【人事部長の教養100冊】
「修身教授録」森信三

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修身教授録(表紙)

「修身教授録」森信三

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基本情報

初版   1989年
出版社  致知出版社
難易度  ★★☆☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 531ページ
所要時間 5時間30分

どんな本?

昭和の名教育者である森信三が、戦前の師範学校で16~17歳の生徒を対象に担当した「修身」の授業録。未来を担う若者に対し、気迫と情熱を持って数々の思慮深い言葉が投げかけられる。

戦後の占領政策で失われてしまった、古き良き日本の道徳教育(仁・義・礼・智など)の雰囲気を感じられる名著。まさに「人間学」の教科書といった趣。

※「修身」とは旧制の学校の道徳に関する教科のこと。英語でいう「Moral Science」で、福澤諭吉が日本語に訳出。福澤著『学問のすすめ』では、「修身学とは身の行いを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり」と定義されている。

著者が伝えたいこと

人生に二度目はない。自分の力を常に余すところなく発揮し、目の前の仕事に打ち込み、懸命に生きることこそ「修養」である。

病気にしても出会いにしても、自分の制御が及ばない要素は天命として粛々と受け入れ、感謝することが最善の態度である。

著者

もり信三のぶぞう 1896-1992

愛知県出身の教育者、大学教授、哲学者。1926年京都大学哲学科卒業。在学時は西田幾多郎の教えを受け、卒業後は同大学院に籍を置きつつ、大阪天王寺師範学校(後の大阪教育大学)の専攻科講師となる。戦後は神戸大学教育学部教授や神戸海星女子学院大学教授などを歴任。

本書は、大阪天王寺師範学校本科での講義をまとめたもの。

こんな人におすすめ

戦前の「修身」の授業の雰囲気を感じたい人、自分の生き方や振る舞いについて一度自省したい人、小学校教諭を目指している人

書評

戦前に行われた講義の記録なので、現代から見ると、愛国主義的であったり男尊女卑的であったりする面は否めない。

また、現代で言う高校1~2年生が対象のため、深遠な倫理・哲学的議論が展開されるわけではなく、あくまで「人間とはどう生きるべきか」「どう徳を磨くべきか」という現実的・実用的なアドバイスが中心となっている。

1回の講義読み切りなので、関心のあるテーマから読み始めても良い。

森信三
(致知選書)

※日本人が大切にしてきた道徳とは何か

要約・あらすじ

※本書は師範学校における「修身」の講義録であり、講義ごとにテーマが異なるため「あらすじ」は存在しない。ここでは、森信三の主要な主張を抜粋・要約する。

(1)真の修養とは

■真の修養とは、生活態度や行動様式ではなく、人間が自己の生命に徹して、懸命に生きようとする態度のことでる。

■修養には大きく2つの要素が必要である。一つは、上記の態度を身に付けること、もう一つは実生活で苦労し、深く自省することである。

■私が人生において持っている根本信念は2つある。①人間の身に降りかかってくる一切の出来事は、自分にとっては必然であり、最善であること。②人の評価は、長期的に見れば、必ず正しいところに落ち着くこと。

■①を言い換えれば、自分の制御の及ばない事柄(病気や出会い等)には好悪の感情を持たず、天命として受け入れ、感謝することが、最善の人生態度であるということだ。人が学問修養をするのは、自分が天から受けた本性を、十分に実現する途を見出すためだ。

■修養の第一義は「仕事」の処理である。その次は、仕事に優先順位を付けることである。そのほか、仕事に優先順位を付けること、実際に着手すること、それを一気呵成にやり遂げること、最初から100点を目指さないことが大切だ。

■人が進むべき真実の道は、「自分が道を拓くのだ」といった野心が消え去って、心身の一切を目の前の「仕事」に向かって捧げきる誠意によってのみ、開かれる。

■人生に二度目はない。この真理は古来ただ一つの例外もない。真の人生は、この「人生二度なし」という真理をいかに痛感するかということから始まる。

■自己の力を余すところなく発揮し、平素から生に徹することが出来ていれば、死が怖くなくなる。ここに死生は同一化し、真実の道は拓かれる。

■人が真に心から願うことは、私心に基づくものでなければ、必ず何らかの形で成就せられる。人生は一度きりなのだから、人間は一生の志を持つべきだ。

(2)処世訓

■人は三食食べなければ生きていけないのに、心の栄養たる読書は疎かにされがちである。「一日読まざれば、一日衰える」と心得るべきだ。何らかの志を為すには、先人達の苦心の跡を辿ってみることがどうしても必要になるはずだ。

■人は自分の人格や徳が確立していないと、目上に対して卑屈になったり、目下に対して傲慢になったりする。常に自らを修養している人は、おのずと謙虚になるものだ。

■批評眼は持った方が良い。ただし、批評的態度は慎んだ方が良い。特に人に対しては、欠点を見るのではなく、長所のみを吸収するという態度が良い。

■人間が気品高くあるためには、一人でいる時に深く己を慎む「慎独」が必要である。そして情熱を持ち続けるには、偉人の伝記を読んだり、優れた芸術作品に触れたりすることが必要だ。

■人間の能力のうち、スキル面は長所をさらに伸ばすのが良い。なぜなら限界がないからだ。一方、性格面は短所を補うのが良い。なぜなら、性格面の長所は磨きすぎると短所になり得るからだ。

■人生を深く生きるとは、悩みや苦しみの意味を深く噛みしめ、それらが自分だけではなく他の人にも当てはまることに気付いて他人を思いやり、そして自分もその他大勢の中の一人であることを理解することである。

■忍耐には2種類ある。一つは自分の怒りを制御する「勘忍」、もう一つは、目的に向かって持続的に努力を続ける「隠忍」だが、自己を制御し、自己に打ち克つという点では共通している。いずれにしても修養としては、「耐え忍んでいる」という意識がなくなることが理想である。

■人間、40歳までは修行時代、それ以降は自分の人生にもはや迷いを持つことなく、社会に貢献していく時代だ。修行時代にどれだけ準備できるかが、後半の人生を決める。

学びのポイント

修養≒ストイックに生きること

(病気など)大よそわが身に降りかかり事柄は、全てこれを天の命として謹んでお受けするということが、我々にとては最善の人生態度と思うわけです。

ですからこの根本の一転に心の腰の据わらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。

したがってここに我々の修養の根本目標があるとともに、また真の人間生活は、ここからして出発すると考えているのです。

さて、以上申した事柄は、これをほかの言葉で申せば、我々はすべて我が身に連なる諸々の因縁をかたじけなく思って、これを疎かにしてはならぬということです。

(中略)

われわれ人間にとって、人生の根本目標は、結局は人として生をこの世に受けたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にないと考えるからです。

これは森信三が、最初の授業で生徒たちに語った「修養・修身」の目的である。すなわち、自分の制御の及ばない事柄については、じたばたしたり、自らを乱したりせず、粛々と受け入れるとともに、その縁を大切にしなければならないということだ。

この「制御の及ばない事柄は天命として受け入れ、囚われない」という考え方は、西洋哲学の文脈で言えば、ストア派哲学に近い。

【ストア哲学の基本的な考え方】

・人間は幸福に生きることを目的にしなくてはいけない。

・財産や地位といったものは人為的で生きる目的にならない。宇宙や自然を支配する秩序や法則に従って生きることこそが、人生の目的となり得る。

・幸福とは、この宇宙を支配する秩序に従い、理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制して、不動心(アパティア)に達することである。

・不動心に至るには、我々にはコントロールできるものとできないものがあることを自覚し、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものに囚われないという態度が必要である。

このストア派哲学の影響を受けているドイツの思想家ヒルティは、著書『幸福論』の中で、このような趣旨のことを述べている。まさに森信三が言っていることと同じ趣旨であろう。

人間にとって負の効果をもたらす要素には2種類ある。一つ目は自ら制御できる「欲望・嫌悪・怒り・不機嫌」で、二つ目は自分では制御できない「病気・死・貧困」だ。

前者は自らの手で積極的に避けるべきだし、後者は何をしても無駄だから、素直に受け入れるのが良い。

読書の効用

人間、読書をしなくなったら、それは死に瀕した病人が、もはや食欲がなくなったのと同じで、なるほど肉体は生きていても、精神は既に死んでいる証拠です。

将来ひとかどの人物になって活躍しようと思うなら、今日から遠大な志を立てて、大いに書物を読まねばならぬでしょう。

それというのも、一人の人間の持つ世界の広さ深さは、要するにその人の読書の広さと深さに、比例すると言っても良いからです。

すなわち諸君が将来何らかの事に当たって、必要の生じた場合、少なくともそれを処理する立場は、自分がかつて読んだ書物の中に、その示唆の求められる場合が少なくないでしょう。

本書では読書の大切さが繰り返し述べられるが、ここでは読書の効用として、「人のキャパシティを広げ、深めること」と「何らかの事象があった際に、それにどう対処するか示唆が得られること」の2点が挙げられている。

これは言い換えると、「目の前で起きている現象が、物事全体の中でどのように位置付けられるかを判断し、それに正しく対応する能力が身につく」ということになろう。これが読書の直接の効用である。

例えば、台風を例に考えてみたい。次の図は、ある人が実際に経験したことのある台風の中心気圧と最大風速を表しているとする。つまり、この人は過去4つの台風の台風について情報を持っているということ。

ここで、来週、これまで経験したことがない気圧と風速を持った台風が日本に上陸するという予報が出たとする()。この人にとっては前代未聞の台風で、想定外の被害が出るかもしれない、と考えることになる。

一方、この人が、この青色の台風だけではなくて、次の図にある赤色の台風も過去に存在し、その際に被害が出なかったことを知っていたらどうか。

この赤色の台風まで考慮すれば、座標軸は変化することになる。何が変化するか。まずは最大値と最小値。自分が知っているより風速が大きいor小さい台風があり、それでも被害は出ないことが分かる。これは思考の幅が広がるということを意味する。

次に平均値。赤色の台風を知ったことで、平均値が変化した。これは何が「普通」なのか、何が「中庸」なのかを正しく認識することに繋がる。

それから分散値、統計学で言えばシグマ。ある物事が、どのくらいの頻度や確率で発生するかという情報も変化する。

すなわち、読書を通じて自分の座標軸を広げておけば、「物事を相対化し、正しく対処する知性」が身につくということだ。

ちなみに、現代経営学の巨人、ピーター・ドラッカーは著書『プロフェッショナルの条件』の中でこう言っている。

ゼネラリストについての意味ある唯一の定義は、「自らの知識を、知識の全領域に正しく位置付けられる人」である。

「仕事」との向き合い方

「仕事」とは修養そのものです。大切なことは、①手際よく処理し続けること、②仕事に優先順位を付けること、③実際に着手すること、④それを一気呵成にやり遂げること、⑤最初から100点を目指さないことです。

現にこのことは、ヒルティという人の『幸福論』という書物の中にも、力説されている事柄であります。

ついでですが、このヒルティの『幸福論』は有名な書物ですから、諸君らもそのうち是非一読されるのがよいと思います。ところがヒルティはこの書物の巻頭を、まずこの仕事の処理法という問題に充てているのです。もって仕事の処理ということが、人間の修養上、以下に重大な意味を持つかがお分かりでしょう。(一部要約)

森信三の言う通り、ドイツの法学者、思想家ヒルティの著書『幸福論』では、1ページ目から仕事論が展開される。例えばこうだ。

人間の本性は働くようにできている。真の仕事なら必ず興味が湧いてくるはずだ。人を幸福にするのは仕事の種類ではなく、創造と成功の喜びである。

人の求める休息は、肉体と精神を全く働かせないということではない。肉体的には睡眠や食事など、自然に与えられる合間の休みであり、精神的には仕事が着々とはかどっているのを見ることによって得られる。

人間の幸福の最大部分は、絶えず続けられる仕事と、そこから生まれる喜びや、やりがいである。人の心は正しい仕事を見出した時ほど愉快になることは無い。失敗の生涯はたいてい仕事を持たないか、仕事が少ないか、適切な仕事を持たないことにその根本原因がある。

また、良い仕事をするための秘訣については、こうまとめている。

まず手を付けてみる(気分は後からついてくる)

最も大切な部分を優先的に考える(物事の本質はほんの数パーセント)

複数の仕事を同時に進める(状況は刻一刻と変化する)

体力と集中力が切れたら休む

無駄な活動で時間とパワーを浪費しないこと(社交は時間の無駄遣い)

皆さんにも思い当たる点はあるのではないだろうか。

西洋と東洋の違い

われわれ日本人は、どうも最初から理論から入るということには不向きな国民のようであります。

そこで最初はまず実例から入り、さらには実行から入るというのが、我々日本人の入り方ではないかと思うのです。

もちろん定量化はできないが、森の言うこの傾向は、東アジア全体に言えるのではなかろうか。

例えば、ソクラテスと孔子を比べてみる。

ソクラテス
ソクラテス
孔子

ソクラテスは、「ある命題が真かどうかを、論理を積み重ねて愚直に探求する」という姿勢で、理性的・論理的に真実を追求し、哲学の祖と言われている。

その弟子のプラトンも、諸々の感覚的存在を超越し,ただ思惟によってのみ把握されうる自己同一的な存在としての真実在(=イデア)の存在を主張した。

ちなみに時代が下って、デカルトは思考の出発点として、誰もが真実であると認められる「共通了解事項」を探したところ、それは「何かを疑っている私自身は、誰にも否定することはできない」という極めて内面的な真理に至る。

一方、ソクラテスと同時代に生きた孔子はといえば、論理的に真実を追求するわけでも、神の存在を認めるわけでもなく、ただ「徳を用いて良く国を治める方」という徹底した実利を追求している。

ソクラテスやプラトンを「観念的・理性的・形而上的」と呼ぶなら、論語は間違いなく「実用的・経験的・形而下的」な書物である。

日本に限って言っても、日本人が「世の中の神羅万象の中に神が宿る」と現実世界を捉えた一方、ヨーロッパや西アジアでは、神羅万象の原因として「唯一絶対的な神」を想定した。このあたりにも、西洋と東洋の違いが表れているのかもしれない。

投資・消費・浪費のバランス

「人生二度なし」という真理は、真に深く自分の生命を愛惜する人には、必然に分かってくるものだと思うのです。

(中略)

諸君らが考えると否とにかかわらず、この二度とない諸君らの人生は、日一日と減っていくわけです。現に諸君らは、すでにその三分の一か四分の一を失っているわけですが、諸君らはそれに対して、果たしてどのような考えを持っているでしょうか。

諸君らの若さとしては、もちろん無理のないことではありますが、しかしそれにしても諸君らは、人生のこの最大問題に対して、意外なほどに迂闊でいるのではないでしょうか。

人生は有限であることを深く認識した上で、自分の時間の使い方について省みよ、という趣旨である。

この「人生・時間は有限だから大切にせよ」という教訓は、古今東西様々な賢者が様々な言葉を残しており、古代ローマの政治家・ストア派哲学者のセネカは著書『人生の短さについて』でこう述べている。

あなたは、たくさんの人たちが、こう言っているのを耳にするだろう。五十を過ぎたら仕事を引退しよう。六十になれば、公の役目からも解放されることだろうと。

しかし、あなたがそんなに長生きする保証が、どこにあるというのか。自分が死すべき存在だということを忘れ、わずかな人たちしか達することのない年齢になってから人生を始めようとするとは、どこまで愚かなのか。(一部要約)

時間を有意義に使えているかを検証するには、時間を以下3つに整理してみると良いだろう。

投資・・・将来のために、現在、何かを為すこと(英語の勉強等)

消費・・・現在のために、現在、何かを為すこと(趣味のカラオケ等)

浪費・・・無駄遣い(ダラダラスマホなど、自分で不本意と思った全て)

20代や30代の頃は、まだまだ人生、先が長いので「投資」部分を充実させておくべきだ。投資に時間を使っても、向こう数十年で回収することができる。だからと言って、あまりに「消費」を抑え込むと、人生自体がつまらなくなる。要はバランスである。一方、浪費は極力圧縮するべきだ。

40代や50代になると、「消費」部分を増大させて良いだろう。これまで投資のために我慢していたことを始める、周囲に忖度することなく自分らしく生きる。20~30代の投資を回収しつつ、人生を充実させていく時期だ。

60代以降は、セネカの言うとおり、自分の身にいつ何が起きるか分からない。投資はやめて、全面的に人生を楽しむ(=消費)時期にして良いのかもしれない。

長所と短所との向き合い方

知識とか技能というような、いわば外面的な事柄については、一般的には短所を補うというよりも、むしろ長所を伸ばす方が、良くはないかと考えるのです。

ところがこれに反して、自分の性格というような、内面的な問題になりますと、私は、長所を伸ばそうとするよりも、むしろまず欠点を矯正することから始めるのが、良くはないかと考えるものです。

「スキル面=長所を伸ばす、性格面=短所を補う(マイナスの分野を作らない)」というシンプルな主張。個人的には本書の中でも最も印象深い教訓の一つ。

確かに、スキル面は勉強からスポーツから手先の器用さから、何から何まで幅が広すぎて、短所を補っていてもキリがない。それよりは、他が全くダメでも、例えば音楽が得意であれば、それだけで世の中に貢献できる可能性は高い。

一方、性格面での長所と短所は表裏一体だ。例えば協調性という長所も、磨きすぎると「依存性が高い」ということになる。それよりは、キレやすいとか、威圧的とか、マイナスをゼロにする方向にもっていった方がいい。性格面は必要条件、スキル面は十分条件とも言い換えられるだろう。

なお、性格の分野では、「ほどほど」が大切であるという趣旨のことを、西洋・東洋の哲人がこのように表現している。

徳を考える上で大切な概念は「中庸」である。例えば節制であれば、両極端である「臆病」と「向こう見ず」の間のどこかに、適切な節制の水準というものが存在する。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』より趣旨要約)
物事は極端すぎてはいけない。道徳において「中庸」であることは大切である。
(孔子『論語』より趣旨要約)

人の本性はいつ表に出るか

すべて物事は、平静無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。

ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違う友見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最後、そこに歴然として、よきはよく悪しきは悪しく、それぞれ正味が現れるのです。

本書では「人の本性は転勤や転職など、出処進退に関わる場面でこそ現れる」という文脈で語られている。しかし、出処進退に限らず、人の本性は普段とは異なる状況で表れるというのは一般的であり、普遍的に言えることだろう。

例えば仕事をしていても、実力差が顕著に表れるのはピンチの時だろう。苦しかったり、切羽詰まった状況でも、正しい判断が出来たり、焦ったりせず冷静沈着でいられたり、目の前だけでなく先のことまで考えられたりできる人こそ、優秀と言える。

仕事が急に立て込んだ時や、上司からダメ出しをくらった時など、普段とは違う時こそ、周囲や部下は自分がどう振る舞うかを見ている。私も含めてだが、仕事をする上では意識したい点の一つと言える。

物事にはすべて意味がある

(最善観という)言葉は、ライプニッツという哲学者のとなえた説であって、つまり神はこの世界を最善につくり給うたというのです。

すなわち神はその考え得るあらゆる世界のうちで、最上のプランによって作られたのがこの世界だというわけです。

したがってこの世におけるいろいろのよからぬこと、また思わしからざることも、畢竟するに神の全知の眼から見れば、それぞれそこに意味があると言えるわけです。

「この世界をどう捉えるか」「自分の身に降りかかる幸・不幸とどう向き合うか」という人生の根本にかかわるテーマ。

まさに考え方は人それぞれだし、ライプニッツはいかにも一神教的で理性主義的ではあるが、「この世のあらゆるものには意味がある」と考えた方が、優しく、前向きになれるのではなかろうか。

例えば先人たちはこのようなことを言っている。

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。考える力を失ったり、病気に苦しむような人、野に咲く花のように、ただ「無償に」存在している人も、大きな立場からみたら存在理由があるに違いない。

もし彼らの存在意義を問題にするなら、人類全体、動植物全体、宇宙全体の存在意義も同時に問われなければいけない。

神谷美恵子『生きがいについて』(趣旨要約)

もし日本に、花は桜だけ、木は杉だけ、鳥はウグイスだけしかなかったら、現在の自然の豊かさはなかっただろう。人間も多様性があっていいのだ。他人と異なることを嘆くより、その違いの中に無限の妙味を感じたい。

松下幸之助は『道をひらく』

存在のレベルで考えるなら、われわれは「ここに存在している」というだけで、すでに他者の役に立っているのだし、価値がある。これは疑いようのない事実です。

岸見 一郎『嫌われる勇気』

どれも、世界や人間の存在をポジティブに捉えていて、実にあたたかみがあると言えるのではないだろうか。

人事部長のつぶやき

個人の自由を尊重すると、企業の自由が制限される。リベラリストの主張が矛盾だらけである、いい事例です

現代から見ると、ちょっと力が入りすぎか

人間の誠も、いい加減に構えているような無力な生活態度ではなくて、真の全力的な命がけの生活でなくてはならぬのです。

否、全力的な生活などということさえ、なお生温いのです。真の誠は、このわが身、わが心の一切を捧げきる常住捨て身の生活以外の何ものでもないのです。

では「死生の問題」は、いったいかに考えたらよいでしょうか。

人によっていろいろ考え方があろうとは思いますが、私はわれわれ日本人としては、自分が天からうけて生まれた力の一切を、国家社会のために捧げ切るところに、真に死生を超える道があると思うのです。

さすが戦前の空気感である。現代の中学なり高校でこういった話をしても、一部の生徒には響くかもしれないが、大部分は「まあ、落ち着け」という態度を取るだろう。

一昔前は許された根性論や精神論も、いまではパワハラ呼ばわりされることもある。「空気を読む」ということも、時には必要ということですね。

現代には「やりがい搾取」のような言葉もありますから、、、

森信三
(致知選書)

※日本人が大切にしてきた道徳とは何か