「人生論ノート」三木清
基本情報
初版 1941年
出版社 創元社、新潮社、角川ソフィア文庫等
難易度 ★★★★★
オススメ度★★★☆☆
ページ数 176ページ
所要時間 2時間30分
どんな本?
京都学派の哲学者三木清が、戦時下全体主義の日本であえて「個人の幸福とはなにか」を主題に、雑誌「文學会」に連載した人生論。幸福のほか、成功・希望・虚栄・嫉妬・死などの普遍的なテーマについて語られる。
戦後すぐにベストセラーとなり、新潮文庫版は現在までに100刷以上を重ねている名著。
著者が伝えたいこと
日本は戦争に向かって全体主義傾向が強くなっているが、個人の希望や幸福を失ってはいけない。希望を持ち、幸福を追うことは徳そのものであり、人生そのものである。
また、個人の幸福を国家全体の目的の為に犠牲にしてはならない。各個人が、周囲に流されず、周囲に強制されず、自分の人生を主体的に描いていかなければならない。
著者
三木清 1897年-1945年
「京都学派」に属する日本の哲学者。1914年に第一高等学校に入学。一高からは東京帝国大学に進学するのが一般的なところ、三木は西田幾多郎の『善の研究』を読んで感動し、1917年京都帝国大学哲学科に入り西田に師事した。
大学卒業後はドイツ・フランスに留学し、ハイデガー等のもので学ぶ。帰国後は法政大学教授に就任するも、マルクス主義に傾倒。共産党に資金を提供したとして治安維持法で検挙・起訴されて在野に下る。
その後はマルクス主義から離れ、近衛内閣のブレーン集団である昭和研究会の中心メンバーとして文化政策の立案に取り組むが、大政翼賛会に吸収される形で解散。1945年には思想犯として逃走していた友人をかくまったとして、再び治安維持法違反に問われ、戦後も釈放されないまま、同年9月に拘置所で獄死した。
書評
人間の「幸福」をテーマとしているが、難解な表現が多く、読み解くのにパワーがかかる。これは、戦時中の言論統制下、おおっぴらに幸福について語ることが憚られたことや、軍部主導の政治への表立った批判が出来なかったことに起因している。
本書についてよく理解されたい方には、「嫌われる勇気」の著書としてお馴染みの岸見一郎が書いた「三木清『人生論ノート』を読む」(白澤社)をお勧めする。
要約・あらすじ
幸福について
幸福を語ることは不道徳ではないし、幸福の追求こそが善であり徳である。自分自身が幸福であることが、愛する者に対して為せる最上の善である。
成功について
最近は幸福であることより成功することに重きが置かれている。成功は単純に量的であるが、幸福は質的である。全ての成功者は互いに似ているが、幸福な者はそれぞれの方法で幸福である。成功=幸福ではないし、不成功=不幸でもない。
利己主義について
幸福を追求することは利己的だという人がいるが、世の中はギブアンドテイクが原則であって、一方的にテイクだけする利己主義は存在し得ない。利己主義という言葉はほとんど常に他人を攻撃するために使われるのである。
人間の条件について
一人の人間の存在など泡沫のようであり、虚無の上に成り立っているに過ぎない。しかし、泡沫なりに自分の人生を形成していかなければならない。人生には様々な矛盾があるが、それらを全て解決しようとせず、無理に外から秩序立てようともせず、自己の心の秩序に従うべきだ。
習慣について
習慣には良い習慣と悪い習慣がある。習慣化は技術であり、自由に操れれば多くのものが身に付く。しかし、本来の趣旨を忘れ、習慣だけが残ると、退廃が始まる。
虚栄について
虚栄はあらゆる人間的なもののうち、最も人間的である。虚栄(=自分を現実以上に大きく見せること)は自己を高める原動力とも言えるし、他者からの優越を追った瞬間に虚無とも言える。他人の目を気にせず、理想の人生を主体的に創っていくことで虚無から脱せられる。
名誉心について
名誉心と虚栄心は異なる。理性で自己を制御できる人間は名誉心を放棄しないし、虚栄心に誘惑されない。名誉心は自己の品格を対象とし、虚栄心は世間の評判を対象とする。
怒りについて
怒りとはそもそも正義心の発露である。しかし、肉欲的な愛が高次の愛に高まる可能性はある一方、突発的な怒りにはただ下降の道しかない。自信のある者は怒らず静かに構え、軽蔑されたと思う小物はよく怒る。
嫉妬について
その怒りより悪いのは嫉妬である。愛が「常に高いものに憧れる」感情である一方、嫉妬は「誰かを自分と同じかそれ以下に低めようとする」平均化の感情である。よって、嫉妬は自分の手に届く対象にしか発生しない。
孤独について
孤独は感情ではなく知性である。周囲に迎合せず、周囲と異なるあり方を堅持するためには、感情ではなく知性が必要だからである。
偽善について
虚栄的である人間は、必ず偽善的である。しかし、既に述べたとおり虚栄は人間の一般的性質であるから、どこかしら偽善的であることは避けられない。その中でも、他人に阿(おもね)っている人間は明確に偽善者である。社会の高い地位にいる人は、阿る人と純真な人を識別する徳を持たなければならない。
死について
人間は年齢を重ねるごとに死を恐れなくなる。愛する人が亡くなった場合、自分が生きている間はその人に会えないが、死後なら会えるかもしれない。本当に愛した人がいれば、死は怖くない。
希望について
人生は全てが必然でもないし、また全てが偶然でもない。ゆえに人は希望を持つ。希望とは欲望や期待ではなく、無から自分の人生を創り出す形成力である。
学びのポイント
当時の時代背景
今日の人間は幸福についてほとんど考えないようである。(中略)
幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど、今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。
幸福について
本書のテーマは「個人の幸福とはなにか」である。しかし、雑誌「文學界」への連載が始まった1938年と言えば、国家総動員法が制定されてその後の日本が戦争一色になっていく時期と重なる。
国家総動員法とは、軍が議会の承認無しに人や物資等を調達できるという戦時法制で、当時の日本政府は個人の権利を極端に制限し、国家の戦争勝利を最優先とする、全体主義的な政策をとっていた。
よって「個人の幸福」について論ずるということ自体が憚られる時代であったが、三木清はその「時代の空気」に果敢に挑戦したのであった。本書を理解するには、まずその時代背景を押さえておく必要がある。
まず自分が幸福である必要がある
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。(中略)
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でないごとく、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うがごとくおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
「幸福について」
上記のとおり、滅私奉公が重んじられた戦時下の日本では口にすることさえ憚られたが、そもそも「個人の幸福の追求」は古代ギリシャの時代から、哲学や倫理学上の重要テーマであった。アリストテレスは著書『ニコマコス倫理学』で「幸福こそが究極の目的」であると明言している。
そしてアリストテレスは「人を愛するには、まず自分を愛さなければならない」と続ける。少し長いが、同じ『ニコマコス倫理学』の内容を要約すると以下のようになる。
善き人は自分自身を愛している。その理由は以下のとおりである。
①自分が存在することは善であるから、自分にとっての善と自分の生存を願う。
②快いから、自分とともに生きることを願う。
③自分の価値判断を信じ、それに基づいて苦しんだり喜んだりすることを願う。この「自分を愛する気持ち」は、そのまま「相手を愛する気持ち」につながる。
①相手が存在することは善であるから、相手にとっての善と相手の生存を願う。
②快いから、相手とともに生きることを願う。
③相手の価値判断を信じ、ともに苦しんだり喜んだりすることを願う。つまり、自分すら愛せない者に、他人を愛することはできないということだ。善き人は自分自身の存在が善であるから、自分自身を愛している。そして、自分に対するように友人にも対する。だから友人も愛せるのである。
三木はアリストテレスに強く影響を受けたものと思われる。この「人を愛するには、まず自分を愛さなければならない」というテーマは古今東西、様々な人に論じられており、例えばドイツの精神分析学者エーリッヒ・フロムは、著書『愛するということ』で以下のように述べている。
聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。
自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ。
また、ロシアの文豪トルストイは著書『人生論』でこのように述べている。
人は自分のために生きるべきだろうか?だが、自分の個人的な生命は悪であり、無意味ではないのか。家族のために生きるべきだろうか? 共同体のためにか?いっそ祖国か、人類のためにか?
しかし、自分個人の生命が不幸で無意味だとすれば、あらゆる他の人間個人の生命も同じように無意味なわけだから、そんな無意味で不合理な個人を数限りなく寄せ集めてみたところで、一つの幸福な理性的な生命をも作ることになるまい。
そして、やや意外かもしれないが、仏教においても「自己愛」は積極的に肯定されている。そして「他人においても自分が一番なのだから、自分を愛する人は他人も大切にしなければならない」としている。
どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない。
(サンユッタ・ニカーヤ(ブッダ 神々との対話)より)
成功者は皆似ているが、幸福は人それぞれ
・成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心でなくなった。
・幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。
・純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はそうではない。
「成功について」より趣旨要約
三木は「幸福」と「成功」を以下のように明確に区別して論じた。
幸福 | 成功 |
古典的 | 現代的 |
質的 | 量的 |
個々に異なる | 全て似ている |
まず三木は「古代の理想は賢者、中世の理想は聖者、現代の理想は成功者(=財産を為したもの)である」として、現代人は成功ばかりを重んじ、幸福を省みないと嘆く。
その上で、幸福は質的なものであって個々人それぞれで異なるが、成功は量的なものであって金銭の多寡で測れてしまうという重要な事実を指摘する。
成功者の定義は単に「財産を持っている」ということであって、成功者それぞれに大きな違いはない。概ね、広い家に住み、美味しいものを食べ、良い服を着ている程度である。
一方、幸福の定義は人それぞれに異なる。お金そのものという人もいれば、趣味に使える時間、家族との支え合い、仕事のやりがい、友人との繋がり等々、それぞれが大切にするものは異なる。
ちなみにこれは言い換えると「全ての成功者は互いに似ているが、幸福な者はそれぞれの方法で幸福である」ということになる。皆さんもどこかでご覧になったことのあるフレーズかもしれないが、オリジナルはロシアの文豪トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一説である。
幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである
なお、ジャレド・ダイアモンドは大ベストセラー『銃・病原菌・鉄』で家畜についてこんなことを言っており、『アンナ・カレーニナ』が広く一般的に知られていることが分かる。
家畜化できている動物はどれも似たものだが、家畜化できていない動物はいずれもそれぞれに家畜化できないものである。
この文章をどこかで目にしたような気がしても、それは錯覚ではない。文豪トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』の有名な書きだしの部分、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」をちょっと変えたものだから。
三木清に話を戻すと、成功は概ね万人に共通だが、幸福は人それぞれで異なる。よって、どれだけ金銭的に恵まれていて、社会的にも高い地位にいたとしても、例えば自由になる時間が無くて好きなことができなかったり、孤立感に苛まれているようでは幸福ではない。
同じように、金銭的に苦しく、社会的にそれほど認められていなかったとしても、趣味に没頭できていたり、あたたかい家庭に恵まれていたりする人は(本人がそう思っていれば)明らかに幸福である。
つまり、成功は幸福を担保しないし、不成功は必ず不幸を伴ってくるわけではないと言える。
人事部長のつぶやき
幸福だから献身的になれる
愛するもののために死んだゆえに彼等は幸福であったのでなく、反対に、彼等は幸福であったゆえに愛するもののために死ぬる力を有したのである。
日常の小さな仕事から、喜んで自分を犧牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。
「幸福について」
これはつまり、人は愛する者のために献身したり自己犠牲するから幸福なのではなく、人は幸福だから献身できたり自己犠牲できる、ということを言っています。
これが書かれた当時は太平洋戦争に向かっていく最中であり、自己を犠牲にして、国に奉仕することを強いられていました。しかし三木は、人が自己を犠牲にするための必要条件は、各人が幸福であることだと主張したわけです。
「まず自分が幸福である必要がある」という主張はブレないですね!