【人事部長の教養100冊】
「善の研究」西田幾多郎

善の研究

「善の研究」西田幾多郎

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基本情報

初版   1911年
出版社  講談社学術文庫、岩波書店等
難易度  ★★★★★
オススメ度★★★☆☆
ページ数 490ページ(講談社版)
所要時間 5時間30分

どんな本?

「哲学」という概念がなかった明治日本において、論理重視の西洋思想と自身の禅体験を融合し、主観・客観が分離する以前の原初的な「純粋経験」を実在とするという独自の立場を創造した、日本最初の哲学書。

カントの純粋理性批判と並び、とにかく「難しい」と言われるいわくつきの骨太本。しかし、西洋思想と東洋思想の融合に挑戦した日本初のオリジナル哲学は、思考や教養の幅を広げること間違いなし。本サイトでは、詳細な注釈と解説がついた講談社学術文庫版(小坂国継注釈)をオススメする。

著者が伝えたいこと

善とは一言でいえば「人格の実現」である。人間の本性及び宇宙の統一原理は同一であって、そこには後天的な知識や判断の影響を受けない普遍的な「意志」が存在する。その意志を実現することが人格の実現であり善の実践である。

「この世界がどうあるか」「人間はどう生きるべきか」という実在を知るには「純粋経験(≒直感)」が必要であるという点は西洋哲学的(イギリス経験論)であるし、その究極が「知的直観(≒自分と宇宙が一致する梵我一如)」であるという点は東洋哲学的(ウパニシャッド哲学)である。

著者

西田にしだ幾多郎きたろう 1870-1945

日本の哲学者で「京都学派」の創始者。明治維新の2年後に生まれ、日本が国際社会で西洋に追いつき追い越そうとしていた時代を生き、太平洋戦争終戦の年に亡くなった。

東京帝国大学哲学科選科修了、のちに京都帝国大学名誉教授。田辺元らとともに「京都学派(西田学派)」を形成。和辻哲郎や三木清は門下生。

西田幾多郎が散策した琵琶湖疏水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれている。

哲学の道

こんな人にオススメ

「難しい」と言われる本に挑戦してみたい人、西洋哲学と東洋哲学の双方に関心のある人

書評

西田の言葉遣いはかなり難解で、原書を読んだだけではなかなか中身が入ってこない。また、いくつかの論文や講義メモを寄せ集めて一冊にまとめているがゆえに、全体として整合性が取れていない箇所もある。

第3編「善」・第4編「宗教」が西田の言いたいこと、第1編「純粋経験」・第2編「実在」が西田哲学の理論的基礎となっているので、第3編から読むと読みやすい。ちなみに西田は第1編「純粋経験」を「自分の思想の根底であるが、初めて読む人は省略した方がいい」と薦めている(第1編から読み始めると、難しすぎておそらく挫折するだろう)

要約・あらすじ

第1編 純粋経験

■「純粋経験」とは、思慮分別の加わらない原初的な経験であり、主観と客観が分かれる前の直感状態のことをいう。最も理想的な純粋経験である「知的直観」においては、主観と客観が完全に一致し、自己は全く消滅して、自己と宇宙が一体となる。

■知的直観の状態において、人は宇宙の根源的統一力そのものとなり、理想的で究極的な真実在となり得る。

■ベーコンの言う「経験」は、意識の外に世界が独立して存在することを前提としているし、デカルトの「我思う故に我あり」という思惟は既に自己の理性の存在を前提としている点で、どちらも純粋経験とは異なる。

第2編 実在

■実在とは「この世界はどうあるか」及び「人間はどう生きるべきか」のことであり、真理は一つなのであるから、両者は一致するはずである。事実、古代インドでは「梵我一如」として両者は一致していた。キリスト教や儒教は、当初は後者のみの実利的側面が強かったが、その後スコラ哲学や朱子学で前者を含む哲学体系になっていった。

■実在を理解する出発点は「世界」ではなく「人間」である。なぜなら、世界を知覚しているのは人間であり、人間に拠らず世界が独立して存在しているかどうかは疑わしいからだ。では疑えないものはなにかといえば、それは「純粋経験」によって、ありのままの事実を見ること以外にはない。

■主客未分の個々の意識現象、すなわち純粋経験が唯一の実在である一方、それらの背後にある根源的統一力も実在であって、両者は同一である。それは、樹木には枝や葉などの要素があり、個別に存在はしているが、統一力があって初めて樹木として成立することに似ている。

■時間と空間は客観的に存在するものではない。よって、昨日の自分の意識と今日の自分の意識は時間的隔たりがあっても同一であるし、他人の意識と自分の意識も空間的隔たりはあるが同一である。「理」のように、人間には普遍的に理解しあえる共通基盤を持っているのである。

第3編 善

■人間に「自由意志」なるものはない。科学の進歩により、宇宙のあらゆる現象には原因や法則があることが分かり始めているからだ。だからといって、人間の意志が全て科学的に決まるかと言えばそうでもない。自らの精神活動の結果として湧き出た意志に従う時、人間は「自由である」と感じるのだ。

■善については様々な学説があるが、どの時代、どの場所でも普遍的に正しい善悪の基準は無い。「なぜ我々は善を為さねばならぬのか」という命題への明確な回答も無い。つまり、善は外から定義できないのであって、ただ意志という内面的要求からのみ説明され得る。

■つまり、意志の実現こそが善なのである。そして意志とは自己そのものであるから、善とは自己の発展完成、人格の形成そのものであると言える。人間が人間の真性を発揮するのが人間の善であり、それは理想に近づくという点で美とも言い換えられる。よって、真・善・美は一致するのである。

第4編 宗教

■宗教とは「自己の人格」と「宇宙の根本原理」を一致させる要求であり、人生の目的である。真の人格は思慮分別以前の、したがって主客未分の純粋経験の状態においてのみ自覚され、私欲を没し去った至誠の状態において初めて宇宙の根本原理と一致する。

■神とは宇宙の外側にある創造主ではなく、宇宙の根源そのもの、すなわち全宇宙における純粋経験の統一者であり、我々の精神の内側にある。自然現象も精神現象も、主観も客観も、同じ神の統一力が支配している。すなわち、我々の個々の意識の根柢には、常に神の根源的な統一力が働いているのだ。

■神の表現たるこの世界では、全てが生来的に善である。相対的に小さい善を「悪」と呼んでいるだけであるし、そもそも善の評価は時代によって変化する。罪悪・苦悩・不満は人間を向上させる要素なのだから、悪は神の恩寵とも言える。罪は憎むべきだが、悔い改められた罪ほど美しいものはないのだ。

■愛とは知ることであり、知ることは愛である。二つの人格が互いを知り、一つになることを愛という。自我を忘れ、何かに夢中になるとき、主客は合一し、知ることと愛することが融合する。

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学びのポイント

西田の「西洋哲学的」立ち位置①

物体が意識を生ずるのではなく、意識が物体を作るのである。

西田は「西洋思想と東洋思想を融合」させた哲学者として知られているが、まずその西洋哲学的な立ち位置から明らかにしていく。

結論だけ提示すると、西田の哲学は明確に「イギリス経験論」に分類される。それは「大陸合理論」と比較すると理解しやすい。

すなわち、人間にとって疑い得ないのは、人間の側の「意識」やその「経験」であって、「世界」が独立しているわけではないと西田は主張している。これが「実在を理解するためには「純粋経験」が必要である」という主張に繋がっていく。

ちなみに、ドイツの哲学者カントが「大陸合理論」と「イギリス経験論」の統合を試みている。西田の「純粋経験」という考え方は、カント哲学をベースにしていると言える。

そして、西田の主張はほぼ、アイルランドの哲学者ジョージ・バークリーの主張と一致している。

事物が存在するとは、それが知覚されているということである。事物が心すなわち知覚する思惟的事物の外に、存在するなどということは不可能である。

バークリー『人知原理論』

西田の「西洋哲学的」立ち位置②

善とは我々の内面的要求すなわち理想の実現、換言すれば、意志の発展完成であるということとなる。(中略)

アリストテレスに従えば、人生の目的は幸福である。しかし、これに達するには快楽を求むるによるにあらずして、完全なる活動(=意志の発展完成)によるのである。

ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。理想の如く実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂である。それで花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達するのである。

善はすなわち美である。(中略)この考えは最も能くプラトーにおいて現われている。

西田は自らの哲学がアリストテレス・プラトンに近いことを明確に認めている。

アリストテレス
アリストテレス

まず、アリストテレスは著書『ニコマコス倫理学』の中で、「最高善」を目指すことが幸福につながるとしており、「最高善」とは「それ自体が目的となること」と定義される。快楽や健康や名誉や財産は、善を為すための単なる手段であるから、最高善にはなり得ないし、徳自身も持っているだけでは何の役にも立たないので最高善ではない。

そこでアリストテレスは「人生全体にわたって、完全な徳に基づいて活動しており、かつ外的な善を十分に与えられてきた人」こそが最高善であり幸福であるとする。これは西田の主張とほぼ同じである。

プラトン
プラトン

そして、善と美の記述はプラトンの「イデア論」そのものである。プラトンは著書『国家』の中で、「可視界で知覚できる実在とは無関係に、可知界で思惟によって認識できる理想像」のことを「イデア」と定義し、善についても「善のイデア」が存在すると考えた。人間が本性を実現し、善を為すことは、「美」そのものであるということである。西田哲学の特徴がよく表れている。

西田の「東洋哲学的」立ち位置

(純粋経験とは)真に経験そのままの状態をいうのである。(中略)この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。

自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なるもの(=知的直観)である。(中略)

知的直観といえば主観的作用のように聞こえるのであるが、その実は主客を超越した状態である。主客の対立はむしろこの統一によりて成立するといってよい。芸術の神来の如きものは皆この境に達するのである。

西田は、世の中の神羅万象を認識する出発点を「純粋経験(≒直感)」であるとしたが、これは既に説明したとおり西洋哲学的(イギリス経験論)といえる。

一方、同時に西田は純粋経験の究極の姿を「知的直観」と表現しており、これは「宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個人の本体であるアートマン(我)とは同一である(=梵我一如)」とする古代インドのウパニシャッド哲学に影響を受けている。

なお、ウパニシャッド哲学はその後、バラモン教、仏教、儒教といった東洋思想にも大きな影響を与えており、仏教や陽明学では「人間は私欲や私心を否定し尽くすことによってはじめて万物一体の境地に入っていくことができ、心の良知や真の自己と一体となることができる」と考えられている。

西洋思想においては経験論に近い「純粋経験」を、「梵我一如」という東洋思想で超越した「知的直観」という考え方が、西田を「日本初の哲学者」たらしめている所以と言える。

宇宙の正道に従う

道徳のことは自己の外にあるものを求むるのではない、ただ自己にあるものを見出すのである。(中略)

我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。

「宇宙の本体と融合し、神意と冥合」というと、どうしても西洋の一神教的な「全知全能の神」を想起してしまうが、西田は東洋思想を念頭に置いていた。

東洋思想においては、古代インドのウパニシャッド哲学から、仏教、儒教にいたるまで、神の存在は想定されていない。ざっくりとまとめると以下のようになる。

どれも「神」が世界を創ったとか、神との契約とか、神の掟といった概念は出てこない。我々日本人にとっての宇宙や自然も、神が創り賜うたものというよりは、崇敬や畏怖の対象と言えるだろう。

西田の先人も「宇宙の真理と自己を一体化する」ことに着目していた。二人ほど紹介したい。一人目は江戸末期の儒学者佐藤一斎、二人目はその佐藤の著書『言志四録』を座右の書としていた西郷隆盛。

佐藤一斎
佐藤一斎

最上の人は宇宙の真理を師とし、二番目の人は立派な人を師とし、三番目の人は経典を師とする。

佐藤一斎「言志四録」

西郷隆盛
西郷隆盛

人が行くべき道は、天から与えられた道理を守る、すなわち天を敬うということだ。また、(人は天より生まれたものであるから)周囲の人を愛さなければならない。そのためには身を修め、常に意志の力で自分の衝動や欲望を制御する、つまり己に克たなければならない。

西郷隆盛「南洲翁遺訓」

そして、西田の後人も、同じ趣旨の主張を展開している。昭和の著名な経営者2名の言葉を紹介したい。

松下幸之助
松下幸之助

人間の繁栄は、全て宇宙の秩序に基づいて与えられるものであります。この秩序に従って生きることが大義であります。

松下幸之助「松下幸之助の哲学」

稲盛和夫
稲盛和夫

宇宙を貫く意志は愛と誠と調和に満ちており、すべてのものに平等に働き、宇宙全体をよい方向に導き、成長発展させようとしている。

稲盛和夫「生き方」

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