「ニコマコス倫理学」
アリストテレス
基本情報
初版 紀元前3世紀頃
出版社 光文社古典新訳文庫等
難易度 ★★★☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 1069ページ
所要時間 12時間00分
どんな本?
万学の祖アリストテレスが「善く生きるためには何をすべきか」を突き詰めた実学の書。歴史上初めて「倫理学」を体系化した書としても知られる。プラトンのイデア論(観念論)やエロス論(完全への渇望)に対するアンチテーゼでもある。
本書で示される「徳は科学ではないので定量化できないが、両極端の間のどこかに存在する」という「中庸」の考え方は、東洋の釈迦や孔子も言及していることで有名。2500年の歴史を乗り越えて受け継がれてきた普遍的かつ不変的な人生の要諦であり、基礎的教養の一つとして学んでおくべき。
著者が伝えたいこと
「人はどう生きるべきか」という幸福・道徳・倫理に関わる分野は(数学や天文学と異なり)何らかの法則が普遍的に当てはまるということはなく、「大抵において成り立つ」くらいの程度で理解した方がよい。明確なイデア(理想)など存在しない。
それ故、理論研究には意味が無い。自らの努力によって得た「徳(人格)」を実践し、「最高善」を目指すことこそが、人生の究極の目的である「幸福」をもたらす。
幸福が究極の目的である理由は、私たちが幸福を望むのは幸福それ自体のためであって、決して他のためではないからである。人間の幸福は、快楽・財産・名誉からはもたらされない。何故ならそれらは単に幸福を得るための手段であって、目的ではないからだ。
最高善を目指すには、徳を実践できる行動習慣が必要である。あまりに若い人や、歳をとっていても自己抑制のきかない未熟者には、私の倫理学講義は役に立たない。
そしてこの倫理学講義を修了した者たちのみに、敢えて言おう。徳の実践は、いずれも感情と身体に結び付いているという点において、我々に内在するものうち最善である知性に基づいた「観想」には劣る。神の領域であり哲学者の仕事である「観想」こそが、それ自体を目的とする完全な幸福なのである。
著者
アリストテレス
Aristotle
BC384 – BC322
古代ギリシャの哲学者。プラトンの弟子。ソクラテス、プラトン、アリストテレスの3名はギリシャ三大哲学者と呼ばれる。
知的探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、論理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる。
マケドニアのアレクサンダー大王を教育したことや、アテネ郊外にリュケイオン(フランス語で高校を意味するリセの語源)と呼ばれる学校を設立したことで知られる。
プラトンが「イデア論(実在や本質は観念の中にある)」を観念論として説いたのに対し、アリストテレスはあくまで科学的態度を取り、現実の中から実在や本質を発見しようとした。
こんな人におすすめ
人間の幸せや生きる意味について考えたい人、ギリシャの哲学やアリストテレスに関心のある人、倫理学を学びたい人
書評
本書はアリストテレスが自身のために綴った講義ノートであり、全体として一貫性や体系を持っているわけではない。
よって、人間の持つ様々な気質・性格について、行ったり来たりしながら、様々な角度から、エッセイのように分析が続く。よく読まないと文意を見失うことも多い。
ただし、内容自体は分かりやすく、一章一章が短いので、(一般的な哲学書にありがちな)途中で挫折するということはないだろう。
決してドキドキワクワクする本ではないが、2500年前から、人間の気質や性格に対する考え方はそれほど変わっておらず、普遍的なものであることを再確認できる良書といえる。
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(光文社古典新訳文庫)
※倫理学の古典最高峰!エッセイのようなので挫折せず読める
要約・あらすじ
全体構成
1.幸福とは何か
・あらゆる人間は最高善を追求しているが、最高善は快楽・財産・名誉といった外的刺激ではなく、自己充足感にこそ存在する。
2.倫理的な徳と知性的な徳とは何か
・自己充足感を得るために必要な徳には2種類ある。
①倫理的な徳(理性により制御すべき対象。実践と習慣によって後天的に身に付く。どれも中庸が大切)
勇気、節制、財産、名誉、怒り、交際、正義
②知性的な徳(理性そのもの。知恵や物わかりや思慮深さ)
学問、技術、実践、直観、哲学
・「倫理的な徳」を実践するには、中庸を選択するための知性が必要であり、それが「知性的な徳」である。
3.友愛とは何か
・善は人間関係の中で実践されるものであり、友人及び友愛は人間にとって必要な要素である。自分自身を愛するように、友人を愛さなくてはいけない。
4.快楽とは何か
・快楽とは善を為すことに付随する二次的な要素である。快楽は人間の活動を助けるものであるから、極端な禁欲主義は間違えている。
5.もう一度、幸福とは何か
・とはいえ、人間の最高の幸福は、徳の実践よりも、理論的学問活動(観想)の中にある。
※アリストテレスはこれまで「徳の実践が一番の幸福」と説いてきたが、ここで手のひらを反して「徳の実践よりも『観想』こそが最高善」と主張する。これには古来から様々な解釈がある。
第1巻 幸福とは何か
■個人でも国家でも「最高善」を目指すことが幸福につながる。ただし「善いこと」は「正しいこと」や「美しいこと」と同じく、解釈に幅と揺らぎがあるので、善の追求方法は「おおよそ、そういうことか」という態度で理解すべきである。
■「最高善」とは「それ自体が目的となること」と定義される。快楽や健康や名誉や財産は、善を為すための単なる手段であるから、当然ながら最高善にはなり得ないし、徳自身も持っているだけでは何の役にも立たないので最高善ではない。
■「人生全体にわたって、完全な徳に基づいて活動しており、かつ外的な善を十分に与えられてきた人」こそが最高善であり幸福である。その意味では、動物も子供も幸福ではない。徳を実践できないからである。
第2巻 倫理的な徳とは何か①
■倫理的な徳は先天的に備わっているものではなく、積極的に正義や節制や勇気を実践することで、習慣として身に付く。徳は感情でも能力でもなく、善への意志を含めた「性向」である。
■しかし、徳は科学ではないので、「適切な徳」を定義することはできない。例えば節制であれば、両極端である「臆病」と「向こう見ず」の間のどこかに、適切な節制の水準というものが存在する。徳を考える上で大切な概念は「中庸」である。
■中庸とは中間のことではない。両極端を足して2で割る算術ではなく、最も適切な程度を選択することで徳は頂点に達する。
第3巻 倫理的な徳とは何か②(勇気と節制の徳)
倫理的な徳とは何か②
■倫理的な徳は自発的かつ理性的選択により、中庸を志向することで実践される。強制や無知による行為は自発的ではないし、激情や欲望は自発的だが理性的ではない。
勇気と節制の徳
■勇気ある人とは、戦場のような場面では猛然と振る舞い、それ以外では穏やかでいられる人のことである。勇気は臆病と自信過剰の中庸である。
■節制と放埓は食欲と性欲に関係する。なぜなら、魂、視覚、嗅覚、聴覚の快楽を求める人を放埓な人とは呼ばないからだ。節制は放埓と無感覚の中庸である。
第4巻 倫理的な徳とは何か③(財産、名誉、怒り、交際の徳)
財産の徳(気前良さ)
■気前の良い人とは、富を相手のためになることや、美しいことなど、最も立派に使用できる人のことをいう。与える事のできる財産の多寡は無関係である。気前良さは浪費とさもしさの中庸である。
名誉の徳(志の高さ)
■志の高い人とは、自分が大きな仕事に値すると正しく自己評価し、善を為す人のことである。そのような人は、本当に大切な事柄にのみ関心を持ち、小事に振り回されないため、声にも動作にも落ち着きがある。志の高い人は、傲慢な人と卑屈な人の中庸である。
■素晴らしい成果を挙げた人はその名誉に浴するべきであるが、名誉を求めすぎるのは善くないことだ。
怒りの徳(温和さ)
■温和な人は心が容易く乱されないので、適切な事柄に対し、適切な時に、適切な相手に対して、適切な方法で怒ることができる。怒りの不足は、自ら屈辱を受けてもそれに甘んじるような愚かさの表れである。温和さは、苛立ちと愚か者の中庸である。
交際の徳(適度な距離感、正しい自己評価、笑いに関する機知)
■人付き合いにおいては、美と有益性に従い、受け入れるべき点は受け入れ、否定すべき点は否定し、相手と適切な距離を保たなければならない。受け入れるばかりでは「へつらい」になり、否定するばかりでは「敵対」になる。適度な距離感は、へつらいと敵対の中庸である。
■人付き合いでは、自分のことを正しく評価し、背伸びも卑下もせず、相手と誠実に向き合わなければならない。正しい自己評価は、大言壮語と卑下の中庸である。
■同じく人付き合いでは、会話の中に適度な冗談を織り込める程度の機知は必要である。ただし、笑いを取ろうと貪欲すぎると低俗になるし、何のウィットも無い人は堅物と呼ばれるようになる。適切な機知は、低俗と堅物の中庸である。
第5巻 倫理的な徳とは何か④(正義の徳)
■正義の徳は、あらゆる徳の中で、最も優れて完全である。これは議論抜きに万人が合意できる。そして正義は「配分的正義」と「矯正的正義」に分かれる。
■配分的正義とは、A:B=C:Dという比例関係が成り立つ関係である。(註:例えば、部長が課長の3倍働いたとき、給料も3倍であるべきだということ。課長の働き:部長の働き=課長の給料:部長の給料)。配分的正義とは、過剰と不足の中庸である。
■矯正的正義とは、加害者に対して被害者に賠償金支払いを命ずるような、算術的な等しさのことである。この場合、被害者の損害というマイナスを、加害者からの賠償金というプラスで埋めることを意味する。矯正的正義とは、損失と利得の中庸である。
■いずれにしても、より多くを手に入れようとしたり、より少ないものしか手に入らない場合は正義とは言えない。正義とは、不正をすることと、不正をされることの中庸である。
■正義を損なう「加害」には3種類ある。①相手を軽く叩いたところ、たまたま打ちどころが悪くて怪我に繋がったような過失。②自分にとって不正に見えるものから端を発した怒りに基づくような不正行為。③自らの選択から相手に加害する不正行為。
第6巻 知性的な徳とは何か①
■倫理的な徳を実践するには、正しく中庸を選ぶ「ロゴス(理性・分別)」が必要であり、それは知性的な徳のことである。
■ロゴス(理性・分別)には、数学や論理学のように、原理が他の在り方を許容しない「学問的知識」と、行為や徳のように、原理が他の在り方を許容する「推理して知る知識」の2種類がある。
学問(学問的知識グループ)
(論理学や数学などの)普遍的・永遠的・必然的な事柄であり、人に教えることが出来る
知性(学問的知識グループ)
ロゴスによる論証を経ずに直感的に物事を把握する能力
知恵(学問的知識グループ)
学問と知性を統合した「尊い事柄」を対象とする知識
技術(推理して知る知識グループ)
理性を備え、制作にかかわる性向
思慮深さ(推理して知るグループ)
善悪が関わる領域において、部分最適ではなく全体最適を考えられる理性
■すなわち、知恵と思慮深さという知性を以て、中庸を選ぶ「最高善」を実践していくことが、人を幸福にするということである。また逆に、中庸を選ぶ「最高善」を実践し続けることが、知恵と思慮深さという知性を得るために必要であるということも、同時に真実である。
第7巻 抑制の無さについて、快楽について(A)
■抑制のない人は、自らの行為を劣悪だと知りながら、感情によってそれを為してしまう。なぜ、このようなことが起こるだろうか。
■それは「なぜ、その行為をやってはいけないのか」に関する理解が不十分だからであり、なぜ不十分になるかと言えば、それは欲望があるからだ。思案したのに欲望に駆られてしまう人もいれば、思案しないために欲望に駆られる人もいるが、いずれにしても欲望が人間の体を動かしてしまうのだ。
■快楽を追う人のうち、自らの意思で自分を抑制しない人は「放埓」と呼ばれ、欲望に屈してしまう「抑制のない人」より一層悪い。なぜなら、抑制のない人は「あるべき徳」を理解したうえで、それに背いてしまっているだけだが、放埓は自らの選択に基づいて「悪徳」を為しているからだ。
■しかも、抑制のない人は後悔するので改善の可能性があるが、放埓な人は確信犯的で後悔しないため、矯正のしようがない。
■そもそも「劣悪な行為をやろう」と思わない人、すなわち節制の人が最善なのであって、良い順に並べると以下のようになる。
①節制の人(そもそも悪徳を考えない)
②抑制のある人(悪徳を考えてしまうが、ロゴスで自分を制御できる)
③抑制のない人(悪徳を考えてしまい、ロゴスで自分を制御しようとはするが、それができない)
④放埓な人(悪徳を考え、自らの意思で悪徳に進む)
■思慮深い人は、快楽を追求せずに、苦痛のないことを追求する。苦痛がないとは、人生を妨げるものが無いということを意味し、それは最高善の一つであるからだ。
第8巻 友愛について①
■いくら善を持っていても、友人がいなければ誰も生きていこうとは思わない。なぜなら、善は人間関係の中でこそ実践されるものだからだ。友愛とは「相手のために善を願い、行為する」という徳の一つである。
■愛される要素には3種類ある。それは有用であること、快楽に繋がること、善であることだ。ただし、「有用」と「快楽」は、まさに有用さと快楽さが愛されているのであって、その人自身が愛されているわけではなく、打算的な関係も多い。よって、友愛の本質は「互いに自分自身にとって善に繋がる信頼関係」である。
■友愛が成立するには、自分と相手の相互において、次の関係がなければならない。①互いに自分自身にとって善に繋がること、②互いに好意が伝わっていること、③互いに相手の善を願い喜び合うこと、④相互に「共に日々を過ごす」関係であること。
■友愛は、愛されることよりも、自分から愛することのうちにある。友人を大切にして愛するような人々が賞讃されるべきであり、友人としての徳である。そのような関係こそ、長く持続する。
■友愛には、互いに対等ではなく、親子や先輩後輩、富者と貧者といった優越性に基づくものもある。親は特に見返りの愛を求めず、自分の子を愛するだけで満足する。善を多く与える側には名誉が、善を多く与えられる側には利得が与えられるべきだ。
■ポリスは人々全体の利益を目指す共同体である。そしてポリスの中には、部族や船乗り集団や宗教団体といった、友愛に基づく共同体が数多く存在する。
■国家体制には、支配者人数と善政か悪政かで6通りの形態がある。王が人民を支配する関係は親子関係に似ているし、少数の優秀者が人民を支配する関係は夫婦関係に似ている。そして全員が平等である有産者参加制や民主制は、兄弟関係に似ている。
第9巻 友愛について②
■友愛は、有用・快楽・善のいずれかの「愛される要素」が一方になくなると、解消される。また、本来は有用ではないのに、有用と勘違いされていたり、有用と欺いたりしている場合にも同じく解消される。
■ただし、善で結ばれた二人のうちの一方だけが立派になったようなケース、つまり、もう一方に度を越した不良性が無いような場合には、友愛は直ちに解消されるべきではなく、一定の配慮が必要である。
■自己愛は良いことか悪いことかと言えば、善き人は自己愛者でなければならず、不良な人は自己愛者であってはならない。善き人にとって自分の存在は善であるから、自分自身を大切にして愛するし、また他人に対しても同様に接することが出来るが、不良な人の自己愛は単なるエゴイズムだからだ。
■人は親切にした相手のことをいつまでも気に掛けるが、逆に自分が親切にされても、親切にしてくれた人のことはあまり考えなくなる。それは、自分が相手のためにした何らかの努力によって、相手が成長したり活躍したりすることが、自分の存在に価値をもたらし、他では得られない喜びであると感じるからだ。
■善が備わっている人はそれだけで幸福なのに、加えて友人まで必要なのかという議論があるが、人間はもともと自然本性的に共同体を形成するものであるし、自分自身が為す善より、友人が為す善の方が把握しやすいことから、やはり友人は必要なのである。孤立した人にとって、人生は難儀である。
■優れた人は、自分に対するように友人にも対する。なぜなら、友人とはもう一人の自分だからである。ただし、友人は多ければ多いほど良いということではない。そもそもそんな大人数を大切にすることなどできない。ともに生きるのに十分な人数がいればよいのである。
■①自分が苦しい時、②自分が幸運なとき、③友が苦しい時、④友が幸運なとき、いずれの場合でも友人は必要である。いずれの場合も友に援助したり、援助されたりするからである。
第10巻 快楽について(B)、幸福論の結論
(快楽について)
■快楽は善か悪かの二元論では語れない。
■快楽は善そのものではなく、さまざまな人間の活動があるとき、その活動に二次的に付いてくるものである。よって、快楽は「最終目的」にはなり得ない。例えば、幾何学の研究に喜びを感じる人は、他の人より精緻な研究成果を残すであろうし、音楽をすることに喜びを感じる人は、他の人より良い音楽を奏でるだろう。
■このように、快楽は活動を強める助けになるし、「生きること」を完成させてくれる要素であるから、善そのものではないものの、積極的に避ける必要はない。人は、自分を堕落させる快楽ではなく、善の活動を強めるような快楽を求めさえすれば、禁欲主義に走る必要はないのである。
(幸福論の結論)
■正義・節制・勇気等の徳に基づいて、美しくすぐれた事柄を為すことが、人間の幸福である。しかし、いずれも感情と身体に結び付いているという点においては、我々に内在するものうち最善である知性に基づいた「観想的な」活動には劣る。神の領域である「観想」こそが、それ自体を目的とする完全な幸福である。
※アリストテレスは、第9巻までで「徳の実践が一番の幸福」「徳の実践には友人が必要」と散々説いたが、ここで手のひらを反して「徳の実践よりも『観想』こそが最高善」「観想は一人でできる」と主張する。古来から様々な解釈があるようだが、徳の実践を会得した受講生たちに、哲学者への道を説いていると考えると理解しやすい。
■「観想」こそが、それ自体を目的とする最高幸福である理由は、以下のとおりである。
①知性に基づくという点で最高善だから
②連続的に行うことができるから
③知恵を愛することは純粋で確かな快楽を伴うから
④自分自身だけで自足するから
⑤観想はそれ自体が目的となるから
⑥徳の実践は忙しさと実益を伴うが、観想は余暇において行うものだから
学びのポイント
「徳」は「才」では語れない
「美しいこと」や「正しいこと」には多くの相違やゆらぎがあると思われており、そのためそうした美しいことや正しいことは、ただ単に人々の定めた決まりごとでしかなく、自然本来においては存在しないものだとも思われている。しかし、「善いこと」にもこうした種類のゆらぎがある。
そこで、こうしたゆらぎのある題材をもとに語る場合には、真理を大雑把に、そしてその輪郭だけを明らかにすることで満足すべきである。
アリストテレスは冒頭からプラトンへのアンチテーゼを提示する。
プラトンが著書「国家」で展開した「イデア論」では、現実世界に存在する物体や概念はすべて影であり、真実在=イデアは天上界にあると考える。
例えば、世の中には完璧な三角形というものは存在しない(仮に鉛筆で紙に三角形を書いたとしても、線を細かく分解していけば全て原子になってしまう。しかし原子には三角形構造はない)が、人間は三角形がどのようなものか認識できる。よって、三角形の「理想形」のようなものが存在するはず、と主張する。
つまり「善いこと」にもイデアがあることになるので、人間はそれを追い求めるべきだという主張に繋がるが、アリストテレスは「真・善・美」といった徳の中心を為す要素には、そのような絶対的な「理想形」など存在せず、多くの相違やゆらぎがあるとする。
プラトンの方が理屈としては綺麗だが、アリストテレスの方が現実的な態度と言えるだろう。
中庸の大切さ
徳にかかわる議論はそのおおよその輪郭において語られるべきであり、これを厳密に語ろうとすべきでない。
節制の場合にも勇気の場合にも、またそのほかの諸々の徳の場合にも、事情はこれと同様なのである。
なぜなら、あらゆることを回避し、恐れて、どんなことにも踏みとどまらないような人は「臆病」になるのであり、どんなこともいっさい恐れず、たとえどんなことであってもそれに立ち向かってゆく人は「向こう見ず」になるからである。
また同じように、いかなる快楽をも味わい、どのような快楽をも慎まない人は「放埒」になるが、その一方で、野暮ったい人々がそうするように、いかなる快楽も避けて通る人は、或る種の「無感覚」のようなものになる。
以上のように、節制と勇気は超過と不足によって破壊され、中間性によって維持されるのである。
徳は科学ではないので「適切な徳」を定量的に定義することはできないが、「両極端の間のどこかに存在する」と指摘することはできる。ギリシャ語ではこれをメソテース、英語ではGolden Mean(黄金の中間)、日本語では中庸という。
この考え方は、紀元前5~6世紀に孔子や釈迦も主張している。当時、直接的な交流は無かったであろうヨーロッパ・インド・中国で同時に説かれ、それが現代にまで脈々と受け継がれているということは、この「中庸」という考え方は、人類にとって普遍的であると言ってよいのではなかろうか。
物事は極端すぎてはいけない。道徳において「中庸」であることは大切である。
孔子『論語』
走っても速過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想を乗り越えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。
仏教最古の経典『スッタニパータ』
大陸合理論 vs イギリス経験論の走り
若者が幾何学者や数学者になって、その種の分野については知恵ある人になることはあるが、若者が思慮深い人になることはないと考えられている。(中略)
実際なぜ、子どもは数学者にはなれるのに、知恵ある人や自然学者にはなれないのかを考えてみてもよいだろう。
それはおそらく、数学の対象は抽象を通じて知られるものであるのに対して、知恵や自然学の原理は経験を通じて知られるものだからである。
デカルトをはじめとする「大陸合理論」では、人間は理性によって全てを認識できるとする。一方、ロックをはじめとする「イギリス経験論」では、人間の心は白紙のようなものであり、いっさいの知識は経験に由来すると主張する。
その後、ドイツ観念論のカントが出てきて、以下のような主張を展開する。
・人間は経験したことしか認識できない。
・しかし、数学や論理学など、経験に拠らず人類共通で認識できる対象もある。
・ただしどちらにしても、人間というフィルターを通った世界であって「真の世界」ではない。
・「真の世界」を人間が認識することは出来ない。人間が認識している世界が、人間にとっての世界そのものである。
・つまり「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」のだ
カントは、大陸合理論とイギリス経験論の対立を(弁証法で言うところの)止揚させて、ドイツ観念論を展開したと言われているが、アリストテレスは2500年前に「数学や論理学みたいなものは人間の理性で認識できるし、知恵みたいなものは経験でしか得られない」と明快に喝破している。
イギリスの哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べたが、ギリシャ哲学の時点で、人間が考え得る哲学的なテーマについてはほぼ出尽くしていると言えるのかもしれない。
賢者は快楽ではなく苦痛なきを求める
思慮深い人は、快楽を追求せずに、苦痛のないことを追求する。(中略)
苦痛がないとは、人生を妨げるものが無いということを意味し、それは最高善の一つであるからだ。
アリストテレス倫理学の中でも、有名なフレーズの一つ。快楽・名誉・財産等は、それが人生の目的にはなりえないのだから、幸福の源泉にならないし、快楽は思慮を巡らせる妨げになるとアリストテレスは考えた。
そして、「苦痛のないこと」を重視する姿勢は、仏教の考え方に近い。そもそも仏教では、全ての欲望を捨て、現世の苦悩から解き放たれて自由を得ることを「悟り」と称している。
江戸時代の思想家である佐藤一斎は、西郷隆盛が座右の書としたことで有名な『言志四録』の中で、こう言っている。
人には快楽が必要だが、それは自分の外側(財産・名誉)ではなく内側(精神)にある(言志耋録 75)
わざわざ幸せを求める必要はない。災いさえなければ幸せだ(言志耋録154)
まさに、アリストテレスが言わんとしていることと同じ趣旨である。
また、19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、著書『幸福について』でこう述べている。
人間の幸福の主たる源泉は、自らの内面にある。仕事以外での人間の「楽しみ」は以下3つに分類できるが、このうち、成熟した賢者のみが「精神的な楽しみ」を享受できる。
(1)生きる楽しみ(飲食、睡眠など)
(2)身体的な楽しみ(スポーツ、行楽など)
(3)精神的な楽しみ(読書、思索など)それ故、賢者は孤独を好む。何故なら内面に備わっているものが大きく、外部刺激を必要としないからだ。逆に愚者は(1)と(2)しか楽しみがないから、是が非でも気晴らしや社交を求め、空虚な自分から逃れようとする。
私はあらゆる生きる知恵の最高原則は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』でさりげなく表明した文言「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」だと考える。
幸福論は、幸福論という名称そのものがいわば粉飾した表現であり、「幸せな人生」とは、「あまり不幸せではない人生」、すなわち「まずまずの人生」であると解すべきだという教えから始めねばならない。
洋の東西、そして時代を超えて、「賢者は快楽より苦痛なきを求める」ことが真理とされていることは興味深い。
人を愛するには、まず自分を愛さなければならない
善き人は自分自身を愛している。その理由は以下のとおりである。
①自分が存在することは善であるから、自分にとっての善と自分の生存を願う。
②快いから、自分とともに生きることを願う。
③自分の価値判断を信じ、それに基づいて苦しんだり喜んだりすることを願う。この「自分を愛する気持ち」は、そのまま「相手を愛する気持ち」につながる。
①相手が存在することは善であるから、相手にとっての善と相手の生存を願う。
②快いから、相手とともに生きることを願う。
③相手の価値判断を信じ、ともに苦しんだり喜んだりすることを願う。つまり、自分すら愛せない者に、他人を愛することはできないということだ。善き人は自分自身の存在が善であるから、自分自身を愛している。そして、自分に対するように友人にも対する。だから友人も愛せるのである。
(趣旨要約)
アリストテレスは本書第9巻の第4章及び第8章で「自己愛」について語っているが、他の個所に比べて議論が入り組んでおり、容易には理解しがたい(光文社古典新訳文庫で解説されている渡辺先生もそのように認めている)。
よって、上記の引用は渡辺先生の解説も参考にしつつ、趣旨を要約したものとなっている。
ここでのメッセージは「人を愛するには、まず自分を愛さなければならない」ということだ。このテーマは古今東西、様々な人に論じられており、例えばドイツの精神分析学者エーリッヒ・フロムは、著書『愛するということ』で以下のように述べている。
聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。
自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ。
また、ロシアの文豪トルストイは著書『人生論』でこのように述べている。
人は自分のために生きるべきだろうか?だが、自分の個人的な生命は悪であり、無意味ではないのか。家族のために生きるべきだろうか? 共同体のためにか?いっそ祖国か、人類のためにか?
しかし、自分個人の生命が不幸で無意味だとすれば、あらゆる他の人間個人の生命も同じように無意味なわけだから、そんな無意味で不合理な個人を数限りなく寄せ集めてみたところで、一つの幸福な理性的な生命をも作ることになるまい。
そして、やや意外かもしれないが、仏教においても「自己愛」は積極的に肯定されている。そして「他人においても自分が一番なのだから、自分を愛する人は他人も大切にしなければならない」としている。
どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない。
(サンユッタ・ニカーヤ(ブッダ 神々との対話)より)
人事部長のつぶやき
幸福な人は精神が安定している
幸福な人は、移ろいやすかったり容易に動かされたりはしない。
人は、鈍感さのゆえにではなく高貴さと志の高さでもって、幾多の大きな不運にも取り乱すことなく平静に耐えている時こそ、その美しさが光り輝くのである。
世の中には、感情の起伏が激しい人がいる。これは外部刺激に素直に反応しているからだ。その度に心が乱され、何にも集中できず、体力も時間も消費していく。
感情の起伏を楽しんでいるならそれでいい。しかし、もし苦しいと感じるのであれば、「最高善の実践に、感情の起伏は不要である」と割り切って、心の平静を志向したほうが良いだろう。
世の中には鈍感さによって、自らは平静に、しかし周囲には大迷惑を与えているような人もいますけどね!
リーダーの条件
志の高い人の動作はゆっくりで、声は抑えが利いた低さで、言い回しもしっかり落ち着きがある。
なぜなら、数少ないものにのみ熱心な人は先を急ぐことがないし、大きなことなどなにも起こらないと思っている人は、動きがこわばるということもないからである。
「志の高い人は、本当に重要なことにしか関心を向けない」という主張があってからの、この展開となっている。
確かに、何が重要で何が重要でないかを正しく理解している人は、仕事が立て込んでも、想定外のことが起こっても、あまり動じない。志の高い人(=リーダー)はそのようにあってほしいという点では、2500年前も現代も、それほど大きな変わりはない。
甲高い声でまくしたてるリーダーには、付いていこうと思いませんね!
習慣が人格を創る
エウエノス*もつぎのように語っている。
友よ、言っておくぞ。習慣とは長い時間をかけた練習であり、そしてまさに、この練習がついには人の自然本性となるのだ。
エウエノス・・・古代ギリシャのソフィスト・詩人。プラトンの『ソクラテスの弁明』に登場する。
アリストテレスは「徳を実践すること」を重視したが、引用する言葉にもその傾向が表れている。
これと似た言葉でよく引用されるのが、『プラグマティズム』の著者である、アメリカの哲学者、心理学者ウィリアム・ジェームズ(が出典と言われている)次の名言だろう。
行動が変われば習慣が変わる
習慣が変われば人格が変わる
人格が変われば運命が変わる
日本では、メジャーリーガー松井を育てた星陵高校野球部の山下監督の言葉として有名になった。
この中では、まず最初の「心を変える」が最難関だろう。よって、科学的に証明されているわけではないが、まず「行動」を強制的に変えてしまい、それに心が付いていくようにする方が、効果的だし現実的だろう。
「心を入れ替えた!」と言っても、行動が伴わない人もいますしね。自戒も込めて、、、
愛とは愛すること
愛は愛されることのうちにあるというより、むしろ愛することのうちにあるように思われる。
ここで言う「愛」は男女間の愛ではなく、友人同士や親子、先輩後輩間における愛ではあるが、なんとも「恋愛論」のようなフレーズである。
ちなみに、古代ギリシャにおいては、愛は大きく以下の4つで表現される。
①エロス(eros)
男女間の愛(本能的で肉体的)
②フィリア(philia)
友人間の愛(信頼、結束、連帯感。本書で言うところの愛)
③ストルゲー(storge)
家族愛(血縁)
④アガペー(agape)
無償の愛(自己犠牲を厭わない博愛)
このうち、新約聖書の編纂者は、神による人間への無償の愛を表すのに「アガペー」という単語を用いた。それ以降、「アガペー」はキリスト教における神学用語となっている。
新約聖書においては、アガペーとエロスが区別して使われているそうです
人はどの立場でも善を為すことが出来る
人は大地と海を支配しなくとも、美しいことを為すことができる。(中略)
そして、この点をわれわれは、実地に明確に観察することができる。一般市民のほうが権力の座にある人々に比べて、高潔な行為をする点で劣っているなどということはなく、むしろ、かれらよりもすぐれていると思われるからである。
アリストテレスの哲学者らしいフレーズ。師のプラトンは、(美しいことを為せる)哲学者こそ国家の支配層となるべきだと説いたが、それとは対照的。
つい、どこかで引用したくなるような、美しいフレーズです!
(光文社古典新訳文庫)
※倫理学の古典最高峰!エッセイのようなので挫折せず読める