「昨日までの世界」
ジャレド・ダイアモンド
基本情報
初版 2012年(米)、2013年(日本)
出版社 日本経済新聞出版社
難易度 ★★★☆☆
オススメ度★★★☆☆
ページ数 (上)416ページ(下)392ページ
所要時間 8時間00分
どんな本?
人類の祖先が約600万年にわたり送ってきた生活の特徴が残る「伝統的社会」の人間関係・紛争解決・子育て・高齢者対策・宗教・病気対策・政治などを理解することで、最近1万年で形成された現代人間社会の特徴を浮き彫りにする。
さすが『銃・病原菌・鉄』でピュリッツァー賞を受賞した巨匠ジャレド・ダイアモンドだけあって、進化生物学や文化人類学に造詣が深くなくてもどんどん読み進められる。ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」と併せて読むと、理解が格段に深まる。
著者が伝えたいこと
「伝統的社会」と「現代社会」は、それぞれの環境に応じて最適な仕組みで運営されており、連続的なものである。現代社会のもたらす恩恵も大きいが、伝統的社会から学ぶべき点も多くある。
著者
ジャレド・ダイアモンド
Jared Diamond
1937-
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医学部生理学教授を経て、現在は同大学地理学教授。1937年ボストン生まれ。ハーバード大学で生物学、ケンブリッジ大学で生理学を修めるが、やがてその研究領域は進化生物学、鳥類学、人類生態学への発展していく。
世界的大ベストセラーとなった『銃・病原菌・鉄』ではピュリッツァー賞を受賞。
こんな人におすすめ
進化生物学という考え方のフレームを身に付けたい人。いまだ地球上に残る「伝統的社会」と、現在我々が生きる「現代社会」の相違を、進化生物学を通じて理解したい人。
書評
進化生物学の素人でもどんどん読めてしまうのは、さすがジャレド・ダイヤモンドといったところ。
上下巻でかなりのボリュームがあるので、以下の章のみ抜粋して読んでも構わないとだろう(削った章は、やや冗長であったり、得られる教訓が相対的に少ない)
第1章 友人、敵、見知らぬ他人、そして商人
第2章 子供の死に対する賠償
第3章 小さな戦争についての短い話
第5章 子育て
第6章 高齢者への対応
第9章 電気ウナギが教える宗教の発展
第10章 多くの言語を話す
(日本経済新聞出版)
※伝統的社会を学ぶことで現代社会の特徴をあぶりだす!
要約・あらすじ
■猿人誕生が600万年前、現生人類誕生が20万年前であることに比べ、狩猟採集社会から農耕社会への移行はわずか1万1000年前、初の金属器は7000年前、初の国家・文字出現はほんの5400年前にすぎない。人類が「現代的」生活を始めたのは最近であり、つい「昨日までの世界」は伝統的狩猟社会だった。
■人間社会は大まかに、小規模血縁集団→部族社会(1万1000年頃~)→首長制社会(紀元前5500年頃~)→国家(紀元前3400年頃~)と変化を遂げる。
■伝統的社会においては、人間関係は限定的であり、かつ永続的である。よって、紛争を解決する場合も、重視されるのは関係者間の関係回復である。法律に照らした善悪や過去の判例といった先進国の司法制度は役に立たない。
■戦争での死亡率は、現代国家<伝統的社会である。これは、現代国家の戦争は特定の期間に行われるのに対し、伝統的社会では部族間戦争が常態化しているからだ。また、現代国家の戦争で亡くなるのは成人男子のみ(都市の無差別爆撃などを除く)であり、また捕虜を簡単に殺害したりしないことも影響している。
■伝統的社会での部族間戦争は、報復の応酬であり、どちらかが降参するか滅ぼされるまで終わらない。しかし、オーストラリア人が銃器で平和を守ってくれることを知ったニューギニア人は、パタリとそれまでの部族間戦争を止めた。オーストラリア人を夜襲で殺害することもできたにもかかわらずである。これは彼らが、平和をもたらすという植民地政府のメリットを評価したから、ということができる。
■伝統的社会では、子供の養育に親以外の人々が関与し、子育ての責任を社会で広く分担している。これが子育てに関する近代国家との大きな違いである。
■伝統的狩猟社会では母乳以外に栄養素がないためか、授乳期間が長く、常に子供と一緒にいる。また、母乳期間が長いと妊娠が抑制される。理由は特定されていないが、歩けない子供2名を伴って長距離移動することができないことによる生物学的・遺伝的性質と考えられる。
■人間は人類史の大半を通じて、先祖である類人猿やサルと同じく、親子は一緒に寝てきた。アメリカでは、親が子を押しつぶしたりしないよう、親子は別々の部屋で寝るように医師が推奨しているが、これは人類史においては例外的である。
■子供に対する体罰許容度は、農耕・牧畜社会>狩猟社会である。その理由として考えられる仮説は以下の通りである。
狩猟社会:平等主義的な傾向強く、大人=子供間でもその精神が貫かれる。所有物が少なく、子供が何かを破壊しても影響が小さい。
農耕・牧畜社会:貧富・年齢・性別により社会的立ち位置が異なり、社会規範を身に付ける必要がある。家畜や収穫物等の所有物が多く、子供の悪さが財産の毀損に繋がる可能性がある。
■各伝統的社会における高齢者の扱いは、概ね高齢者が提供できるサービス(ものづくり、孫の面倒、知識の継承等)の重要度に比例して丁重になる。常態的に食料難な状況にある狩猟社会では、高齢者は冷たく見捨てられることもある。
■伝統的社会の人々は一般的に現代人より「おしゃべり」である。日常生活で起きたことを事細かに共有する。これは生活していて遭遇するリスクを最小限にすることと、一種の娯楽という両面があるのだろう。
■宗教には大きく7つの役割がある(①説明を提供する、②不安を軽減する、③癒しを与える、④支配と組織化を正当化する、⑤社会を安定させる、⑥戦争を正当化する、⑦忠誠の証を示す)。しかし、科学技術が発達し、法治国家が国民の安全を保障する現代において、その役割は小さくなりつつある。
■それでもなお、人が宗教に時間・お金・パワーを投下するのは、それを上回る便益(祈ると心が落ち着くなど)が存在するからだ。
■言語の数は赤道付近の熱帯地域が一番多く、緯度が高くなるにつれて減ってくる。これは、熱帯地域においては、①食料の生産性が高く、②気候変動も少ないため、人々が他の土地へ移住したり、交易する必要が薄く、結果として多くの民族がその場に留まる傾向があるからだ。
■そして、社会形態が「小規模血縁集団→部族社会→首長制社会→国家」と変遷するにつれ、構成する各組織の人口が増えて、言語数は減少することになる。
■何故「高血圧」のような現代病があるのか。それは、人類は長い間、塩が貴重な環境下で活動してきた。その場合、体内の塩分濃度を維持できる個体が生存することになる。しかし、パンからソーセージまで塩だらけの食生活に慣れた人類にとっては、その特性が仇になる。これが進化生物学的な説明である。
■現代の人類が伝統的社会から学べる点は多い。高血圧のような現代病を避けたければ、運動をし、ゆっくり食べ、加工食品を避ければよい。子供の脳機能を刺激したいのであれば、伝統的社会のようにマルチリンガルで育てればよい。
学びのポイント
そもそもなぜ、地域によって文明の進み具合が異なるのか
コロンブスがアメリカ大陸に到達した1492年当時、ヨーロッパ人は国家政府のもとで生活し、文字も金属器も持っていた。一方、オーストラリアやアフリカの原住民は伝統的狩猟採集社会の中に生きていた。この差はどこから生まれるのか。
かつて信じられてきた説明は、人間の地勢や生物学的な差異、そして労働倫理が先天的に異なるために、地域によって到達点が異なるというものだった。これに従えば、ヨーロッパ人の方が知性があり、人間として進化しているということになる。
しかし真実は「単に環境に違いがあっただけ」である。人間が食用に栽培できる野生の植物、そして家畜化できる野生の動物の種類は驚くほど少なく、またそれらの生息地域は全世界で10か所ほどに集中している。よって、その地域は食料生産力に恵まれ、余剰食糧が生まれることになる。
結果的に他地域より人口が増大し、社会階層ができ、社会的分業、技術革新、国家政府の樹立へと進んでいったのだ。
この説明は、著者の『銃・病原菌・鉄』に詳しい。人類という大きな枠組みで見た際、先天的な能力に差はなく、環境が地域差を生んでいった、という説明は非常に理解しやすい。
ヨーロッパ人の体が日本人より大きいのも食生活が違うためであり、北に住む人類の肌が白色に近くなるのは、(赤道付近より相対的に弱い)紫外線から必要なビタミンDを摂取するため、という科学的な説明も可能である。
私は個人的に、筆者の説をもう一歩進められるのではないかと考えている。つまり、国民性とか民族性も環境によってある程度説明できるのではないかということだ。
まず分かりやすいのは、主に熱帯である赤道~北緯南緯30度くらいまでは、いわゆる先進国は見当たらないという事実である。
これはどう考えるべきか。一つ考えられる仮説は、赤道~北緯南緯30度くらいまでは、暑すぎて人間の活動が鈍るというものである。或いは、比較的容易に野生の植物(バナナなど)が採取できるため、集団を形成し、本格的な農耕を展開して生産性を向上させようというインセンティブに欠けるのかもしれない。
また、日本人の自己主張が欧米人や中国人に比べて弱く、協調性を大切にするという国民性も、日本が海に囲まれていることと関係していると説明することも可能である。
日本はヨーロッパや中国と異なり、外敵の侵入は数えるほどしかないことに加え、米と海産物がそれなりに採れる地勢を持つので、互いに譲り合いながら、和を以て貴しと為していれば、それなりの生活を送ることができる。
一方、常に陸づたいで外敵侵入のリスクを抱える地域では、対外的に結束するために、内側では強力なリーダーが求められる。中国人の自己主張の強さはこのあたりから来るのかもしれない。
伝統的社会では人間の繋がりが基本
伝統的社会においては、人間関係は限定的であり、かつ永続的である。
これは現代先進国の人間が、道で見知らぬ人とすれ違ったり、見知らぬ人が作った工業製品を見知らぬ人が働く店で購入したり、学校が一緒で一時的に友人関係にあったが、その後疎遠になったりすることがあるのと著しく異なる。
このため、何らかの紛争があった場合でも、優先されるのは当事者間の関係回復でる。先進国で見られるような法律に従って善悪を判断するような司法制度は機能しない。関心の対象は平和裡な解決策であって、何が起きたかという事実関係や、責任の所在ではない。
先進国に見られる国家社会の司法制度における利点は以下のように整理できる。
・報復抑止の効果が期待できる(伝統的社会では中央政治権力による介入がないため、報復の連鎖が起こりやすい)
・当事者間の武力的力関係が解決案に影響しない
・一般市民が類似の犯罪を働かないように抑止する
一方、司法制度では、伝統的社会で重視される個人間での関係回復や、感情面での対立の解消が十分に考慮されない。
当然ながらどちらが良い、悪いという議論はナンセンスだが、人口が一定以上いる社会において、伝統的社会の解決方法は極めて非効率であるし、当事者たちが納得しなければ、永遠に紛争は続くことになる。
人口が増えて「これでは効率が悪い」となると、人類には司法制度を整えるインセンティブが生じ、法治国家へと変化していく。これはあくまで「変化」であって、必ずしも「進化」ではない。
事実、日本の江戸時代においても、農村の紛争は農村内で処理されていた。何故ならそれが最も合理的だったからであり、司法制度を導入する必要がなかったからだ。
ただ、明治時代に日本が中央集権国家を志向し、不平等条約改正のために法律を整えたというだけである。民族の優劣とは無関係と言える。
高齢者の役割とは
伝統的社会では、高齢者が社会にとって有用かどうかについての評価の違いが、高齢者が手厚く世話されるか否かを左右する要因となっている。
しかし近代社会においては、
①識字率の向上・・・「知識が多い」ことは価値にならない
②学校教育の普及・・「子供を教育できること」も価値にならない
③急速な技術進歩・・「何らかの技術を身に付けていること」も陳腐化する
という背景から、高齢者は社会の役に立てず、孤立する一方である。
これからのAI時代、高齢者が①~③で存在感を発揮するのはますます難しくなるだろう。しかし、人生は100年と言われ始めてもいる。私たちは一生を有意義に、社会との繋がりや貢献を実感しながら生きていくためには、何をすればいいのだろうか。
それはやはり、当サイトで繰り返し主張している、人類に普遍的な「徳や人間力」「何が正しく、何が善く、何が美しいことかを判断し、実践する力」という分野しかないのではないか。
そしてそれらの力は、意識的に多くの人と交わり、多くの本を読み、良い仕事を続けることでしか養われない。さらに重要なことは、養った「徳や人間力」を、社会や若者が求めている様態に従って提供することである。上から目線や独善的な態度では、煙たがられてしまうのがオチだろう。
宗教の役割とは
宗教の役割には大きく7つあるが、科学技術が発達した昨今では、その役割は全般的に縮小しつつある。
1.説明を提供する(世界や人間の創生、自然現象など)
2.不安を軽減する(不幸に対する祈りなど)
3.癒しを与える(現世の不幸者は天国へ行くという教えなど)
4.支配と組織化を正当化する(支配者層が支配の正統性を主張するなど)
5.社会を安定させる(戒律や行動規範を策定するなど)
6.戦争を正当化する(十字軍やキリスト教徒によるアジア・アフリカの植民地化など)
7.忠誠の証を示す(信仰心を外に表し、同胞の支援を得る)
宗教の役割で一番大きなものは「1.説明を提供する」だろう。宗教にしても哲学にしても、「人はなぜ生きるのか」という命題に対する説明を追い続けてきた。しかし最新の進化生物学では、生物は遺伝子の「乗り物」であり、遺伝子が世代を超えて生き延びるために、生物は環境に適合してきたという説明が有力である。
だとすると、本当に、人はなぜ生きるのか。生きることが遺伝子にとって都合が良いからだ、というのも、科学的には正しいのかもしれないが、何となく直感的に腑に落ちない。そこに宗教や哲学の出番というか、存在意義があるのだろう。
1以外でも、2~3は近代科学が、4~7近代法治国家がある程度解決し、或いは人々に提供してきており、宗教が果たす役割は相対的に小さくなってきている。
それでもなお、貧困や苦しみはなくならないだろうし、科学では説明できない事柄もまだ存在するので、1~3の機能は残り続けるだろう。また、近代法治国家が存在しない地域では、4~7も機能し続けるはずである(イスラム原理主義者など)。
では日本はどうなのか。日本は古来からのアニミズム(八百万の神)や神道、そして仏教が主流である。歴史的には仏教勢力が一部の政治的支配権を持っていた時期があるし、支配者層がキリスト教化したこともあった。しかし、ユダヤ人のユダヤ教、ヨーロッパ人のキリスト教ほど、どれも日本の歴史に大きな影響を与えたとは言い難い。
現代の日本人はどうか。もちろん特定の宗教を持つ人も中にはいるが、大部分は12月にはクリスマスを祝い、年が明ければ神社に初詣に行き、人がなくなれば仏式で葬式をあげる「特定の宗教を持たない」層が大部分である。
なぜ日本人は宗教心が薄いのか。全く私の仮説だが、こういったところではないだろうか。
・外敵が少ないということは、(ユダヤ人などより)相対的に不幸ではなかった。よって神にすがる必要性も大きくなかった
・地震、津波、火山、台風と自然災害が多く、この点では不幸だったが、これらは祈ってもどうすることもできず、日本人は自然と共生することを選んだ
ただし、天皇制と神道がナショナリズムと結びついた戦前の一時期は、4~7が有効に機能した(機能しすぎてしまった)。日本人は全般的に宗教心が薄いとはいえ、環境次第では特定のイデオロギーに熱中してしまうこともあるということは、しっかりと認識しておく必要があるだろう。
人事部長のつぶやき
現代の日本人は欧米のスタンダードに慣らされていないか
西洋人の親を持つ子供が(伝統的狩猟社会である)ニューギニアでしばらく過ごした後、アメリカやオーストラリアといった本国に戻って一番苦労することは何か。
それは、西洋流の自分本位の個人主義になかなか順応できないという問題であり、ニューギニア滞在中に身に付けた協力や分かち合いの精神を強調する生き方をなかなか捨てきれないという問題である。
習慣とは恐ろしいもので、知らず知らずのうちに自分の価値観の中央を陣取ったりするものだ。
私が2009年頃にアメリカのビジネススクールに在籍した際、「会社はだれの利益を最優先に考えるべきか」と教授がクラス全員に投げかけた。すると、私以外の全員(南北アメリカ人、中国人、ヨーロッパ人、インド人が主な構成要素だった)が「何の疑問もなく株主」と言い切った。
「他に考慮すべきステイクホルダーは」との問いにも「社員や社会も大切だが、究極的に企業の活動は全て株主のために為されるべきだ」という意見が大半だった。
私はインフラ系企業に勤務していたため、国益・環境・道義的責任といった話をしたものの、「企業は部分最適である株主利益を追えば、全体として経済はうまく回る(アダム・スミス的な発想)。全体最適は政府の仕事」という分かりやすいロジックの前では小さな声だった。
一方で、最近では企業経営にもESG(Environment, Social, Governance)やSDGs(Sustainable Development Goals)といった要素が取り入れられ、株主至上主義一辺倒でもなくなってきている。
元来、日本資本主義は、渋沢栄一の「論語と算盤(=企業経営には社会貢献の姿勢も大切)」や、近江商人の「三方よし(買い手・売り手・社会のすべてが満足する商売)」にも表れているように、多くのステイクホルダーを大切にしてきた。簡単にクビにしない終身雇用などもその表れだろう。
西洋流の考え方に乗っておけば良い、という時代は既に終わっていますね
イクメンブームは時代の要請
父親が子供の養育に関わる程度は、動物の種によって大きく異なる。
ダチョウやタツノオトシゴはメスが産卵すると、その後の養育は全てオスが行う。一方、哺乳動物の多くと鳥類の一部は、メスとの交尾が済むと、後は全てメスに任せ、すぐに他のメスを追い求める。
人間の父親はこの中間であるが、知られている限りの全ての社会において、育児へのコミットは父親より母親の方が大きい。伝統的社会においては、食料確保を母親が担う場合に、父親の育児へのコミットは高まる。逆に、食料確保や戦を父親が担う場合は、育児は母親任せになる傾向が強い。
育児に対するコミットメントは「母親>父親」というのは人類に普遍的である。
一方、昨今「イクメン」が推奨されるのは、男女間の分業が以前ほど厳密なものでなくなってきた、つまり、以前に比べ「食料確保」への女性の貢献度が上がってきたということである。
そうであれば、進化論的には、男性による育児への貢献度は上がってしかるべきである、ということになる。非常に納得感のある議論と言える。
それでは、専業主婦家庭はどう考えればいいか。女性による「食料確保」への貢献度はゼロなので、その分、育児へのコミットは「母親>父親」となるのが自然、というのが自明の論理的帰結ではあるが、まあ声高には言いにくいですねえ。
育児に関する方針は各家庭の価値観に拠りますね、とお茶を濁しておきます!
宗教の「経済性」
宗教は多くの場合において、信者に貴重な時間と資源の投下を求める。それはお布施であったり、儀式であったり、軍事行動であったりする。
しかし、人々が宗教に使う資源を農業や商売に投下していたら、大きな利益を得られたかもしれない。つまり、宗教は機会費用を奪うものなのである。
こうした機会費用を相殺するような便益を宗教がもたらさない限り、無神論が台頭するはずである。逆に言えば、人間社会から宗教がなくならないということは、宗教は機会費用を相殺する便益をもたらしていることを意味している。
宗教を信じている人にとっては「便益など関係ない。宗教が存在するのは神がいるからだ」と不愉快になるかもしれないが。
非常にプラグマティズム*的ではあるが、宗教が存在する理由を端的に説明している。この考え方に基づけば、無神論者は「宗教を信じることによる便益がそれほど大きくない人々のこと」と定義できる。
いくつかの日本の新興宗教においては、信者数拡大のノルマや、選挙協力、お布施の納入等により、その宗教内のランクがアップするような仕組みがあるらしい。私から見ると、そこまで入れ込んで(時間・パワー・お金を投下して)どんな「便益」が得られるのか理解できないが、信者にとっては、その団体の中で居場所を見つけるとか、祈ると心が落ち着くとか、何かがあるのだろう。
そう考えると「新興宗教怖い」という即物的な見方は消え、「彼らは彼らなりに、何らかの便益があると信じているんだな」と冷静に見ることもできる。「神は事実として存在するから信じるんだ。便益は無関係」という人でも、神を信じないという「不便益」を許容できないということなのだから。
*プラグマティズム・・・「現実世界でどれだけ有用であるかをもとに、ある概念が正しいか否かを判断する」という考え方。アメリカの哲学者ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)著書『プラグマティズム』で確立した。
宗教と哲学の役割と役割分担
世界各国で比較すると、貧しい地域ほど、人々の生活の中で宗教が重要な一部となっている。アメリカは豊かな国ではあるが、貧富の差が激しく、貧困地域に多くの教会が多く見られる。
つまり、人間は不幸な目に遭えば遭うほど、信心深くなるといえる。「現世で苦しくても、あの世で救われる」と信じて日々を堪えるということだろう。
一方、宗教と同じように「生きる意味」を追求する哲学は、(教育水準という要素もあるのだろうが)あまり貧困層で盛んに勉強されているとは聞かない。
どちらかといえば、普段の生活に不自由のない人々が時間を持て余し、思索に耽って発展してきたものと言えるだろう。ギリシャ哲学が、日常の労働を奴隷にやらせていた「市民」から誕生したことはその証左である。
かなり乱暴な議論であるし、宗教と哲学は似て非なるものでもあるが、単純化して言えば、
宗教に対するある種の偏見は、この特質に由来する面もあるのでしょうね。
日本語だけか、バイリンガルか
バイリンガル(二言語話者)は、一言語話者よりも有意にアルツハイマー病の発症が遅くなる。これは、常に(例えば、聞こえてくる単語がA語かB語かを判断するような)言語選択を行うことで、脳を刺激しているからだ。
健常者による実験においても、二言語話者は常に脳の制御機能を利用しているため、課題解決テストでは一言語話者より優秀な成績を収める。
これは、日本人の子供に、英語の早期教育をやるべきかという議論に一石を投じそうだ。
本書によれば、二言語話者は一言語話者より能力が高いということになる。しかも、いくつの言語を身に付けるかは後天的に決まるので、遺伝は一切関係ない。日本人は皆、早くから英語を習得すべし、という結論になる。
一方、「第二言語(英語)の言語能力は第一言語(日本語)を超えないのだから、まずは第一言語をしっかり習得すべき」という理屈も往々にして展開される。この議論にはまだ決着がついていない。
どうせ英語を勉強するなら、早い方がいいのでは!?と個人的には思います
(日本経済新聞出版)
※伝統的社会を学ぶことで現代社会の特徴をあぶりだす!