「歎異抄」唯円
基本情報
成立 1300年頃(親鸞の死後30年程度)
難易度 ★★★☆☆
オススメ度★★★★☆
所要時間 1時間
どんな本?
浄土真宗の開祖親鸞の死後、信徒の間に種々の「異」説が出たことを「歎」いた弟子達が、正しい教義を示すために編纂した「抄(=注釈書)」。「悪人こそ救われる!」「親の供養なんかしないぜ!」など、既存の仏教や道徳をぶち壊すロックで過激な教えを展開する。
西田幾多郎、吉川英治、遠藤周作といった数多くの思想家に影響を与えたほか、司馬遼太郎をもってして「非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがする」「無人島に1冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」と言わしめた。宗派・宗教の枠を超えて広く読み継がれる異色の名著。
著者が伝えたいこと
末法思想の世の中で、戦乱や疫病も流行っていますが、一般大衆の皆さん、ご安心ください。善人だろうと悪人だろうと、阿弥陀仏に頼って「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、厳しい修行をしなくても、極楽浄土に行けますよ。
人が善人になるか悪人になるかは、前世からの因果で決まっているのです。だから「自分は善を積んでいるから浄土に行けるだろう」などと考えるのは間違いです。むしろ、全てを阿弥陀仏に頼り切れる悪人の方が極楽浄土に行けるのです。
ただし、だからと言って進んで悪事を働くようなことをしてはいけませんよ。ただひたすら、念仏を唱えさえすればよいのです。
前提知識(浄土宗と浄土真宗)
■奈良時代の仏教は「人間の中には仏性を持つ者と持たない者がいる。仏になりうるのは少数の人間に限られる」と考えた。その後、平安仏教の代表である最澄は、すべての人間は仏性を持っており、善行を積めば何度か生まれ変わる後に、必ず仏になれると説いた。
■一方、仏教にはもともと「末法思想」という考え方があり、釈迦の死後1500年(2000年という説も)経つと、釈迦の教えだけが残り、修行も悟りも得られなくなるとされている。
■日本では平安中期、1052年に末法に入ったと信じられ、折からの戦乱や疫病などの社会不安とあいまって、「誰でも簡単に救われる」という手段が求められていた。
■これらの背景のもと、鎌倉仏教では全ての人間が仏になることのできる最も簡便な道が求られることとなり、法然が念仏、日蓮が題目、そして道元が座禅を用いることになる。
浄土宗(法然)
「南無阿弥陀仏(=私は阿弥陀仏に帰依します)」という念仏を唱えるだけで、極楽浄土に行けるという教え。阿弥陀仏の力を借りることにより、簡単に救済されるという意味で「他力易行の宗」と呼ばれることもある。
法然が画期的だったのは、それまでの仏教を「聖道門(浄土教以外)」と「浄土門(浄土教)」に分けた点であった。「聖道門は立派な仏教かもしれないが、修行も瞑想も到底及び難いので、凡夫は自力で何とかしようと思わず、ただ念仏を唱えなさい」と、徹底的に民衆に目線を合わせるポピュリズム戦略だったとも言える。
しかし、伝統的な仏教の価値観を壊すものであったため、法然は土佐(実際には讃岐にいた)に流されてしまった。
浄土真宗(親鸞)
法然の教えを押し進め、「阿弥陀仏の本願は悪人を救うためのものであり、悪人こそが、救済の対象だ」という悪人正機説を唱えた。ただし「悪人」の定義が鎌倉時代と現代では異なることに注意。
善人・・・自分で修行して煩悩を消し去り、悟りを開ける人
悪人・・・それが出来ない人、身分が高くない人全般、本当に悪い人
なお、親鸞は思想上でも「悪人正機説」を唱える反体制派だったが、私生活でも肉食妻帯し、かつそれを公表するという「反社会的」な革命児だった。いつの世も、既存の価値観に挑戦する若者は大人たちから弾圧されるが、親鸞も同様に旧仏教勢力から睨まれて越後に流されてしまう。
ちなみに妻帯した理由は、救世観音が夢の中で「前世からの宿命でどうしても女性の体が欲しいというなら、私が女性となって身代わりになろう」と言ったから、という何とも自由なものだった。しかも妻は恐らく2人いて、7人の子をなした。
書評
親鸞とその弟子たちが「念仏を救われれば、誰でも極楽浄土に行ける」という徹底したポピュリズムを打ち出すとともに、それに伴って発生するいくつかのパラドクスを何ともアクロバティックに解決していく痛快ストーリーとして読むことができる。
それでもやはり、全ての矛盾を解決することはできず、
・悪人でも念仏を唱えれば浄土に行けると言ったけど、進んで悪いことをしてはいけない。それに、殺人を犯したような人はそもそも浄土には行けない。
・逆に善いことをして浄土に行こうというのも、阿弥陀仏に頼り切る心が足りないからダメ。往生は出来るけど、極楽浄土の辺鄙なところに飛ばされるよ。
と、「誰でも救われます!」と言い切った割には、なんとなくモヤっとした結論に落ち着くことになる。
こんな人におすすめ
仏教に関心のある人、親鸞の教えを知りたい人、色々と考えすぎて人生疲れてしまう人
要約・あらすじ
序言
■親鸞師匠の死後、師の口伝と異なる教えが蔓延していて嘆かわしい。ここに親鸞師匠のおっしゃったことをしっかりと書き留めておきたいと思う。
※第1条~第10条:親鸞の言葉
※第11条~第18条:唯円による他教批判
第1条~ただ念仏を唱えればよい~
■阿弥陀仏の本願は、罪深く、煩悩だらけの一般大衆を極楽浄土に導くことである。阿弥陀仏の救済は平等であり、老いも若きも、善人も悪人も差別しない。
■だから、我々は阿弥陀仏の本願に頼って、ただ念仏を唱えればよい。他の善を為す必要はない。念仏以上の善はないからだ。また、かつて為した悪業やこれから為すであろう悪業を恐れる必要もない。阿弥陀仏の本願を妨げる以上の悪はないからだ。
第2条~念仏で地獄に落ちるなら本望~
■極楽に往生する方法は、念仏を唱える以外にはない。私は法然先生の教えを馬鹿正直に信じているだけだ。それで地獄に落ちるなら本望である。
■釈迦の説法が正しいなら、それを解説した書も正しいし、その書が正しいなら、それを読んで念仏の教えを説いた法然先生も正しいはずである。
第3条~悪人こそ極楽に行ける~
■悪人こそ極楽浄土に行くことが出来る。善人は「自分は善を為している」という誇りがあり、ひたすらに阿弥陀仏に頼ろうとする信心に欠けるからだ。
■阿弥陀仏の本願は、煩悩にまみれる私のような悪人を救うことなのである。
第4条~自分で悟るより念仏~
■仏教には聖道門と浄土門がある。聖道門は聖人が自ら悟りを開くものであるが、たった一人で生けるもの全てを救済できるとは思えない。
■やはり、念仏を唱えて慈悲深い仏になることで、あらゆる者を救済する浄土門の立場に立つべきだ。
第5条~親子は特別な関係ではない~
■私は亡くなった父母の供養しない。なぜなら、すべての生き物は因果の理によって、一度死んでも、別の何かに生まれ変わるのだから、長期的に見ればすべての生き物は私の父母であり、兄弟であるはずだからだ。
■それに、自分で修業して善を積むなら、直接父母を救えるだろうが、私は阿弥陀仏を頼って極楽浄土に行こうとしている人間なので、まず自分が仏になることでしか、父母を救うことはできないのである。
第6条~師弟も特別な関係ではない~
■誰が誰の弟子かといった問題には意味が無い。人は阿弥陀仏の導きによって信心を得るのであって、師匠が誰でも関係ない。
■阿弥陀仏の本願に任せて自然に生きていれば、弟子たちも仏の大きな恩に気付き、また師匠の恩を知ることになるだろう。
第7条~念仏は最強~
■念仏を唱える者は最強である。天地の神や魔物でも念仏を妨げることはできないし、前世の悪業が念仏者に及ぶこともなく、またいかなる善も念仏の善には及ばない。
■念仏者は、何ものにも妨げられない自由な境地にいるということができる。
第8条~道徳も修行もNo~
■念仏は、それを唱える者にとって善(道徳)でも修行でもない。善も修行も自ら為すものであるが、念仏は阿弥陀仏の導きで唱えるものだから、善とも修行とも言えないのだ。
第9条~念仏に喜びを感じなくてよい~
■私(=唯円)が「念仏を唱えていても強い喜びが湧いてこない。極楽のはずの浄土に行く気も起きない。どういうことか。」と問うたところ、親鸞先生は以下のようにお答えになった。
・私も同じだ。喜ぶべきものを喜べないのは煩悩のせいである。阿弥陀仏はそこまで見通して、煩悩から逃れられない凡夫こそ救ってくださる。
・念仏をして嬉しくてしようがなく、急いで浄土へ行きたいと思う人は、かえって煩悩も少なく、阿弥陀仏に頼る気持ちも少ない。それは「一切を阿弥陀仏に任せれば、誰でも救済する」という阿弥陀の本願に外れるのだ。
第10条~念仏は理性では理解できない~
■念仏は阿弥陀仏から与えられるものであって、理性や言葉では理解できない。そういった、不思議なものなのだ。
■以上が親鸞先生の言葉である。最近、親鸞先生とは異なる考えを持つ者が多いので、この先、私(=唯円)はその異説が正しくない理由を述べていきたいと思う。
第11条~阿弥陀仏の本願と念仏は同一~
■無学な人が一生懸命に念仏していると「お前は阿弥陀仏の本願の不思議を信じているのか、念仏の不思議を信じているのか」などと問うて、心を惑わす者がいる。
■しかし、本来、阿弥陀仏の本願と念仏は一体のものであって、分けて考えるのは間違えている。
第12条~悪口は言わせておけ~
■仮に学問をしている人間から「浄土教は低級だ」と悪口を言われた場合には、「私のような卑しい凡夫は、念仏さえ唱えれば往生できると聞いてそれを信じているのですから、あなたにとっては低級な教えでも、私には最上の法なのです」と答えてやればよい。
■ただ、悪口を止めさせるために、対抗して学問をするのは本来の姿ではないだろう。まして、無心に念仏する人に向かって「学問をしないと往生できない」などと説くようなことは、仏法を妨げる悪魔だと言える。
第13条~進んで悪を為すのはダメ~
■いくら「悪人こそ救われる」と言っても、悪を恐れず、悪を進んで為すようなことではダメだ。薬があるからと言って毒を飲んではいけない。
■人間が善を為すか悪を為すかは、本人の意思に関係なく、前世からの積み重ねで決まっている。悪を為そうとして為せるものではないのである。猟師や漁夫のような殺生を生業にする人々も、自らの意思で悪を為しているわけではなく、当然ながらに救済の対象となる。
第14条~念仏に功利主義を持ち込むな~
■数多く念仏を唱えたからと言って、その分の罪が消えるわけではない。減罪の利益を計算して念仏するのはダメだ。
■死ぬ間際になって一生懸命念仏を唱えて往生しようという姿勢も誤っている。死に際がどうであれ、阿弥陀仏の本願にすがる者は救われるのだ。
第15条~即身成仏に憧れるな~
■真言宗や天台宗のように、厳しい修行を経た賢い人であれば、即身成仏(生きたまま仏になること)が可能かもしれない。しかし、煩悩を抱え、悟りを開く智慧もない我々凡夫は、極楽浄土で生まれ変わり、そこで初めて悟りを開くしかない。
■念仏を唱えるだけであれば簡単にできる。どんなに愚かであろうと、善人であろうと悪人であろうと、分け隔てなく誰でも救われるのだ。
第16条~改心は1回でいい~
■何か罪を犯したら、そのたびごとに改心しなければならないだろうか。いや、日頃、本願の教えを知らない人が心を入れ替えて、阿弥陀仏の本願にすがると決めることを改心と呼ぶのであって、一生に一度きりでよい。
■本願の力を疑い、自力で徳を積んだり善を為したりする者や、他人に頼む心に欠ける者は、往生できるにしても、辺鄙な浄土にしか行けないのである。
第17条~辺鄙な浄土は存在する~
■辺鄙な浄土に行った人は、結局地獄に落ちるという人がいる。しかしそれは間違っている。
■親鸞先生は、心から阿弥陀仏の本願を信じて念仏する信者が少ないので、ひとまず仮の浄土に行くことを薦めたまでである。最終的には全員、極楽浄土に行けるのである。
第18条~寄付の多寡は問題でない~
■たくさん寄付をすると大きな仏になり、少ないと小さな仏にしかなれないと言う人がいるが、そもそも仏に大小などなく、誤っている。
■確かに仏教において寄付は大切な行為だが、それ自体は無意味であり、やはり信心の深さの方が重要である。
後序
■ある時、親鸞先生が「私の信心も法然先生の信心も変わらない」と言ったところ、周囲の同僚達は猛反発した。しかし法然先生は「信心は阿弥陀仏から授かったものであるから、法然でも親鸞でも一般民衆でも、皆一緒である」とお答えになった。信心は一つなのである。
■また、親鸞先生は「阿弥陀仏が苦悩して衆生救済の願を立てたのも、親鸞一人のためである」ともおっしゃった。自らを悪人と卑下することで、弟子たちに己の罪深さを知らしめようとしたのであろう。
■私(=唯円)は親鸞先生から直接教えを受けているので、それを直接伝えることもできようが、私の死後においては、異端邪説が蔓延る可能性がある。だから本書を書き残すことにした。ただし、決して人に見せてはならない。
学びのポイント
悪人こそ極楽浄土に行ける?(悪人正機説)
(第3条より)
善人ですら極楽浄土へ行くことができる、まして悪人が行くのは当然ではないか。
世間の人は常にその反対のことを言うが、それは本願他力の教えに反している。自ら善を積んで極楽往生しようとする人は、自分の善を誇って、阿弥陀さまにひたすらすがろうとする心が欠けているからだ。
そういう自力の心がある間は「自力の心を捨てて、ただ阿弥陀の名を呼べば救ってやろう」とおっしゃった阿弥陀仏の本来の救済の対象ではないのだ。
本書の中で最も有名な一説。いわゆる「悪人正機説」である。
これは本書の中で最も「パラドクス」要素が強い。善人は「自分は善を為している」という誇りがあるから、悪人に比べてひたすらに阿弥陀仏に頼ろうとする信心に欠ける。だから悪人こそ救われると説く。
しかし、悪人正機説を正しいとするならば、例えば強盗殺人を犯した大悪党も救済されることになる。すると、現世でいろいろと悪いことをしよう!と企む輩が出てきてしまう。このパラドクスはどう解決すればいいだろうか。
そもそも悪人正機説の根拠となったのは、浄土教信仰の根本経典の一つである『無量寿経』というサンスクリット語の経典で、その中には「念仏さえ唱えれば、どんな人でも往生出来ると阿弥陀仏が保証している」という趣旨のことが書いてある。
しかしそれでは大悪党も救済されてしまうので、中国で「ただし、五逆*と誹謗正法**を除く」という例外規定が設けられ、それが日本にも引き継がれた。そう、パラドクスを解決するために、都合よく経典を書き換えてしまったのである。なんとアクロバティックなことか!
【*五逆】
仏教のなかでもっとも重い罪とされる。①父を殺すこと、②母を殺すこと、③阿羅漢(悟りを開いた聖者)を殺すこと、④僧の和合を破ること、⑤仏のからだを傷つけること。
【**誹謗正法】
正しい仏法を誹り、それを否定すること。
また、本書第13条では以下のように「悪人が救われるからといって、悪いことをするのはダメ」というフォローも入れている。
以前、親鸞の教えを誤解して「悪人が救われるのだから、あえて悪いことをしてやろう」と考える人々がいた。しかし親鸞は「薬があるからと言って毒を飲んではいけない」と彼らをたしなめた。
いずれにしても、この「悪人正機説」により、浄土真宗は一部の知識階級だけではなく、農民・商人等の一般階層や悪人階層(?)にまで救済の範囲を広げることとなった。
現代風に言えば、徹底的なポピュリズムに走ったということであり、以後、爆発的に普及することになる。
なお、現在でも最も人口の多い宗派は浄土系で、浄土真宗本願寺派が約788万人、真宗大谷派が約751万人、浄土宗が約602万人となっている(文化庁「2019年度宗教統計調査」より)。
ちなみに、ポピュリズムの元祖といえば、やはりキリスト教と言えるだろう。古代キリスト教は、ユダヤ教の信仰上の義務や生活上の規則が複雑化したことを批判し、単に「キリストを信じれば救われる」と説いた。
ふたりが言った「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」
使徒行伝16章31
一般大衆にも分かりやすいキリスト教は、瞬く間にヨーロッパに広がっていき、392年にはローマ帝国の唯一の国教とされるに至った。
煩悩があるから極楽浄土に行ける?
(第9条より)
唯円:念仏を唱えていても強い喜びが湧いてきません。極楽のはずの浄土に行く気も起きません。どういうことでしょうか。
親鸞:私も同じだ。喜ぶべきものを喜べないのは煩悩のせいである。阿弥陀仏はそこまで見通して、煩悩から逃れられない凡夫こそ救ってくださる。念仏をして嬉しくてしようがなく、急いで浄土へ行きたいと思う人は、かえって煩悩も少なく、それは「全てを阿弥陀仏に任せれば、誰でも救済する」という阿弥陀仏の本願に外れるのだ。
これまたアクロバティックな方法で、大きく2つのパラドクスを解決しようとしている。
極楽浄土に行きたいと思えないのよね・・・
大丈夫!そう思えないのは煩悩のせいなのです。阿弥陀仏は煩悩を持っているあなたのような人こそ救ってくれるのです。だから、ひたすら念仏を唱えなさい。
そんなに極楽浄土がいいなら、すぐ命を絶ちたいわ・・・
だめだめ!極楽浄土を求めて自らの死を早くするのは、阿弥陀仏の本願に背いてしまいます。
阿弥陀仏の本願に従って、生命ある限り阿弥陀仏にお任せして生きて、力が衰えたときに浄土へ行けばよいのです。だから、ひたすら念仏を唱えなさい。
先ほどの「悪人でも浄土に行けてしまうのか」と合わせて、何とも論理的に(!?)各種のパラドクスを克服していく。
親を供養しない?
(第5条より)
私は亡くなった父母の供養しない。なぜなら、我々が浄土へ行き、仏になった際には、父母だけではなく、すべての生き物を救済しなければならないからだ。
すべての生き物は因果の理によって、一度死んでも、別の何かに生まれ変わるのだから、長い長い前世においては、すべての生き物は私の父母であり、兄弟であるはずなのだ。
それに、自分で修業して善を積むなら、直接父母を救えるだろうが、私は阿弥陀仏を頼って極楽浄土に行こうとしている人間なので、まず自分が極楽浄土に行って仏になることでしか、父母を救うことはできないのである。
親鸞はまたまた「全ての生けとし生けるものを平等に大切にせよ」と超リベラルで過激なことを言い出す。事実、西洋の一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)や東洋の儒教の枠組みと比べても、ぶっ飛んでいる。
まず、西洋の神教においては、世界は神によって創られたとし、人間を「理性的存在」として地上界の最上位に置く。例えば(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の経典である)旧約聖書で、神は「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ」と人間に命じているし、カトリック教会が(ヒトは猿から進化したという)ダーウィンの進化論を認めたのは1996年になってからだ。
よって、例えばキリスト教では「隣人愛(=全ての人を平等に愛せよ)」という考え方はあるものの、動物まで含めて救済するような発想は一切ない。
一方、儒教では「人は父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の関係を維持するよう努めなければならない」という教えが根底にあり、まず家族を最優先で愛し、そして広く人を愛すべきだとする。親鸞と比べると「大切にする」対象はかなり限定的だ。
そして親鸞は「現世でいくら祈っても父母は救われない。阿弥陀仏に頼るしかない」と、ここでも「他力本願」を貫き通す。論理的といえば論理的で分かりやすいが、現代の感覚からすると相当無理があるように思える。
道徳の否定?
(第13条より)
親鸞先生はこうおっしゃった。「人を1,000人殺せば極楽浄土に行けるとするなら、唯円にそれは出来るだろうか。いや、恐らくできないだろう。」
「それは、前世からの悪の因縁が備わっていないからだ。人間が善を為すか悪を為すかは、本人の意思に関係なく、前世からの積み重ねで決まっているのだ。」
これはなかなかに強烈である。人が善を為すか悪を為すかが、本人の意志と無関係なのであれば、道徳という考え方は成り立たなくなる。
あの、既存の道徳を否定しまくったニーチェですら、「道徳の判断基準を変えろ」とは言ったものの、「道徳なんて無い」とは言わなかった。恐るべし、親鸞。
【参考】ニーチェの道徳観
・ヨーロッパの道徳はキリスト教が規定しているが、それは弱者が強者に対して妬みを持ったことに端を発した奴隷道徳である。
・「神の前での平等」は弱者こそが求め、弱者のためにある考え方だ。強者は平等など求めない。
・隣人愛と平等=善、自己愛=悪という構図は、人類を無価値な存在とし、ニヒリズムに至らせる。
・ 人生に意味のないことを受け入れ、いまこの瞬間を肯定し、自分をさらに強くしよう、さらに美しくなろう、さらに人生を充実させようという本能的な意志を貫いて主体的に生きることこそが「善」であり、人を幸福にするのだ。
日蓮を暗に批判
(第2条より)
たとえ法然聖人がおっしゃったことがでたらめであり、私が法然聖人にだまされて念仏をしたため地獄に落ちたとしても、ちっとも後悔いたしはしません。
素直に読むと「私は法然先生を信じている」という内容だが、ここには日蓮への批判も含まれているとする説がある。
日蓮は従前より「なぜ、仏教には多くの宗派があるのか」と疑問に思っていたところ、仏陀が亡くなる直前に語ったと言われる「涅槃経(ねはんきょう)」の中の「真理の教えを信じろ」という一節から「仏陀の残した経典こそが唯一の拠り所だ」と考えるに至った。
日蓮は経典に拠って厳密な解釈を進めることで、ユダヤ教におけるパリサイ人と同じように次第に教条化していき、痛烈な他宗派批判を展開するようになる。
法然の浄土教については「念仏は無間地獄への法である」と批判したが、親鸞はこれを念頭に置いて「念仏を唱えて本当に地獄に落ちるならそれいい」と言っていることになる。
なお、明治時代に内村鑑三が著した『代表的日本人』で、日蓮は5人の日本人のうちの一人に選ばれて紹介されている。
これは、日蓮が「経典こそが唯一の拠りどころ」と主張したことと、キリスト教の宗教改革を始めたマルチン・ルターが「聖書に帰れ」と主張したことを比較し、「日本にも宗教改革者がいた」という文脈で語られたもの。
ちなみに内村は日蓮の教えに限界があることを認めており「確かに日蓮の教義のほとんどは、今日の批評に耐えられないことは私も認める。彼の反論は荒削りで、語気全体が狂気じみてさえいる。明らかに日蓮は、調和を欠いた性格だった。その意識はあまりに一つの方向に突出し過ぎていた」と述べている。