「道をひらく」松下幸之助
基本情報
初版 1968年
出版社 PHP研究所
難易度 ★☆☆☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 271ページ
所要時間 2時間00分
どんな本?
「経営の神様」松下幸之助が、人生を生きる上での不変の大原則をまとめた短編随想集。1968年発刊ながら、今なお多くの人が「座右の書」に挙げる大ベストセラー(累計400万部超え)。PHP出版によると、女性読者は男性読者の倍。
「自信を失ったときに」「仕事をより向上させるために」「生きがいのある人生のために」など、身近な項目が並び、読む者を勇気付ける。自分の人生を一度棚卸しし、再点検したい社会人の方に特におすすめ。
著者が伝えたいこと(松下哲学のエッセンス)
■宇宙には根源的なエネルギーと自然の理法(不変の道徳と幸福・平和・繁栄)が存在する。
■人間はそれを体現する特別な存在であるから、以下のようにふるまわなければならない。
・個々の天性(能力)を存分に発揮する
・人間同士の礼を失わない
・人生観と信念を持って人生を生きる
・自分は宇宙と社会に生かされていると感謝する
■人間は本来的に幸福・平和・繁栄が与えられているのだから、悩みは生まれないはずである。悩みは人間が作っているのだ。
著者
松下幸之助 1894-1989
日本の経営者、発明家、著述家。パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げた経営者。「経営の神様」の異名を持つ。
1946年には「PHP研究所」を設立して倫理教育や出版活動に乗り出す。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも取り組んだ(卒業生に野田佳彦元首相、前原誠司元民主党代表等)
こんな人におすすめ
新社会人や自分の人生を再点検したいビジネスパーソン、「偉大な経営者と言えども、考えていることはいたってシンプル」という事実を確認したい人。
書評
毎日が真剣勝負!といった、最近はあまり流行らない昭和の精神論的な面もあるが、非常にシンプルなのに心に染み入る言葉が並ぶ。
短編随想録なので、2時間もあれば一気に読める。肩の力を抜いて、素直に向き合いたい一冊。
要約・あらすじ
※本書は1編500字程度の訓話集です。繰り返し出て来るテーマなどを中心に「要約」します。
運命を切りひらくために
■どのような人にも天から与えられた、自分しか歩めない道がある。道をひらくためには、志を立て、懸命に歩まねばならない。
■自然は謙虚で素直だ。春になれば芽を出し、秋になれば枯れる。人間も私心や野心を捨て、自然の理に従って謙虚に素直に生きなければならない。
■宇宙のあらゆるものの存在は運命で決められている。人生も90%は人智を超えた運命の力で設定されており、努力で何とかできるのは残りの10%くらいだろう。順風に驕らず、逆境に落胆せず、素直に謙虚に道を開いていくべきだ。
日々を新鮮な心で迎えるために
■毎朝を明るく元気に迎えよう。昨日の苦労まで背負っているわけにはいかないのだから。
■この宇宙は時々刻々と変化している。人間もこの大原理の中で生きているのだから、古人が「君子は日に三転す」と言うように、変化に恐れや不安を持たずに、前例を打ち破って進歩していく必要がある。
ともによりよく生きるために
■世の中から多くを与えられたいと思うなら、それより多く与えればいい。知恵でも力でも優しさでも、その人に与えられた尊い天分で世の中に貢献すれば、必ず自分のもとに返ってくるはずだ。
■人は調子の悪い時には心を閉ざし、調子の良い時には驕り高ぶる。しかし、それではいけない。どのような時も、安定的に、素直かつ謙虚であるべきだ。
自ら決断を下す時に
■部下に命令ばかりしていると、いずれ部下は自分でものを考えなくなる。命令する前に部下の話を聴き、問い、足りない点を気付かせて、その上で命じることが効果的である。
■自分の仕事は様々な人が様々に評価する。しかし一喜一憂してはいけない。自分のしたことが正しかったかどうか、自己評価できる勇気と知恵を身に付けなければならない。
困難にぶつかったときに
■危険から守られ、自動的に食事が出て来る動物園の動物は生きがいを感じているだろうか。困難に直面し、力を総動員し、命がけで切り抜けていく、それでこそ人生は充実する。
■困難に直面した時こそ、その人の人格が現れ、問われる。
自信を失った時に
■人間、迷いが生じると、周囲はもっとラクに儲けているのではなどと考え始める。しかし、どれも一歩一歩、地道に積み重ねた成果なのだ。欲深きを捨て、ものの道理に適した道を歩んでいくべきである。
■一人の智恵には限りがある。自信がない時は、人の力を借りるべきだ。古語にも「見ること博(ひろ)ければ迷わず。聴くこと聡(さと)ければ惑わず」とある。
仕事をより向上させるために
■仕事は、世の中にやらせてもらっている世の中の仕事だ。「自分の仕事」などと奢ると、野心や自己満足に陥る。
■自分の仕事振りを常に検証し、必要に応じて修正していかなければ、成長はない。そして熱意を持ち、精魂を込めて毎日の仕事に打ち込まなければ、仕事の喜びは味わえない。
事業をよりよく伸ばすために
■事業で成功することは大切だが、「正しい方法で」成果をあげているかが重要だ。勝負には勝敗のほかに、勝ち方と負け方があるのと同様だ。
■仕事は非常に奥深い。単純と思われる服飾の世界でさえも、毎年手を変え品を変え創意工夫で進歩している。熱意があれば、仕事にはいくらでも、考え方ややり方があるものだ。
自主独立の信念を持つために
■人間は他を妬み羨むことはあっても、自分の恵まれた境遇には気付かないことが多い。だからすぐに不平不満を持つが、不平や不満の心から、よい知恵も才覚も湧くはずがない。
■世の中には平時もあれば乱世もある。好景気もあれば不景気もある。人間、平和が続くと人生の在り方や感謝を忘れて日々を漫然と送る。「治にいて乱を忘れない」ことが必要である。
■何でもかんでも他人や周囲のせいにしてはいけない。この複雑な世の中、自分に返ってくることもある。深い自己反省と責任感を持たなければ、勇気無き、心弱き人間になってしまう。
生きがいある人生のために
■人間は必ず死ぬ存在である。これは絶対に融通がきかない。だからこそ、人は人生を真剣に生きられる。分かり切ったことだけに、何度も自分に言い聞かせたい。
■人間の能力差は誤差の範囲内だ。全員、神か仏以下であり、犬猫以上である。多少の賢さを誇り、多少の愚かさを卑下しても仕方ない。自らに与えられた人生を、心静かに歩もう。
国の道をひらくために
■個人が道を切りひらくことは容易ではないが、国が道を切りひらくことも容易ではなく、為政者には相当の覚悟と信念が要る。
■日本は自然、風土、歴史に育まれた精神的遺産に恵まれ、そして勤勉にして誠実な国民性も併せ持つ。この国の良さを、日本人としての誇りを、今一度考えたい。
学びのポイント
宇宙の原理原則に従って生きる
植物は春が来れば芽が出て、秋になれば枯れて散る。自然(宇宙を取り巻く原理原則)に従った素直な態度である。
人間も私心や野心を捨て、自然とともに素直に謙虚に生きなければいけない。
趣旨要約
松下の基本思想の一つとして「宇宙のあるがままを受け入れる(宇宙は然るべくして現在の形になっている)」というものがある。そして、人間も宇宙の一部なのであるから、自然の法則に従って、素直に謙虚に生きるべしと説く。
松下は別の著作でこう言っている。
人間の繁栄は、全て宇宙の秩序に基づいて与えられるものであります。この秩序に従って生きることが大義であります。
松下幸之助「松下幸之助の哲学」
また、先人たちも同様の内容を述べている。西洋的に言えば宇宙を司る全知全能の「神」ということなのだろうが、日本人の感覚としては、宗教性のある信仰というよりは、宇宙や自然を畏怖し、調和して生きたいという願望に近いのではないかと思われる。
利をあげることが生きる目的ではない。誠実、正義、人の道こそ目指すものである。法と道(真理)は違う。法は時代によっても解釈によっても形を変える。一方、真理は永遠から出てくるものだ。
中江藤樹
最上の人は宇宙の真理を師とし、二番目の人は立派な人を師とし、三番目の人は経典を師とする。
人が行くべき道は、天から与えられた道理を守る、すなわち天を敬うということだ。また、(人は天より生まれたものであるから)周囲の人を愛さなければならない。そのためには身を修め、常に意志の力で自分の衝動や欲望を制御する、つまり己に克たなければならない。
道徳のことは自己の外にあるものを求むるのではない、ただ自己にあるものを見出すのである。(中略)
我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。
西田幾多郎『善の研究』
宇宙を貫く意志は愛と誠と調和に満ちており、すべてのものに平等に働き、宇宙全体をよい方向に導き、成長発展させようとしている。
西洋でも同じことが述べられている。
神々のわざは摂理にみちており、運命のわざは自然を離れては存在せず、また摂理に支配される事柄とも織り合わされ、組み合わされずにはいない。
当然ながら、「宇宙や天の法則」があるかどうかは分からない。それを信じるか否かは宗教の世界とも言える。
しかしながら、アメリカ的なプラグマティズム(=現実世界で役に立つ考え方こそが真理であるとする)からすれば、「宇宙や天の法則」を信じることによって、充実した人生が送れていると自分自身が思えるのであれば、それが真か偽かはどうでもよく、素直に信じればいいだけということになるだろう。
全てのものに存在する意味がある
もし日本に、花は桜だけ、木は杉だけ、鳥はウグイスだけしかなかったら、現在の自然の豊かさはなかっただろう。
人間も多様性があっていいのだ。他人と異なることを嘆くより、その違いの中に無限の妙味を感じたい。(要約)
「多様性こそが無限の妙味を生む」というのは、現代的に言えば「ダイバーシティ&インクルージョン」そのものであり、松下の先見性が光っていると言える。
なお、経団連によると「ダイバーシティ&インクルージョン」の定義は以下のとおりとなっている。
2.「ダイバーシティ・インクルージョン」についての基本的考え方
「ダイバーシティ・インクルージョン」とは、多様性を受け入れ企業の活力とする考え方である。企業の組織活性化、イノベーションの促進、競争力の向上に向けて、まずは女性、若者や高齢者、LGBT、外国人、障がい者等、あらゆる人材を組織に迎え入れる「ダイバーシティ」が求められる。
その上で、あらゆる人材がその能力を最大限発揮でき、やりがいを感じられるようにする包摂、「インクルージョン」が求められる。ダイバーシティとインクルージョンの双方があいまって、企業活動の活力向上を図ることができる。
また、「全てのものに存在する意味がある」という観点では、戦後、ハンセン病施設で医療活動に従事した精神科医の神谷美恵子が著書『生きがいについて』で、以下のようなことを述べている。
人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。考える力を失ったり、病気に苦しむような人、野に咲く花のように、ただ「無償に」存在している人も、大きな立場からみたら存在理由があるに違いない。
もし彼らの存在意義を問題にするなら、人類全体、動植物全体、宇宙全体の存在意義も同時に問われなければいけない。
他にも、多くの偉人たちが「存在するあらゆるものには意味がある」という趣旨の言葉を残している。
世間でどれほど無価値と烙印を押されても、それが存在する以上、必ず存在する価値や意味があるはずだ。
(最善観という)言葉は、ライプニッツという哲学者のとなえた説であって、つまり神はこの世界を最善につくり給うたというのです。すなわち神はその考え得るあらゆる世界のうちで、最上のプランによって作られたのがこの世界だというわけです。
したがってこの世におけるいろいろのよからぬこと、また思わしからざることも、畢竟するに神の全知の眼から見れば、それぞれそこに意味があると言えるわけです。
心の鏡
自分の身なりを正すためには、人はまず鏡の前に立つ。鏡は正直である。
(しかし)身なりは鏡で正せるとしても、心のゆがみまでも映し出しはしない。だから、人はとかく、自分の考えやふるまいの誤りが自覚しにくい。心の鏡がないのだから、ムリもないといえばそれまでだが、けれど、求める心、謙虚な心さえあれば、心の鏡は随処にある。
この「鏡」の比喩は、唐の太宗の言行録である『貞観政要』のものが有名だ。
銅を鏡とすれば、衣服や冠を正すことができる。
古を鏡とすれば、世の興亡を知ることができる。
人を鏡とすれば、善悪を明らかにすることができる。私は常にこの三つの鏡を保持して、自身の過ちを防いできた。
このうち、松下は「人の鏡」の話をしており、周囲の人や、上司・部下からの厳しい指摘や指導を謙虚に素直に受け入れ、自分を自然の理法に従わせようと説いている。
時間をいかに有効に使うか
物事を、ていねいに、念入りに、点検しつくしたうえにもさらに点検して、万全のスキなく仕上げるということは、これはいかなる場合にも大事である。
しかし、念入りにやったがために、それだけ余計に時間が掛かったというのでは、これは本当に事を成したとはいえないであろう。
仕事にはスピードが求められる。締め切りを過ぎた100点より、言われて直ぐやる70点の方が(少なくとも現代のビジネスでは)尊い。
ドイツの法学者、思想家のヒルティは、時間を有効に使う心構えを次のように言う。
①規則正しい生活を送る(残業や休日労働はもっての他)
②とにかく手を付けてみる(気分はあとから乗ってくる)
③断片的な時間を活用する(まとまった時間を取ろうとしない)
④複数の仕事を同時に進める(気が乗らない仕事もある)
⑤手早く仕事をする(100点を目指さない)
⑥無駄な時間をなくす(社交は大いなる時間の無駄遣いだ)
先が見えなかったり、気乗りしない仕事は後回しになりがちだが、初動が遅れるたびに、投下しなければいけないエネルギーは増えていくものだ。
PDCAを回す
射場に行って射撃の練習をすると、標的の下に監視の人がいて、発射のたびにどこに当たったか旗を振ってくれるので、次の狙いが修正できる。
もしこの旗を見なかったら、何の上達もないであろう。仕事でも同じである。(一部要約)
(あくまで私見だが)松下幸之助のこのエピソードは、様々なビジネス書で引用されているように思う。「PDCAを回さないと、成長できない」ということを端的に伝える良い比喩だからだろう。
若いうちは上司が「旗を振って」くれるからよいが、管理職になると誰も何も言ってくれなくなる。伸びる管理職とそうでない管理職の違いは、この「自己検証・自己修正力(PDCA回転力)」なのかもしれない。
自分の誤りを謙虚に認め、修正できるか
人間は神様ではないのだから、一点非の打ちどころのない振舞いなど、到底望めないことで、時に過ち、時に失敗する。
それはそれでいいのだが、大切なことは、いついかなるときでも、その自分の非を素直に自覚し、これにいつでも殉ずるだけの、強い覚悟を持っているということである。
これも、役職が上がるにしたがって、噛みしめなければならない教訓だろう。非常に重要な事柄であるので、何人もの人が同じ趣旨の警告を発している。
士は過ちなきを貴しとせず、過ちを改むるを貴しと為す
吉田松陰
過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其の事をば棄て顧みず、直に一歩踏み出す可し
西郷隆盛
もしある人が私の考えや行動が間違っているということを証明し、納得させてくれることができるならば、私は喜んでそれらを正そう。
なぜなら、私は真理を求めるのであって、真理によって損害を受けた人間のあったためしはない。これに反し、自己の誤謬と無知の中に留まる者こそ、損害を蒙るのである。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』
役職が上がっても、どれだけ謙虚に自己の言動を反省し、周囲の助言に耳を傾けられるか。それがその人の器と能力を決めるのであろう。
民主主義の強さ
大衆は愚衆である。だから、この愚かな大衆に意見を聞くよりは、偉大なる一人の賢人があらわれて、その独裁によって政治が行なわれることが、もっとも望ましい──かつての大昔、だれかがこんな考えを世に説いた。
しかし今日、大衆は極めて賢明であり、また極めて公正である。したがって、これを信頼し、これに基盤を置いて、この大衆に最大の奉仕をするところに、民主政治の真の使命があり、民主主義の真の精神が潜んでいると思うのである。
昨今の政治のポピュリズム化(大衆迎合化)を見ていると、民主主義には限界があるのではないかとも思わせる。ああ、誰か強力なリーダーシップと権限を持った賢明な人間が、国全体を引っ張っていってくれないかと。
現在、世界で後者の方法を志向しているのが、一党独裁の中国とロシアである。私達日本も、同じ体制を望むのだろうか。
日本人にとって民主主義と一党独裁のどちらが性に合っているかは別として、現在の地政学が朝鮮半島を挟んだ民主主義の海洋国家(日・米・台・豪)VS一党独裁の大陸国家(中・ロ)という情勢の中、日本は民主主義サイドにいる他に選択肢はない(少なくとも現時点では)。
そして、独立直後のアメリカの民主主義を見たフランスの政治家トクヴィルは、著書『アメリカのデモクラシー』でこう言っている。
民主主義には多くの構造的欠陥がある。民主政府自体は、たいして能力も徳も高くない民衆が選んだ人物が運営するのであって、寡占政府より立派でも効率が良いわけでもない。
ただ、民主政治下においては、民衆は積極的に政治に参加し、法と個人の権利が守られた中で各自の利益が最大になるように経済活動に勤しむ。このことが、活力のある「人」を生み出し、国全体も力を持つようになる。
そして同時に思い出しておきたいのが、第二次世界大戦中のイギリス首相チャーチルのこの言葉だ。ヒトラーの全体主義と戦ったチャーチルの言葉だからこそ、民主主義への秘めたる自信を窺うことができる。
民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。
It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried.
民主主義はベストの政体ではないかもしれない。しかし、私たちが一党独裁や寡占政治を受け入れられるかと言われれば、それは難しい。
よって、松下の言うように、一人の独裁者に頼るのではなく、民主主義を信じ、一人ひとりが賢明かつ公正であろうと努力すべきなのだろう。
人事部長のつぶやき
挨拶の大切さ
私たちの遠い祖先から伝わってきたこの挨拶というものは、いわばお互いの毎日の暮らしの潤滑油とでもいった、尊い働きを果たしているのである。
人間としての、基本中の基本。挨拶されて嫌な気持ちになる人など滅多にいない(少なくとも私は出会ったことがない)。朝から元気に挨拶するに越したことはない。
挨拶は、相手の存在に敬意を払うという機能の他に、自分を気持ちよくするという機能もある。脳科学的な知見によると、笑顔であいさつすると、いわゆる幸せホルモンと言われるドーパミンが分泌されるのだそうだ。挨拶は自分のためでもあるのだ。
挨拶しても返してくれない人は一定数いますが、見返りは気にせず、挨拶し続けたいものです
年単位で考える
嵐が吹いて川があふれて町が流れて、だからその町はもうダメかといえば、必ずしもそうではない。
十年もたてば、流れもせず、傷つきもしなかった町よりも、かえってよけいにきれいに、よけいに繁栄していることがしばしばだ。
この文章自体の趣旨は「自信を失うな」ということであるが、「10年も経てば、昔の困難など忘れ去られる」というようにも読める。
今、自分が囚われている悩み事、こだわり、心配事は、1年経ったらどうなっているか。それは今から1年前を振り返ればいい。自分は何に悩み、何にこだわり、何を心配していただろう。克明に思い出せる人は多くないのではないか。
今、この瞬間のこだわりなど、数年すれば自分ですら忘れてしまう。そのくらいの達観視点は常に持っておきたい。
1年前のちょうど今頃、何に悩んでいたか、皆さんは思い出せますか?
手を変え、品を変え
もう考えつくされたかと思われる服飾のデザインが、今日もなお行き詰っていない。次々と新しくなり、次々と変わってゆく。そして進歩してゆく。
ちょっと考え方が変われば、たちまち新しいデザインが生まれてくる。経営とは、仕事とは、たとえばこんなものである。
これはもう本当に、そのとおり。アパレル産業というものは(もちろんビジネス上の必要に駆られてという側面はあるが)、ちょっとプリーツを付けたとか、丈を伸ばしたとか、透け感を重視とか、とにかく手を変え品を変え、新しくなっていく。
仕事でも、いわゆるルーティンワークというものはある。昨年と同じことを繰り返すような仕事もある。しかし、アパレル業界の「手を変え品を変え」さを見れば、何か進歩できないか、何か変える余地があるのではないか、と考える意欲も出てこないだろうか。
アパレルの世界では「今年の流行色」を数年前から考えるというのですから、徹底的にビジネスですね
不平不満からは何も生まれない
人間というものはまことに勝手なもので、他人をうらやみ、嫉む(そねむ)ことがあっても、自分がどんなに恵まれた境遇にあるか、ということには案外、気のつかないことが多い。
だからちょっとしたことにも、すぐに不平が出るし不満を持つのだが、不平や不満の心から、よい知恵も才覚もわきそうなはずがない。
周囲にいないだろうか。不平不満批判が多いわりに、自らが改善に動くわけでもない評論家が。批判的精神は大切ではあるが、そのような人々は、概して幸せには見えないし、よい知恵も才覚も見えない。
野党や一部の労働組合などは、とにかく体制批判を繰り返し、顔も険しく、やはり知恵や才覚を感じない。何なら責任感も感じない。大変残念なことである。
「不平や不満の心」は、何らかのモチベーションにはなり得るでしょうが、あまり健全ではありませんね!