「サピエンス全史」
ユヴァル・ノア・ハラリ
基本情報
初版 2011年、日本では2016年
出版社 河出書房新社
難易度 ★★★☆☆
オススメ度★★★★★
ページ数 (上)300ページ(下)296ページ
所要時間 6時間30分
どんな本?
人類がいかに他の生物を優越し、現代のグローバル社会を形成してきたかを、人類史全体という長期的・巨視的な視点から俯瞰したマクロヒストリーの大作。
Facebook(現Meta)創設者のマーク・ザッカーバーグや、『銃・病原菌・鉄』の著者ジャレド・ダイアモンドも絶賛した大ベストセラー。果たして人類は大昔より幸せになっているのか?人類史をゼロから再構築した画期的な一冊。
著者が伝えたいこと
■現生人類は「宗教・国家・法律」などの虚構を生み出し、それを言語で伝達するという手段を(恐らく何らかの脳の突然変異で)得て以降、地球の主となる。これを「認知革命」と呼ぶ。
■しかし、その進化は場当たり的で、短期的な利益(生存・快楽)を追求する歴史である。農業を開始して摂取カロリー量は増えたかもしれないが、それは単一作物への過度な依存や、定住による感染症リスクなどを新たに生み出した。
■その後、紀元前1000年紀(BC1~BC1000)に登場した「①貨幣、②帝国、③宗教」という3つの普遍的な秩序は、世界をグローバル化する役割を果たす。
■その過程で帝国と科学と資本主義は相互に作用しあい、経済活動の規模が急速に拡大することになる。戦争ももちろん起こったが、ここ50年程度は、核兵器の登場と国家間の相互依存により、大規模な戦争は起こらず、平和な世の中になっている。
■しかし、人類が以前より幸せになったかは定かではない。人間は単に遺伝子の乗り物だと考えるなら、そもそも人類に幸せなどない。また、物量が人間を幸せにしないことは社会学者が証明済みだ。「幸せは自分で決める」とするのは現代個人主義の特徴だが、幸せが主観的なら、古代より現代の方が幸せと誰が言えるだろうか。
■人類は遺伝子工学等により、ホモ・サピエンスの生物学的限界を超えようとしている。私たちが問うべきは「私たちは一体、何になりたいのか」ということだ。
著者
ユヴァル・ノア・ハラリ
Yuval Noah Harari
1976-
イスラエルの歴史学者。ヘブライ大学歴史学部教授。専門は世界史とマクロヒストリー(歴史の究極的な法則性を探求し、長期的・巨視的な傾向を見い出そうとする学問)。
こんな人におすすめ
人類の歴史を(年号や出来事の羅列ではなく)長期的・巨視的に俯瞰したい人。人類がどのような歩みで現在に至り、今後どうなるのかに関心のある人。
(河出書房新社)
※「人間は昔より幸せになっているのか」という壮大なテーマに挑む
要約・あらすじ
基本年表
135億年前 宇宙の始まり
45億年前 地球誕生
38億年前 生物の出現
600万年前 ヒトとチンパンジーの最後の共通の祖先
250万年前 最初の石器
200万年前 人類の出アフリカ。異なる人類種が進化
50万年前 ヨーロッパと中東でネアンデルタール人が進化
30万年前 火の日常利用
20万年前 東アフリカでホモ・サピエンスが進化
7万年前 認知革命(神、宗教等の存在しないものについての情報を伝達する手段(言語)の出現)、ホモ・サピエンスの出アフリカ
3万年前 ネアンデルタール人絶滅
13000年前 ホモ・サピエンスが唯一生き残った人類種となる
12000年前 農業革命(植物の栽培化と動物の家畜化、永続的な定住)
5000年前 最初の王国、書記体系、貨幣、多神教
2500年前 貨幣(硬貨)、ペルシア帝国(普遍的な政治的秩序)、インドの仏教(普遍的な真理)の出現
2000年前 中国の漢帝国、地中海のローマ帝国、キリスト教の出現
1400年前 イスラム帝国、イスラム教の出現
500年前 科学革命(人類は自らの無知を認め、空前の力を獲得し始める)、ヨーロッパ人がアメリカ大陸と各海洋を征服し始め、地球全体が単一の歴史的領域となる。資本主義が台頭する。
200年前 産業革命(家族とコミュニティが国家と市場に取って代わられる)
第1部「認知革命」
・10万年前の地球には、少なくとも6つの異なるヒト属が暮らしていた。そのヒト属を食物連鎖の頂点に位置付けさせたのは、火の利用である。
・火の利用により調理が可能となり、食べ物を噛んだり消化することに費やす時間が短縮された。結果、他のことに時間を使ったり、これまで腸に回していたエネルギーを脳に回せるようになったりした。
・そのヒト属の中でも、ホモ・サピエンスが生存競争に勝利したのは、「神や宗教」といった全く存在しないものについての情報を認識し、それを「言語」という手段で伝達する能力を得たからである。
・この、7~3万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場のことを「認知革命」と呼ぶ。
・ホモ・サピエンスは、神や宗教の他にも、貨幣・国家・法律・正義などの「虚構」を生み出した。それらの虚構を共有することにより、見知らぬ人同士でも協力し合うことができ、何万もの住民からなる都市や、何百万もの民を支配する帝国が形成されたのである。
・たとえばセルビア人が、互いに面識がなくても命を懸けてまで助け合うのは、セルビアという国民やセルビアという祖国、セルビアの国旗が象徴するものの存在を、みな信じているからだ。
・では何故、数あるヒト属のうちでホモ・サピエンスだけが認知革命に辿り着いたのか。最も広く信じられている説によれば、たまたま遺伝子の突然変異が起こり、人類の脳内の配線が変わり、それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の言語を使って意思疎通をしたりすることが可能になったのだという。認知革命は偶然の産物だったのである。
第2部「農業革命」
※以下、ホモ・サピエンスを「人類」と呼ぶ
・人類は長い狩猟採集民族時代を経て、紀元前9500~8500年頃の中東で農業を始めた。これにより人類の生活と歴史は一変することになる。これを「農業革命」と呼ぶ。
・私たち現代人が摂取するカロリーの9割以上は、紀元前9500年から紀元前3500年にかけて栽培化されたほんの一握りの植物、すなわち小麦、稲、トウモロコシ、ジャガイモ、キビ、大麦に由来する。過去2000年間に家畜化・栽培化された動植物にめぼしいものはない。その意味でも革命的である。
・農業革命は中東・中国・中央アメリカで同時多発的に起こった。それは、私たちの祖先が狩猟採集した何千もの種のうち、農耕や牧畜の候補として適したものはほんの僅かしかなく、それらがたまたま中東・中国・中央アメリカに分布していただけにすぎない。
・この農業革命が人類にもたらしたものは「人口増加」である。単純に余剰人口を養うだけの食糧の供給量が増えるとともに、狩猟採集という放浪の生活様式を放棄したおかげで、女性は毎年子供を産めるようになった。お粥を食べさせることで離乳を速めて、出産のペースを速めることにも繋がった。
・人口増加に伴い、農耕民は狩猟採集民を純粋に数の力で圧倒できた。狩猟採集民は縄張りが畑や牧草地に変わるのを許すか、あるいは自らも農業に従事するかのどちらかを選択するしかなかった。こうして一部地域を除く人類のほとんどが農業に従事することになる。
・一方で、人類は元々農業に適したようには進化しておらず、失ったものも多い。例えば以下のようなものである。
①急激な人口増による一人当たりの栄養量減少
②定住化による感染症の流行
③天災等による飢餓への直面
④少数の農作物に依存することによる栄養の偏り(不足)
⑤収穫した作物(富)を守るための人員や装置
・人類にはこれらのことは見越せなかった。ただ単に、数人の腹を狩猟採取生活の時よりも余分に満たしたいという純粋な欲求が、人類を農業から離れられなくしただけである。農業革命を企てた人もいなければ、穀類の栽培に人類が依存することを求めた人もいなかったのだ。
・すなわち以前より劣悪な条件下であっても、より多くの人を生かしておく能力こそが、農業革命の神髄なのである。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
・加えて、牛・羊・鶏といった家畜にとっても、農業革命は大惨事だった。人類に家畜化されることにより、個体の数としては圧倒的に増えた。これは種の進化的に良いことかもしれない。しかし、個体レベルで見れば、小さな檻に入れられたり、子に与えるべき乳を搾り取られたりと、苦難の道を歩むこととなった。
・進化上の成功と個々の苦しみとの乖離は、私たちが農業革命から引き出しうる教訓のうちで最も重要かもしれない。
・農業革命以降、個々の人間の生物的本能(=より多く食べたい)の蓄積により、余剰食糧が生まれ、集落は大きくなり、人類は大規模な協力統治体制を築いていくようになる。これを可能にしたのは「想像上の秩序」と「書記体系」だ。
・「想像上の秩序」は、インドのカースト制度、男女の処遇差、ユダヤ人差別など、論理的基盤や生物学的基盤を欠く想像上の、しかし協力統治体制に必要なヒエラルキーである。一度差別が根付くと、差別される側の貧困や無学を招き、それらへの偏見がさらなる差別を助長する悪循環に陥る。アメリカ大陸での黒人差別がその良い例だ。
・「書記体系」は、大量の情報を記録・保管するという協力統治体制にとって不可欠な要素だ。具体的にはシュメールの楔形文字、エジプトの象形文字、中国の漢字(の原型)、アラビア数字などであった。
第3部「人類の統一」
・数千年の単位で見れば、人類の歴史は統一の方向に向かっている。古代からユーラシア&アフリカ大陸、アメリカ大陸、オーストラリア大陸で個々に発展していた文明は、ここ数世紀の間にヨーロッパの文明がその他を飲みこんだ。
・その統一に向かう端緒となったのが、紀元前1000年紀に登場した「①貨幣、②帝国、③宗教」という3つの普遍的な秩序である。
・「貨幣」の誕生は技術の発展ではなく、純粋に精神的な革命だった。「構成員が全員、そのものの価値を信じる」という虚構が、貨幣の機能を担保した。これにより交易がグローバル化し、言語・宗教・人種の異なる人類同士が結びつけられることとなった。
・「帝国」は複数の民族を支配する統治機構であり、民族の多様性を減少させる方向に機能した。人・財・技術等は帝国内を自由に移動し、標準化された。
・「宗教」は超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義でき、これは結果として社会の安定を保証する。人類初期に見られる多神教は他民族の信じる神々も許容する寛容さを持っていたが、あらゆるものを超越する「唯一絶対神(一神教)」の出現により、限定的な力しか持たない神々は信じてもらう理由を失っていった。支配者も人民統治の観点から一神教を選んだ。現代国際社会は、東アジアの一部を除き、基本的に一神教の基盤の上に成り立っている。
・貨幣と帝国と宗教のおかげで、人類は多数の小さな文化から少数の大きな文化へ、そして遂に現代のグローバル社会へ辿り着いた。この変遷は、人類史の必然的結果だったのであろう。
第4部「科学革命」
・中世ヨーロッパではキリスト教の神が全能だった。よって「新しい科学的な発見」は理屈の上であり得なかった。人類がキリスト教を懐疑し、「無知の知」を認めて初めて、科学が発展する土台が作られた。
・その象徴がアメリカ大陸の「発見」である。聖書にはアメリカ大陸が出てこない。神が完全ではないことが白日の下に晒された。そのおかげで、ヨーロッパ人は過去の伝統よりも現在の観察結果を重視することを学び、その姿勢は新大陸開拓や科学・技術の発展に活かされることになる。
・貿易や植民目的の開拓事業には、必ずと言ってよいほど生物学者・考古学者・地質学者等が帯同し、世界中のあらゆる知識を貪欲に吸収していった。結果的にヨーロッパの科学や技術は発達し、自分達の植民地支配は、文明的に劣ったアジア・アフリカ人達を啓蒙する手段だという大義名分を得るようになる。
・どの科学分野を研究するか(=資金を投入するか)を決めるのは、科学ではなく、政治や経済やイデオロギーだ。国家や社会にとって利益にならない研究は行われないのが常だ。帝国主義は実用的な科学を支え、また実用的な科学は帝国主義を支えた。このように、帝国主義と科学が融合していく。
・また、人類は科学同様に「資本主義」を生み出した。「信用(クレジット)」という虚像により、実在の現金や価値の量に依存することなく、新規事業のために資金調達することが容易になった。また、利益を再投資することで事業を拡大するようになった。
・帝国、科学、資本主義の進歩により、人々は将来の成長に信頼を寄せるようになった結果、経済活動の規模が急速に拡大することになった。
・人類は何万年も単純再生産を繰り返してきたが、近代に入ってからは科学技術の発展により、経済の規模も拡大してきた。政府は紙幣を刷り、投資家は株式に投資するが、その行動や信用を支えているのは科学技術の発展である。
・アヘン戦争は資本主義が起こさせた帝国主義戦争だ。当時、東インド会社やイギリス人実業家はアヘンを清に輸出して大儲けしていたが、清はアヘンの交易を禁止し、アヘンを没収する。そこで、商人達は、製薬会社の株式を持っていた閣僚や国会議員に働きかけ、「自由貿易を守る」ことを大義名分に、戦争を始めさせたのである。
・資本主義は営利を目的とする以上、倫理はながしろにされることがある。奴隷貿易によるアフリカ人たちの苦難はその典型だ。しかし、資本主義に唯一対抗できそうな共産主義でさえ、欠点だらけで、もう一度試そうとは、誰も思わない。
・18世紀に入ると産業革命が起こる。その発端は、人類が熱エネルギー(蒸気)を運動エネルギーに変える技術を獲得したことだ。それまで人類は、太陽エネルギーを受けた植物(及びそれを食べる動物)を栄養として取りこみ、自らの筋肉を動かすという変換方法しか知らなかった。
・産業革命と資本主義は「消費主義」を生み出した。経済が存続するためには、たえず生産を増大させなければならず、人々は消費こそが美徳だと刷り込まれた。
・同時に、国家と資本主義は人類に対して「個人になること」を要請した。国家は市民の安全、福祉、年金等を、資本主義は食事、住まい、教育、医療、職、保険等を提供し、従来それらの提供を担っていた核家族、拡大家族、親密な地域コミュニティの絆を弱めた。
・このように国民国家が形成され、資本主義による自由な交易で国家間の相互依存が強まったことに加えて、核兵器が開発されると、以下のようなスパイラルにより、世界はそれまでよりずっと平和になった。
「核兵器による大量虐殺の脅威」⇒「抑止力」⇒「平和主義の促進」⇒「活発な交易」⇒「強まる相互依存」⇒「平和の利益と戦争の代償がともに増大」
・つまり、国際関係が緊密になると、多くの国の独立性が弱まり、どこかの国が単独で戦争を仕掛ける可能性が低下する。大半の国々が全面戦争を起こさないのはひとえに、もはや単独では国として成り立ちえないという単純な理由による。
・世界は平和になった。では、人類は幸せになったのか。社会学者による重大な発見の一つは、幸福は客観的な条件、すなわち富や健康、さらにはコミュニティにさえも、それほど左右されないということだ。
・また、いわゆる「利己的な遺伝子説」に拠れば、人間も他の生物と同じで、自分の遺伝子の複製に有利な選択をするように仕向けられており、幸せになるようには設計されていない。
・そこで出てくるのが、「幸せは自分で決めるもの」という主張である。幸せかどうかは、自分の人生が有意義で価値あるものと見なせるか次第ということだ。生物学者の主張によると、幸せは脳内の化学物質により決定されるので、まさに「幸せは自分次第」ということになる。
・幸せかどうかを決めるのが自分自身なのであれば、結局、狩猟時代と現代を比べて、現代人の方が幸せだとは必ずしも言えないだろう。例えば、過去二世紀の物質面における劇的な状況改善は、家族やコミュニティの崩壊によって相殺されてしまった可能性もあるのだ。
・ちなみに、「幸せは自分次第」という考え方を否定するのが仏教だ。仏教では「幸せになりたい」という渇望をやめたときに初めて、苦しみから解放されると説く。
・人類の未来はどうか。現時点では3つの方向性が考えられる。
①遺伝子工学による新たな生物の発明
②サイボーグ工学による人体と機械の融合
③完全に非有機的な存在の創造(コンピュータプログラム等)
・これらの技術により、サピエンスは自然選択の法則を打ち破り、生物学的に定められた限界を突破し始めている。
・もし本当にサピエンスの歴史に幕が下りようとしているのだとしたら、その終末期の一世代に属する私たちは、最後にもう一つだけ疑問に答えるために時間を割くべきだろう。その疑問とは、私たちは何になりたいのか、だ。
学びのポイント
いわゆる「ダンバー数」
社会学の研究からは、噂話によってまとまっている集団の「自然な」大きさの上限がおよそ150人であることがわかっている。ほとんどの人は、150人を超える人を親密に知ることも、それらの人について効果的に噂話をすることもできないのだ。
今日でさえ、人間の組織の規模には、150人というこの魔法の数字がおおよその限度として当てはまる。この限界値以下であれば、コミュニティや企業、社会的ネットワーク、軍の部隊は、互いに親密に知り合い、噂話をするという関係に主に基づいて、組織を維持できる。
この150名という数字は、生物学的にも妥当な人数として認知されている。
イギリスの人類学者ロビン・ダンバーが行なった有名な分析によれば、霊長類のそれぞれの種の大脳新皮質の大きさは、集団規模とある程度の相関関係にあり、人間に当てはめると、だいたい100人から230人の社会ネットワークに対処できることになる。
この100~230人の平均である150名という数字は「ダンバー数」として知られる。ダンバーはこれについて「もしあなたがバーで偶然出会って、その場で突然一緒に酒を飲むことになったとしても、気まずさを感じないような人達のことだ」と説明している。
ちなみに、「一人のマネージャーに管理しきれる組織人数」という切り口では、以下のような様々な見解がある。
・ピザ2枚分くらい(5~8名程度)【Amazonのジェフ・ベゾスCEO】
・せいぜい10人、通常は6名程度【ハーバード大心理学部リチャード・ハックマン教授】
・10人【モンゴル帝国の最小軍事単位】
・最大12人~15人【ピーター・ドラッカー『マネジメント』】
・最大10人【最近の経営学における「スパン・オブ・コントロール」の考え方】
世の中は極端と極端の間で出来ている
【アメリカ独立宣言(オリジナルバージョン)】
我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる【アメリカ独立宣言(生物学バージョン)】
我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と快感の追求が含まれる。
前者が(筆者の言うところの)虚構が入ったホモ・サピエンスバージョン、後者が純粋な自然科学バージョンである。
これらの面白いところは、どちらのバージョンも「それなりに妥当性があると思われる」点だ。しかし、言葉は悪いが、前者は徹底的に綺麗ごとであり偽善、後者は事実すぎて身も蓋もない。つまりどちらも現実には使えない。
前者が偽善なのは、アメリカにおける黒人奴隷の歴史を見れば明白だ。そして後者は、「現実的に人間の能力には差があり、生命と快楽を追った結果は人それぞれ」ということを意味しているが、それでは、誰も救われないし、前向きなエネルギーも生まない。よってどちらも使えない。
そして世の中は、この2つの極論の間でできている。それもまた、面白いと言えるのではないだろうか。
全ての帝国には固有の大義名分がある
帝国は(中略)優れた文化を広めるのに必要なこととして、自らを正当化してきた。
中国
皇帝が、天から授けられた使命として、高い水準の文化で近隣の野蛮人を啓蒙する。ローマ帝国
ローマの法律・浴場・哲学で、野蛮人に平和と正義と洗練性を与える。マウリヤ帝国
ブッダの教えを無知な世界に広める。イスラム帝国
できれば平和裏に、必要ならば剣をもって、ムハンマドの教えを広める。スペイン帝国
蒙昧な世界にキリスト教の光を当て、真の信仰への改宗者を増やす。イギリス帝国
自由主義と自由貿易の双子の福音を広める。ソヴィエト連邦
理想的な労働者階級独裁を実現し、資本主義への流れを止める。アメリカ帝国
趣旨要約
第三世界の諸国に民主主義と人権の恩恵をもたらす。
歴史を大局で見るとは、まさにこういうことだろう。帝国とは複数の民族を支配下に置く統治形態であり、本来的に大義名分によって膨張する傾向にある。大日本帝国も「欧米列強によるアジア侵略への対抗」という大義名分のもとに、アジア各所へ進出していった。
現在では朝鮮も満州も大日本帝国の一部ではないが、仮に日本による支配が長く続いていれば、少数民族のアイデンティティは失われ、帝国構成員としての意識が芽生えていたかもしれない。
例えば古代ヨーロッパは様々な部族に分かれていたが、ローマ帝国が出来ると、人々は「ローマ人」としてのアイデンティティを持つようになった。また、古代エジプト人はアラブ人に侵略される側だったが、現在ではアラブ世界を代表する国になっている。
帝国は少数民族を葬り去ったが、人・財・技術・文化が広い領域に普及し、多くの人がその恩恵を享受したという事実は見逃せない。
共産主義 vs ナチズムの両極端
【共産主義】人類という種の中で、平等を守ることが尊い。
【ナチズム】人類が退化しないように、優生種が子孫を残し、社会を統制するのが尊い。
(筆者作の表より抜粋の上、要約)
共産主義は「人間の理性」に振り切っている。人間は容姿や能力が一人ひとり異なるが、共産主義という人為的な仕組みにより、結果としての平等を志向する。
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」仕組みだが、人間はそこまで理性的ではない。「働かずに、受け取りたい」人々の存在により、労働生産性は落ち、資本主義の前に敗れることとなる。ただ、人間社会の「イデア」として、その理念自体は役に立ち続けるだろう。
一方のナチズムは、(見かけ上)「科学」に振り切っている。より生存に適した種が生存競争に勝ってきたという進化論的事実を根拠に、人類の中で最も知能指数や道徳心の高いアーリア人は、混血を避けて純血の子孫を多く残すべきだと主張する。
これが結果的に、ユダヤ人迫害や障がい者迫害に繋がることになる。なんともアーリア人中心の考え方ではあるが、「科学的に人類を強くする」という部分だけを切り出すと、正当性を持つようにも聞こえてしまう。
「人類は先天的にも後天的にも平等であるべき」という極端(=共産主義)と、「人類は先天的に優れた者だけが子孫を残すべき」という極端(=ナチズム)は、どちらも歴史的に葬られている。しかし両者とも、熱狂的な支持を受けた時代があったのだ(もちろん、今でも信奉者は存在する)。
何が真実で、何が善いことで、何が美しいかを判断する力がないと、人間は分かりやすい極端に走ってしまう。これを制御するものこそ、教養であり、「徳」の分野ではないだろうか。
資本主義は科学の発展頼み
(人類は何万年も、単純再生産を繰り返してきたが)、近代に入ってから、人類の経済は飛躍的な成長を遂げてきた。それはひとえに、科学者たちが何年かおきに新たな発見をしたり、斬新な装置を考案したりしてきたおかげだ。
政府と中央銀行は、将来の産業の発展を期待して紙幣を発行し続けている。しかし結局のところ、それに見合った価値を生み出すのは科学者なのである。
バイオテクノロジーやナノテクノロジーといった分野で新しい発見がなされれば、まったく新しい産業がいくつも生まれる。そこからもたらされる利益こそが、政府や中央銀行が大量に発行してきた「見せかけの」お金を支えてくれるのだ。
科学の発展が無ければ、人類は単純再生産を繰り返すだけで、資本主義や経済の発展はなかった。この見方はなかなかの盲点だったと個人的には思う。
確かに、株式市場というものは、鉄鋼・電機・情報通信・ICTといった科学技術の進展を見越して形成されるものであって、文学や哲学の発展とは殆ど無関係である。その意味で、現代資本主義と科学技術は密接に関係していると言える。
原子力という新しい動力減
産業革命は、エネルギー変換における革命だった。産業革命以前、人間のエネルギーはほぼ完全に植物(注:及びその植物を食べる動物)に依存していた。
熱を動きに変換するという大躍進は、部分的には9世紀の中国で火薬が発明された後に起こった。火薬の発明から実用的な大砲の開発までには、約600年が過ぎ、熱を使って物を動かす次なる機械(蒸気機関)を人々が発明するまでには、さらに3世紀が過ぎた。
しかしその後、どんな種類の質量もエネルギーに変換できる(E=mc2という式はそういう意味だ)とアインシュタインが結論してから、広島と長崎を原子爆弾が壊滅させ、世界中に原子力発電所が続々と建設されるまでには、わずか40年の月日が過ぎただけだった。
これは、人類がどのようにエネルギーを得てきたかという歴史を表している。
人類は長らく水力や風力というエネルギーをそのまま使うか、人間自身がエネルギー変換装置となって、植物(とそれを食べる動物)から筋力を得た。
最初の転機は火薬の発明で、それが洗練されたのが産業革命期の蒸気機関の実用化である。そして、原子力の利用というのはその延長線上にある。
ここで原子力の利用について、少し考察してみたい。
<ここから先は政治的な議論にもなります。関心の薄い方や、他の見解をお持ちの方は読み飛ばしていただければ幸いです>
古くは1986年のチェルノブイリ原発事故、最近では2011年の東日本大震災に伴う福島第一原発事故により、日本ないし世界では「とにかく危ない原発は廃止だ」という非理性的な議論が世間を席巻した。
「エネルギー」という経済の根本を左右する議論をするには、原発反対派は感情的になりすぎていた(或いはなりすぎている)のではないか。原発の事故リスクのみを過大評価し、CO2排出量や原料の安定調達、安定的な電力供給といった要素を冷静に評価する能力を失っていた(失っている)ように思う。
その中でも最大の要素は「発電コスト」である。
原子力発電は、主要な発電方法の中で、最も低コストだ。火力に比べてCO2排出量も圧倒的に少ない。もちろん、だからと言って原子力発電の一歩足打法では、ウランの輸入が止まるリスクを分散できない。よって、それぞれの発電方法によるメリット・デメリットを勘案して、ベストミックスを追い求める、というのがあるべき姿だろう。
とにかく「原発反対」「自然エネルギー賛成」と原理主義者のように唱える人は、全てを自然エネルギーにすると、電気代が単純に3倍になること、あらゆるものの製造コストが増加すること、人類全体の生産力が減じられること、などを理解しているのかどうか、甚だ疑問である。
ここから先は自然科学・社会科学からは離れるが、個人的には、人類が過去「火」の使い方を覚えて進化したように、「原子力」も人類の進化の過程であるように思える。
人類が最初に火を扱った際、恐らく色々な失敗をしただろう。火力をうまく制御できずに、山一つ焼いたこともあるだろう。深刻な火傷を負ったこともあっただろう。しかし、そのような失敗を経て、人類は火を扱えるようになった。その結果、火で調理した食べ物を摂取することで、消化に費やすエネルギーを他に回すことができるようになり、脳が進化した。
原子力は現代の「火」ではなかろうか。歴史を大局で見るとは、そういうことなのではないだろうか。深刻な事態を引き起こすことは本意ではないが、原子力技術をここで絶やすことは、後世の人類のためにならないのではないかと強く思われる。
「幸せ」に対する態度
本書では人間の「幸せ」について、大きく4つの態度を論じており、①~④まで、極端に振れているので、良い頭の整理になる。皆さんは、どの態度を取るだろうか。
①利己的遺伝子説 | ②理性万能論 | ③仏教 | ④新興宗教 |
幸せになどなれない | 幸せは自分で決める | 幸せを追わない | 現世は来世のため |
①利己的遺伝子説
人間は結局遺伝子の乗り物であって、主な仕事は生存と繁栄である。そのように進化してきたのだから、幸せになるようには設計されていない(例えば、100%楽観的な人間より、ある程度心配性な人間の方が、生存には適していたであろう)。人間はDNAに支配されており、外からの刺激に機械的に反応しているだけであって、幸せになどなれない。
②理性万能論
人間は放っておけば刺激に反応するだけの物体だ。しかし人間には理性の力がある。必要なのは、信じ、期待し、微笑むことだ。人生の幸不幸の境目は、みな人の心が作り出すものであって、幸せになれるかどうかは、自分の心持ち次第。幸福は自分で作るものだ。一方、人生に虚無感を感じるのも、また同じ理性によるものである。いかに理性を制御するかが、幸福に直結する。
③仏教
人間は幸福や快楽を追う煩悩の塊である一方、人生は思い通りになどならず、その煩悩が満たされることなどない。あらゆるものは変化するのに、人間は何か特定のものに執着する。あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になれば、結果として幸せに生きることができる。つまり、幸せを追わないことこそが、幸せなのだ。
④新興宗教
現世を生きる意味など一切ない。現世は来世を幸せに生きるための準備をする場所だ。だから現世ではたくさん徳を積んでおくのがいい。そう、この壺を買いなさい。
なお、ナチスドイツにより強制収容所へ収容されていたヴィクトール・フランクル著『夜と霧』に拠ると、「強制収容所という極限状態で生き延びたのは、体の強い者でもなく、歳の若い者でもなく、明日への希望と生きる意味を見失わなかった者」だったという。これは本書と同じく、②の態度と言えるだろう。
人事部長のつぶやき
現代のICT革命は・・・?
人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。
農業革命を企てた人もいなければ、穀類の栽培に人類が依存することを求めた人もいなかった。数人の腹を満たし、少しばかりの安心を得ることを主眼とする些細な一連の決定が累積効果を発揮し、古代の狩猟採集民は焼けつくような日差しの下で桶に水を入れて運んで日々を過ごす羽目になったのである。
農業革命は、短期的な食料増加を追い求めた結果だった。では、現在進行中のICT革命はどうだろうか。
メール、チャット、SNSなどなど、コミュニケーションは従来より飛躍的に簡便になった。しかし通勤電車の中を見てみるとよい。スマホゲームに夢中になる人、無心にメッセージを返信している人、誰かの書き込みに腹を立てている人・・・これが個々の人々にとって良い「進化」なのか、それは数千年後にならないと評価できないのだろう。
大きな目で見れば、私達自身も、古代農耕民と同様、これからどう人類を進化させたいかというビジョンはなく、ただ目の前の自然科学や社会科学を発展させ、日々の快楽に身を投じているだけですね。
スペイン・ポルトガルとイギリス・オランダの違い
スペインが没落し、オランダが興隆したのは、法による資本主義の保護の違いだ。
スペインは王政により、裁判所にも国王の影響力が効き、平気で借金を踏み倒した。しかしオランダは法律によって債権を保護した。この結果、資本はスペインからオランダに集中するようになった。
趣旨要約
ラテン系民族は、アメリカ大陸に出て行って「オラオラ~」と略奪の限りを尽くし、富を吸い尽くすことには長けていた。しかし、産業を持続的に発展させるという戦略はなく、ゲルマン系(アングロ・サクソンを含む)民族に敗れていくことになる。
この歴史は、北アメリカと南アメリカの経済格差という形で、現在でも生きている。資本家・商売人の権利を法律で守り続けたアングロ・サクソンこそが、帝国主義と資本主義を融合させ、大きな影響力を維持することになった。
人間の「もっとお金が欲しい」という欲求を最大限に生かしたのがアングロ・サクソン民族で、その基本的構造は現在も全く変わっていません
(河出書房新社)
※「人間は昔より幸せになっているのか」という壮大なテーマに挑む