これからの「正義」の話をしよう
マイケル・サンデル
基本情報
初版 2009年(米)、2010年(日本)
出版社 早川書房
難易度 ★★☆☆☆
オススメ度★★★★★
ページ数 475ページ
所要時間 5時間00分
どんな本?
ハーバード大学の超人気哲学講義“JUSTICE”で有名なサンデル教授が「正義」について語る。NHK「ハーバード白熱教室」とともに社会現象を巻き起こした大ベストセラー。
「何もしなければトロッコが5人を轢く、レバーを引けばそれが1人で済む。どうすべきか」というトロッコのジレンマをはじめとして、自由・平等・幸福・倫理等に真正面からぶつかる「正義入門書」。
著者が伝えたいこと
正義に対する考え方は大きく3つある。①功利主義(社会全体の幸福を最大にする)、②自由主義(個人の選択の自由を尊重する)、③共同体主義(社会の共通善を信じる)の3つだが、私は③の立場を取る。
ただし、「正義」を現実の政治に反映させるには、どれも一長一短あるため、政治が道徳に積極的に関与していく必要があるだろう。
著者
マイケル・サンデル
Michael Sandel
1953-
米国の政治哲学者。コミュニタリアニズム(共同体主義)の代表的論客として知られる。
1953年、ミネソタ州ミネアポリス生まれ。ユダヤ系のブランダイス大学を卒業後、オックスフォード大学で博士号を取得。1980年からハーバード大学で哲学講座「Justice(正義)」を担当し、1988年に同大・政治学教授となる。2002~05年には大統領生命倫理評議会の委員を務めた。
こんな人におすすめ
「正義とは何か」を体系立てて理解したい人
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
※「トロッコのジレンマ」でもお馴染み!
要約・あらすじ
第1章 正しいことをする
■例えば、災害発生後の便乗値上げの是非を議論するには、「正義」の意味を探求しなければならない。そして正義の議論には、幸福の最大化・自由の尊重・美徳の涵養という3つの論点が登場する。
■正義や道徳の問題はソクラテスやアリストテレスの時代から議論されているが、未だ解決されていない。これは社会全体で考えていくべき問題である。
第2章 最大幸福原理-功利主義
■ベンサムによる功利主義の定義は「社会全体の苦痛を最小化し、快楽を最大化する」ことである。社会政策も、社会全体の総和としての幸福(低苦痛・高快楽)が、コストを上回るかどうかで判断される。
■功利主義に対する反論としては、①人間の尊厳と個人の自由が侵される可能性がある(苦痛を最小化し快楽を最大化するため、5人の病人に移植する5種の臓器を1人が犠牲になって提供するなど)、②幸福は定量評価できない(=比較できない)の2つがある。
第3章 私は私のものか?-リバタリアニズム(自由至上主義)
■リバタリアンは平等・公正よりも、自由市場と個人の自由を尊重する。よって、シートベルト着用義務法や売春禁止法等を含めた政府による規制や、税を通じた富の再分配には反対の立場をとる。
■また、リバタリアンは、人間は自分の身体に関する処分権を持つと主張し、尊厳死・安楽死・自殺ほう助は当然に認められるべきだとする。
■しかし、いくら本人が望むからといって、生活困窮者が金持ちに臓器を売ることは許容されるだろうか。或いは、いくら同意の上だからといって、妊娠・出産を途上国の国民に外注することは正しいことだろうか。
第4章 雇われ助っ人-市場と倫理
■兵士を集める方法としては主に、①徴兵制、②自分以外の身代わりを立てられる制度、③志願兵制の3つがある。リバタリアンは個人の自由の観点から、功利主義者は社会全体の幸福の総和の観点から、③志願兵制を支持するだろう。
■しかしその主張は、「経済的理由により他に選択肢(=自由)が無いケース」や「兵役は市民の義務であるという考え方」により批判を受ける。
■また、代理出産というケースにおいても、当事者間の自由な契約というリバタリアン的肯定論と、人間と物体は別であるとする道徳的否定論が存在する。
■これらを考える上では「自由市場でわれわれが下す選択はどこまで自由なのか」「金では買えない美徳や、より高尚なものは存在するのか」という問題を避けては通れない。
第5章 重要なのは動機-イマヌエル・カント
■カントは自律と人間の尊厳を尊重した。道徳は理性が支配する独立した英知界に存在するため、感性界にある快楽・苦痛・同情・思いやりといった感情は道徳の理由にならないし、科学は感性界でしか機能しないので道徳を説明できない。
■カントによれば、ある行動が道徳的であるか否かは、英知界に存在する普遍的に正しい「純粋実践理性」から生じた動機で為されたか否かに拠る。同情や思いやりの行動には道徳的価値はない。
■よって、功利主義は否定される。「人間の行動原理は、快楽を好み苦痛を避けること」というベンサムの見立ては正しいが、それでは欲望の奴隷として感性界で動いているだけであり、人間の尊厳である道徳・自由・理性という英知界の要素が欠如している。
■加えてカントはリバタリアンも否定している。根本的な道徳原理では、人間は自分自身の所有物ではなく、自分を含めたあらゆる人格が尊重されるべきだとする。よって、例えば夫婦間のセックスには尊厳があるが、売春は人がモノ扱いされているため、道徳的に制限されるべきとした。
観点の対比 「英知界」対「感性界」
→自分が定めた道徳に従うのが英知界。自然法則や感情に支配されるのが感性界。
道徳の対比 「義務」対「傾向性」
→自らの義務感から生じる行動は道徳的。何かのためにやる行動は非道徳的。
※よって、例えば殺人は当然道徳的ではないし、自殺も「苦しみから逃れるため」という目的を持っている以上、道徳的ではないし、人間性を尊重していない
自由の対比 「自律」対「他律」
→他から影響を受けず自ら理性を実践するのは自由。快楽や苦痛等の生物としての感性に支配されるのは不自由。
理性の対比 「定言命法」対「仮言命法」
→無条件で普遍的に為される行為は理性的。条件付きの場合は非理性的。
第6章 平等をめぐる議論-ジョン・ロールズ
■ロールズは、「自分の立場(財産の多寡、宗教、民族、性別等)は不明」という「無知のベール」を被り、いわば純粋な初期状態であるべき社会の仕組みを問うと、以下2つの正義の原理が導き出されるとした。
①言論の自由や信教の自由といった基本的自由をすべての人に平等に与える(功利主義の拒否)
②所得と富の平等な分配を求めるものの、社会で最も不遇な立場にある人びとの利益になるような社会的・経済的不平等を認める(リバタリアニズムの拒否)
■ロールズが唯一認めたのは「格差原理」と呼ばれるもので、個人に分配された天賦の才を全体の資産と見なし、それらの才能が生みだした利益を分かち合うことに関する同意であるとする。この場合、本人の努力ですら「才」と見做す。
封建制度:各自の先天的な血筋に基づくため不公平
自由主義:各自の先天的な環境に基づくため不公平(貧しい家と裕福な家など)
実力主義:各自の先天的な能力に基づくため不公平
平等主義:ロールズの格差原理
■つまり、高所得者は「運よく」その時代にあった能力を付与されたのであるから、高い税率を掛けられても問題ない、とする。平等な社会を志向する政治哲学として、これ以上の理屈はまだ出てきていない。
第7章 アファーマティブ・アクションを巡る論争
■アファーマティブアクションを正当化する理屈とその反論には以下のようなものがある。
過去不遇だったことへの補償
⇒補償する側もされる側も過去とは無関係
多様性の確保
⇒実効性があるかどうか不明、人種や民族を選考基準に入れるのは不公平
選考基準を決めるのは選考側であって受験者側ではない
⇒だからといって差別的な基準は許されない
■これらの問題は「合格者はたまたま(運良く)合格要件に合っただけ、不合格者はたまたま(運悪く)合格要件を満たさなかっただけ」と、正義(多様性の確保等の合理的な目的があり、かつ選考が偏見や侮蔑に基づかないこと)と功績(受験者の努力)を切り離すことが出来れば解決する。
■だからといって、大学が例えば1,000万ドルの寄付を合格の要件にするのは、大学の本来の目的(共通善の追求)から逸脱していると判断されるだろう。
第8章 誰が何に値するか-アリストテレス
■アリストテレスの政治哲学には以下2つの基本理念がある。
①ある行為が正義かどうかは、その目的に関係する。
②その目的は、ある行為が賞賛する美徳に関係する。
■ある行為や物の正しい分配方法を決めるには、その「目的」を調べなくてはいけない。例えば優れた笛は、裕福な者でも家柄の良い者でもなく、優れた奏者に与えられるべきである。
■その最たるものが政治だ。アリストテレスは政治の目的を「国民がいかに善く生きるか」であるとし、政治を司る地位や名誉は「善き市民」に与えられるべきであるとされる。アファーマティブアクションの問題はこの考え方からも論ずることが出来る。大学の目的を定義し、それに合った受験者を合格させればよいということだ。
第9章 互いに負うものは何か?-忠誠のジレンマ
■例えば国家は過去の過ちを謝罪できるのか。人は自身の行為にのみ責任を負い、他人や自分の影響力の及ばない出来事には責任はないという個人の自由を重んじる立場に立てば、それは不可能だ。現代アメリカ人は奴隷制に責任を負っておらず、よって謝罪もできない。
■アリストテレスは政治の目的を「善の実践」とした。一方、カントやロールズは、何が善であるか、すなわち何が正しいかを個人が選択できる自由を重んじた。
■しかし、それらの考え方は現実的でない。何が正しいことか、何が善いことかを判断する中立な「正義の原理」は存在しないし、我々のアイデンティティを形づくるコミュニティと伝統から生まれた道徳的要求は個人の「選択の自由」と相容れない。
■このような主張をする人々を(私を含めて)「コミュニタリアン(共同体主義者)」と呼ばれるようになった。自己は社会的・歴史的役割や立場からは離れられないのだ。つまり、リベラル派が主張する①・②に加えて、自身の選択とは無関係に③の責務が存在するということだ。
道徳的責任の三つのカテゴリー
①自然的義務:普遍的。合意不要。例)隣人を傷つけない
②自発的責務:個別的。合意必要。例)隣人家のペンキを塗る
③連帯の責務:個別的。合意不要。例)家族愛、愛国心
よって、現代アメリカ人が「奴隷制は過去のアメリカ人が作ったもので、自分達には責任はない」とする姿勢は誤っている。
■アメリカ人が移民に反対する理由の一つは、アメリカの貧困層の職が、低賃金の移民に奪われるからだ。しかし、もし③が無いのであれば、アメリカ人ではなく、より困窮している移民を助けるべきという結論になる。愛国心に道徳的根拠があると考え、同胞の福利に特別の責任があると考えるなら、③の責務を受け入れなければならないのだ。
■帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気がないならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない。
第10章 正義と共通善
■カントやロールズが正しいなら、善より正しさが優先されるので、公の場に道徳・宗教的信念を持ち込むべきではない。あたかも最高裁判事のように、すべての市民が受け入れられそうな普遍的で中立的な善の範囲内に留まるべきだ。
■しかし、本質的な道徳的問題を解決せずに、正義と権利の問題に答えを出すのは、つねに可能だとは限らないし、可能でも望ましくないかもしれない。例えば妊娠中絶やES細胞の是非には「胎児はいつから人として認められるか」という中立ではいられない問題をはらむからだ。
■功利主義は「幸福」という本来多様な概念を定量化しようとする点で限界がある。自由主義では、たとえ人々の選択の自由を保障しても、道徳的な問題は解決できない(同意の上の臓器売買等)。
■では共通善を現実の政治に反映させるにはどうすればよいのか。答えはまだ無いが、社会への奉仕、市場が解決しない道徳的問題の解決(臓器売買や傭兵等)、格差の解決など、政治が道徳に積極的に関与していく必要があるように思う。
【参考】4つの政治哲学ポジション
リベラリズム | 個人の自由は重視するが、経済的には平等を志向する(大きな政府) |
リバタリアニズム | 個人の自由と経済の自由を志向する(小さな政府) |
保守主義 | 「個人の自由・平等」といったイデオロギーは重要視しない。社会の既存秩序を重んじ、例えば再分配よりも財政規律を重んじる。 |
コミュニタリアニズム | 個人より共同体を重視し、何が共同体にとって良いか(共通善)を志向する |
学びのポイント
定番のトロッコ問題
あなたは路面電車の運転士で、時速60マイルで疾走している。前方を見ると、5人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。
頭が真っ白になる。五人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ(はっきりそうわかっているものとする)。
ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気づく。どうすべきだろうか?
かの有名な「トロッコのジレンマ」問題である。日本ではこの本によって一気に有名になった。
「何が正しいことか」という哲学的議論をするには相応しいが、当然ながら「唯一絶対的に正しい答え」は存在しない。本書には書かれていないが、政治哲学のポジション別に想定解を列記すれば、以下のように綺麗に分かれる。(その点で、良く出来た例え話である)
・功利主義(=社会全体の幸福度を最大化する)
→1人を犠牲にして5人を助ける
・自由主義(=個人の自由を尊重する)
→どのような選択をしても、その行為者の行為を尊重する
・美徳主義(=人間は本来的に備わった善を発揮すべき)
→5人の命を守るためとはいえ、意図的に1人を犠牲にする行為自体が善ではないため、5人を犠牲にする
三者三様だが、もし仮にこのような場面が現実に起こってしまった場合には、自由主義的立場に立って、「行為者を無邪気に責めたりしない」という態度が大切なように思える。
尊厳死・安楽死の権利
(リバタリアンは)自分の命の持ち主は自分なのだから、希望するなら自分の命を終えることも、それを助けてくれる医師(もしくはほかの誰か)の協力を得ることも自由なはずだというのだ。
国家には、持ち主が好きなように自分の体を利用することや命を処分することを阻止する権限はない(というのが、彼らの主張である)。
リバタリアン的な立場に立てば、安楽死も尊厳死も当然ながら個人に認められる権利といえる。
安楽死・・・助かる見込みのない病人を、苦痛の少ない方法で人為的に死に至らせること
尊厳死・・・生命維持治療を差し控え、自然な形で死を迎えること
しかし、現在の日本においては、どちらも合法化されていない。もし、患者本人が真摯に死を望んでいたとしても、患者の要望に基づいて殺害し、または自ら命を絶つのを援助する行為は、自殺関与・同意殺人罪(刑法 202 条)に該当してしまう。これは正しい姿と言えるだろうか。
なお、欧米では、口から栄養を摂取できなくなった場合、胃瘻(チューブで胃に直接栄養を送り込むこと)や点滴で延命することは非倫理的であるという考え方がある。結果、欧米では日本に比べて「寝たきり老人」の数が極端に少ないか、或いはいないそうだ。これは真剣に考えるべき問題だろう。
【参考】「欧米にはなぜ寝たきり老人がいないのか」https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20120620-OYTEW61295/
「無知のベール」仮説
ロールズは「自分の立場(財産の多寡、宗教、民族、性別等)は不明」という”無知のベール”を被り、いわば純粋な初期状態であるべき社会の仕組みを問うと、以下2つの正義の原理が導き出されるとした。
①言論の自由や信教の自由といった基本的自由をすべての人に平等に与える(多数派が利する功利主義の拒否)
②所得と富の平等な分配を求めるものの、社会で最も不遇な立場にある人びとの利益になるような社会的・経済的不平等のみを認める(自由至上主義であるリバタリアニズムの拒否)
趣旨要約
この思考実験は極めて面白い。仮に自分が生まれ変わるとして、先進国なのか途上国なのか、金持ちなのか貧乏なのか、男性なのか女性なのか、頭がいいのか悪いのか、まったく分からない状態で、どこまで自由や平等にこだわるかということ。
ものすごく乱暴な議論をすれば、これはギャンブルみたいなものだ。運よく金持ちに生まれたなら平等は自分に不利益だし、ある国の多数派に生まれたなら自由は(少数派の権利を保護することに繋がるから)自分に不利益になる。
しかし何が起こるかわからないから、人々の回答は①と②に収斂していく。今、どのような状態にあろうと、いわば「来世のあるべき姿」に関する答えが同じになるというのは、非常に面白い。
カントが守ろうとした「善意志」とは
友人があなたの家に隠れていて、殺人者が彼女を探しに戸口へやってきたら、殺人者に嘘をつくのは正しいことではないのか。カントの答えはノーだ。真実を告げる義務は、どんな状況でも適用される。
(カントはこう言う)
「真実を述べることは、相手が誰であっても適用される正式の義務だ。たとえそれが、本人や他者に対して、著しく不利な状況をもたらそうとも」
「(嘘はどんなものであっても)正しいことの根源を傷つける。……したがって常に真実を語ることは、いかなる都合も認めず、常に例外なく適用される神聖な理性の法則なのだ」
カントは、道徳とはあたかも科学法則のように、いつでもどこでも誰にでも普遍的に適用されなければならないと考えた。よって道徳は、「可哀想だから助けてあげる」とか「殺されるかもしれないから嘘をつく」という「仮言命法」ではなく、「善を為すべき」とか「嘘をついてはいけない」という「定言命法」で表現されることになる。
これを突き詰めて実践すると、「たとえ殺されそうになっても、嘘をつくという行為自体が道徳的ではなく、許されない」ということになる。一方でカントは、殺人者を欺くために「彼女なら1時間前に近所のスーパーにいた」という真実を告げることは許されるとする。何故なら、嘘をついていないから。
・・・正直、一般の人にはなんのこっちゃであろう。ただ、カントが無茶苦茶な理論武装までして言いたかったのは、この世界で無条件に善いとみなされるものは、ただ善い意志、「善意志」だけであるということだ。
「善意志」は周囲の何物にも影響を受けない絶対的に正しい道徳であって、それが何かを達成したり、何かに役立ったりするから「善い」のではなく、それ自体において善いものである。その存在を否定したくないがために、一見するとヘンテコな理屈を振り回すことになる。
ちなみにカントは著書『実践理性批判』の結びで、こう述べている。
ここに、我々がそれについて長い時をかけて思念を重ねていくごとに、以前にも増して新たな感嘆と畏敬の念をもって我々の心を満たし続ける二つのものがある。それは、我が上なる星空と、我が内なる道徳律である。
人事部長のつぶやき
プラトンの「洞窟の比喩」
プラトンの『国家』のなかで、ソクラテスは一般市民を洞窟に閉じ込められた囚人になぞらえている。囚人には壁に揺らぐ影、つまり彼らがけっして感知できない対象の反射したものしか見えない。
この話では、哲学者だけが洞窟から明るい陽光のなかに出ていき、そこで現実に存在する物を見ることができるとされる。
ソクラテスによれば、太陽を一瞬でも目にしたことのある哲学者こそ、洞窟の住人を支配するのにふさわしいという。
これは「洞窟の比喩」と呼ばれ、哲学界では超有名。この前段にある「線分の比喩」から解説します。
プラトンは「どうすればイデア(=絶対的な善)に到達できるか」を追求した哲学者でした。そこで、人間社会において「実体ではないが目に見えるもの」と「実体」の両方があることに着目し、思惟にも「実体ではないが考えられるもの」と「実体」の両方があるはずだと考えます。
・線分AD(目で見える):何かの影や水面の映った姿(芸術)
・線分DC(目で見える):人間の周囲にある実在(現実)
・線分CE(目に見えない):思惟により想像できる知(数学)
・線分EB(目に見えない):哲学によって到達できる善のイデア(哲学)
⇒人間の認識は、Aの「実在に関する知覚」から始まり、段階的にBの「善のイデアに関する思惟」に到達する。
次に出てくるのが「洞窟の比喩」です。
・線分AD:奴隷が見ている、洞窟に映った壺や鳥の影
・線分DC:壺や鳥自体とそれを照らす火
・線分CE:洞窟の外の世界があることへの思惟
・線分EB:洞窟の外にある太陽(善のイデア)
⇒哲学者は洞窟の外の真実を知った存在。その哲学者が洞窟に戻り、奴隷と話をしても、奴隷にはそれが理解できない。太陽を一瞬でも目にしたことのある哲学者こそ、洞窟の住人を支配するのにふさわしい。
功利主義の闇
フィリップモリスはチェコでのたばこ増税を回避するため、費用便益分析を実施した。
結果は「増税せず国民にたばこを吸わせておくと、喫煙者は早死するため、政府は医療費や年金などにかかる費用を節約できる」というものだった。(要約)
これは非常に面白いエピソード。2020年に新型コロナウィルスが流行した際、高齢者の致死率が高いことが判明すると「国家財政が好転するのでは」という議論があったりした。功利主義的な議論といえるでしょう。
さらにもう一つ。
二人(の経済学者)は、(高速道路の)制限速度の引き上げの便益の一つを通勤時間の短縮として定義し、節約された時間の経済的利益をはじき出すと(平均時給を20ドルとして計算した)、その節約額を増加した死者数で割った。
すると、より速く運転する便利さのために、アメリカ人は事実上一人の命を154万ドルと評価していることがわかった。それが、時速16km/h速く運転することの、死者一人当たりの経済的利益だった。
社会は経済活動するうえで、必ず一定のリスクを許容している。例えば鉄道は非常に安全な公共交通機関だが、毎年、ホームから転落して亡くなる方がいらっしゃる。例えばその死者数が10人だとして、全ホームに転落防止のホームドアを設置するために何百億円も投資しなければならないだろうか。
他にも、1日平均1名の車椅子利用者がいる公共図書館があったとして、何億円もの税金をかけてバリアフリー化しなければならないだろうか。平均1名のために、多くの税金が投入されることに、何の問題もないだろうか。
正義・道徳の問題は我々の身近な問題にも直結していますね
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
※「トロッコのジレンマ」でもお馴染み!