【人事部長の教養100冊】
「貞観政要」太宗

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貞観政要(表紙)

貞観じょうがん政要せいよう」太宗

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基本情報

初版   700年頃
出版社  角川ビギナーズ・クラシックス
難易度  ★★★☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 208ページ
所要時間 2時間30分

どんな本?

中国史に残る天下泰平の時代をつくった唐の太宗の言行録であり、帝王学の教科書。

元のフビライ・ハン、明の万暦帝、清の乾隆帝の他、北条政子、徳川家康や明治天皇もこれに学んだ。優れたリーダーに必要な条件とは何かを分かりやすく説く、部下や後輩を持つ全社会人の必読古典。

著者(太宗)が伝えたいこと

国を繁栄させるのも滅ぼすのも、リーダーの資質次第である。私が考える「あるべきリーダー像」は以下のとおりだ。

①自らを律することができるリーダー
②法ではなく徳で治めることができるリーダー
③平時から有事に備えられるリーダー

著者

太宗たいそう 李世民りせいみん 598-649

太宗
太宗

唐を建国した李淵の第2子。兄の李建成を殺害し、父の李淵を幽閉して第2代の皇帝太宗(在位626~649年)となった。

このような異常な方法で権力を握った皇帝であるが、統治者としては中国史上でも有数の名君とされ、その統治は「貞観の治」と言われている。

※本書は太宗の言行を唐の歴史家呉兢(679-749 ※諸説あり)がまとめたもの

こんな人におすすめ

「リーダーの必読書」を読んでみたい人。リーダーに普遍的に求められる能力について知りたい人。

本書の背景

唐の太宗は、隋末の混乱以来残存していた突厥、西域諸国などを服属させるとともに、国内では律令制を整えた。また、豊かな農業生産、運河や交通網の整備、書画・工芸の発達などもあり、中国史上類を見ない輝かしい一時期を作り出した。

この非常に平和でよく治まった時代を、当時の元号から「貞観(じょうがん)の治」と呼ぶ。

太宗が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにある。

本書は太宗とそれを補佐した臣下たち政治問答を通して、「貞観の治」における政治の要諦、帝王の目指すべき姿が語られる。

なお、全10巻40篇約280条からなる大巨編だが、角川ビギナーズ・クラシックスシリーズでは入門編として47条が厳選されている。

書評

リーダーの在り方に関する哲学・倫理がテーマであるが、東洋の古典は、西洋に比べて、非常に実用的かつ具体的で、日本人には非常に馴染みやすく分かりやすい。

東洋ではまず過去の実例が示され、そこから得られる実利的な教訓が展開されることが多い一方、西洋ではしばしば「神」から演繹的に議論が始まる。根本原理がどうだの、イデアがどうだのといった、論理に論理を重ねる理性的な思惟によって超越的な原理を求める形而上学のような議論が多い。

その意味で、本書は古典に属するものの、西洋の作品よりはよっぽど読みやすくなっている。

太宗
(角川ソフィア文庫)

※「リーダーの必読書」として不動の一冊

要約・あらすじ

・リーダーには、自らを律することができ、人の意見を素直に聞くことができる人がふさわしい。そのために、リーダーは常に自分を諫めてくれる人を自分の周囲に置くべきだ。

・主君にしっかり仕え、諫めてくれる人材であれば、かつての敵でも区別なく重用すべきである。

・リーダー自らが善行を積み、徳を重ねる努力をした周は800年続き、逆にリーダーが奢侈を重ねた秦や隋は2代で滅びてしまった。前の轍を踏んではいけない。やはり自らを律することが大切だ。

・物事は始めること(創業)と、それを守ること(守成)のどちらが大切か。どちらも大切だが、今は創業の時を終えているので、守成を真剣に考えよう。状況に応じて考え方を変えることが必要である

・リーダーは平時の際に、有事に備えなければならない。平時だからと言って安穏と暮らしていると、いざという時に柔軟に対応できなくなる。

・隋の煬帝は、突厥から国を守るために、ひたすら長城を築いた。しかしそれより、しっかりした人を配置して国防にあたらせる方が賢い。国を守るのは城ではなく人である。

・リーダーは常に謙虚でいなければいけない。リーダーは船、人民や部下は水のようなものだ。水は船を乗せることも転覆させることもできる。また、曲がった木でも道具を使えば真っ直ぐになるように、リーダーも周囲の意見を聞き入れれば聖人になれる。

・直属の部下は、自分の右腕として柔軟に動けるようにしておくべきで、雑事に追われているようであれば、仕事を減らしてやらねばならない。

・政治は武力や法律ではなく、儒学や徳に基づいて行われるべきだ。役人は行政のプロであるべきだが、それ以前に儒学を修めた有徳の人でなければならない。

学びのポイント

まずは自らを律すること(ストア派哲学っぽい)

もし天下を安定させようとするのなら、まずは自分自身を正さなければならない。

国が亡びる原因は、決して外圧ではなく、みなトップ自らの欲望によってその禍根を作ってしまうのだ。

洋の東西を問わず、リーダー論では必ず「自己の制御」が問われる。例えばローマの五賢帝の一人、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、著書『自省録』の中で、このような主張をしている。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス
マルクス・アウレリウス・アントニヌス

人間は神によって理性的に創られたのだから、理性に基づいて生きなければならない。自らの内なる「自然」に従わなければいけない。

私利私欲や不機嫌等は理性で制御し、死・貧困・不健康等の理性ではどうしようもないものは粛々と忍ぶだけだ。

神という存在から演繹的に自己の制御を導き出すあたりは、いかにもヨーロッパっぽい。太宗はどちらかと言えば歴史から帰納的に導き出している。いずれにしても、言っていることは全く一緒である。

無知の知(ソクラテスっぽい)

最近、良い弓矢を手に入れたので、専門家に見てもらったが「木目が良くない」という。私はこれまで弓(武力)で国を平定したが、木目のことすら分かっていなかった。

ましてや、私が天下を取ってからまだ日が浅く、政治の本質などは、より理解が及んでいない。

これに気付いた私は、部下から積極的に政治について意見を聞くようにした。

こちらはソクラテスっぽい。要は「自分は何も知らないという事実を謙虚に認識することが大切だ」という教訓である。

ソクラテスの場合は「ソクラテスより知者はいない」という神託が真実かどうかを確かめるために、アテナイの人々と対話し、「人々は自分の無知さ加減を知らないか、私は知っている。その意味で私が知者だ」という結論に達する。(詳細はプラトン著『ソクラテスの弁明』に詳しい)

これも、先ほどのマルクス・アウレリウス・アントニヌス同様、神(神託)から議論がスタートしているあたりは、いかにもヨーロッパっぽい。

一方の東洋では、「弓の専門家が言ったこと」という極めて具体的で実利的な事例から、同じ教訓が展開される。西洋・東洋の発想の違いという点で、非常に興味深い。

リーダーは平時にこそ有事を思うべき

太宗は言う、「国を治めるには、賢人や能力ある者を任用し、諫諍かんそうを聞き入れれば良いのではないか。難しいことではない」。

魏徴は言う、「古より、帝王は、憂いや危険のあるときには、賢者を任用し、諫めも聞き入れるが、安楽な状態になると、必ず気持ちが緩んで怠慢になる。諫言しようとする者を、ただおびえさせることになり、国は滅びていく。安らかなときにこそ恐れなければならない」と。

これは皇帝でなくとも、ビジネスパーソン全般に当てはまる教訓である。つまり、平時にこそ、最悪を想定して、何らかの予防策を打ったり、対応策をシミュレートしておけということだ。

ただ、人間は弱い。平時には「ああ、平和な時間が流れているなあ」と安心してしまう。「面倒なことが起こらないといいな」などとも思ってしまう。

しかし、それでは、何か不都合や面倒なことが発生した際に、「ああ、面倒だ」と後ろ向きに対応することになる。事前に備えておけば「ついに来たか!」と前向きに取り組めたりするものだ。

頭では分かるが、なかなか実行できない事柄の一つであろう。

最も有名な「3つの鏡」のエピソード

銅を鏡とすれば、衣服や冠を正すことができる。

古を鏡とすれば、世の興亡を知ることができる。

人を鏡とすれば、善悪を明らかにすることができる。

私は常にこの三つの鏡を保持して、自身の過ちを防いできた。

貞観政要の中でも、もっとも有名なエピソードの一つと言えるであろう。元ライフネット生命CEOの出口治明さんは、「3つの鏡」を以下のように解釈されている。

■鏡に自分を映し、元気で明るく楽しい顔をしているかチェックする(銅の鏡)

■過去の出来事しか将来を予想する教材がないので、歴史を学ぶ(歴史の鏡)

■部下の厳しい直言や諫言を受け入れる(人の鏡)これらの3つの鏡、つまり、今の自分の表情(状況)、歴史、第三者の厳しい意見を知ることがリーダーには不可欠である、ということです。

僕は、前職の時代から、現在に至るまで、リーダーのもっとも重要な役目は、「スタッフにとって、元気で、明るく、楽しい職場をつくること」だと考えています。

僕がこう思うようになったのは、太宗の教えに共感したからです。三鏡の話を読んでからは、部下の前ではできるだけ、不愉快な顔をしないことを心がけています。それがリーダーの最低限の務めです。

(出口治明『座右の書 貞観政要』、KADOKAWA、2017年)

銅の鏡の部分にや意訳も含まれているが、「スタッフにとって、元気で、明るく、楽しい職場をつくること」というのは、これからの時代に特に大切な要素であると思う。

人と金をつぎ込めば成長できる高度成長期においては、合理性や論理性(=才)を大義名分に、部下を長時間労働で使い込み、不適なら交代させるという、グイグイ系のリーダーが求められた。

しかし、少子高齢化・働き方改革・コンプラ重視という流れの中、これまでより「人」という資源が希少なっている。よって、長時間労働やパワハラなどはもっての他であるし、「やりがい」や「働きやすさ」が無ければ、人はどんどん会社を去って行ってしまう。

つまり、令和の時代においては、最低限の才に加えて、人間力(=徳)で、やりがい・成長・心理的安全性を提供し、部下の力を最大限発揮させるリーダーシップこそが求められるということだ。出口さんの言う「元気で、明るく、楽しい職場」というのは、この「やりがい・成長・心理的安全性」そのものであろう。

ただし、リーダーといえども、常に「元気で、明るく、楽しい」状態を維持するのは難しいことだ。何故なら、進化生物学的には、人間は生存と子孫を残すことに適した形で進化してきたのであって、決して「元気で、明るく、楽しく」生きるようには設計されていない。

自然界の中で生きながらえられるように、ある程度の用心深さや悲観主義を本能的に持っているのである。

だからこそ、リーダーは「職業としての上機嫌」が求められるのであろう。もし、あなたの周囲に「先天的上機嫌」のように見えるリーダーがいたとしたら、その人は周囲からそう見られるように努力しているに違いない。

業務量のコントロールも上司の仕事

太宗は、部下2名が雑務に追われているのを見て「君たちは私の憂いと心労を助け、耳や目を広く開いて、優秀な人材を探し求めるべきである」と言い、それらの雑務をさらに下の役人に振った。

これはビジネスパーソンなら、誰でも経験のあるシチュエーションではないだろうか。「部下の動きが悪い」と嘆く前に、部下がしっかりと能力を発揮できる環境が整っているかを確認した方がよい。

その最たるものは、先ほども触れた「やりがい・成長・心理的安全性」であるが、業務量が多すぎて雑務に追われているようでは、やりがいは感じられず、成長もできず、心理的にも不安定になる。

業務量の調整は、上司の専権事項だ。そのためには優先順位を明確に示す必要がある。思い付きで部下の仕事を増やしていないか、上へのアピールのための仕事を生み出していないか、リーダーは常に自問自答する必要がある。

「才」は必要条件、「徳」は十分条件

最近の役人は法律に偏重しすぎていて、国がうまく治まらない。役人はもちろん法律や行政のプロでなければならないが、その前に、儒学を修めた有徳の人物でなければならない。

過去の皇帝を見ても、法に任せて統治した者(秦)は、一時的な弊害を救うことができても、滅亡もすぐにやってくる。一方、仁義を根本とした国(周・漢)は長続きした。

このサイトで繰り返し論じている「才」と「徳」の議論である。

皆さんの会社にもいないだろうか。確かに頭は良い。規則やルールについても精通している。言っていることは正しい。しかし、何か人間的魅力に欠け、周囲から敬遠されたり、慕われないような人が。

それが平社員なら、まだいい。自分の能力に応じて仕事をするだけだ。しかし、多くの部下を持つ立場だとしたらどうだろう。リーダーの仕事の一つは、部下の能力を最大限引き出すことだ。自分が10%増の力を出すより、部下各人に10%増の力を出してもらって方が、全体のパフォーマンスは上がる。

ましてや、天下国家を統治したり、企業を経営するといったトップ層には、やはり「徳」が求められる。なぜなら、「才」の部分は部下(或いは最近ではAI)が担ってくれるからだ。

トップが判断すべきは、何が正しく、何が善く、何が美しいかといった大局であり、それでこそ人民や部下はそれに安心して付いていける。国にしても企業にしても、最後に求められるのはやはり「徳」ということだろう。

なお、歴史上、数多くの人々が、同じ趣旨のことを言っている。ここではその代表的なものを時代順に列挙しておきたい。

①洪自誠『菜根譚』

徳は才の主にして、才は徳の奴(ど)なり
(道徳は才能の主人で、才能は道徳の使用人である)

②サミュエル・スマイルズ『自助論』

知性溢れる人間を尊敬するのは一向に構わない。だが、知性以上の何かがなければ、彼らを信用するのは早計に過ぎる。

イギリスの政治家ジョン・ラッセルはかつてこう語ったことがある。「わが国では、いくら天才に援助を求めることがあっても、結局は人格者の指導に従うのが当然の道とされている」。これは真理を言い得た言葉である。

③勝海舟『氷川清話』

学問にも色々あるが、自分のこれまでの経歴と、古来の実例に照らして、その良し悪しを考えるのが一番の近道だ。

小さな理屈は専門家に聴けば事足りる。俗物は理屈詰めで世の中の事象に対応しようとするからいつも失敗続きなのだ。

理屈以上の「呼吸」、すなわち自分の中にある信念や経験をもとに判断するのが本当の学問というものだ。

今の学生はただ一科だけ修めて、多少の智慧が付くと、それで満足してしまっている。しかし、それではダメだ。

世間の風霜に打たれ、人生の酸味を嘗め、世態の妙を穿ち、人情の機微を究めて、しかる後に経世(世の中を治める)の要務を談ずることができるのだ。

④新渡戸稲造『武士道』

武士道は知識のための知識を軽視した。知識は本来、目的ではなく、知恵を得る手段である、とした。(中略)

知的専門家は機械同然とみなされた。知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられた。

⑤昭和の知の巨人、安岡正篤『運命を創る

人間は「本質的要素」と「付随的要素」から成る。

「本質的要素」とは、これをなくしてしまうと人間が人間でなくなるという要素であり「徳」とか「道徳」という。

具体的には、人を愛するとか、人を助けるとか、人に報いるとか、人に尽くすとか、あるいは真面目であるとか、素直であるとか、清潔であるとか、よく努力をする、注意をするといったような人間の本質部分である。

もう一つは「付随的要素」で、大切なものではあるが、少々足りなくとも人間であることに大して変わりないというもので、例えば「知性・知能」や「技能」といったものである。

ことに戦後の学校教育は非常に機械的になり、単なる知識や技術にばかり走っている。近来の学校卒業生には、頭がいいとか、才があるとかという人間はざらにいるが、人間ができているというのはさっぱりいない。

そのために、下っ端で使っている間はいいが、少し部下を持たせなくてはならないようになると、いろいろと障害が出るといった有様だ。これは本質的要素を閑却して、付属的方面にばかり傾いた結果である。

⑥ピーター・ドラッカー『経営者の条件』

知識やスキルも大切だが、成果をあげるエグゼクティブの自己開発とは、真の人格の形成でもある。

⑦S・コヴィー『7つの習慣』

建国から約150年間に書かれた「成功に関する文献」は、誠意、謙虚、誠実、勇気、正義、忍耐、勤勉、質素、節制、黄金律など、人間の内面にある人格的なことを成功の条件に挙げている。私はこれを人格主義と名づけた。

ところが、第一次世界大戦が終わるや人格主義は影をひそめ、成功をテーマにした書籍は、いわば個性主義一色になる。成功は、個性、社会的イメージ、態度・行動、スキル、テクニックなどによって、人間関係を円滑にすることから生まれると考えられるようになった。

⑧稲盛和夫『生き方』

人の上に立つ者には、才覚よりも人格が問われる。

戦後日本は経済成長至上主義を背景に、人格という曖昧なものより、才覚という成果に直結しやすい要素を重視してリーダーを選んできたが、それではいけない。

西郷隆盛も「徳高き者には高き位を、功績多き者には報奨を」と述べているし、明代の思想家呂新吾は著書『呻吟語』の中で「深沈厚重なるは、これ第一等の資質。磊落豪雄なるは、これ第二等の資質。聡明才弁なるは、これ第三等の資質」と説いている。

この三つの資質はそれぞれ順に、人格、勇気、能力とも言い換えられる。(一部要約)

本を読まねば

人は大いに学問をしなければならない。私は以前、武力で世を平定するのに忙しく、読書をする余裕がなかった。君臣父子や政治教化の道は、すべて書物の中に記されている。

昔の人はこう言っている。「勉強しなければ垣に向かって立っているようなもの(何も見えない)。いざ事に臨んだときにも、心が乱れるばかり」。これはでたらめではない。

武力で天下を取った太宗でも、国を治めるには学問が必要であり、そのためには読書が不可欠であると認めている。これは非常に興味深い。

先ほど「歴史の鏡」でも出てきたが、過去を知る術は「本」が圧倒的な割合を占める。人ではせいぜい100年前まで、芸術作品や遺跡は情報量が限られる。やはり本だ。

読書で過去と向き合い、人・仕事・芸術・異文化・体験などを通じて現在と向き合い、内省で将来に思いを馳せる。これらが徳を磨くために必要な要素であろう。

人事部長のつぶやき

裸の王様になっていないか

昔、皇帝に諫言した家臣が、罰として処刑されたと本で読んだ。これには嘆息するばかりだ。皆は、ひたすら正しい主張で忌憚なく私に諫言し、政治に役立つようにせよ。

強く諫言して私の意に背いたからといって、みだりに責めて処罰したりはしない。

これはビジネスパーソンにも、そのまま当てはまる。役職が上がるにしたがって、自分を批判したり、誤りを正してくれる人は少なくなる。しかしそれに気付かず、「偉そうに」している人のどれだけ多いことか。

ちなみに「最近、飲み会が楽しくなってきた」と感じている年長者の方がいらっしゃれば、気を付けたほうがいい。それは「周囲の人に年下が多くなり、自分の話を全肯定で聞いてくれる人が増えた」だけである。

一時期、「#忘年会スルー」とか「#飲み会スルー」という言葉が流行った。最近の若者は飲み会を回避する傾向があるという。いやいや、それは若者が原因なのではない。単純にそれは年長者が彼らの身になる話や、興味深い話を提供できていないということだろう。

特に20代は、自分の成長に投資しなければいけない大切な時期。若者は自分を伸ばす、或いは本当に楽しい飲み会にのみ参加すべきだし、年長者はくだらない飲み会で若者の貴重な時間を奪ってはいけない。

年長者の皆さん(私も含めて・・・)、気を付けましょうね!

中国の壮大さと末恐ろしさ

隋の煬帝が離宮に出かけたところ、その庭の様子が気に入った。

しかし、蛍がいないのを残念に思い、「蛍を捕まえてきて、宮中で闇夜を照らせ」と命じたところ、役人は直ぐに数千人を派遣して蛍を採集し、車五百台分の蛍を離宮に送った。

さすが中国、スケールが違う。文脈としては、煬帝の私利私欲がよく見えるエピソードということで語られるが、それにしても煬帝への忖度っぷりが凄い。中国の皇帝となると、とてつもない権力を握れるということの証左である。

翻って、今の習近平共産党総書記はどうか。メディアを通じての姿しか捉えられないが、どちらかというと質素で地味なイメージである。演説もそれほど派手な演出はせず、淡々とやっている。

一方、ウイグル弾圧等、やっていることは手厳しい。権力は集中しているが、あまり強力なリーダーシップを見せないように配慮しているのであろう。

ちなみに「焚書坑儒」というのもスケール感が凄い。おさらいをすると、焚書坑儒とは、紀元前213年、秦の始皇帝が自らの専制支配を貫徹するため、民間にあった医学・占術・農学以外のすべての書物を焼かせ (焚書)、翌年帝を非難する儒者460人を生き埋めにした (坑儒) こと。

現在、中国共産党が実施しているネット検閲(中国ではGoogleやFacebookが閲覧不能)に通ずるところがある。

中国のスケールは日本人には想像できないところがあり、末恐ろしいですね

太宗
(角川ソフィア文庫)

※「リーダーの必読書」として不動の一冊