【人事部長の教養100冊】
「21 Lessons」Y・N・ハラリ

人事部長の教養100冊ロゴ
21Lessons(表紙)

「21 Lessons」
ユヴァル・ノア・ハラリ

スポンサーリンク

基本情報

初版   2018年(米)、2019年(日)
出版社  河出書房新社
難易度  ★★★☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 472ページ
所要時間 5時間00分

どんな本?

『サピエンス全史』で人類の過去を、『ホモデウス』で未来を描いたユヴァル・ノア・ハラリが、ついに現在に焦点を当てる。テクノロジーが急激に発展するいま、私たちは何を考え、何を為すべきか。

21世紀の知の巨人が、歴史・技術・政治・経済等の観点を横断的に俯瞰して将来を予測し、人間の存在意義を問う珠玉の一冊。

著者が伝えたいこと

AIとバイオテクノロジーとビッグデータの融合により、社会は変化する。大勢の「無用者」が生まれ、データを制する者が富や権力を制し、人間の心は全てアルゴリズムで把握されるであろう。

これらはグローバルな課題である。宗教やナショナリズムは何の役にも立たない。人間は謙虚に、これらの課題に向き合わなければならない。

これまでの歴史において、人々は宗教やナショナリズムのような「物語」を信じることで、人生の意味を見出してきた。一方、自由意志は生きる意味を自分自身に求め、仏教は生きる意味を追わないことにした。しかし今後は、アルゴリズムが人間の生化学的反応をすべて把握するようになるだろう。

人類は何に対して生きる意味を見出すのか。人類に残された時間は少ない。

著者

ユヴァル・ノア・ハラリ
Yuval Noah Harari
1976-

ユヴァル・ノア・ハラリ

イスラエルの歴史学者。ヘブライ大学歴史学部教授。専門は世界史とマクロ・ヒストリー(歴史の究極的な法則性を探求し、長期的・巨視的な傾向を見いだそうとする学問)。

こんな人におすすめ

AI・バイオテクノロジー(BT)・ビッグデータにより、人類にはどんな課題が待ち受けるのかに関心がある人

ユヴァル・ノア・ハラリ
(河出文庫)

※とにかく面白いテーマが続き、どんどん読める珠玉の一冊

要約・あらすじ

Ⅰ テクノロジー面の難題

Lesson1 幻滅:先送りにされた「歴史の終わり」

■第二次世界大戦と冷戦を経て、自由主義は全体主義と共産主義に打ち勝った。しかし2008年のリーマン・ショック以降、人々は自由主義に幻滅するようになった。

■自由主義は元来、経済・政治・個人の全てがセットになったパッケージであるが、現代ではブレグジットにしてもドナルド・トランプにしても、自由主義の一部が棄損している。自由主義は再び危機に瀕している。

 国家的レベル国際的レベル
経済自由市場、民営化、低課税自由貿易、グローバルな統合、低関税
政治自由選挙、法の支配、少数派の権利国際法と国際機関、多国間協力
個人個人主義、自由選択、ジェンダー平等個人の移動と移民の容易さ

Lesson2 雇用:将来、仕事がなくなるかもしれない

■ITとバイオテクノロジーの融合により、AIは人間を超える。AIの強みは、AI同士が接続できることと、瞬時にデータを更新できることだ。これにより、例えば既知の病気を診断し、お決まりの治療をしている開業医は不要になるだろう。

■一方、AIは新たな仕事を生むこともある。無人航空機はパイロットを不要にするが、メンテナンスやサイバーセキュリティという新しい仕事を生んだ。しかし単純肉体労働者にはその仕事はできない。AIは新しい「無用者」階級を生む可能性が高く、新しい社会・経済システムが求められるはずだ。

■ベーシックインカムに近い制度を導入している国はあるが、何を最低とするか、財源をどうするか等の課題は多い。例えば子育てを「仕事」と定義し、政府が賃金を支払うようなことは考えられるかもしれない。

Lesson3 自由:ビッグデータがあなたを見守っている

■生物学的知識と演算能力とデータがあれば、アルゴリズムは人間の健康や感情を正確に把握する。例えばある男女の写真を見た時の脳や血圧の動きを見ることで、その人の性的嗜好が分かったりする。将来的には自分がどの職業に向いているかが分かるようになるかもしれない。そして人はあらゆる場面でアルゴリズムに頼るようになる。

b (biological knowledge)× c (computing power) ×d (data) = ability to hack humans

■20世紀は民主国家が独裁国家に対して優位に立っていた。民主国家は分権的でデータ処理をうまくこなしたが、独裁者は判断を誤ることがあった。一方、AI時代では、国民に関するあらゆるデータを一元管理できる独裁国家が優位になるかもしれない。自由が消え失せ、富と権力が一部エリートに握られるだけではなく、人々は自らの存在意義の喪失に苦しむかもしれない。

Lesson4 平等:データを制する者が未来を制する

■産業革命のおかげで、一般大衆は単純労働や兵士の要員として重要な存在になった。しかし、AI時代にはその存在意義を失う。AIを味方に付けたエリート層と、丸腰の一般大衆の溝は、能力面でも経済面でもますます深まる。

■これを防ぐには、データの所有権を制御する必要がある。古代から中世は土地が、近代は資本が階級を作った。現代はデータが階級を作る。グーグルが良い例だ。さらに、人間のバイオ情報を完全に握る主体が現れれば、新たな生命体を生み出すかもしれない。それらのデータを誰がどう管理するか。現代の大きな課題の一つである。

Ⅱ 政治面の難題

Lesson5 コミュニティ:人間には身体がある

■人間が親しくできる人数は多くて150名だ。オンラインでのコミュニティが広がれば、その分オフラインでのコミュニティは減るだろう。

■巨大テクノロジー企業は人間をオンラインの一部(2つの目と2つの耳が10本の指と電子機器の画面とクレジットカードに繋がったもの)として扱う。生体情報から何からオンラインに差し出すと、人間は生来的にオンラインに取り込まれてしまうかもしれない。

Lesson6 文明:世界にはたった一つの文明しかない

■世界には様々な政治イデオロギー(自由主義・民主主義・原理主義等)があるが、それは人類にとって遺伝的なものでも普遍的なものでもない。

■数万年前、人類は無数の孤立した部族に分裂していた。それが歴史とともに統合され、今では概ね外交プロトコルを共有する約200の主権国家に集約されている。

■つまり、人類は大きな一つの文明の下で兄弟喧嘩をしているようなものだ。今後も人類は一つになっていく。偏狭なナショナリズムはこのことを考慮していない。

Lesson7 ナショナリズム:グローバルな問題はグローバルな答えを必要とする

■穏やかな愛国心が無いと、人類は部族社会から抜け出せず、民主主義や所得の再分配といったものは機能しない。しかし、偏狭なナショナリズムは問題を生む。

■グローバルな世界は以下の3つの難題に直面している。①核戦争、②生態系の破壊(気候変動等)、③テクノロジーの進化(ITとバイオテクノロジーの融合)。これらの難題に国境は関係なく、偏狭なナショナリズムは何も解決しない。

Lesson8 宗教:今や神は国家に仕える

■世界が抱える3大難題(核・気候変動・IT&BT)に対して、宗教は機能していない。

①技術の側面・・・完全に科学に取って代られた
②政策の側面・・・現代社会の在り方は教義に想定されておらず、ろくに役に立たない
③アイデンティティの側面・・・ナショナリズムの手先として使われる(過去の日本や現在の北朝鮮・イラン等)

Lesson9 移民:文化にも良し悪しがあるかもしれない

■移民の議論には論点が3つあり、賛成派と反対派に分かれる。

①移民は受入れ国の義務であり、同時に移民する人の権利なのか
②移民は入国したらその国の文化に同化する義務があるのか
③移民が同化しようと努力するなら、その国は移民を正規の国民として扱うべきか

■自由と寛容という価値観を標榜するヨーロッパですら、外国人に門戸を開きつつ、ヨーロッパ的価値観を共有しない人々によって不安定にならないような道を見いだせていない。

Ⅲ 切望と希望

Lesson10 テロ:パニックを起こすな

■テロとは、相対的に劣後する勢力が小規模な暴力を通じて、現状の変更に挑戦する行為だ。大国がこれに過剰反応すると、9.11後のアメリカによるイラク攻撃のように、一般国民にとって大きな脅威になる。

■しかし、国家は歴史的に政治的暴力の存在を根絶し、社会秩序を確立してきたからこそ、たとえ小規模でも、テロを看過することができない。重要なのは、政府はテロのネットワークを根絶し、マスコミは必要以上に煽らず、国民は徒に恐怖心を持たないことだ。

Lesson11 戦争:人間の愚かさを決して過小評価してはならない

■過去の戦争では、資源や領土の獲得を通じて、勝利は経済的繁栄に繋がった。しかし現代の経済的資産は知識から成る。よって、戦争で得られるものは少ない。

■ただしこれは平和の保証にはならない。人間は愚かであって、個人レベルでも集団レベルでも、自滅的なことをやりがちだ。

Lesson12 謙虚さ:あなたは世界の中心ではない

■あらゆる民族は、自分達の能力や影響力を過大評価する。しかしそれは滑稽だし、誤っている。

■(筆者の出自である)ユダヤ民族は、科学の分野で人類に大きく貢献したが、それは、書物を読んでじっくり考えることを好み、教育を大切にする、迫害された少数派の質素な宗教だったからに過ぎない。ユダヤ教には歴史はあるが、一神教も戒律もユダヤ教が成立する以前から存在していた。

Lesson13 神:神の名をみだりに唱えてはならない

■人間は道徳的であって、必ずしも神が必要なわけではない。人類は宗教にかかわらず、普遍的に「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という黄金律を守っている。それが長期的には自己の利益になることを知っているからだ。

■宗教的信仰はこれまで、世界の平和と調和に貢献してきた。ところが同時にそれは、一部の人の怒りを搔き立てたり正当化したりもする。そのような場合、神は必要とは言えない。

Lesson14 世俗主義:自らの陰の面を認めよ

■世俗主義者は宗教の権威に拠らず、科学的かつ客観的態度、学問や思想の自由、人類全体の平等、無知を認め真実を探求する勇気、起きた事柄に対する自己責任を大切にする。

■しかし、神と無関係でも、スターリンのような教条主義は出現しうるし、資本主義も数多くの問題を解決できないままでいるし、自由民主主義は構造的にポピュリズムを招きやすい。どのようなイデオロギーにも必ず負の面があり、それと向き合わねばならないが、宗教よりは世俗主義の方が自己修正力に期待できる。

Ⅳ 真実

Lesson15 無知:あなたは自分で思っているほどには多くを知らない

■近代科学では人間の「合理性」が、近代政治では人間の「個人性」が尊ばれてきたが、どちらも現実的には存在しない。人は情緒で動くし、無知であるし、集団心理に左右される。

■権力の中心には真実や斬新なアイデアやは入ってこず、既存の知識だけが蓄積されていく。周囲の誰もが失言を恐れたり、歓心を買おうとしたり、何かを得ようとしているからだ。権力であれ個人であれ、「無知の知」を知る必要がある。

Lesson16 正義:私たちの正義感は時代遅れかもしれない

■現代社会は複雑になりすぎてしまい、個人の行為と社会的問題の因果関係が分からなくなっている。私が投資している化学会社が海洋汚染に加担しているとしたら、私は責められるべきなのか。

■シリアの内戦問題など、問題が複雑になると人は主に4つの方法でそれから逃れようとする。①問題を善悪二元論のように単純化する、②一部を切り出して人間ドラマに仕立てる、③誰かがコントロールしているという陰謀論をでっちあげる、④あるドグマを盲目的に信じる。

Lesson17 Post Truth:いつまでも消えないフェイクニュースもある

■人々を団結させる点では、偽りの物語のほうが真実よりも本質的な強みを持っている。聖書は物語であるし、共産主義やヒトラーもプロパガンダの塊だ。企業のブランドも虚構である。長く信じられれば宗教やイデオロギー、短ければフェイクと言われるだけだ。

■自分の偏見を暴き、自分の情報源の確かさを確認するために時間と労力をかけるのは、私たち全員の責任だ。情報には金を出すべきであるし、必要なら科学文献に直接あたるべきだ。

Lesson18 SF:未来は映画で目にするものとは違う

■今日のSFの最悪の罪は、知能を意識と混同する傾向にある点かもしれない。アルゴリズムに意識はないのだから、人間とAIが戦争を起こすことはあり得ない。

■本当に心配すべきは、人間が生化学的なアルゴリズムとされ、科学が人間のアルゴリズムをハッキングし、快楽から悲しみまで制御するようなことだ。

Ⅴ レジリエンス(しなやかな対応力)

Lesson19 教育:変化だけが唯一不変

■これから迎える変化の時代に、詰め込み型教育は意味を為さない。人生の前半に学び、後半に働くというモデルは成り立たなくなる。社会的・経済的に存在価値を持ち続けるには、常に変化に対応し、何歳になっても学び続けて自己改造する能力が必要になる。

■信じられるのは自分だけだが、将来的に、自分の行動は全てモニターされるようになる。自分自身が政府やアマゾンに無意識のうちにハッキングされていないか常に検証が必要だ。アルゴリズムに全てを委ねるなら話は別だが、多少でも自己決定権を残したいなら、「汝自身を知れ」という古代の教訓を守る必要がある。

Lesson20 意味:人生は物語ではない

■「私に何らかの役割を与える」「私の人生の先まで続いている」ような物語は人に生きる意味を与える。

■人は生きる意味を「後世に何かを残すため」とか「他人や周囲のため」というが、どちらも間違いだ。子や詩を残したところで、あなたの人生にどんな意味があるのか。例えば恐竜の遺伝子はもう残っていないではないか。他人や周囲のため、というのも堂々巡りになる。何故、他人や周囲が存在するのかが不明だからだ。

■人間はこれまで宗教やファシズムなどを含めていくつかの物語を信じてきたが、そのうちの一つとして、真実だと絶対的に確信していたものは無い。

■自由主義は、生きる意味を自分自身で見出すのが人生の意味であるとした。しかし人間は思考・情動・欲望のどれも支配していないし所有もしていない。人間が自由意志だと思っているものは、単なる生化学的な揺れに過ぎない。

■逆に古代仏教は「宇宙は絶えず変化し、永続する本質はなく、満足などない」「宇宙にも人間にも意味はない。ただその存在を受け入れよ」とした。ただし仏教国でも戦争はするし、戦前日本では「我執を忘れ、天皇と国家に忠誠を尽くせ」という仏教思想家もいた。

■もしこの世界や人生の意味や自分自身のアイデンティティについての真実を知りたければ、まず苦しみに注意を向け、それが何かを調べるべきだ。なぜなら、この世で最も現実味があるのが苦しみだからだ。

Lesson21 瞑想:ひたすら観察せよ

■自分のありのままを観察する「瞑想」は、苦しみから逃れる一つの手段だ。苦しみは外の世界の客観的な状況ではない。それは自分自身の心によって生み出された精神的な反応なのである。

■これまでの歴史において、人々は「物語」を信じることで人生の意味を見出してきた。「自由意志」や「瞑想」も自分自身を把握し、生きる意味を見出したり見出さなかったりする手段になりうる。しかし今後は、アルゴリズムが人間の生化学的反応をすべて把握するようになるだろう。それまでに残された時間は少ない。

学びのポイント

子育てへのインセンティブ

それ(=ベーシックインカム)と関連した考え方に、「仕事」と見なされる人間の活動の幅を拡げるというものがある。現在、何十億もの親が子供を養育し、近所の人々が世話をし合い、市民がコミュニティを組織しているが、有益な活動のどれ一つとして仕事とは認識されていない。

私たちは発想を変え、子供の養育はこの世でおそらく最も重要で大変な仕事であることに気づく必要があるのかもしれない。

もちろん問題は、新たに認められたこれらの仕事を誰が評価し、お金を払うか、だ。生後六か月の赤ん坊が母親に給料を払うはずはないから、たぶん政府が肩代わりせざるをえないだろう。

そして私たちは、その給料で家族全員の基本的必要が満たされることを望むだろうから、結局それは最低所得保障と大差はなくなる。

この議論は少子化対策のコンテクストでもよく出てくる。子供を産むごとに政府から補助金が出て生活が楽になるとしたら、結婚が早く、かつ普通に働いても大きな収入を得られそうにない層(=ありていに言えば低学歴・低能力層)がこぞって子供を作ることになる。

その財源は高学歴・高能力層が納める税金だが、果たして高学歴・高能力層はそれを許すかどうか。優生学的で危険な発想ではあるが、低能力層同士の子供ばかりが増えることに問題はないのか。

そこをうまくクリアしているのがハンガリーだ。移民を入れたくないハンガリーは、「4人目の子供を産むと、定年まで所得税ゼロ」という制度を導入して少子化に歯止めをかけている。これはうまい。所得が無ければこの恩恵は受けられないからだ。

ちなみに「優秀な男女が子供を産み、子供は社会全体で育てるべきだ」と著書『国家』で説いているのは、古代ギリシャの哲学者プラトンだ。問題意識は違えど、約2500年前から同じような議論が出ているのは面白い。

単純労働者は誰からも守ってもらえなくなる

近代後期に、ほぼすべての人間社会で平等は理想になった。それは一つには、共産主義と自由主義という新しいイデオロギーの台頭のせいだ。だがそれはまた、産業革命に負うところもある。

産業革命のおかげで、一般大衆がかつてないほど重要になったからだ。工業国の経済は厖大な数の庶民階級の労働者に依存し、工業国の軍隊は厖大な数の庶民階級の兵士を頼みにしていた。民主国家と独裁国家の両方で、政府は一般大衆の健康と教育と福祉に多額の投資を行なった。

なぜなら、生産ラインを動かすためには何百万もの健康な労働者が必要だったし、塹壕戦を行なうには何百万もの兵士が欠かせなかったからだ。

AIとテクノロジーの進展は、業務遂行能力が平均以下の一般大衆を不要にする。これまで単純労働や兵士の担い手として企業や国家に保護されていた人々は、いずれ企業や国家から必要とされなくなる。

つまり、一般大衆は搾取の対象でもなくなり、存在自体が無視される。例えばそれらの人々が労働組合を組織してストライキをしても、そもそも仕事が無いのだから何の効力も持たない。

戦後しばらく、日本では労働組合の力が非常に強かった。これはもちろん、「業務遂行能力が平均以下の一般大衆」にも仕事があったからである。しかし、そのような時代は明確に終焉する。10年後、全滅しているわけではないが、ほとんど存在感を示さないものの一つは、労働組合だろう。

イデオロギーは民族固有のものではない

アテネの民主主義はたっぷり称賛され、大きな影響を与えてきたとはいえ、バルカン半島の一隅でせいぜい200年しか続かなかった及び腰の実験にすぎない。

もしヨーロッパ文明が過去25世紀間、民主主義と人権を特徴としてきたのなら、スパルタやユリウス・カエサル、十字軍やスペインの征服者、異端審問や奴隷貿易、ルイ14世やナポレオン、ヒトラーやスターリンはどう考えたらいいのか? 彼らはみな、どこかよその文明からの侵入者だったのか。

自由・民主主義・人権あたりの概念がヨーロッパ由来であることは事実だが、彼らとて、それを確立したのはここ数世紀の間でしかない。

世界には、イスラムのような原理主義、ロシア・中国のような独裁主義など、様々なイデオロギーがある。それらは民族固有のものではなく、時代と場所によって様々に変遷してきた。EUの盟主であるドイツだって一時は独裁主義国家であったし、戦前の日本は欧米諸国から見れば原理主義的な国に見えただろう。

日本は一時期「価値観外交」として、「普遍的価値(自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済)に基づく」外交を展開していた。しかし、これらの価値観は全く「普遍的」なものではなく、イデオロギーの一つにすぎない。

世界ではイデオロギーがぶつかり合っているが、動物のように種が分かれているわけではない。時代と場所によって入れ替わる性質をもっている。

日本も北朝鮮も外から見れば同じ

日本はペリー来航以降、急速に西洋化したが、日本独自のアイデンティティを維持・確立するために神道を利用した。

日本のエリート層は、アニミズム的原始神道に、仏教や儒教、封建制度の武士の気風といったあらゆる要素を加え、仕上げに天皇崇拝を神聖化した。

日本の「神風特攻隊」は、最新のテクノロジーと宗教的教化によるナショナリズムが魔法のような効果を発揮した最適の例である。(趣旨要約)

宗教にはグローバルな課題(核戦争・気候変動・技術進展)を解決する能力が無いばかりか、解決の障壁となるナショナリズムを生むという弊害も持つ、と筆者は主張する。

宗教は特定の集団を他の集団から分離し、「自分達は特別」と思わせる機能があるが、それが事実であることを示す最適な例として、戦前の日本が挙げられている。

残念ながらこれは史実だ。明治時代の日本は西洋に追いつけ追い越せで、(朝鮮には強く出たが)まだまだ謙虚だった。日清・日露戦争では武力戦だけでなく、外交戦や情報戦にも気を配っていた。

しかし、第一次世界大戦で連合国側に付き、国際連盟で正式に列強認定されたあたりから、「アジアで植民地化を免れた自分たちは特別」と思い始めたのだろう。そこに国家神道や天皇制が結びつき、偏屈なナショナリズムが生まれてしまった。

欧米人から見れば、当時の日本と今の北朝鮮は変わらないだろう。現代日本人は北朝鮮を特別な国、異質の国と見るが、我々だって一昔前は同じだったのだ。同じ過ちを繰り返さないためにも、そのことは肝に銘じておかねばならないだろう。

いわゆる「黄金律」

あなたは、見ず知らずの人が日常的に金品を強奪されたり殺害されたりするような社会には暮らしたくないだろう。自分も絶えず危険にさらされるばかりか、見知らぬ人どうしの信頼の上に成り立つ交易などの恩恵にも浴せない。商人はたいてい、盗賊の巣窟は訪ねない。

古代中国から近代ヨーロッパまで、各地の非宗教的な理論家たちはそう言って、「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」という黄金律を正当化してきた。

人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というキリストの言葉を、欧米では黄金律(The Golden Rule)という。

キリスト教だけでなく、各宗教がこれと似た内容の教えを持っている。

「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」論語(儒教)

「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」マハーバーラタ(ヒンズー教)
また、仏教ではこの教えは明示されていないが、根本として人間には「私」や「あなた」と区別する意味がなく、皆、精神共同体の一員であるという教えがある。つまり、他人がしてほしくないことをすることは、自分を傷つけることになるという教えとは整合的と言える。

「幸せ」に対する態度

1931年、イギリスのオルダス・ハクスリーが著した『すばらしい新世界』では、世界政府が先進的なバイオテクノロジーとソーシャル・エンジニアリングを使い、誰もがつねに満足し、誰一人反抗する理由を持たないようにしている。

作品中に登場する「ソーマ」という薬を服用すると、副作用なしに無上の幸福感を即座に与えてくれる。(要約)

この状態は人間にとって「幸せ」と言えるだろうか。作中では、世界政府に反抗するジョンが「不幸せになる権利」を主張する。人間の幸せは、不幸せになる権利と一体だろうか。

古今東西、人間の幸せについては様々に論じられてきた。その主なものを整理すると、以下のようになる。本書で語られている幸せは③である。

①利己的遺伝子説 ②理性万能論 ③幸せ脳内物質説 ④仏教
幸せになどなれない 幸せは自分で決める 幸せを人工的に創る 幸せを追わない

①利己的遺伝子説

人間は他の生物と同様、生存に適した形に進化してきたのであって、幸せになるようには設計されていない(例えば、100%楽観的な人間より、ある程度心配性な人間の方が、生存には適していたであろう)。人間はDNAに支配されており、外からの刺激に機械的に反応しているだけであって、幸せになどなれない。

②理性万能論

人間は放っておけば刺激に反応するだけの物体だ。しかし人間には理性の力がある。必要なのは、信じ、期待し、微笑むことだ。人生の幸不幸の境目は、みな人の心が作り出すものであって、幸せになれるかどうかは、自分の心持ち次第。幸福は自分で作るものだ。

③幸せ脳内物質説

人間の幸福は、神経やニューロン、シナプスや、セロトニン・ドーパミン・オキシトシンといった化学物質の作用により感じられる。薬物によって人は幸せになれる。

④仏教

人生は思い通りになどならない。あらゆるものは変化するのに、人間は何か特定のものに執着する。あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になれば、結果として幸せに生きることができる。つまり、幸せを追わないことこそが、幸せなのだ。

人間の生きる意味とは

優れた物語は、私に役割を与えなければならないし、私の視野の外まで延びていかなければならないものの、真実である必要はない。物語は純粋な虚構でありながら、それでも私にアイデンティティを提供し、自分の人生には意味があると感じさせることができる。

実際、私たちの科学的理解の及ぶ限りでは、さまざまな文化や宗教や部族が歴史を通して生み出してきた幾千万の物語は、一つとして真実ではない。どれもただの人間の創作にすぎない。

もし、あなたが人生の真の意味を問い、その答えとして物語を与えられたら、それが間違った答えであることを承知してほしい。厳密な詳細はあまり関係ない。どんな物語も間違っている。たんに、それが物語だからだ。

人は様々に自分の生きる意味を見出す。ある人は宗教ために、ある人は家族のために、ある人は何かを後世に残すために、ある人は自分のために生きる。

しかし、宗教は信仰であって真実を語らない。自分の生きる意味を他人に見出すとしたら、その他人は何に生きる意味を見出すのか。遺伝子を後世に残したからといって、それが永遠に続く保証はない。自分のために生きるというのは、もはやトートロジーで何も言っていないに等しい。

ではどうすれば、人間は救われるのか。生きる意味を考えてはいけないのだろうか。答えは決して無いが、これまで私が見聞きした中で最も説得力があったのは、精神科医の神谷美恵子が著書『生きがいについて』で語っていた次のような考え方だ。

神谷美恵子
神谷美恵子

■人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。考える力を失ったり、病気に苦しむような人、野に咲く花のように、ただ「無償に」存在している人も、大きな立場からみたら存在理由があるに違いない。


■もし彼らの存在意義を問題にするなら、人類全体、動植物全体、宇宙全体の存在意義も同時に問われなければいけない。


■「人は何故生きるか」という問いには答えはないが、人は精神世界の中に、生きがいを求める。私たちにできることは、病気の人と、苦難に満ちた人と、あらゆる人々と一緒に、絶えず新たに光を求め続けることだけである。

人事部長のつぶやき

ジェンダー平等の効用

ジェンダーの平等は国際平和を促進する。戦争はたいてい、家父長制の価値観や男らしさが売り物の政治家が煽るものだからだ。

だいぶ乱暴な言い振りだが、非常に説得力がある

たぶんに主観的ではあるが、男性は「正しい(と思われる)こと」をとことん突き詰める性質がある。ウォールストリートの半分が女性だったら、リーマンショックは起きていただろうか。戦前の日本の内閣の半分が女性だったら、日本は無謀な戦争に突っ込んでいただろうか。

おじさんが複数人集まると、「場の空気」が出来上がる。その和を乱す者は「分かってない」と排除される。それが不正や隠ぺいに繋がったりも恐らくする。そこに女性が一人でもいれば、おじさんは悪いことができない(かもしれない)。ジェンダー平等はそういった「抑止力」の側面もあるように思う。

もちろん、ジェンダー平等は、社会全体の生産性向上にも資するのでしょうが!

いわゆるダンバー数

平均的なホモ・サピエンスが親密に知ることのできる人の数は、おそらく150人を上回らないだろう。

この150名という数字は、生物学的にも妥当な人数として認知されている。

イギリスの人類学者ロビン・ダンバーが行なった有名な分析によれば、霊長類のそれぞれの種の大脳新皮質の大きさは、集団規模とある程度の相関関係にあり、人間に当てはめると、だいたい100人から230人の社会ネットワークに対処できることになる。

この100~230人の平均である150名という数字は「ダンバー数」として知られる。ダンバーはこれについて「もしあなたがバーで偶然出会って、その場で突然一緒に酒を飲むことになったとしても、気まずさを感じないような人達のことだ」と説明している。

小学校のクラスが一人40名だとして、4クラス分。個人的にはそんな多くの人と親密にはなれない自信があります・・・

日本史に対する誤解

1930年代に日本の将軍や提督、経済学者、ジャーナリストたちは、朝鮮半島と満洲と中国沿岸部の支配権を失えば、日本は経済が停滞する運命にあるということで意見が一致した。

だが、彼ら全員が間違っていた。実は、名高い日本経済の奇跡は、大陸に持っていた領土をすべて失った後に、ようやく始まったのだ。

1930年代においては、朝鮮・満州を失うことはロシアの進出を許すことと同値であった。アメリカも南満州鉄道の利権に関心を示していた。つまり、経済問題以前に、満州・朝鮮問題は安全保障問題であった。

1930年代に日本が朝鮮・満州を放棄し、内政に専念することで経済成長できたかと言えば、甚だ疑わしい。国家の安全保障なしに、経済発展はあり得ない。戦後、日本が高度成長できたのは、安全保障をアメリカに任せられたからという側面が大きいのは言うまでもない。

日本の歴史を(著者のような)海外の方に正確に理解していただくのは、なかなか難しいですね

プロパガンダの原則

ナチスのプロパガンダの巨匠で、近代以降最高のマスメディア操作の達人かもしれないヨーゼフ・ゲッベルスは、次のように述べて自分の手法を簡潔に説明したとされている。「一度だけ語られた噓は噓のままであり続けるが、1000回語られた噓は真実になる」

ヒトラーは著書『わが闘争』で、次のように書いている。「どれほど見事なプロパガンダのテクニックをもってしても、ある根本原則を絶えず念頭に置いておかないかぎり成功は覚束ない。すなわち、要点を絞り込み、それをひたすら繰り返すのだ」。

今日のフェイクニュースの売り手たちに、これ以上のことを言える人がいるだろうか?

現代自由主義社会に生きていると信じられないが、これが語られたのはたった1~2世代前のことだ。そして当然、日本でも戦前・戦中はプロパガンダやフェイクニュースに溢れていた。

プロパガンダの難しいところは、「まあ、弱者のやることだから」と、鷹揚に構えるわけにはいかないところだ。真実かどうかよく分からない「従軍慰安婦」問題は朝日新聞と韓国側の喧伝により、半ば既成事実化されている。竹島も尖閣も相手国(と日本)のプロパガンダ合戦になっている。

特に日本はプロパガンダ外交戦に弱いですね。相手の土俵に乗ることは避けるべきですが、もっと面の皮厚く、分かりやすい外交メッセージを発信し続けるべきだと思います。

恐るべしユダヤ民族

新しい命とキリストの復活を象徴する復活祭の卵であれ、エジプトで奴隷にされ、奇跡的に脱出したことを思い出すために過ぎ越しの祭りのときにユダヤ教徒が食べなくてはならない苦い薬草と種なしパンであれ、食べ物にも、栄養価をはるかに超える霊的な重要性を持たせうる。

「過ぎ越しの祭り」とは、エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事に由来する。

当時の苦しさを忘れないようにするために、一定の期間は「苦い薬草と種なしパン」を食べる。この慣習の凄まじいのは、このいわゆる「出エジプト」が紀元前1200年頃の出来事ということだ。旧約聖書に「神への祭りとして代々祝わなければならない」と書かれているので、相当古くから続く慣習であることが分かる。

この他にも、「マサダ要塞」の逸話は有名だ。紀元後66年、現在のイスラエル地域に住んでいたユダヤ人がローマ帝国に反旗を翻して、ユダヤ戦争が勃発する。形勢はユダヤ反乱軍不利に傾き、73年についにユダヤ反乱軍は断崖絶壁のマサダ要塞に立てこもる。

しかし、進軍したローマ軍が見たのはもぬけの殻と化した要塞。当時は、抵抗を続ければ全員が虐殺され、降伏すれば全員が奴隷になるため、ユダヤ人達は集団で身を投げていた。

この歴史を受けて、現在のイスラエル国防軍の入隊宣誓式はマサダで行われ、「マサダは二度と陥落せず」と唱和し、民族滅亡の悲劇を再び繰り返さないことを誓う。

マサダ要塞
マサダ要塞

2000年以上、国を持たずバラバラだった民族が、神への帰依と律法を軸として、現在までアイデンティティを保ち続けている事実には、驚愕せざるを得ません。

いわゆる認知的不協和の解消

あなたは、女性が恋人にダイヤモンドの指輪を持ってくるように頼むのはなぜだと思っているだろうか?

その恋人は、いったんそれほど大きな金銭的犠牲を払ったら、それが価値ある目的のためだったと自分に確信させざるをえないからだ。

これは「認知的不協和の解消」と呼ばれるものだ。例えば、幼少期に体罰を受けた人が「あれだけ苦しかったのだから、大人になってあの体験が役に立っているに違いない」と信じるようなこと。

恋愛には特に多い。結婚式も「多額の金を使って、たくさんの人に祝ってもらうくらい、この結婚には価値があるのだ」とか「こんなに労力を掛けるのだから、この結婚には価値があるはずだ」と信じ込みたいという側面もあるのだろう。

「いいえ、普段からお世話になっている人に感謝の気持ちを伝えたいから、結婚式をやるんです」などと言う人がいるが、呼ばれる方が貴重な休日とそれなりのご祝儀を犠牲にしていることを分かっているのかいないのか・・・(もちろん、喜んで参加する人もいるでしょうが)。

私は結婚式には呼ばれたくない派です・・・

ユヴァル・ノア・ハラリ
(河出文庫)

※とにかく面白いテーマが続き、どんどん読める珠玉の一冊