「菜根譚」洪自誠
基本情報
初版 明代末期(1572-1620)
出版社 角川ビギナーズ・クラシックス
難易度 ★★★☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 202ページ
所要時間 2時間30分
どんな本?
混迷する時代において、逆境をいかに乗り切るかを示した処世訓。明代末期の内乱や政争が相次いだ時代において、形骸化した儒教道徳に「道教」や「仏教」の要素を導き入れ、新しい命を吹き込んだ。
「菜根」は「人はよく菜根を咬みえば、すなわち百事をなすべし」という故事に由来し、「野菜の根は非常に硬いが、それをかみしめるように、苦しい境遇に耐えることができれば、人は多くのことを成し遂げることができる」という意味。お野菜に関する本ではない。
田中角栄(元総理大臣)、松下幸之助(パナソニック創業者)、野村克也(元プロ野球監督)ら、各界のリーダーたちから座右の書として愛されてきた、読書好きだけが辿り着く「隠れた名著」。
著者が伝えたいこと
人生で大切なことは、「才能(=スキル)や権力」ではなく「道徳(=人としての正しい道)」である。極端を避け、一歩引いた、自然とともに歩む人生を送ることが、幸福の秘訣である。
著者
洪自誠 1572-1620
↑こんな絵しか残っていない
中国明代の著作家。本名は洪応明で「自誠」は字。詳しい経歴は不明ながら、著作から判断すると、優秀な官僚として活躍したのち、政争に巻き込まれ、苦渋の中で隠遁した人と考えられている。
こんな人におすすめ
人生が何となく充実しておらず、お金や快楽、地位や名誉以外で、何か生きるための指針がほしい人。
「菜根譚」を理解するための基礎知識
時代背景
明代末期は、それまで人々の価値観を支えていた儒教が形骸化し、何が幸福かがゆらいだ時代。「菜根譚」は形骸化した儒教道徳に、「道教」や「仏教」の中の最良の部分を導きいれ、新しい命を吹き込むこととなった。
構成
章立てもタイトルもなく、前集222条、後集135条の短めの「譚(お話し)」から成る。前集は俗世の人々との関わり方を中心に語り、後集は俗世を超えた深遠な境地や、静かな暮らしの楽しみを語る。
「随筆的な処世術談話集」というくくりでは、アラン『幸福論』に近い(こちらはフランス版処世術集といった趣き)。
なお、全357条からなる大巨編だが、角川ビギナーズ・クラシックスシリーズでは入門編として139条が厳選されている。
宗教とのかかわり
中国文学者の守屋洋氏は、菜根譚を「3つの宗教が交わる稀有な本」として、以下のように解説している。
まず儒教ですが、これは身を修め、天下国家を治めることを説いた「表」の道徳です。「建て前の道徳」と言ってもよいでしょう。
しかし「こうすべきだ、ああすべきだ」という「表」の道徳だけでは、世の中は息苦しくなります。そこで必要になるのが、それを補う「裏」の道徳「道教」でした。道教はみずからの人生にのんびり自足する生き方を説いています。
しかし、儒教にしても道教にしても、厳しい現実をどう生きるかを説いたもので、人々の悩める心の救済にはあまり関心を示しません。それを補ったのが、のちにインドから入ってきた「仏教」です。
『菜根譚』は、この3つの教えを融合して、人生の知恵や処世の極意を説いているのです。そこに、この本の最大の魅力があると言ってよいでしょう。
東洋経済オンライン「名経営者がこぞって読む『菜根譚』の秘密」
https://toyokeizai.net/articles/-/72772?page=2
書評
「理屈の多い高尚な哲学書」ではなく、気軽に読める「人生訓」といった本。とにかく実利に徹している。
誰しもが経験したことがあったり、思い当たるようなシチュエーションを例に出して処世術を説くので、広く一般に「うんうん、あるよね、こういうの。昔の人も自分と同じようなことを考えていたのか」と共感を得られるのであろう。
一方、儒教の流れを汲んでいるので、「まあ、そりゃ理屈ではそうだけど、実生活で意識するには高邁すぎるなあ」という教えも少なくない(例えば、事業は死ねばなくなるが、精神は死後も一層新しくなる、など)。
357条の教訓があるので、お気に入りの金言がいくつかは見付かるはず。
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要約・あらすじ
・道徳は権力や才能よりも尊い。人生にとって最も大切なことは、道徳を守って生きることだ。
・道徳を実践するためには、耳の痛い忠告や諫言を素直に聞き入れる広い心がなければならない。
・儒教の「中庸」の考え方が大切だ。何事も極端に偏ってはいけない。例えば、国や人のために頑張りすぎても自分を苦しめるし、淡泊すぎても社会の役に立てない。世俗にまみれてもいけないが、清廉潔白すぎても面白味がない。暇すぎても雑念が湧くし、忙しすぎても本来の力を発揮できない。
・人は「足る」を知らなければいけない。欲望には限りがない。人は死ぬ間際になって初めて、財産や子孫や名誉といったものが空虚であることを知る。
・人間の幸不幸は、人間自身が決める相対的なものである。人間は自身の心持ち(理性)で、自ら幸せを作り出さなければいけない。
学びのポイント
道徳>>>才能
徳は才の主にして、才は徳の奴(ど)なり
(道徳は才能の主人で、才能は道徳の使用人である)
「角川版」では省略されてしまっているのだが、これこそが「菜根譚」の通底に流れる基本思想の一つと言える。そして、当サイトでも繰り返し強調してきたテーマである(なぜ「教養」なのか)。
「才」は「スキル」と読み替えてもよい。ビジネスにおいては、簿記・英語・ロジカルシンキングといったビジネススキルといったところ。
しかし、このAI時代、才(=スキル)はいずれAIに取って代わられるだろう。
簿記?決まったルールで物事を仕分けるのはAIが最も得意とする分野。財務諸表は読み方さえ知っておけば、その作り方まで学ぶ必要は一切ない。
英語?遠くない未来にGoogleがストレスのない翻訳機をリリースするだろう。私達が無理に英語を話す必要はなくなるはず。
ロジカルシンキング?これも考え方の「型」なので、数多くのパターンをAIに学習させれば、前提条件をいくつか打ち込むだけで、人間に代わってパソコンが考えてくれるようになるだろう。
このように、これまでビジネスパーソンが時間を掛けて身に付けてきた「スキル」は陳腐化し、自分を差別化する要素にはならなくなってくる。
では、人間にしかできないことは何か。それこそが「徳」であり、具体的には、「何が正しいか、善いか、美しいか」を判断し、実行する力と言えるだろう。
法律の例で言えば、過去の判例を調べて企業訴訟に対応するのは「才」の範疇で、AIでも可能。しかし、例えばクローン技術を規制する法律を作るのは「徳」の範疇でAIには不可能。価値判断は人間にしかできない。
これこそ、菜根譚の言う「徳は才の主にして、才は徳の奴なり」である。
また、歴史上、数多くの人々が、同じ趣旨のことを言っている。ここではその代表的なものを時代順に列挙しておきたい。
①サミュエル・スマイルズ『自助論』
知性溢れる人間を尊敬するのは一向に構わない。だが、知性以上の何かがなければ、彼らを信用するのは早計に過ぎる。
イギリスの政治家ジョン・ラッセルはかつてこう語ったことがある。「わが国では、いくら天才に援助を求めることがあっても、結局は人格者の指導に従うのが当然の道とされている」。これは真理を言い得た言葉である。
②勝海舟『氷川清話』
学問にも色々あるが、自分のこれまでの経歴と、古来の実例に照らして、その良し悪しを考えるのが一番の近道だ。
小さな理屈は専門家に聴けば事足りる。俗物は理屈詰めで世の中の事象に対応しようとするからいつも失敗続きなのだ。
理屈以上の「呼吸」、すなわち自分の中にある信念や経験をもとに判断するのが本当の学問というものだ。
今の学生はただ一科だけ修めて、多少の智慧が付くと、それで満足してしまっている。しかし、それではダメだ。
世間の風霜に打たれ、人生の酸味を嘗め、世態の妙を穿ち、人情の機微を究めて、しかる後に経世(世の中を治める)の要務を談ずることができるのだ。
③新渡戸稲造『武士道』
武士道は知識のための知識を軽視した。知識は本来、目的ではなく、知恵を得る手段である、とした。(中略)
知的専門家は機械同然とみなされた。知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられた。
④昭和の知の巨人、安岡正篤『運命を創る』
人間は「本質的要素」と「付随的要素」から成る。
「本質的要素」とは、これをなくしてしまうと人間が人間でなくなるという要素であり「徳」とか「道徳」という。
具体的には、人を愛するとか、人を助けるとか、人に報いるとか、人に尽くすとか、あるいは真面目であるとか、素直であるとか、清潔であるとか、よく努力をする、注意をするといったような人間の本質部分である。
もう一つは「付随的要素」で、大切なものではあるが、少々足りなくとも人間であることに大して変わりないというもので、例えば「知性・知能」や「技能」といったものである。
ことに戦後の学校教育は非常に機械的になり、単なる知識や技術にばかり走っている。近来の学校卒業生には、頭がいいとか、才があるとかという人間はざらにいるが、人間ができているというのはさっぱりいない。
そのために、下っ端で使っている間はいいが、少し部下を持たせなくてはならないようになると、いろいろと障害が出るといった有様だ。これは本質的要素を閑却して、付属的方面にばかり傾いた結果である。
⑤P・ドラッカー『経営者の条件』
知識やスキルも大切だが、成果をあげるエグゼクティブの自己開発とは、真の人格の形成でもある。
⑥S・コヴィー『7つの習慣』
建国から約150年間に書かれた「成功に関する文献」は、誠意、謙虚、誠実、勇気、正義、忍耐、勤勉、質素、節制、黄金律など、人間の内面にある人格的なことを成功の条件に挙げている。私はこれを人格主義と名づけた。
ところが、第一次世界大戦が終わるや人格主義は影をひそめ、成功をテーマにした書籍は、いわば個性主義一色になる。
成功は、個性、社会的イメージ、態度・行動、スキル、テクニックなどによって、人間関係を円滑にすることから生まれると考えられるようになった。
⑦稲盛和夫『生き方』
人の上に立つ者には、才覚よりも人格が問われる。
戦後日本は経済成長至上主義を背景に、人格という曖昧なものより、才覚という成果に直結しやすい要素を重視してリーダーを選んできたが、それではいけない。
西郷隆盛も「徳高き者には高き位を、功績多き者には報奨を」と述べているし、明代の思想家呂新吾は著書『呻吟語』の中で「深沈厚重なるは、これ第一等の資質。磊落豪雄なるは、これ第二等の資質。聡明才弁なるは、これ第三等の資質」と説いている。
この三つの資質はそれぞれ順に、人格、勇気、能力とも言い換えられる。(一部要約)
道徳>>>権力
権力におもねる人は、一時的には厚遇を受けても長続きしない。
道徳を大切にする人は、一時的に不遇なことがあっても、結局は永遠の幸せを得られる。
これは菜根譚前集第1条。道徳の重要性を高らかに宣言している。このあたりは儒家らしい。
道徳>才能、道徳>権力と、とにかくどんな逆境にあっても道徳を大切にすることが幸せに通ずるという信念が読み取れる。
これは現代のビジネスパーソンにもそのまま当てはまるだろう。時の経営陣や上司におもねて出世しても、最後に物を言うのはその人の「徳」である。「善いことや正しいことを美しく為す」という高次の能力が無ければ、厚遇は一時的なものに留まるだろう。
リーダーは広く世界を捉えた方が良い
世事において、あることに深く立ち入ったり詳しくなりすぎると、権謀術数の心もまた深くなっていく。
だから君子は、世事に熟達しているよりは、むしろ世事に疎く、素朴な方がよい。
これを読むと思い出すのが西郷隆盛である(西郷の言動は『南洲翁遺訓』に詳しい)。西郷は何か特定の分野に精通していたわけではなく、天が示す正道(正しくて道理のあること)に従って生きるということだけを徹底し、周囲から尊敬を集めた。
皆さんの上司にいないだろうか。自分の得意分野については、やたらと細かく意見してきたり、注文を付けて来る人が。人の上に立つ者の仕事は、実務そのものではなく、メンバーに「やりがい・成長・心理的安全性」を与え、やる気と能力を引出すことである。
あまり一つの分野に精通しすぎてはいけない。企業のトップに、技術系ではなく事務系、しかも企画部門や総務部門といった全体最適を考える畑出身が多いのも、そういった理由だろう。
上機嫌と感謝が人生を幸せにする
暴風雨の日には、鳥や獣でさえも悲しそうである。ところが天気晴朗の日には、草木でさえもうれしそうである。天地間には一日として和気がなくては幸せに暮らせない。
人の社会でも、和気を以て互いに相交り、感謝して満足する心がなくては幸せになれない。
人間は意識して「上機嫌」を維持し、感謝し続けなければならないことを言っている。この「上機嫌」は古今東西、数々の偉人が重要性を強調しているので、その一部を紹介したい。
①アラン『幸福論』
何かのはめで道徳論を書かざるを得ないことになれば、私は義務の第一位に上機嫌を持ってくるに違いない。
人生の些細な害悪に出会っても、不機嫌で自分自身の心を引き裂いたり、それを伝染させて、他人の心を引き裂いたりしないように、努めねばならない。
幸福の秘訣の一つは、自分自身の不機嫌に対して無関心でいることだ。相手にしないでいれば、いずれ消滅する。これこそ、本当の道徳の最も重要な部分だ。
自分が不幸であることに不機嫌になってはいけない。不幸なだけでも十分なのに、不機嫌になることはそれに輪をかけて二重に不幸になる。
②ヒルティ『幸福論』
例えば君が風呂に行くとする。そこではどんな不都合が起きるかを予め考えておくのがよい。行儀の悪い者、うるさい者などもいるだろう。
そうすれば、入浴中に何か気に入らないことがあっても「自分はただ入浴をしに来たのではない。自分の自由と品性を保とうと欲したのだ。この件で怒ったり不機嫌になったりしたら、自分はそれをよく保ちえないだろう」と考えればよいのだ。
③福澤諭吉『学問のすすめ』
表情や見た目が快活で愉快なのは、人間にとって徳の一つであって、人付き合いの上で最も大切なことである。
④佐藤一斎『言志四録』
春風の和やかさをもって人に接し、秋霜の鋭さをもって自らの悪い点を改めよう。
人が自分にどのような態度・反応を示すかは、全て自分の心が整っているか否か次第である。
⑤マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』
克己の精神を持つこと。いろいろな場合、たとえば病気の場合でさえも、機嫌良くしていなければならない。
我々が怒ったり悲しんだりする事柄そのものにくらべて、これに関する我々の怒りや悲しみのほうが、どれほどよけい苦しみをもたらすことであろう。
⑥立命館アジア太平洋大学 出口治明学長
僕は、前職の時代から、現在に至るまで、リーダーのもっとも重要な役目は、「スタッフにとって、元気で、明るく、楽しい職場をつくること」だと考えています(中略)
(私は)部下の前ではできるだけ、不愉快な顔をしないことを心がけています。それがリーダーの最低限の務めです。
これらは一人の社会人として、心に重く響く。自分の精神や心がどんな調子であるかというのは、自分と一緒に働く人にとっては何ら無関係だ。常に一定の状態で接しなければいけないし、不機嫌で周囲のパフォーマンスを下げるなど、プロフェッショナルとして失格である。
進化生物学的には、人間は生存と子孫を残すことに適した形で進化してきたのであって、決して「幸福になるように」は設計されていない。自然界の中で生きながらえられるように、ある程度の用心深さや悲観主義を本能的に持っている。だから、先天的な楽観主義者というものは存在しない。
もし、あなたの周囲に「先天的楽観主義者」のように見える人がいたとしたら、その人は周囲からそう見られるように努力しているに違いない。特にビジネスシーンでは「職業としての上機嫌」が求められるだろう。
家庭も大切
家庭の中にこそ一個の真の仏があり、日々の生活の中にこそ一種の真の道がある。
まさに人の心が誠で気が和らぎ、穏やかな顔つきで優しい言葉を使い、そして父母兄弟の間がまるで体がとけあうように気持ちが互いに通じ合えば、正座をして息を整え、座禅して念を凝らすことよりも数万倍の効果があろう。
比較的、社会との関わりについて説くことの多い菜根譚にあって、珍しく「家庭の中にこそ、真の安らぎがある」と説く。
この家庭の大切さは、キリスト教の精神にも適うものであり、自己啓発本の元祖であるサミュエル・スマイルズ著『自助論』ではこのように表現されている。
「社会の中でわれわれが属している最小単位、すなわち家族を愛することが社会全体を愛するための第一歩である」と政治思想家バークは語っている。
確かに人生において「家庭」は重要だ。ここから先は洪自誠の見解ではなく、私の持論だが、人間を取り巻く基本的な構成要素には、大きく、
①家族・親族
②仕事・社会
③友人・プライベート
④自分自身
の4つがある。
そして、この4つの要素とも、全てが順風満帆ということは多くない。家族とうまくいかないこともある、仕事でミスが続くこともある、友人に裏切られることもある、自分自身の感情をうまくコントロールできないこともある。
しかし逆に、全てが全て上手くいかない、ということも多くない。例えば、何かが上手くいかなくとも、別の何かが自分を支えてくれるはずだ。仕事がうまくいかなくても、家族が話を聞いてくれるかもしれない。友人とモメても、自分に気力があれば乗り越えられるかもしれない。
だからこそ、常にこの4つとは真摯に向かい合っておく必要があるのではないか。
4つのうち家庭は、菜根譚にあるように、本来は真の安らぎを得られる場所だ。家族としっかり向き合い、家庭をそのような場にせよ、という教えでもあるのだろう。
人生は苦しい中に活路や生きがいがある
あれこれと苦心している中に、とかく心を喜ばせるような面白さがあり、逆に、自分の思い通りになっているときに、すでに失意の悲しみが生じている。
世の東西に関わらず、「苦難の中にこそ、生きる意味が見いだせる。そして、生きる意味を見出した者こそ、強い」という趣旨の金言は多い。
ナチスドイツ支配下において、強制収容所に収容された精神科医ヴィクトール・フランクル(1905-1997)は、その著書『夜と霧』の中で、このような趣旨のことを述べている。
苦難の極限状態にだったからこそ、自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚できた人がいる。そのような人は、生きることから降りられない。
そして、収容所で最後まで生き延びたのは、未来に対する希望や生きる意味を見失わなかった者だ。
また、同じく精神科医の神谷恵美子(1914-1979)は、著書『生きがいについて』で、同様の内容を述べている。
本当に生きている、という感じをもつためには、生の流れはあまりにも滑らかであるよりは、そこに多少の抵抗感が必要であった。
したがって、生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間のほうが、かえって生存充実感を強めることが少なくない。
もちろん、困難が継続する状況はつらいに違いないし、出来ることなら避けたいと思うのが人情。よって、困難の中にいる人に対して、外から掛けられる言葉ではないが、「生きるのが苦しい時間の方が、かえって生存充実感を強める」という言葉は、自分が苦しくなった時のために、胸に刻んでおきたい。
人は自分にではなく、机に頭を下げに来る
私が高い地位にいるとき、他人があがめているのは、私自身ではなくて、私の地位である。
彼らはもともと私自身をあがめているのではないから、どうしてこれを喜ぶことができようか。
これは数ある菜根譚の箴言の中でも、トップレベルに素晴らしいものの一つだろう。特に管理職の皆さんは肝に銘じてほしい。
人は自分にではなく、自分の机に頭を下げにくるのだ。決して自分が偉いのではなく、自分の地位が偉いだけなのだ。これを勘違いしている人の実に多いこと。
地位が上がると、自分が偉くなった気になってしまう。周囲がちやほやしてくれるので気持ちよく、やたらと部下を飲み会やゴルフ等に誘う人がいる。皆さんは大丈夫だろうか。
「最近、会社に行くことや、飲み会が楽しくなってきたな」と思っている方がいれば要注意。それは明確に周囲が気を遣っているだけである。
そして、その気持ちよさは麻薬となり、いつまでも会社や地位にしがみ付く。老害なんて呼ばれる。こうなったら最悪である。
自分の存在や悩みの小ささを認識する
広大に見える山河や大地も、宇宙のものさしから見れば、微塵のようなものである。ましてや、微塵の中の微塵ともいうべき人間は、言うに及ばない。その人間の肉体も、泡や影のようなはかないものである。
ましてや、その影のまた影というべき地位や名誉などは、言うに及ばない。だが、最上の智者でなければ、このことを悟ることはできない。
人間という存在の小ささを認識し、自分への執着や、財産・地位・名誉への欲求を戒めている。
洋の東西は違えど、ローマ帝国五賢帝の一人であるマルクス・アウレリウス・アントニヌスは著書『自省録』の中で同じ趣旨のことを主張している。ローマ帝国最大版図の時期に近いアントニヌスの言葉というところに、凄みがある。
我々の住む所はこの地球のなんと小さな片隅にすぎぬことよ。全く地球全体が一点にすぎないのだ。
人間の悪に対する不満か、名誉欲か。自分自身の魂の中ほど平和で閑寂な隠れ家はない。
世界全体から自分を見れば、どれだけ自分が小さいかが分かる。この、自分を客観視する手段は、他にも菜根譚の中では「病気になったらどうか」「年老いたらどうか」「死んだらどうか」という形で以下のように紹介される。
性欲が火のごとく盛んであっても、ひとたび病気になったときのことを思ってみれば、たちまち興味もさめて冷え切った灰のようになる。
名声と利益を求める気持ちが飴のように甘くても、ひとたび死ぬときのことを考えてみれば、たちまち味わいもなくなる。
仮に老人の心になって若い者を見てみれば、たがいに功名を競って走り回るような心は消し去ることができる。
人間は自らの理性で「幸せ」を作り出さなければならない
人生の幸不幸の境目は、みな人の心が作り出すものである。釈迦も同じことを言っている。
そもそも、進化生物学的に、生物は自身の生存と子孫を残すことに適する形で進化してきたのであって、幸せになるようには設計されていない。幸か不幸かを決めるのは、人間自身である。
この「苦しみの原因は客観的事実ではなく、主観的解釈」という考え方は、非常に古くから多くの人が言及している。もちろん全ては網羅できないが、主要なものを年代順に列記してみる。
事態が人間を不安にするのではなく、事態に対する見解が人間を不安にする。
エピクテトス
・事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、わずらわしいのはただ内心の主観からくるものにすぎない。
・我々が怒ったり悲しんだりする事柄そのものにくらべて、これに関する我々の怒りや悲しみのほうが、どれほど苦しみをもたらすことであろう。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』
現実世界のいかなる出来事も、主観と客観という二つの側面から成り立っている。
だから、客観的半面が全く同じでも、主観的半面が異なっていれば、また、これとは逆に、主観的半面がまったく同じでも、客観的半面が異なっていれば、現在の現実世界はまったく別様なものになる。(中略)
「客観的に現実にいかなる事態なのか」ではなく、「私たちにとって、いかなる事態なのか、私たちが事態をどう把握したのか」が、私たちを幸福にしたり不幸にしたりするのである。
ショーペンハウアー『幸福について』
・悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。
・私は義務の第一位に上機嫌を持ってくるに違いない。人生の些細な害悪に出会っても、不機嫌で自分自身の心を引き裂いたり、それを伝染させて、他人の心を引き裂いたりしないように、努めねばならない。幸福の秘訣の一つは、自分自身の不機嫌に対して無関心でいることだ。
・人間にとって、自分以外にほとんど敵はいない。人間は、自分の間違った判断や、杞憂や、絶望や、自分に差し向ける悲観的言動等によって、自分自身の敵になる。ソクラテスの時代、デルフォイにあったアポロン神殿の入口には「汝自身を知れ」と書いてあるではないか。
アラン『幸福論』
世の中の人は皆、幸福を求めているが、その幸福を必ず見つける方法が一つある。それは、自分の気の持ち方を工夫することだ。
幸福は外的な条件によって得られるものではなく、自分の気の持ち方一つで、どうにでもなるのだ。
デール・カーネギー『人を動かす』
悲観主義者はすべての好機の中に困難を見つけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす。
A pessimist sees the difficulty in every opportunity; an optimist sees the opportunity in every difficulty
イギリス首相 ウィンストン・チャーチル
(例えば)自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。いずれも主観に委ねられているからこそ、わたしはどちらを選ぶこともできます。
つまり、われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのです。
われわれは、客観的な事実を動かすことはできません。しかし主観的な解釈はいくらでも動かすことができるのです。
岸見一郎他『嫌われる勇気』
ミュンテ博士らは、笑顔に似た表情をつくると、ドーパミン系の神経活動が変化することを見いだしています。
「ドーパミン」は脳の報酬系、つまり「快楽」に関係した神経伝達物質であることを考えると、楽しいから笑顔を作るというより、笑顔を作ると楽しくなるという逆因果が、私たちの脳にはあることがわかります。
池谷裕二『脳には妙なクセがある』
つまらない人間にはヒマを与えてはいけない
人生は、あまりに閑すぎるといつの間にか雑念が生じてくるし、あまりに忙しすぎると本性を発揮できない。
人は時間を持て余すと、ロクなことを考えない。適度に忙しい方が良い人生を送れるのだ、ということを言っている。
これは古今東西で真理のようで、数々の偉人たちが同じ趣旨のことを述べている。
小人閑居して不善を為す(=教養や人徳のない小人は、一人でいたり時間を持て余すと悪事を犯す)
『大学』(四書五経の一つ)
人は退屈なので、それから逃れるために、心配したり怒ったりする。もし彼が朝から晩まで働いていたら、これほど退屈しなかったに相違ない。だから金持ちは退屈するし、ロクなことをしない。
自分自身の内側に財産を持っていないものは、倦怠に待ち伏せされ、やがて捕まってしまう。
アラン『幸福論』(一部要約)
時間を浪費していては精神の中に有害な雑草がはびこるばかりだ。何も考えない頭は悪魔の仕事場となり、怠け者は悪魔が頭を横たえる枕となってしまう。
航海においても、船員たちは暇が多いほど不平不満をつのらせ、船長に刃向かうようになる。そのことを熟知していたある老船長は、何も仕事がなくなると、必ず「イカリをみがき上げろ!」と船員たちに命じたそうである。
サミュエル・スマイルズ『自助論』
人間は何かやっている時が一番満足しているものである。
というのは、仕事をした日彼らは素直で快活で、昼間よく働いたと思うものだから、晩は楽しく過すのであったが、仕事が休みの日にはとかく逆らいがちで喧嘩っぽく、豚肉やパンや何かに文句をつけ、終日不機嫌でいるのだった。
それで私はある船長のことを思い出したのである。彼は部下の者にたえず仕事をあてがっておくことにしていた。ある時、航海士がやってきて、仕事はすっかりすんで、もう何もさせることがないと告げると、彼は言ったものである。「では錨を磨かせるがよい」
ベンジャミン・フランクリン『フランクリン自伝』
ちなみに英語には「Idle hands are the Devil’s workshop」という同じ意味の諺がある。
日本で振り返ると、一昔前の労働組合運動などはその典型ではなかろうか。もちろん、労働者が団結して、自らの処遇や労働環境を良くすることは尊重されるべきである。しかし、旧国鉄の労組がそうであったように、政治的イデオロギーと相まって、毎日のように会社と団体交渉を繰り返すような労組運動は健全とは言えない。
仕事が充実していて、日々忙しく働いていれば、あれだけ労組運動に時間やパワーを割けなかったはずである。それだけヒマだったということだろう。ちなみに労使問題は国鉄分割民営化の一つの原因であった。
ちなみに1975年には8日間にわたって、国鉄のほぼ全線でストライキが行われた。ストライキが禁止されていた国鉄職員が、ストライキ権を求めてストライキをやるという、なんとも訳の分からない所業で、歴史的には「スト権スト」と呼ばれる。
上:国鉄が止まり、マイカー渋滞が発生
下:地下鉄に乗るための長い列(池袋駅)
日本経済は大混乱である。また、同時期のものかは不明だが、国鉄労働運動では、自社製品である車両にもスローガンが描かれていた。
これが日本の民度かと思うと、悲しくなるばかりである。
人事部長のつぶやき
上司の心得
完全な名誉、立派な節操という評判は、独り占めしてはならず、そのいくらかを他人に譲り与えるべきだ。
不名誉な行為や評価は、他人に押し付けず、自分が引き受けなければならない。
上司の手柄は部下の手柄、部下のミスは上司のミス、ということ。分かってはいても、なかなかできないもの。
しかし「そう考えることが、長期的に自分の幸せにつながるのだ」と割り切り、条件反射的に「自分の手柄を部下の手柄に、部下のミスを自分のミスに」できれば、少しは「徳」の状態に近づける、かも?
引き際が大切
功成り、名遂げ、身退くは、天の道なり(『老子』第九章)
功績が成り、名声が遂げられたら、すみやかに身を退くのが天の正しいあり方である。
これは菜根譚ではなく「老子」の言葉ですが、「名声を独占しない」「一歩引く」という菜根譚の基本思想の一部をなすものです。
ある程度の地位に登ったら、成果や手柄は全て部下のものとし、自分は部下を支援するような立ち位置でありたいところ。
しかしながら、いつまでも過去の栄誉にすがり、現役実務世代に権勢を振りまく人というのも存在します。本人は「組織のため、部下のため」と思っているので非常にタチが悪い。サークルのOBが現役生に向かってあれこれ指図するようなものです。
間違っても「老害」などとは、言われたくないですね
パワハラを予防するために
人の欠点を指摘する際には、その人が指導に耐えうるか考えよ。
また、目標を設定する際には、日々その人が意識できる程度のレベルにすべきであって、あまりに高い目標にしてはならない。
現代のビジネス本に書いてあってもおかしくない内容。特に昨今、世間の「パワハラ」に対する目が厳しくなってきています。必要な指導を躊躇することはないでしょうが、
・若者の「働きやすさ」志向、少子化による人材難
・告発ハードルの低下、コンプラ重視の傾向
・威圧感を与える指導しかできない人に、仕事は制御できない
ことを総合的に考えると、パワハラ体質の人は自然に淘汰されていくでしょう。
短期ではなく長期を考える
世間を渡っていく際には、わざわざ目立った功績をあげないようにせよ。
過ちがないということ、それ自体がすでに功績なのである。
なかなか解釈は難しいですが、短期的な功績を追うのではなく、地に足を付けて、長期的に正しいことを為すべきだ、というように理解できるかと思います。
ビジネスパーソンにも、すぐに応用できる考え方ですね。とにかく上にアピールするために、やたらと前任者を否定して新しいことをやりたがる人もいますが、特に管理職にはこのような視点が大切だと思います。
中国古典の比喩のうまさ
道徳心に基づく富貴や名誉は、山林の中の花のようだ。自然に枝葉が伸び茂っていく。
事業の成功によって得られたものは、鉢植えや花壇の花のようだ。移しかえられたり、捨てられたり拾われたりというありさま。
権力によって得られたものは、花瓶の中の花のようだ。根がないのだから、やがて萎むのは目に見えている。
The 儒教、のような教え。中国の古典に共通するが、比喩が非常にうまい。
褒められることをやるのではなく、正しいことをやる
立派な行いをして、そのことを他人に知ってほしいと焦る者は、善意の行いも、そのまま悪の根源となってしまう。
人間とは弱い生き物で、何か善いことをしたり、正しいことをしたりすると、誰かに褒めてもらったり、認めてほしくなる。特にビジネスの場面では、上司や役員にアピールしたくなることもある。
しかし、誰も見ていなくとも、誰からも評価されなくとも、自分自身の中で座標軸を持ち、正しいこと、善いこと、美しいことを為す。そうでなければ、「徳」は実現されない。
分かっちゃいるんですけどね、頭では・・・
下らない会社の飲み会には行かない
今の人の不徳や過失をあれこれ言うよりは、昔の人の立派な言動について語る方が有益だ。
菜根譚の中でも、私が特に好きなフレーズの一つ。何故なら会社の飲み会に通ずるから。
会社の飲み会というものは、まあ上司や他部署の愚痴が多い。或いは、誰かの噂話だったり、人事の話だったりする。いやあ、不毛である。それよりは、早めに家に帰って本の1冊でも読んだ方が、よっぽど有益だろう。
ちなみに、ドイツの哲学者ショーペンハウアーのこのフレーズも小気味いい。
・自己の内面の空虚と単調から生じた社交の欲求が、人間を集まらせる。
・くだらぬ人間は皆、気の毒なくらいに社交好きだ。
・優れた人たちがこういう一般の人間と交際したとして、いったい何の享楽が得られようぞ。
つまらない人を相手にしない、上司には媚びない
小人とけんかするな。小人には小人なりの相手がいる。君子にこびへつらうな。君子はもともと、えこひいきはしない。
「忙しい」が口癖になっていないか
歳月はもともと悠久なものであるが、心の忙しい者は短いと感じる。
天地はもともとゆったりと広いのであるが、心のいやしい者は狭いと感じる。
四季の風・花・雪・月はもともとのびやかであるが、あくせく働いている者むしろ煩わしいと感じられる。
歳を重ねると、花鳥風月に興味を持つ方が増えるのは、心や生活に余裕ができたからなのであろう(例えば盆栽は明確に年配者の趣味である)。
社会には「忙しい」が口癖の人がいる。睡眠時間が短いことを自慢する人もいる。手帳を予定で埋めたがる人もいる。そういった人には、時間は短く、世界は狭く、自然現象は煩わしいものなのであろう。そうなっていないか、たまに自分に問う必要があるだろう。
刺激に反応するだけの存在になっていないか
風がおだやかで浪が静かなところにこそ、人生の真境(真実の境地)を見ることができ、味が淡泊で声がおだやかなところにこそ、心と体の本然(本来の状態)を知ることができる。
ものごとに熱中するあまり、心の中に波が立っている人。濃厚な味付けを好み、大声でしゃべりまくる人。そういった人は、「真善美」の境地に達することができない。
ここまでひどくなくとも、皆さんは、スマホから流れてくる大量の情報を常に消費し、外部からの刺激に反応するだけの存在になっていないだろうか。
自分の時間と空間を確保する大切さ
忙しくてがやがやしている時には、ふだん記憶していたことも、ぼんやり忘れ去ってしまう。だが、心が清らかでおだやかな境地になると、遠い昔に忘れ去っていたことさえも、またありありと思い出されてくる。
静かであるか騒がしくしているかの少しの違いで、心が暗くなるか明らかになるかの違いがにわかに出てくる。
仕事のアイデアを思いつくのは、がやがやしたオフィスではなく、新幹線に乗っているときなどの静かな時間。そのような時には、普段考えないようなこと、例えば家族への感謝、自分自身の来し方行く末、日々の反省などが頭に去来することがある。
しかし、日々仕事に追われ、空いた時間や寝る前にはスマホを見て、一切「静かな」時間を取らなければ、ただ時間を消費し、空虚に人生が流れていくだけだ。
少なくとも週に1度は、静かな時間を確保したいものですね。
煩わしい人間関係や自分の煩悩を、所与として考える
俗世から抜け出す方法は、世の中を渡っていく中にあって、必ずしも人との交わりを絶ち、世捨て人になることではない。
また、自分の本心をはっきり悟る工夫は、心を究め尽くす中にあり、必ずしも欲望を絶ち、心を灰のようにすることではない。
人間が徳の境地を達するためには、必ずしも世を捨てて隠居したり、欲望の一切を投げ捨てたりする必要はないということ。
そもそも、通常の社会生活を送るビジネスパーソンが隠居するなど難しいし、自分自身に「金持ちになりたい、会社で誰かに褒められたい」といった欲求が一切「ない」と考えるのは不自然だし、自らを偽ることになる。
むしろ、煩わしい人間関係や、自分の煩悩の存在を認めながら、それをどう自分の理性で制御していくかを考える方が現実的であろう。