいけない。徳の無い人でも、何らかの取り柄があるものだ。それをうまく使いこなせなければ、よい仕事はできない。

■君に忠、親に孝、人を思いやり慈しむという徳目の実践を促すことこそ、政治の基本である。これは普遍の道であって、日本でも西洋でも同様である。

■天は万民を扱うことができないので天子を置いた。天子も一人で全ては管理できないので役人を置いた。これは全て万民のためであるから、役人は万民のために尽くさなくてはいけない。

2.国の会計・財政について

■国の歳出は、歳入をもとに決められなければならない。歳出を先に決めると、国民から苛烈に徴税せねばならず、人心は離れてしまう。

3.外交について

■軍隊も身の丈(国の歳入)に合ったものにすべきだ。虚勢を張ってはいけない。ただし、萎縮してもいけない。

■国のために正道(正しくて道理のあること)をとことん実践して、あとは国とともに倒れてもよいと思うほどの精神がなかったら、外国との交際はうまくは運ばない。

4.人としての道について

■この世における普遍的な道理を示す「天」を敬い、儒教が教える五倫(君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友)を愛し、常に謙虚な心で自分を制御せよ。

■誤りを犯した際には、素直にそれを認めて、修正すればよいだけのことだ。その場のメンツにこだわり、取り繕うようなことをしてはいけない。

■天道の実践には、上手いとか下手とか、出来るとか出来ないといった概念はない。困難や苦しみがあっても、道を行い、道を楽しむだけだ。それは誰にでもできる。

学びのポイント

徳ある者には地位を、才(功労)ある者には給料を

維新の変革にどれだけ功労があっても、その褒賞として、本来ならその職を任せられない官職につかせるのは、最も良くないことである。

官は、その職に堪えうる人物を選んでその職に就け、功労があるものには、職ではなく、俸禄を与えて賞し、これを褒めておけばいい。これは古代中国の「書経」でも言われている。

また、今の人は、才能や知識があれば、どのような事業も思いのままにできると考えているが、才能に任せて行う事業は危なっかしくて見ておれない。

「徳ある者には地位を、才(功労)ある者には給料を」という趣旨で、日本では西郷の言葉として有名であるが、出典は古代中国の「書経」である。

「書経」と言えば、紀元前7世紀から紀元前3世紀までに成立したと言われている古典中の古典。その意味でこの一節は、約2500年の歴史を経て現代まで伝わる、人間社会に関する「真理」の一つと言ってもいいのではないか。

事実、様々な思想家や偉人が同じ趣旨のことを述べている。

20世紀最大の経営思想家 ピーター・ドラッカー『プロフェッショナルの条件』

むかし一緒に働いたある賢い人が、私にこう言ったことがある。

「よい仕事をすれば、昇給させることにしている。しかし昇進させるのは、自分の仕事のスケールを大きく変えた者だけだ」

昭和の知の巨人 安岡正篤運命を創る』

人間は「本質的要素」と「付随的要素」から成る。

「本質的要素」とは、これをなくしてしまうと人間が人間でなくなるという要素であり「徳」とか「道徳」という。

具体的には、人を愛するとか、人を助けるとか、人に報いるとか、人に尽くすとか、あるいは真面目であるとか、素直であるとか、清潔であるとか、よく努力をする、注意をするといったような人間の本質部分である。

もう一つは「付随的要素」で、大切なものではあるが、少々足りなくとも人間であることに大して変わりないというもので、例えば「知性・知能」や「技能」といったものである。

ことに戦後の学校教育は非常に機械的になり、単なる知識や技術にばかり走っている。近来の学校卒業生には、頭がいいとか、才があるとかという人間はざらにいるが、人間ができているというのはさっぱりいない。

そのために、下っ端で使っている間はいいが、少し部下を持たせなくてはならないようになると、いろいろと障害が出るといった有様だ。これは本質的要素を閑却して、付属的方面にばかり傾いた結果である。

確かに会社には「仕事はできるし、言うことも正しいが、何となく人間的魅力に欠ける人」というのは間違いなく存在する。このサイトで繰り返し言及している、「才(知能)はあるが、徳(人徳)がない人」である(なぜ教養なのか参照)。

才のある人は部下としては使い勝手がいいが、上司にすると細かいことまで口を出すので厄介だ。しかも大局観や倫理観に乏しいので、組織が正しい方向に向かうかどうか怪しい。

仕事をやらせるなら才のある人、人の上に立たせるなら徳のある人、というのは真理なのであろう。

政治の要諦は教育・文化、軍事、経済(農業)

政治の大要は、教育文化を盛んにすること、軍備を充実させること、および勧農の三つである。そのほかの政治上のことは、すべてこの三つの課題を実現することとかかわっている。

この三つのなかで、何を優先して行うかなどの順序は、時勢によるが、この三つの課題をあと回しにして、ほかのことを先にするとはあり得ない。

現代においては、「教育・文化」「軍事」「経済」以外にも、少子高齢化や災害対策といった課題はあるものの、「教育」を先頭に持ってきたのは西郷の卓見である。

日本は資源の無い国なので、加工貿易のような、原料に付加価値を付ける産業で生きていくしかない。これは明治の時代から繰り返し唱えられてきている。そこに必要なのは、産業を牽引する一部のエリートと、工場での労働力として期待される多数の勤勉かつ一定の基礎能力を身に付けた労働力だ。

そこで日本は、旧制中学→帝国大学で幅広い教養と高度な専門知識を持つエリートを養成する手法を確立する一方、全国に小中学校を設立し、画一的な教育を施して均質・良質な労働力を産み出してきた。結果として、特に戦後、日本は自動車産業や機械産業を中心に発展することになる。

しかし、既に製造業は新興国にキャッチアップされている。そして引き続き、簡単に換金できる石油やガスのような資源は持たない。となると今後は、金融・ICT・医療といった、高度な技術によってゼロから何かを産み出す産業で生きていくしかない。

一方、現代日本の教育はどうだろうか。子供の数が減り、一人あたりに掛けられる教育費用が増えて、受験産業は隆盛している。しかし、日本の大学の国際的ランキングは伸び悩み、明治から続く知識偏重型教育は工業時代には良かったが新時代にそぐわず、日本人ビジネスマンは英語もできず教養もなくてグローバルでの競争力も低い、、、

日本の歳入と歳出
日本の歳入と歳出(令和元年度)

こちらは(コロナ前である)令和元年度の政府の一般会計歳出の内訳。歳出約100兆円のうち、「文教及び科学振興」は5兆6000億円。OECD(経済協力開発機構)によれば、日本の初等教育から高等教育の公的支出が政府支出に占める割合は、OECD加盟国の平均より低い。

お金をかければ良いかと言えば、必ずしもそうではないが、これで日本の将来が安泰かと言えば、西郷も不安なのではないか。

ではどの支出を削るべきか。

これは政治判断だが、私自身は、高度化する一方の医療費の抑制が最優先と考える。一言で言えば「国民皆保険制度は最低限の医療を保障する。それ以上は自己負担」ということだ。「病院に行くと懐が痛む」という状況にしないと、人間は健康維持や病気予防に気を使わない。

高齢者の医療費負担が一律2~3割だったり、(働きたくても働けない人は別だが)生活保護受給者の医療費が完全にゼロだったりするのは、明らかにモラルハザードを生み続けることになるだろう。

「小人」にも使いどころはある

人材を登用するとき、君子か小人かの区別、すなわち徳が篤い人か徳が薄い人かの区別をあまりに厳格にして、徳の篤い君子をのみ採用しようとすれば、かえって害を引き起こすことになろう。

というのは、日本ができて以来、10人のうち7~8人までは徳の薄い小人であるから、よくこの小人の実情を理解して、その長所を生かして、それに見合った軽職に就かせ、その力を発揮させるのがよい。

「君子」と「小人」は孔子の思想によく出てくる分類である。

君子・・・徳高く品位が備わった人。正義を重んじ、責任を自分に求める。周囲におもねらないが調和する。いつも前向きで落ち着きがある。


小人・・・私利私欲のために行動する人。利益を重んじ、責任を他人に求める。周囲におもねるが調和しない。いつもくよくよしていて落ち着きがない。

そして、人間のうち7~8割は「小人」と喝破している。君子が人の上に立ち、多数の小人をどう使っていくかを考えるという、極めて冷徹なリアリズムに基づく思想である。

ちなみに西郷は「君子はすぐれた教養や道徳を身につけようと努力するが、小人はつまらないことを身につけようとする。」と言っている。

一方、個人的には、人間は君子の面と小人の面の双方を兼ね備えており、その割合が人によって異なるというように理解している。親になったり役職者になるといった立場や環境が変われば、その割合も変わるものだ。ただ、その割合は、先天的に決まっている部分も大きいだろう。

真善美を軸に、長期・多面・本質を見極める

どのようなことでも、道理にかなった正道を歩み、真の心を貫き、人をだますような手は使ってはならない。

多くの人は、行き詰まったとき、どんな汚い手を使ってでもその場を切り抜けよう、そうすればあとは時の運でいろいろ工夫はできると思うけれども、その使った手のせいで、必ずといっていいほど困りごとができ、結局は失敗するものである。

正道を歩めば、目には遠く見えても、先に行けばかえって早く成就するものだ。

「道理にかなった正道を歩む」とは、社会や周囲のために、真の心で、善いことを、美しく為すことである。何か課題や困難に直面した際には、その真善美を最上位に、多面的(広い視野)・長期的(高い視座)・合理的(深い思考)な洞察で対応を考える。

何かを乗り越えようとするとき、短期的な視点に立って、汚い手を使うというのは、この原則のうち「美しく」と「長期的」に反する。

正道は、一見遠回りに見えても、最後は近道になる。これは根拠はなく、信念そのもの。仕事をしていると、「理屈としては、あまり美しくない手を使ったほうが早い。でも正道で行きたい」という場面は多くある。そしてその判断は一般社員にはできない。なぜなら論理の積み上げでは「美しくない手」の方が効率がいいからだ。

真善美を判断するのは君子、つまり人の上に立つ人の仕事である。

「忠と孝」は万国共通?

君に忠、親に孝、つまり目上の人間に恩を感じ、思いやり、いつくしむという徳目の実践を促すことこそ、政治の基本である

また、節操を守り、義理を重んじ、恥を知る心を持つこと。このような姿勢をもたないなら、国は維持できない。

これは、いつの世でも、どこにあっても、不変かつ必要な道だ。その道は天地自然のものであるから、日本固有のものではない、西洋においても同様に必要なものだ。

日本人がこれを読むと「なるほど、そうだよね」と思える。しかし、外国人から見るとどうか。

日本人は「恥」の文化、欧米は「罪」の文化と綺麗な二元論で日本を論じた名著「菊と刀」の著者であるルース・ベネディクトはこう言う。

R.ベネディクト
R.ベネディクト

日本人の行動規範の一つは、天皇陛下や両親に対する恩、つまり忠や孝である。

忠や孝は、尊敬すべき対象に従うという意味であり、何らかの論理的な主義主張ではない。「尊敬すべき対象」という他者が介在するために、日本人の主義主張はその他者に応じて変化する。

あれだけ徹底抗戦を叫んでいた日本人が敗戦と同時に従順になったのは、忠の対象である天皇陛下が終戦を宣言したからである。

つまり、欧米人にとっての行動規範は絶対的な神との契約であって、不変であることが当たり前であり、日本人のように相対的なものは異質なのである。

「恥」というのも、日本人からすれば「天の道理に反することに恥じる」ということになるが、欧米人からは「他人からどう思われるかを前提としており、可変的である」と見える。

もちろん、欧米にも目上への忠誠心や親への恩義、そして恥という考え方はある。しかし、以前の日本人ほどの行動規範にはなっていないのだ。たとえ人間としての真理であっても、安易に他の文化に拡張してはいけないという典型例であろう。

正しくは「敬天愛人克己」

人が行くべき道は、天から与えられた道理を守る、すなわち天を敬うということだ。また、(人は天より生まれたものであるから)周囲の人を愛さなければならない。そのためには身を修め、常に意志の力で自分の衝動や欲望を制御する、つまり己に克たなければならない。

己に克つための極意は「論語」にあるとおり、「意なし、必なし、固なし、我なし」、すなわち、私欲を貪る心をもたないこと、自分を必ず通そうとはしないこと、こだわりの心をもたないこと、独りよがりにならないことの四つだ。

しかし、手柄も立て名も知られるようになると、知らぬ間に己を甘やかす心が生まれ、恐れたり慎んだりという心が緩み、驕り高ぶる気持ちが次第に大きくなる。だから、人の見ていないところでも、戒めの心、慎みの心を持つことが必要なのだ。

西郷隆盛の遺した言葉の中で最も有名な「敬天愛人」について触れた部分である。事実、西郷は「敬天愛人」と様々な場所で揮毫している。

しかし、西郷は同時に「克己(こっき=自らに打ち勝つ)」についても言葉を尽くしている。自分が加わることで、「世の道理」「周囲の人」「自分」という現実世界を把握するための主要要素が全て出揃うことになり、西郷の世界観と言ってもよい言葉に昇華される。

つまり、この世における普遍的な道理を示す「天」を敬い、儒教が教える五倫(君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友)を愛し、常に謙虚な心で自分を制御せよ、ということだ。

この考え方は、古代ギリシャの「ストア派哲学」と非常に似通っており、洋の東西や時代を問わず人々に受け入れられる普遍的な思想と言える。

【ストア派哲学の基本思想】

・人間は幸福に生きることを目的にしなくてはいけない

・財産や地位といったものは人為的で生きる目的にならない。宇宙や自然を支配する秩序や法則に従って生きることこそが、人生の目的となり得る。

・幸福とは、この宇宙を支配する秩序に従い、理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制して、不動心(アパティア)に達することである。

・不動心に至るには、我々にはコントロールできるものとできないものがあることを自覚し、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものに囚われないという態度が必要である。

そして、西郷は別の場面で「天は他人も私も区別なく愛されるのであるから、われわれは自分を愛する心を持って他人をも愛することでなくてはならない」とも述べている。これはキリスト教的な発想でもある。

ちなみに、人に対する思いやりについてはキリスト教、儒教、ヒンズー教で全く同じ趣旨のことを言っている。

【ルカによる福音書】人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

【論語】己の欲せざる所は人に施す勿かれ

【マハーバーラタ】人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない

大局を考えるための方法論

人を相手にせず、天を相手にせよ。天の示す道を実現すべく全精力・精神を傾け、人を咎めたりせず、自分に真の心が不足していることを認識すべきなのだ。

これは日々の仕事における処世術として有効に機能する。仕事をしていると、毎日毎日、小さな問題やトラブルが起こる。私たちはイライラしながら、それらを誰かのせいにしたり、組織のせいにしたり、前任者のせいにしたくなりがちだ。

しかし違う。本当は誰かの責任なのかもしれないが、それを咎めていても何の問題解決にもならない。「天の道理(=大局)」から見て、どんな手を打てばいいのか。同じトラブルを回避するために何が必要なのか。それらを一つ高い視点から、或いは一歩引いた状態で、冷静に考える必要がある。

いけすかない上司や社員がいても、「人を相手にせず、天を相手にする」という心持ちでいれば、幾分イライラは収まるし、冷静な判断ができるのではないか。

人事部長のつぶやき

「子孫のために美田を買わず」の本当の意味

いくたびか苦しいことを経験してこそ、人の志は初めて堅くなるのだ。真の男は潔く玉となって砕けることを本懐とし、志を曲げてまでして生きながらえるのを恥じるものでなければならぬ。

私の家の遺訓を人が知っているかどうかわからないが、それは子や孫のために美田を買うなどということはしないということだ。

これは西郷語録の中でも、かなり有名なほうだろう。一般的には「子供を堕落させてしまう恐れがあるから財産を残すな」と解釈される。つまり「子供を甘やかすな」という教育訓である。

しかし、前段を読めば、西郷が言い遺したかったのはそうではないことが分かる。「子孫に財産を残そうと、私利私欲に走るようでは志を遂げることはできない、志を果たすためにはすべてのものを犠牲にする覚悟を持て」ということだ。

西郷さん、他の例の方が、良かったかもしれませんね。

西洋人の欺瞞と説得力の無さ

私が「西洋は野蛮じゃ」と言ったところ、彼は「文明ぞ」と反論する。なお「野蛮じゃ」と畳みかけて言うと、「どうしてそれほどに言うのか」と尋ねるのでこう返してやった。

「西洋が本当に文明の国ならば、未開の国に対しては、慈愛の心を持って接し、懇々と説諭を加えて開明に導くはずであろう。ところが、現実はそうではなく、相手が未開蒙昧の国であればあるほど、むごく残忍に振る舞ってきたではないか、これこそ野蛮と言わずして何ぞ」と。

そうしたら、彼は口をつぼめて何も言えなくなった。

いくらキリスト教が愛を説いても、スペイン・ポルトガルのアメリカ大陸での横暴や、ヨーロッパ各国が巨大な利益を上げた奴隷貿易の歴史を考えると、全て説得力を失う。

そして、我々日本も、明治初期に力を持って朝鮮を開国させた。欧米列強が日本を見下して不平等条約を強制したのと全く同じ手法だ。挙句の果てには言うことを聞かない朝鮮を征服してしまおうという「征韓論」が台頭し、西郷も賛成に回る。

しかし、事柄は単純ではない。参議板垣退助が釜山への出兵を主張する中、西郷は勅使を朝鮮に派遣し、礼を尽くして朝鮮政府を説得すべきだと説いた。それで勅使が殺害されたり侮辱されたりすれば、開戦すればよいという主張である。

当時の朝鮮は日本の天皇を認めていなかった。朝鮮から見ると、「皇」の字を使っていいのは清朝の皇帝だけである。勅使を相手にするということは、日本の天皇を認めたということになり、清朝・日本より自分自身が一段低くなる。朝鮮はこれを認めないだろうから、勅使は殺害される。そうすれば開戦の大義が得られるので国際社会でも言い訳が立つ。

つまり、東アジアの華夷秩序と、欧米列強が支配する国際社会の仕組みを完全に理解した上で出した、リアリズムの結晶のような方策と言える。

明治日本の最大の脅威はロシアの南下。そのためには朝鮮半島をバッファゾーンとしておかなければいけない。その現実と、理想論をうまく政策に落とし込んだ好事例であろう。

西郷隆盛が、理想を振り回すだけの人物ではなかったことをよく示すエピソードですね!

小人を人の上に立たせてはいけない

万人の頭に立つと、下々のものはどのような無理を申し付けても、容易には背けなくて嫌々ながらでもかしこまるものだから、役人というのは貴くて、わがままに振る舞ってもいいのだと心得てしまう。

いますよね、こういう人。部下は自分に頭を下げているのではなくて、自分の立場に頭を下げているのであるという事実に気付かない勘違いな人々が。

パワハラもこれに属します。人はキレた瞬間に「私のキャパシティはここまでです」と宣言してるようなもの。それに気づかない人も多い。

昭和や平成前半には、パワハラ系上司、不機嫌系上司、いっぱいいました。リーダーたるもの「正面の理 側面の情 背面の恐怖(元日弁連会長の中坊公平の言葉)」だ、とかなんだとか言ってパワハラする人、今でもいます。

20年6月からはパワハラも法制化され、企業もリスクを負うようになります。もうパワハラ体質の人は時代が追放していくでしょうね。

既に「背面の恐怖」では人と会社を潰してしまう時代がやってきています!

西郷の純粋な理想主義者的側面

国のために、正道(正しくて道理のあること)をとことん実践して、あとは国とともに倒れてもよいと思うほどの精神がなかったら、外国との交際はうまくは運ばない。

西郷の言うことは直観的には正しく、すっと腹に落ちる。一方、当時の国際社会は帝国主義全盛で、ホッブスのいう「万人の万人に対する闘争」という様相だった。

インドで製造していたアヘンを中国に輸出して巨額の富を得たうえで、それを阻止しようとした清朝に攻め込む。これが正道だろうか。力でパナマ運河を租借したアメリカの行動は正道と言えるのか。宣教を大義名分にアメリカ大陸で搾取を繰り返したスペイン・ポルトガルを正道と言えるのか。

いやいや、国際社会はそんなに甘くない。日本国憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、諸国民の公正と信義などあてにならないのだから、それを信頼してはいけない。

もちろん西郷は単なる理想主義者ではなく、先に述べた征韓論での立ち居振る舞いなど、リアリストとしての側面も持っていました

過ちは素直に認めて、直ちに修正すればいい

過ちを改めるには、自分が間違いを犯したと自覚すればそれでいいのだ。過ちを犯したということにこだわり続けるのではなく、直ちに良いほうに一歩を踏み出すことが大事だ。

過ちを犯したことを悔やんで、何とかその場を取り繕おうと腐心するのは、たとえば茶碗を割って、そのかけらを集めて合わせてもとのようにしようとするのと同じで、どうしようもないことだ。

これは仕事でもプライベートでも、あらゆる場面に応用可能な教訓である。

とにかく人間は誤る。誤るたびに反省し、修正する。でも、また誤る。個人的には、いつまで誤り、それを修正する人生が続くのかと気が遠くなる思いだが、恐らくこれは一生続くのであろう。

特に立場が上がると、誤りを認めにくくなる。気を付けなければいけない。

ちなみに、長州の吉田松陰も同じような言葉を残している。

士は過ちなきを貴しとせず、過ちを改むるを貴しと為す

あの西郷でも誤りを修正しながら生きていたのかと思うと、少し救われる気がします。

君子の心得

犬を走らせて兎を追い、山谷を巡り歩いて一日中狩をして過ごし、一農家に一夜の宿を借り、風呂から上がって、とても爽快な気分で、ゆったりと。君子の心は常にこのようであるべきだ。

西郷は「器の大きい人」の代名詞のような存在であるが、(言い方は悪いものの)こうやって意識して自分を「演出」していた面もあるのかもしれない。これは凡人には朗報である。

確かに仕事をしていても、上司たる人にはどっしり構えていてほしいものだ。何かあると慌ててしまい、場当たり的な指示を出すようでは失格。役職が上がれば上がるほど、西郷の言う「君子の心持ち」が必要である。

言うは易く行うは難し、ですが!

西郷隆盛(語り手)
(角川ソフィア文庫)

※西郷の思想を直接知るための唯一の書