【人事部長の教養100冊】
「幸福論」ラッセル

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幸福論(表紙)

「幸福論」ラッセル

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基本情報

初版   1930年
出版社  角川書店
難易度  ★★★★☆
オススメ度★★★☆☆
ページ数 384ページ
所要時間 3時間30分

どんな本?

ヒルティ『幸福論』、アラン『幸福論』、と並ぶ、いわゆる「3大幸福論」の一つ。第一部で回避すべき「不幸の源泉」を、第二部で追うべき「幸福の源泉」を説明する、三大幸福論の中で、最も論理的な作品。

どのような不幸をどのように回避し、どのような幸福をどのように追えばよいかを「心」ではなく「頭」で理解できる。ノーベル文学賞も受賞した作者が送る、21世紀の英知の代表例とも言える一冊。

著者が伝えたいこと

幸福は、ごく少数の例外を除き、熟した果物のように、自然と口の中に落ちてくるものではない。人は自発的かつ主体的に不幸を「回避」し、幸福を「獲得」しなければならない。

この世の不幸を産み出す源泉は「悲観主義」「競争」「過度の刺激」「精神的疲労」「嫉妬」「罪悪感」「過度な自意識」そして「世間からの評価」である。

特に仕事は大切である。熱意を持って社会に役立つ仕事をし、それに健全な誇りを持つことが、幸福の直接の源泉となる。その熱意は、自分の能力と仕事への自信から生まれるし、その自信は周囲に与え、そして与えられる愛情から生まれる。

幸せになるために避けるべき最大のものは過度な自意識だ。私たちは自分たちの仕事の意義を過大評価し、自分自身の存在意義も過大評価し、不当に興奮し、不当に緊張している。いいことなど一つもない。そのような人は、宇宙全体の中に自分を位置付けるような「均衡の感覚」を養うべきだ。

著者

バートランド・ラッセル
Bertrand Russell
1872-1970

ラッセル

ウェールズ生まれの英国貴族。イギリスの首相を2度務めたジョン・ラッセルは祖父にあたる。哲学者、数学者、論理学者であり、政治活動家でもある。

ケンブリッジ大学卒業後に同大学で教鞭をとるが、平和運動に傾倒しすぎてクビになる。社会主義運動にシンパシーを感じていたが、共産主義には批判的であった。

1950年に「人道的理想や思想の自由を尊重する、彼の多様で顕著な著作群を表彰して」ノーベル文学賞を受賞する。1955年にはラッセル=アインシュタイン宣言で核兵器廃絶を訴えた。生涯4回結婚し、3回離婚した。

こんな人におすすめ

幸福になるためには、何を回避し、何を獲得しなければならないかを、論理的に理解したい人。

書評

第一部では「何が不幸をもたらすのか」を要素分解して解説し、第二部では「幸福を感じるにはどうすべきか」という具体論を展開する。構成としては非常に美しく、分かりやすい。

ラッセルの頭が良すぎるのか、たまに回りくどく、読みにくい箇所には出くわすが、いわゆる「三大幸福論(ラッセル・アラン・ヒルティ)」の中では、最も論理的に書かれていて、最も趣旨を理解しやすい。

なお、ラッセル自身は幼少期に厳しいピューリタン教育を受けたが、高度な宗教的議論は見られない。

女性による育児と仕事の両立や出生率の議論、そして資本主義下における仕事の意義等、発刊から90年が経つとは思えないほど現代にも通ずるテーマも並んでおり、ラッセルには時代を見通す大局観があったことがよく分かる。

とにかく「頭の良い人の書いたもの」という印象。その深い洞察力と時代の先を読む大局観には脱帽。少なくとも私が読んだ中では最も「知性」を感じた書物の一つ。

バートランド・ラッセル
(角川ソフィア文庫)

※「世界三大幸福論」の一つ!

要約・あらすじ

(1)不幸はどこから来るか

権力と虚栄心を追い、自分自身のことしか考えない人間は不幸である。自分の外界に興味・関心を向けることが幸福への第一歩である。

■賢明な人は、事情が許す限り、幸福であろうとする。理性は幸福を求める。例えば恋愛は歓喜の源泉であり、その欠如は苦痛の源泉である。理性によって厭世的になってはいけない。それはペシミストが勝手に作り出した世界観だ。

■仕事における成功や財産は、幸福の一つの要素にはなり得る。しかし、他の要素が犠牲になってしまっては、成功も財産も大した価値を持たない。残念だが、特に現代のアメリカ人たちは、金銭的成功こそ唯一の重大な事柄だと思い込んでいる。

■ギャンブル、愛のない恋愛、酒、喧嘩などは人間が退屈しのぎに追い求めたもので、幸せには繋がらない。刺激を追ってもキリがない。力を溜める静的な秋や冬があるから、力が漲る動的な春や夏がある。

■身体の疲労は心地よいが、神経の疲労は避けるべきだ。例えば、金持ちは破産しないように常に心配し、労働者はクビにならないか常に心配している。心配しているヒマがあるならば、それを直視し、具体的に何をなすべきかを考えるべきだ。恐怖や心配は、それを見つめないから、よりひどくなる。

■人間性のあらゆる特質の中で、嫉妬は最も不幸なものである。人は自分の持っているものから楽しみを取り出す代わりに、他人の持っているものから苦しみを取り出す。嫉妬にはキリがない。

■人間が幼少期に教え込まれる根拠のない「道徳観」も、幸せを妨げる要素の一つである。生殖に関することは下品だ、酒は身を亡ぼす、汚い言葉を使ってはいけないなどなど、大人になってからもこういった規範が尾を引き、結果的に罪悪感を惹起することになる。

■上から目線(=価値観の押し付け)、自己愛、自信過剰、客観的な自己分析の欠如などは「自分はこれしきの人間なのに、周囲がそれを認めない」という不幸を生む。

■生き方や考え方が、周囲の人々によって賛成されるのでなければ、その人は幸福にはなれない。環境が合わないなら、環境を変えればいい。全員が周囲を気にして同じ行動をとるのはつまらない。人は自然であるべきであり、一人一人の個性が自由に発揮されるべきた。

(2)幸福はどこから来るか

■自分の能力を精一杯使う熱意があり、かつ社会に役立つ活動を持つ人は、幸福である。また、外界に対する興味・関心が強く、それらに敵対的ではなく友諠的な態度を取る人ほど、多くの経験や知識を得ることで幸せを感じられるし、つまらぬ些事に心を煩わされることがなくなる。

■幸福は愛情からもたらされる。愛情が自信を生み、自信が安心感を生み、安心感が熱意を生むからだ。しかし、愛情は与えるだけでも与えられるだけでもいけない。

■家庭は幸福の源泉である。牧師は神の御心の立場から、国家は経済成長の立場から、子を生すことを奨めるだろうが、親となることは本質的に両親の幸福に寄与するものである。一つは自分の命を外形化して次の世代につなげられること、もう一つは子供の人格に対する尊敬と成長の喜びである。

■仕事も幸福を語る上では重要である。仕事を興味深くさせる主な要素は「熟練」と「建設」だ。「熟練」とは、仕事の技能を上げていくことである。もうこれ以上、自分自身を進歩させられない、という域に達しない限り、人は仕事を通じて成長を実感できる。そして「建設」とは、社会に役立つ仕事をし、それに誇りを持つということである。自分自身の仕事を恥ずかしいと思っているような人は、決して自尊心を持つことができない。

■仕事と直接関係のない趣味を持つことも大切だ。職業的な利害や責任から離れた趣味は、緊張からの解放につながる。その趣味には意志や迅速な決断を含んではいけない。それらは仕事に使うべきものであって、趣味で使うと精神的疲労を招くからだ。仕事・家庭・友人関係等でうまくいかないことがあっても、趣味という領域を確保しておくことで、抵抗力を増すことができる。

学びのポイント

休符も音楽

多少とも単調な生活に耐えうるという能力こそ、幼年時代に獲得されるべきだ。今日の親は、彼らにショーだの美味しい食事など、受動的な楽しみを多く与え過ぎている。

子供は、自らの努力と発案によって、その環境において自主的に快楽を取り出すことができるはずだ。刺激を与え続けるのは、麻薬を投与し続けるのと一緒で、キリがない。

刺激はあるが人工的なものではなく、刺激はないが自然と触れて季節を感じるような余裕がないと、本当に刺激的なものを味わうことができない。

1930年当時ですらラッセルの言う状況であったのに、現代ではテレビやスマホが登場してしまった。小さい子供がスマホをいじってYouTubeにかじりついている姿を見ると、果たしてこれでいいのかと心配になる。

私も含めて、今の親世代は、自分自身がテレビやゲームにかじりつていた経験があるので、それほど気にしているようにも見えない。しかも、YouTubeを見せておけば、子供は静かにしていてくれる。

専門家によれば、科学的根拠はまだ定まっていないものの、

・スマホの連続視聴は脳や視覚の発達に影響が出る可能性がある

・以前、テレビを長時間見る子供は言葉数が少ないという研究があったが、家族との会話があれば必ずしもそうでもない。スマホを30分とか1時間見せる分にはいいが、生身の人間との接点は必要

・健全な心身の成長のためには、スマホだけではなく、運動や読書などをバランスよく組み合わせることが大切

・親がスマホ依存していると、子供も真似するようになる

といった意見があり、どれももっともに思える。特に「親のスマホ依存」は、子供にも影響を与えているのではないか。

壮大な交響曲も、休符も含めて音楽として成り立っている。ラッセルは、音楽(=幸せ)を感じるためには音符(=刺激)だけではダメで、休符(=余裕)も大切だということを言っている。

ピンチの際は現実を直視し、一歩踏み込む

男たちは仕事の心配事を寝床まで持ち込む。本来であれば翌日の問題に取り組むために新鮮な力を獲得しなければならないのに、不眠症患者のようにあれこれ考える。ただし、心配するだけで、具体的に「こうしよう!」とは考えない。

賢明な人間は、考えることに目的がある場合にのみ、どう具体的に行動するかを考える。いかなる種類の心配も、全てそれを見つめないことによって、よりひどくなるものである。

これは耳が痛い。確かに、仕事のことが「心配」で、あれこれ考えてしまうという人は多いのではないだろうか。私もそのうちの一人である。

「心配事に対して具体的にどう対応するか」という悩みなら良い。最も悪いのは、単に心配だけして自分を追いつめてしまうことだ。

ピンチや危機管理の要諦は「恐れずに、一歩踏み込む」ことだとよく言われる。情報があやふやだったり、リスクがはっきりしないから心配なのだ。現実を直視して、できることをやっていれば、精神的にも落ち着いてくるはずである。

事実、江戸初期の剣術家、宮本武蔵はこのような言葉を残している(※読み人知らずという説もあり)

宮本武蔵
巌流島の宮本武蔵像(右)

切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 踏みこみ見れば後は極楽

※注)刀同士が打ち合う場面は地獄だが、そこで一歩前に出れば楽に相手に勝てる。その一歩踏み込むことが大切だ、という意味。

また、勝海舟は宮本武蔵の言葉を引用して、リスクマネジメントの要諦を簡潔に述べている。

勝海舟
勝海舟

昔の剣客の言葉に「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 踏み込み行けば後は極楽」というものがある。

人間には余裕が必要だ。小さいことを心配し、怖気づいてしまっては、大きな仕事はできない。目の前の困難を大きく見過ぎなのだ。

本来であれば、その困難を飲み込むくらいでなければいけないが、多くの人は困難に飲み込まれてしまっている。

洋の東西は違えど、宮本武蔵も勝海舟も本書も、言わんとしていることは皆同じと言える。

「自分・自分・自分」をどう制御するか

私たちは、私たちが自分に対して抱いているような優しい愛情と深い尊敬を誰もが私たちに対して抱いてくれることを期待している。しかし、世の中そんなことはない、ということに、私たちは気が付かない。

自分のことは常によく見ているが、他人のことは自分ほどよく見ていないのだから、これは当たり前なのだ。

人間というものは、元来が自意識過剰である。端的に、人は自分が思っているほど自分に興味がない、というのは普遍的な真理であるように思う。

「自分」に対する執着をどれだけ捨てられるかは、幸福を語るうえで避けて通れない。褒められたい、尊敬されたい、出世したい、楽したい、贅沢したい、愛されたい、、、

しかし、周囲や相手をコントロールすることはできない。思い通りにならないので、どんどんフラストレーションが溜まっていく。

自分自身の中に「承認欲求」「利己主義」「自堕落」等があることを正直に認めた上で、それらを自分自身で制御するという態度が正しいのではないだろうか。心の中まで本当に無私無欲、清廉潔白な人間など、いるはずがないのだ。

賢人は感情を浪費しない

愚者は汽車に乗り損なえば腹を立てるし、昼飯がまずければ不機嫌になり、煙突が煙ければ絶望に打ち沈む。こうした人たちが些細なトラブルに消耗するエネルギーは相当なものだ。

一方、賢者はこうした問題を「感情抜きで」処理する。怒ったり不機嫌になることは、何の目的にも役立たない感情である。

朝早く汽車に乗ろうと急いで歩いていたその時に靴ひもが切れたとしても、賢者は「宇宙の歴史から見れば、まるで取るに足りない」と考え、不機嫌にならない。その代わり、冷静に、靴ひもの代替品について思いを馳せるのだ。

これはアランの「幸福論」でも同種の主張がなされている。趣旨を要約するとこうだ。

自分が不幸であることに不機嫌になってはいけない。不幸なだけでも十分なのに、不機嫌になることはそれに輪をかけて二重に不幸になる。

そして人の不機嫌は周囲に伝播する。私たちは他人の不幸に耐えるに足る力を持っていない。二次災害である不機嫌は高度に制御すべきである。

二人の考え方を合わせると、「何か不都合なことが起きた際、それに対して不機嫌になっても腹を立てても何の意味もない。冷静にその不都合の原因を洞察し、必要な手を打つことが大切だ。しかも不機嫌は自分を不幸にするだけではなく、周囲の人も不幸にする」ということになる。

これは仕事をしていると痛感する。たまに偉い人に「午前中は不機嫌」というような人がいるが、正直、その人の機嫌など部下には無関係だし、自らの機嫌を制御できていないような人を枢要なポストに就けてはいけない。特にストレスの多い現代人には耳の痛い箴言である。

人事部長のつぶやき

「仕事に対するプライド」が裏目に出ることも

神経的疾患の最たるものは「自分の仕事が恐ろしく大切なものであり、したがって休みを取れば、それが非常な災厄をもたらすだろうと考える信念」である。

これまた耳が痛い、、、この「神経的疾患」は、日本人の国民病ではないでしょうか。事実、日本の有給休暇消化率は先進国の中では低いです。

有給取得率

ある年の台風でも、JRが「朝8時から列車運行を再開する」とアナウンスしたら、なんと駅には長蛇の列。そこまでして、みんな会社に行きたいのかと愕然したし、Twitterでは「社畜の参勤交代」という揶揄が。。。

津田沼駅
ニュースのキャプチャ

もっとも、朝8時再開と言われれば「それなら会社に行けてしまうなあ・・・」と、みんな考えてしまったはず。正直なところJRも全くセンスがない。

「1分でも早く運転再開することが社会的使命だ!」という志は立派ですが

こういう時に、平然と休めるかどうか。自分のやっている仕事など、1日や2日休んだところで全社会から見ればほとんど影響ない、自分の評価が下がるわけでもないと割り切れるかどうかが分かれ目になります。ラッセルはこんなことも言っていますね。

どんなに悪くとも、一人の人間に起こる事柄が宇宙的な意義を持つことなどあり得ない。

諸君は自身に「結局のところ、目の前の問題や仕事はそれほど大したものではないのでは」と理性で言い聞かせることができる。心配や恐怖は疲労をもたらし、人々を幸せから遠ざける。

環境が合わないなら、環境を変えればいい

特に若者は、彼らが生きている環境こそ、全世界の唯一の環境であると考えがちだ。

それゆえ、仮に現在の環境で息苦しくても、環境を変えれば、容易に自分が受け入れられる可能性があるということを信じることができない。

このような世界についての無知のため、若者は不必要な不幸を感じている。

これは特に子供や入社2~3年目のビジネスパーソンによく当てはまるのではないでしょうか。

この国では武士道の時代から「忍耐」が尊ばれてきました。少しくらいのことで音を上げてはいけないし、同じ会社に一生勤めることが良いとされてきたわけです。

でも、もうそんな時代じゃありません!自分の言動を深く顧みて、変わるべきところは変わるべき。ただ、ラッセルの言うとおり、環境が合わないなら、その環境を変えてしまえばいいのです。自分が今、身を置いている環境は唯一のものではなく、他にもっと自分に合った場所があるかもしれません。

子ども達の「いじめ」が典型です。周囲の環境によって、いじめる側といじめられる側は容易に変化します。しかし子供たちは、今いる環境を自分の力で変えられるなどとは思わないし、思えない。そこは大人の出番。

しかも最近ではSNSが発達していて、必ずしも半径5m以内に気の合う友達がいる必要はありません。私自身も中学校の頃、若干頭でっかちだったこともあって、周囲から浮いた存在でした。それでも、塾や習い事と言った、学校以外の場で話しかけてくれる友人が数名はいたものです。

今はこれにSNSが加わりました。一部の出会い系サイトなど、気を付けなければならない点は多くありますが、子供にとっての「居場所」が一つ増えたという意味では、よい世の中になったと思います。

ちなみにTVでお馴染みの林修先生は、以前「初耳学」という番組で、PRESIDENT Onlineの「小中学校の友人なんてクソみたいなもの」を引用して、人間関係に悩む子供たちに前向きなメッセージを発していました。

そして、日本の労働市場はどんどん流動化し、転職も珍しくない世の中になってきています。これは雇う側にとっても、雇われる側にとっても、ミスマッチが減るという観点では良いことではないでしょうか。

ラッセルのこの洞察は、現在の悩める日本人に広く知れ渡ってほしいです!!

女性の生き方と企業の在り方

女性にも職業の門戸が開かれている今、女性は経済的に裕福に生きるか、或いは結婚して子供を産むかの自由を持っている。しかし後者を選ぶ場合には、仕事を捨てなければならない。

そして家計を夫の収入に頼ることになる。夫の収入も、自分が以前稼いでいた収入と対して変わらない。これまでは独身女性一人を養っていればよかったところ、夫の収入だけで家族全体を養うことになり、生活は苦しくなる。これでは、女性は母親になることを躊躇うことになる。

ラッセルは1930年に、現代にもつながる大問題を指摘していました。唯一、良い方向に変化していると言えば、育児休職制度が充実し、女性は子供を産んでも「仕事を捨てる必要」がなくなったことです。

人事の仕事に携わっていると、子育てをしながら仕事も持つ女性を支援する制度が、まだまだ不足していると感じます。そもそも育休明けの社員は、以下のような3つの力を身に付けて復職してきてくれることが多いです。

1.少ない時間を効率的に使う能力
→そもそも母親はめちゃくちゃ忙しい

2.複数のタスクをバランスよくこなしていく能力
→家事や育児を同時にこなす中で養われる

3.周囲の人を意のままに動かす人的マネジメント能力

→配偶者を顎で使う経験を経て高度に養われている(?)

育児の経験によって、仕事にも通じる能力が身に付くというわけですね。企業としては、育児を理由に会社を辞められてしまうくらいなら、是非とも復職してきてほしいわけです。

しかし、育児休職からの復職となると、会社側にも相当なコスト(負担)がかかります。まず、1人の社員が休職に入るということは、代替となる新しい人を確保しなければならないということです。

しかも、育休からの復職タイミングは事前には分かりません。希望の保育園に入れるかどうかや、配偶者の仕事の状況等によって変化するのです。

誰かが休職に入るタイミングで、首尾よく復職する社員がいればいいですが、そうとも限りませんし、仮にタイミングが一致したとしても、休職で空いたポストの仕事を、復職者がこなせるとも限りません。

(往々にして、育休からの復職者は「休職前にやっていた仕事が良い」という希望を持っていますし、厚労省指針でもそのように明記されています)。

原則として原職又は原職相当職に復帰させることが多く行われているものであることに配慮すること(厚労省:事業主が講ずべき措置に関する指針)

しかも復職者は時短勤務だったり、子供の発熱などで突発休を取ることもしばしばです。もちろん社会通念上許されるべきですし、周囲も快くサポートするべきですが、競争環境の中で事業を運営している側としては、手放しにウェルカムな状況でもありません。

ではこの「コスト」をどう解消するか。私は「労働市場の流動化」が唯一の切り札だと考えています。

企業側の雇用調整が難しいから、現在のような状況を生んでいるわけです。よって、求職者が出ても、簡単にそのポストを埋められる環境、そして復職者が出た際には柔軟に社員数を調整できる環境を作ればよい、ということになります。

まず企業は新卒一括採用主義を辞め、柔軟に中途採用も活用します。そしてその前提条件は、(ハレーションを恐れずに言えば)会社の期待する能力や働きに満たない人を、アメリカと同じように、通常解雇できるようにすることです。

そして人手不足を補うために、職業移民(介護等のGDPを生まない分野及びITなどの専門分野)に門戸を開放することです。

解雇の容易化については、「解雇された人しか労働市場に出ないではないか」という懸念はもっともですが、新卒で入った会社がその人にとってのベストプレイスとは限りません。もっと活躍できる場所があるかもしれないわけです。

まさにラッセルが言う「環境が合わないなら、環境を変えればよい」という発想ですね。

労働市場がより流動化すれば、企業はより自分たちの業務に合った人を採用できますし、被雇用者も、より自分に合った仕事を得られる可能性が高まります。

つまり、「女性による仕事と育児の両立」という問題において、現在、女性と企業が負っている負担の一部を、男女の一般社員が「雇用調整リスク」として背負うという発想です。

ここまでやらないと、この問題は解決しないと思います。

日本も「移民」について真剣に考えなければならない

先進国の出生率は下がっている。一般的に、最も文明化した人間は最も不妊であり、文明の最も未発達なものは最も妊娠力が高い。近い将来、文明の低い地方からの移民を受け入れない限り、西ヨーロッパの人口は減り続けるだろう。

そしてこの移民が入り込んだ国の文明を身に付けるや否や、今度は彼女らが相対的に不妊になっていくだろう。ある文明は、親になりたいという欲求が非常に強く、よって人口の減少を防ぐだけの力を持っている別の文明に席を譲るよりほかなくなる。

言い方はかなり乱暴ですが、1930年発刊の本書において、ラッセルは本質的な点を喝破していると言えるでしょう。昨今、フランスやドイツで出生率を押し上げている主要因の一つは移民の存在です。

先ほど述べた通り、「職業移民」の受け入れは、日本人女性の出生率向上に資するほか、移民自身も子を生すことで、日本全体の少子化の歯止めになると思われます。

しかし「どこから移民を受け入れるか」は大きな課題です。これまで私たちの先達が大きな犠牲を払ってこの国を守り、インフラを整備してきました。その財産は日本人自身が引き継がねばならないですし、他の誰かに「席を譲る」ような事態にしてはいけません。

その意味では、何か特定の勢力を育ててはならず、価値観・宗教・エスニシティにおいて多様性を持たせることが肝要ではないでしょうか。現実的にはフィリピン・インドネシア・インドといった環太平洋諸国から幅広く受け入れるのが妥当と思われます。

女性の趣味とは?

男女の趣味には相違がある。女性は、彼女たちにとって何らの実際的意味を持っていない何かあることに興味を持つ、ということが非常に難しい。

彼女たちの思想や行動を支配しているものは、彼女たちの目的であり、したがって、何か全然自分に関係のない興味のなかに浸りきることができないのである。もちろんこれには例外もあるだろうが。

ラッセルは、現代のジェンダー論的にはNGと思われるようなことをズバズバ言っています。

もちろん例外は多いでしょうが、直感的には分からなくもないですね。例えば男性は自分にとって何の役にも立たないのに、純粋に飛行機や鉄道を趣味とする人がいるし、大して綺麗でもない昆虫を集めたり、何かアニメのカードを集めたりします。

一方、女性の趣味は何がしか、自分に関係するものが多い気がします。例えばヨガやピラティス(美容のため)、スイーツ巡り(美味しいものを食べるという実利)、映画(心を動かす)などなど。

もちろん、例外や個体差があることは付記しておきます。。。

その他のラッセルの名言

諸君が諸君自身に対して関心を持っているのと同じように、他人が諸君のことにそれほど関心を持ってくれるなどと決して期待するな。

「学びのポイント」で取り上げた内容と同義ではありますが、全くもってその通り!と思える箴言なので、再掲します。

全体的に見て、女性は男性をその性格のゆえに愛するのに反し、男性は女性をその容貌ゆえに愛する傾向が多い。

この点で、男性は女性に劣っていると言わざるを得ない。

なかなか痛烈。。。あるアンケートによると、結婚相手に求める条件で最も高かったのは、男性が女性に求めるものでは「年齢」、女性が男性に求めるものでは「年収」だったそうです。その意味では、どっちもどっちという気もしますが・・・

あえて分析するなら、男性は子供に存在を与えることに、女性はその子供を育てることに力点を置いているということでしょうか。

理由はよく分かりません!

仕事には良い点が2つある。まず第一に何よりも、仕事は退屈の予防策として望ましいものだ。もう一つは、仕事は成功のチャンスと野心のための機会を与えてくれるということだ。社会に役立つ仕事を継続的に行うことは、仕事のモチベーションになる。

一方、日々の生活で家事に追われている主婦は不幸だし、自分自身を向上させるいかなる手段も持っていない。

確かに主婦は賃金をもらいませんが、やりがいがないと即断することは誤りではないでしょうか。

ラッセルの言説には頷かされることが多いものの、さすがにこのあたりは1930年発刊という時代を感じざるを得ません。

バートランド・ラッセル
(角川ソフィア文庫)

※「世界三大幸福論」の一つ!