「生き方」稲盛和夫
基本情報
初版 2004年
出版社 サンマーク出版
難易度 ★☆☆☆☆
オススメ度★★★★★
ページ数 246ページ
所要時間 3時間00分
どんな本?
京セラを設立し、破綻したJALを再生させた稲森和夫が「人間が生きる意味とは」「人間はどう生きるべきか」という哲学的命題を、誰にでも分かる言葉で明快に示した大ベストセラー。
「人生・仕事の結果=考え方(-100~100)×熱意(0~100)×能力(0~100)」を含む、とにかく読む人を前向きにさせてくれる一冊。夢の実現や、良き人格形成にむけて内面から活力が湧いてくる。サッカー元日本代表の長友佑都選手の愛読書としても有名。
著者が伝えたいこと(稲盛哲学のエッセンス)
■人間が生きる意味は、人格を高めるために倦まず弛まず努力し、この世に来た時より美しい魂を持ってこの世を去ることにしかない。
■仕事にコツコツ打ち込むことは、人格形成に繋がる深淵かつ崇高な行為である。日々誠実に仕事に打ち込めば、高邁な人格と素晴らしい人生が手に入る。
■より具体的には、以下の6つに精進すればよい。
①誰にも負けない努力をする
②謙虚にして驕らない(感謝・誠実・素直な心)
③反省ある日々を送る
④生きていることに感謝する
⑤善行、利他行を積む
⑥感性的な悩みをしない
■人生・仕事の結果=考え方(-100~100)×熱意(0~100)×能力(0~100)
熱意は後天的、能力は先天的。考え方はその人の哲学・倫理観・道徳律であり、方向を間違えると自分にも社会にもマイナスの影響を与える。
■宇宙には、すべてを進化発展させて善の方向に導こうという力の流れが存在している。人間も「真・善・美」に基づいて日々精進し、ありたい姿を強く思い描けば、必ずそれは実現する。生まれてきた時よりも、少しでも魂を美しくして死んでいくことが、宇宙の意志に唯一叶う生き方であり、生きる意味である。
■しかし、人間の核心部分にある「真・善・美」に従って、完全に利他的に生きることは難しい。だからこそ、人間の本能や感性を、知性と理性で制御しようと努める必要がある。
著者
稲盛和夫 1932-2022
※2022年8月24日、老衰のため京都市内の自宅で逝去されました。
偉大な経営者のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
日本の経営者。1955年鹿児島大学工学部卒業、1959年京都セラミック株式会社(現京セラ)を設立。
また1984年電気通信事業の自由化に即応して、第二電電企画株式会社を設立。2000年には第二電電(DDI)、KDD、IDOの合併によりKDDI株式会社誕生。
2010年からは経営破たんした日本航空(JAL)会長に就任し、経営を再建した。
こんな人におすすめ
人生の指針が欲しい人、一度じっくり人生を”棚卸し”してみたい人、名経営者が持つ「人生哲学」に触れてみたい人
要約・あらすじ
第1章「思いを実現させる」
■何かを実現したければ、その実現へのプロセスを幾度もシミュレーションし、カラー(色付き)でイメージできるようになるまで繰り返すべきだ。そうすれば、成功への道筋があたかも一度通った道であるかのように見えてくる。
■常に思い続けることで、普段なら気にも留めないような情報がヒントになることもある。木からリンゴが落ちるのを見た人は多いが、万有引力と関連付けられたのはニュートンだけだったという例え話と同じである。
■必要な心構えは「発想を限定しないように楽観的に構想」し、「あらゆるリスクを想定して悲観的に計画」し、「思い切って楽観的に実行」することだ。
第2章「原理原則から考える」
■経営も人生もシンプルな「原理原則」に拠るべきだ。例えば「人生・仕事の結果=考え方(-100~100)×熱意(0~100)×能力(0~100)」「一日一日をど真剣に生きる」「知識より体得を重視する」などである。
■物事を為すのは積極性や能動性に富んだ人だ。自らに火を付けられる「自燃性」を身に付けるには、多少無理してもいいから、自分は素晴らしい仕事をしていると思い込み、その仕事を好きになる他ない。
第3章「心を磨き、高める」
■人の上に立つ者には才覚よりも人格が問われる。才覚で得られる功績にはお金で報いればよく、人格の高潔な者こそ高い地位に据えるべきだ。
■単純ではあるが、中国の古典にあるように、「偽(偽り)」「私(私心)」「放(我儘)」「奢(驕り)」という4つの煩いを避け、高潔な人格を形成することこそ、リーダーには求められる。
第4章「利他の心で生きる」
■「利他」は徳の中でも特に重要である。個人レベルではもちろんのこと、日本も経済大国や軍事大国を目指すのではなく、徳治国家を目指すべきだ。それは安全保障にも繋がるはずである。足るを知り、成長から成熟へ、競争から共生へと舵を切るべきである。
■戦前教育の反動で、戦後は「悪いことをしても天が見ている」といったような宗教教育が欠如し、それに伴って道徳・倫理・哲学も忘れ去られた。学校教育では「いかに人間は生きるべきか」や「正しい職業観」も教えていくべきだ。
第5章「宇宙の流れと調和する」
■悪人がたまたま金を稼いだり、善人がたまたま不遇になることはあるが、長い目で見れば、時間の経つうちに修正される。人間は全て、その生き方や言動に見合った境遇に落ち着いていくものだ。
■宇宙には、すべてを進化発展させて善の方向に導こうという力の流れが存在している。生まれてきた時よりも、少しでも魂を美しくして死んでいくことが、宇宙の意志に唯一叶う生き方であり、生きる意味である。
学びのポイント
宇宙の原理原則に従って生きる
宇宙を貫く意志は愛と誠と調和に満ちており、すべてのものに平等に働き、宇宙全体をよい方向に導き、成長発展させようとしている。
人生の生き方や哲学、道徳、倫理を考える際に、「宇宙や天の法則」から入ることが多い。西洋ならこれが「神」になる。
人間なら誰しも合意できる普遍的な要素を提示し、そこから演繹的に身の処し方や心構えなどを説いていくという手法で、稲盛和夫の他にも、数々のリーダーが同じ手法を採用している。
利をあげることが生きる目的ではない。誠実、正義、人の道こそ目指すものである。
法と道(真理)は違う。法は時代によっても解釈によっても形を変える。一方、真理は永遠から出てくるものだ。
中江藤樹
最上の人は宇宙の真理を師とし、二番目の人は立派な人を師とし、三番目の人は経典を師とする。
天が指し示す道理というのは、人為によって左右されるものではないというのが、この天や道についての基本なのである。だから「私」を差し挟んではいけない。
道徳のことは自己の外にあるものを求むるのではない、ただ自己にあるものを見出すのである。(中略)
我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。
西田幾多郎『善の研究』
人間の繁栄は、全て宇宙の秩序に基づいて与えられるものであります。この秩序に従って生きることが大義であります。
松下幸之助「松下幸之助の哲学」
西洋でも同じことが述べられている。
神々のわざは摂理にみちており、運命のわざは自然を離れては存在せず、また摂理に支配される事柄とも織り合わされ、組み合わされずにはいない。
当然ながら、「宇宙や天の法則」があるかどうかは分からない。それを信じるか否かは信教の世界とも言える。
しかしながら、アメリカ的なプラグマティズム(=現実世界で役に立つ考え方こそが真理であるとする)からすれば、「宇宙や天の法則」を信じることによって、充実した人生が送れていると自分自身が思えるのであれば、それが真か偽かはどうでもよく、素直に信じればいいだけということになるだろう。
思いを実現させるには「強く思う」ことが大切
【思いを実現させるためのステップ】
①成し遂げたい目標を設定する。合格ラインは出来るだけ高くしておく。
②実現へのプロセスを頭の中で真剣に幾度も考え、シミュレーションする。
③強烈な願望として、寝ても覚めても四六時中そのことを思い続け、イメージがカラーで見えるようになるまで「②」を繰り返す。
④すると、成功への道筋があたかも一度通った道であるかのように見えてくる。
稲盛哲学の中でも、数多くの人に引用されている手法。スポーツで言えば「イメージトレーニング」がこれに近い。
世界的な自己啓発本である「7つの習慣」では、同じことを「終わりを思い描くことから始める」と説明している。
・目標や成果物といった「出口」をイメージし、そこから逆算して「今、何を為すべきか」「今、何が必要か」を考えることが大切だ。これは人生全体でも、キャリアでも、子育てでも、当てはまる。
・全てのものは「二度作られる」べきだ。まず頭の中で(知的創造)、そして実物として(物的創造)。しっかりとした事前の構想が、効果的・効率的に人をゴールへと導くとともに、自分の人生に自らリーダーシップを発揮することに繋がる。
・事前に構想するには「ミッション・ステートメント(信条・理念の表明)」が不可欠であり、その中心には「原則」が来るべきだ。これにより心は安定し、不動の信念に基づいて。周りに振り回されない主体的な人生を送ることができるようになる。
【原則】
誠実と正直、奉仕と貢献、正義と美徳、謙虚と質素、勤勉と忍耐、人間の尊厳、成長可能性、黄金律(人がして欲しいと思うことをする)
リーダーは才よりも徳
人の上に立つ者には、才覚よりも人格が問われる。
戦後日本は経済成長至上主義を背景に、人格という曖昧なものより、才覚という成果に直結しやすい要素を重視してリーダーを選んできたが、それではいけない。
西郷隆盛も「徳高き者には高き位を、功績多き者には報奨を」と述べているし、明代の思想家呂新吾は著書『呻吟語』の中で「深沈厚重なるは、これ第一等の資質。磊落豪雄なるは、これ第二等の資質。聡明才弁なるは、これ第三等の資質」と説いている。
この三つの資質はそれぞれ順に、人格、勇気、能力とも言い換えられる。(一部要約)
これはそのものずばり、本サイトで繰り返し説いてきている「徳>才」の議論である。ここで西郷隆盛の言葉として紹介されている「徳者には地位を、才者には報酬を」の初出は中国の書経であると言われており、紀元前の頃から存在する考え方である。
そして、多くの思想家が「徳>才」の考え方を説いている。ここではその代表的なものを時代順に列挙しておきたい。
①太宗『貞観政要』
最近の役人は法律に偏重しすぎていて、国がうまく治まらない。役人はもちろん法律や行政のプロでなければならないが、その前に、儒学を修めた有徳の人物でなければならない。
過去の皇帝を見ても、法に任せて統治した者(秦)は、一時的な弊害を救うことができても、滅亡もすぐにやってくる。一方、仁義を根本とした国(周・漢)は長続きした。
②洪自誠『菜根譚』
徳は才の主にして、才は徳の奴(ど)なり
(道徳は才能の主人で、才能は道徳の使用人である)
③サミュエル・スマイルズ『自助論』
知性溢れる人間を尊敬するのは一向に構わない。だが、知性以上の何かがなければ、彼らを信用するのは早計に過ぎる。
イギリスの政治家ジョン・ラッセルはかつてこう語ったことがある。「わが国では、いくら天才に援助を求めることがあっても、結局は人格者の指導に従うのが当然の道とされている」。これは真理を言い得た言葉である。
④勝海舟『氷川清話』
学問にも色々あるが、自分のこれまでの経歴と、古来の実例に照らして、その良し悪しを考えるのが一番の近道だ。
小さな理屈は専門家に聴けば事足りる。俗物は理屈詰めで世の中の事象に対応しようとするからいつも失敗続きなのだ。
理屈以上の「呼吸」、すなわち自分の中にある信念や経験をもとに判断するのが本当の学問というものだ。
今の学生はただ一科だけ修めて、多少の智慧が付くと、それで満足してしまっている。しかし、それではダメだ。
世間の風霜に打たれ、人生の酸味を嘗め、世態の妙を穿ち、人情の機微を究めて、しかる後に経世(世の中を治める)の要務を談ずることができるのだ。
⑤新渡戸稲造『武士道』
武士道は知識のための知識を軽視した。知識は本来、目的ではなく、知恵を得る手段である、とした。(中略)
知的専門家は機械同然とみなされた。知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられた。
⑥昭和の知の巨人、安岡正篤『運命を創る』
人間は「本質的要素」と「付随的要素」から成る。
「本質的要素」とは、これをなくしてしまうと人間が人間でなくなるという要素であり「徳」とか「道徳」という。具体的には、人を愛するとか、人を助けるとか、人に報いるとか、人に尽くすとか、あるいは真面目であるとか、素直であるとか、清潔であるとか、よく努力をする、注意をするといったような人間の本質部分である。
もう一つは「付随的要素」で、大切なものではあるが、少々足りなくとも人間であることに大して変わりないというもので、例えば「知性・知能」や「技能」といったものである。
ことに戦後の学校教育は非常に機械的になり、単なる知識や技術にばかり走っている。近来の学校卒業生には、頭がいいとか、才があるとかという人間はざらにいるが、人間ができているというのはさっぱりいない。
そのために、下っ端で使っている間はいいが、少し部下を持たせなくてはならないようになると、いろいろと障害が出るといった有様だ。これは本質的要素を閑却して、付属的方面にばかり傾いた結果である。
⑦ピーター・ドラッカー『経営者の条件』
知識やスキルも大切だが、成果をあげるエグゼクティブの自己開発とは、真の人格の形成でもある。
⑧S・コヴィー『7つの習慣』
建国から約150年間に書かれた「成功に関する文献」は、誠意、謙虚、誠実、勇気、正義、忍耐、勤勉、質素、節制、黄金律など、人間の内面にある人格的なことを成功の条件に挙げている。私はこれを人格主義と名づけた。
ところが、第一次世界大戦が終わるや人格主義は影をひそめ、成功をテーマにした書籍は、いわば個性主義一色になる。成功は、個性、社会的イメージ、態度・行動、スキル、テクニックなどによって、人間関係を円滑にすることから生まれると考えられるようになった。
刺激と反応の間にスペースを作る
私たちは日々様々な事柄について判断を迫られています。そんなとき瞬間的に判断を下したことは、おおむね本能から(つまり欲望から)出てきた答えです。
したがって相手に返答する前に、最初の判断をいったん保留して、ちょっと待てよとひと呼吸おく。「その思いには、おのれの欲が働いていないか、私心が混じっていないか」と自問することが大切なのです。
そうやって結論を出す前に、「理性のワンクッション」を入れると、欲に基づいた判断ではなく、理性に基づく判断に近づくことができます。
これも前述の「7つの習慣」では1つ目の「主体的であれ」という習慣でこう説かれる。
・人間は「自覚」「想像」「良心」「意志」により、自らの価値観に基づいて、刺激と反応の間にスペースを作ることが可能である。これこそが「主体的反応」である。
・外部からの刺激に即反応するのは動物のすることである。そのような「刺激反応機関」に成り下がってはいけない。
あれだけこだわったり怒りに満ちた事案も、一晩寝ると冷静に考えられるといったことはよくある。私心に捕らわれていないか、何が最適解なのかを冷静に考えるための「ワンクッション」。頭では分かっているが、なかなか実践できないことの一つであろう。
徳という崇高な精神を土台にした国づくりを
日本がめざすべきは、経済大国でも軍事大国でもなく、徳という人間の崇高な精徳に基づいた国づくりではないでしょうか。
そういう国家になったとき、日本は国際社会からほんとうに必要とされ、尊敬される国となるはずです。また、そういう国を侵略しようとする輩もいないでしょう。そういう意味では、最善の安全保障政策でもあるはずです。
私たちは成長から成熟へ、競争から共生へという、現在はやや画餅に近いスローガンを現実のものにし、調和の道を歩き出せるはずです。
さらにそのとき、利他という徳を動機にした新しい文明が生まれてくるかもしれません。
つまり、もっと楽をしたい、もっとおいしいものを食べたい、もっと儲けたいという人間の欲望がいまの文明を築き上げる動機になっていますが、新しい時代においては、もっと相手をよくしてあげたい、もっと他人を幸せにしてあげたいという、思いやりや「愛」をベースにした利他の文明が花開くかもしれないのです。
これは当然ながらに理想論である。日本がいかに徳に満ちたとしても、恐らく北朝鮮はミサイル開発を止めないだろうし、中国は尖閣諸島近辺での領海侵犯を繰り返すだろう。すると、稲盛の言い分は「憲法9条があれば戦争は起きない」と主張する人々とあまり変わらないことになる。
しかし、人類を人類足らしめている叡智の行きつく先として、理想郷を思い描くことは意味のあることではなかろうか。その「理想郷」のことを、西洋・東洋の思想家はこう表現している。
西洋では、人類を「信じる」という信念は、宗教の分野ではユダヤ=キリスト教にあらわれているし、世俗的には、過去150年間の人道主義的な政治・社会思想にあらわれている。
すなわち、人間には可能性があるので、適当な条件さえあたえられれば、平等・正義・愛という原理にもとづいた社会秩序をうちたてることができる、という理念である。
世界の人民は礼を空気として、徳の海に浴している。これが「文明の太平」である。今から数千年後には、このような状態になるだろうか。私には分からない。
なお、中国古代の孟子は、徳と仁による政治を「王道」、武力と利による政治を「覇道」と定義している。
幸福度のバラつきは、その人の徳の高さに収斂されていく
長い目で見れば、誠実で善行を惜しまない人物がいつまでも不遇にとどまることはないし、怠け者でいい加減な生き方をしている人がずっと栄えていることもありません。
確かに、何か悪い行いをした人がまぐれや勢いでうまくいったり、善きことに努めた人が一時的な不運に見舞われて低迷したりすることもありますが、それも時間がたつうちにだんだんと修正されて、やがてみんながそれぞれの言動や生き方にふさわしい結果を得、その「人間」に見合った境遇に落ち着いていくものです。
例えうまくいかない時期があっても、或いは周囲がうまくいっているように見えても、自分の信念に健全な誇りを持ち続けることが大切。
この「時間が真実を明らかにする」という考え方は、挫けそうになった時に、とてつもない威力を発揮する考え方ではないだろうか。
麻雀というゲームは運に左右されることも多く、アマがプロに勝つこともそれなりにある。しかし、10戦、20戦、30戦と重ねていけば、運の要素は平準化され、必ず実力差が現れる。それと同様であろう。
真我を信じ、本能を制御する「生き方」
私は、人間の心は多重構造をしていて、同心円状にいくつかの層をなしているものと考えています。外側から以下のとおりです。
①知性 後天的に身につけた知識や論理
②感性 五感や感情などの精神作用をつかさどる心
③本能 肉体を維持するための欲望など
④魂 真我が現世での経験や業をまとったもの
⑤真我 心の中心にあって核をなすもの。真・善・美に満ちている
真我は愛と誠と調和に満ち、真・善・美を兼ね備えている。人間は真・善・美にあこがれずにはいられない存在ですが、それは、心のまん中にその真・善・美そのものを備えた、素晴らしい真我があるからにほかなりません。
しかし、普通の人間はそこまで届くことはできません。では、どうすればいいのか。私は、理性と良心を使って感性や本能を抑え、それらをコントロールしていこうと努めることが大切だと考えています。
趣旨要約
絵にするとこうなる。
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人間は①知性②感性を身に付けず、④魂⑤真我に気付かず、③本能のみの状態で生を受ける。その後、家庭生活や学校教育で①知性②感性を身に付け、自省することで④魂⑤真我に気付いていく。
①~④は普通に社会生活を送っていれば会得できるものであるし、定量化できたり(IQ・偏差値・知識量・学歴等)言動に現れたりするので評価されやすい。
しかし⑤真我は、自分でも気が付かないし、そこまで到達することは難しい。そこで稲盛哲学は、⑤真我を信じながらも、①知性・理性で、②感性や③本能を適切に制御せよ、と説く。
やや宗教に近い信条の世界ではあるが、人間と世界を理解する一つの優れた切り口ではないだろうか。
人事部長のつぶやき
仕事を楽しむには
何かを実現するのに必要な心構えは「発想を限定しないように楽観的に構想し、あらゆるリスクを想定して悲観的に計画し、思い切って楽観的に実行する」ことだ。
稲盛氏も書いているが、高学歴でソツのないタイプの人間は「楽観的に構想」することは不得手で、「悲観的に計画」することの方が得意であるという。一般的に大企業であればそのような人材の方が多いのではないか。
一方、仕事を楽しめそうなのは「面白そうだからやってみましょうよ!」と楽観的に構想できるタイプの社員だろう。みなさんは、上司から「こういうことをやってみたいと思う」と言われたとき、どういう反応を示すだろうか。「実務的に難しい」などと、やれない、やりたくない理由から入っていないだろうか。
無意識のうちに「仕事を増やしたくない」という防衛本能が働くケースもありますね!