「老子」「荘子」
基本情報
初版 不明(紀元前6~3世紀?)
出版社 角川ビギナーズ・クラシックス
難易度 ★★★☆☆
オススメ度★★★☆☆
ページ数 270ページ
所要時間 3時間00分
どんな本?
「上り坂の儒家、下り坂の老荘」のとおり、何事にも「前向き&改善」を志向する儒家に対して、何にも執着せず、とにかく自然のあるがままの姿であることを説く。
良い政治の序列は「無為(道家)>仁徳(儒家)>恐怖(法家)」とされており、それぞれに対応する「老子・荘子」「論語」「韓非子」を読み比べるとさらに理解が深まる。老子・荘子の神髄は「般若心経」にも通ずる。
老子と荘子が伝えたいこと
人間は自ら苦しみを生み出す存在である。あらゆる人為を捨て、自然のあるがままに、つまり無為自然に生きることが最善の道だ。
世界における万物の相違などは意味を持たない。あらゆるものは、それが存在する以上、存在する理由と価値があるのだ。
「大言壮語はするが実用性に乏しく、現実味がない」と批判されることもあるが、それは我々の思想が高邁過ぎて凡人には理解できないだけだ。
著者
老子(生没年不明)
諸子百家(中国の春秋戦国時代(BC770-BC221)に活躍した多数の思想家の総称)のうち「道家」の開祖とされるが、実在が疑問視されることもある。
儒教の人為的な道徳や学問を否定し、宇宙の根本を道や無と名づけ、これに適合する無為自然への回帰を人間のあるべき姿と説いた。
荘子(BC369-BC286?)
老子の思想を継ぎ、道家の思想を発展させた。生死・善悪・美醜・真偽などは人為的かつ相対的なもので、世界における万物の相違などは意味を持たないという「万物斉同」を説いた。
こんな人におすすめ
(年齢にかかわらず)今は人生の「下り坂」かなと思っている人、世の中の複雑さやスピードに疲れた人
基礎知識(儒家・法家・道家)
①儒家(孔子・孟子・荀子)
仁と礼で民衆を啓蒙し、徳で国を治めよう。
②法家(韓非)
世の中は凡人で出来ているのだから、仁や礼は意味をなさない。法律と術数で、厳格に国を治めよう。
③道家(老子・荘子)
儒家も法家も考え方が人為的すぎる。この世の大きな原理・原則に従い、自然のあるがままに生きよう。
要約・あらすじ
老子
■「天の道」は言語化できないが、あらゆるものに先立つ。自然のままに、無理をせず生きるべきであって、人間が後から作ったあらゆる人為的なものは排除すべきだ。この世や人民を「仁」や「徳」で統治しようとするのは誤っている。
■「無」があるから「有」がある。それは空間(=無)があるから家(=有)が成り立つのと一緒だ。天の道は目に見えない無であり、それに従うのが正しい生き方だ。
■不自然な行為は長続きしない。自慢、背伸び、自説への固執、食べ過ぎが長続きしないのと同じだ。「足るを知る」ことで人生は豊かになる。
■良い政治の序列は「無為(道家)>仁徳(儒家)>恐怖(法家)」である。本当の有徳者は徳など気にしない。徳が無いから徳を維持しようとする。それが出来なくなると仁愛が、次に正義が、最後には礼儀正しくあれと説かれる。
■無為の道を行くために必要なものは①(自然の感情の発露としての)慈愛、②慎ましさ、③天下の人々の先頭に立たないことの3つだ。
■理想の国家とは、国は小さく人口は少なく、文明の利器は使わず、文字を捨てて原始の世界に戻り、自分たちの生活に満足して他国と自国を比べず、国民が一生自国で閉鎖的に暮らすような社会だ。
荘子
■大鵬(伝説上の巨大な鳥)のごとく巨視的に見れば、世界における万物の相違などは意味を持たない。生死、善悪、美醜、真偽等は全て相対的なもので、世の中に絶対的なものなどない。万物は全て同価値であり、優劣など付けられない。これを「万物斉同」という。
■世間でどれほど無価値と烙印を押されても、それが存在する以上、必ず存在する価値や意味があるはずだ。
■あらゆるものは宇宙や自然の変化(=道)とともにあるのだから、病気や死に逆らうのはわがままというものだ。人間は今、たまたま人間の姿を与えられているだけなのだ。
■大泥棒だって、人の家に押し入る勇、最後まで見張ってしんがりを務める義、盗品を平等に分け与える仁など、徳に従っている。世の中、悪人の方が多いのだから、徳はかえって世の中を害している。
■人間は名誉や富のために一身を束縛されるようなことは避け、貧困にあっても自由を謳歌しているべきだ。
学びのポイント
あるべき君主像(老子)
政治に序列を付けるとしたら以下のようになる。
①無為の政治(道家/老子など)
君主の存在さえ意識されない自然のままに任せた政治②仁徳の政治(儒家/孔子など)
仁義にもとづき民を愛し、民からも愛される政治③恐怖の政治(法家/韓非子など)
(趣旨要約)
法律を駆使した厳格な恐怖政治
当時「諸子百家」と呼ばれた様々な学派に、明確な優劣を付けている。これは、ビジネスシーンにも応用できる順序ではないだろうか。
部下の自律的な判断・行動で仕事が進む。結果的に自分の存在感はほとんど無くなる。
リーダーの優れたリーダーシップと人間性で仕事が進む。結果的にリーダーは部下からの信頼を得て存在感を発揮する。
部下に心理的圧迫を与え、それを原動力に仕事を進める。結果的にリーダーは恨まれる。
特に③は今後、流行らなくなるだろう。上司と部下の間の緊張感は重要であろうが、報酬や恐怖といった外部刺激に基づくモチベーションは長続きしない。また、現代では「恐怖」に軸足を置きすぎると、パワハラ扱いされかねない。
現代日本においては、少子高齢化・働き方改革・コンプラ重視という環境の中、恐怖心に基づくマネジメントではなく、人間力(=徳)で部下のやる気と能力を内側から引き出せるリーダーシップこそが求められるはずだ。
ちなみに、かつて元日弁連会長の中坊公平(なかぼうこうへい)が、リーダーたるもの部下に対しては「正面の理、側面の情、背面の恐怖」が必要と言ったそうだ。つまり「部下には論理的に説き、ときどき愛情をかけ、恐れられることで律しろ」という意味で、これを座右の銘にしている管理職も多い。
しかしこれらは「外部刺激」でしかなく、不十分だ。部下が内側から「こう成長したい、これを達成したい、こうやりがいを感じたい」と思えるような手助けを行えるリーダーこそ、今後は求められるだろう。
儒家や法家へのアンチテーゼが続く(老子)
国を治めるには、何も手を出さずに無為の手法が一番である。
民衆に干渉しすぎるとその生活は貧しくなる。厳しい法律を作っても盗賊は減らない。技術が進展すると人々の欲望を刺激する。便利な道具が増えれば世の中は混乱するのだ。
引き続き、儒家や法家への強力なアンチテーゼである。『老子』の後半部分は、同じような主張が繰り返される。老子の言うことは、一つの理屈として存在することは分かるが、やや形而上学的で、通常の感覚では掴みにくい。
現代に例えれば、科学技術の発展を全否定しているようなものだ。その恩恵を全て捨て去るのであれば、アーミッシュ(アメリカで生活する宗教集団。移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足生活をしていることで知られる)のような原理主義に立たねばならない。
思考の幅を広げる一つの手段としては有効だが、実用的かと言われると、なかなか難しいのかもしれない。
、、、という批判を見越してか、一応老子は以下のような反論も残している。こちらも紹介しておかないとアンフェアだろう。
天下の人たちはみな私のことを大きな道を唱えているが愚か者〈不肖〉のようだといっています。そもそも私のいう道は偉大です、だから愚か者のように見えるのです。
私の言葉は甚だわかりやすく、きわめて実行しやすいものですが、天下に(私の言葉の真の意味を)理解する人はなく、実行する人はおりません。
老子の説くユートピア(老子)
(理想の国家は)国は小さく人口は少なく、様々な文明の便利な道具があっても使用させず、人々には死を重大視して遠方の地へ旅などさせません。
舟や車があっても(旅をしないから)これらに乗ることはなく、鎧や武器があっても(戦争をしないから)これを人前に並べるようなことはありません。
人々には(知恵の元となる文字をすてて)昔のようにまた縄の結び目を作って(文字のかわりに)使わせ、自分たちの土地の食べ物をおいしいと思わせ、自分たちの服装を美しいと思わせ、自分たちの住居に安心していつかせ、自分たちの風俗習慣を楽しませます。
(その結果)隣の国とこちらの国とが互いに望めば見えるほど、鶏や犬の声が聞えるほど近くても、人々は老いて死ぬまで互いに往き来しません。
老子は極端な原始帰りを主張する。世の中の変化するスピードの速さや、日々スマホから流れてくる大量の情報に翻弄される現代人には、心地よく聞こえるかもしれない。
様々な人物がユートピア(理想郷)を説いているが、老子のそれは「原始帰り」、以下に紹介するトマス・モアは「原始的共産主義という制度」、フロムや福澤は「人間性への信頼」で成り立っていると言えるだろう。
労働は6時間、物資は共有、特権階級は存在しない、戦争はしない。
私はユートピアの、つまり、すくない法律で万事が旨く円滑に運んでいる、したがって徳というものが非常に重んじられている国、しかもすべてのものが共有であるからあらゆる人が皆、あらゆる物を豊富にもっている国、かようなユートピアの人々の間に行われているいろんなすぐれた法令のことを深く考えさせられるのです。
トマス・モア『ユートピア』
人間には可能性があるので、適当な条件さえあたえられれば、平等・正義・愛という原理にもとづいた社会秩序をうちたてることができる。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』
世界の人民は礼を空気として、徳の海に浴している。これが「文明の太平」である。今から数千年後には、このような状態になるだろうか。私には分からない。
福澤諭吉『文明論之概略』
「無知の知」を超える「万物斉同」(荘子)
私は「誰もが正しいと認める真理」など知らない。だからといって「真理を知らないということを知っている」かと言われれば、それも知らない。「一切のものを知ることができないか」も知らない。
例えば、人間は美しいと思う女性でも、魚や鳥や鹿が見たらどうなのか。人間が美味しいと思う食べ物も、鹿やムカデや鳥からしたらどうなのか。
全ては相対的なもので、何が真理かなど誰も知らない。私が知っていると思っていることだってもしかしたら知らないのかもしれないし、また逆もそうだ。(要約)
「世には多様な価値判断がおこなわれ、さまざまな区別・差別があるが、それらはすべて等しい価値を有するものである。だから知っているとか知らないとかいう議論には意味がない」というのが、荘子の根本思想である「万物斉同」の意味だ。
この議論は、「同じ無知であれば、無知であることを自覚している自分の方が知者であるとの結論を得る(いわゆる「無知の知」)」というソクラテスを超えているように見える。
しかし、ソクラテスの言い分は理解しやすい一方、荘子の言い分は何とも観念的で、「何かを理解しよう」「何かを理解させよう」という意志や意欲は一切ない。それが荘子なのだが、一般に広く理解されたり、日常生活で活用できる考え方かと言われれば、疑問符が付く。
生と死も本質的には一緒(荘子)
人は生きることを喜び、死ぬことを恐れる。しかし人は死んだ後、生きていた時に「もっと生きながらえたい」と願ったことを後悔するかもしれない。
昔、田舎の美女が晋の国王に連れ去られて非常に悲しんだが、王宮で贅沢な生活を始めるや否や、悲しんだことを後悔したそうだ。
また、人は夢を見るが、目覚めて初めてそれが夢だったことを知る。愚者たちは自分が目覚めていると思い込み、様々に価値判断するが、今もなお夢の中かもしれないのだ。
人の生死もそれと同じではないか。(要約)
これは「死を恐れない」という点で危険思想になりかねないが、生への執着を解くという意味では示唆的である。
人間は皆、基本的には少しでも長く生きたいと思う。しかし、今はそう思っていても、死んだ後に(仮に出来るならば)振り返ってそう思うかどうかは誰にも分からない。
実生活の場面では、そうは言っても与えられた人生を精一杯生きる他ないのであるが、荘子から見ると「それが正しいかどうかは、分からない」ということになる。
読書の限界(荘子)
世間では過去の人の言葉を有り難がって、書物を大切にしているが、言いたい究極のものは、決して他人に言葉では伝達できないものである。
老子、荘子ともに言葉に対する不信感は強く、読書に対しても否定的だが、ここまで否定的なものは珍しい。
ショーペンハウエルや孔子も似たような箴言を残しているが、読書を否定しているわけではなく、「本を読むなら、自分の頭で消化できるくらいよく考えよ」ということを言っている。
読書とは他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた筋道を辿るにすぎない。
ドイツの哲学者 ショーペンハウアー「読書について」
子曰く、学びて思わざれば、則ち罔し。思いて学ばざれば、則ち殆し。
知識や情報をたくさん得ても、それをどう社会のために役立てるかを考えなければ意味がない。逆に、社会のために役に立つことを考えるばかりで、知識や情報の裏付けがなければ、独善的になってしまう。
孔子『論語』
人事部長のつぶやき
引き際の大切さ(老子)
功成り身退くは、天の道なり。
非常に有名なフレーズ。やるべき仕事を成し遂げたら、さっさと引退しようということ。
過去、メガバンクが「相談役」を廃止することが話題になったが、それまでは秘書・個室・車の3点セットがほぼ終身で付いていたという。
どれだけ仕事のできる人でも、いつまでも影響力を持っていては下が育たない。組織にとっても、引き際は大切ということだろう。
求めすぎない(老子)
足るを知る者は富む。
これも有名なフレーズなので引用しておきたい。「何かが足りない」と常に理想と現実のギャップを埋めることに追われるのではなく、「今あるものベース」で満足しようという発想。
老子はそもそも「努力」とか「正しいことをしようとすること」自体を否定しているが、それは人間の自然の感情ではないのか?という問いには答えていない。