「自省録」
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
基本情報
初版 2世紀(執筆)、1558年(初版)
出版社 岩波書店等(日本)
難易度 ★★★★☆
オススメ度★★★★★
ページ数 327ページ
所要時間 3時間30分
どんな本?
ローマ帝国五賢帝の一人であり、後期ストア派を代表する哲人でもあるマルクス・アウレリウスが、多忙な公務の中、ひたすら自分の内面を見つめ、戒め、己を律する言葉を綴った個人ノート。
英国の哲学者J・S・ミルが「古代精神の最も高い倫理的産物」と評すなど、数多くの学者・政治家が座右の書として挙げ、2000年にもわたり語り継がれている名著中の名著。長きにわたり人生の指針となり得る最高の一冊。
著者が伝えたいこと
人の為すべきことは、大きく言えば、以下2つである。
①宇宙の正道(真の心で、善きことを、美しく為すこと)に基づいて、社会に尽くすこと
②自分の感情を理性で制御し、心の安寧を維持すること。制御できるものだけを制御し、その他(死・病気・貧困・評判・他人など)は気にしないこと。
著者
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
Marcus Aurelius Antoninus
121-180
第16代ローマ皇帝(在位161 – 180年)で、いわゆる五賢帝の一人。
軍事よりも学問を好み、後期ストア派の哲人としても知られる。プラトンが著書『国家』で理想とした「哲人君主」の実現例と見なされている。
※翻訳者は精神科医で、著書『生きがいについて』でも知られる神谷美恵子
こんな人におすすめ
現実的な困難に直面している人。感情を理性で制御したい人。ローマ皇帝が、いかに虚栄心や他人からの批判といった外的要素を制御し、自分の内面に厳しい現実を生き抜く勇気や考え方を持ったかを知りたい人。
書評
原題の「自分自身に」(ta eis heauton)が示すとおり、公開を前提にしていない(=誰かに読んでもらうことを想定していない)ため、とても体系的とは言えないし、論理の飛躍や言葉の省略がたびたび見受けられる。また、言っていること自体はいわゆる「ストア哲学」の領域を出るものではない。
しかし、理屈を机上で展開する学者ではなく、帝国統治という「実業」に勤しむローマ帝国皇帝が書いたという点に大きな価値があり、2000年にもわたり語り継がれている。
後期ストア派を代表する哲人だけあって、運命論的な色が強く「感情を理性で制御せよ」といった、まさに「ストイック」な主張が続く。アントニヌス本人向けに書かれているので、うまく解釈できない部分もあろうが、あまり拘泥せずに読み進めていくと、一貫した主張が見えてくる。
若干「中二病」っぽい自己への執着(の裏返し)のような部分もあり、ローマ皇帝がとても身近に感じられる。
第6巻くらいまでで主要な主張はあらかた為され、第7巻以降は同種の主張の繰り返しになる。時間のない人は、第6巻まで読むだけでも、神髄には触れられる。
要約・あらすじ
■神々は宇宙を支配する理性をつかさどっている。そして人間の運命も宇宙の秩序に含まれている。よって、人間は神々や宇宙の摂理に従わなくてはいけない。幸運も不運も、全てが宇宙を形作る要素なのだから、何が自分に回って来ようとも、全てを受け入れなければならない。
■我々人間は理性を持つ同胞であるから、互いに慈しみあわなければならない。悪事を為す者、無知な者、道理を弁えない者にも善意を持ち続け、その過ちを正すか、それが出来ないなら耐え忍ばねばならない。
■人間は神によって理性的に創られたのだから、理性に基づいて生きなければならない。自らの内なる「自然」に従わなければいけない。私利私欲や不機嫌等は理性で制御し、死・貧困・不健康等の理性ではどうしようもないものは、粛々と忍ぶだけだ。
■人間の幸福と精神の安寧は「徳」からのみ来る。徳とは「宇宙の道理」に服従し、その自然の為すことをすべて喜んで受け入れることにある。
■自分の心を乱す主体は殆どの場合、自分なのである。他人からの批判といった雑音は自ら無視すればよく、虚栄心のようなものは自ら制御すればよい。
■自分の直面していることなど、広い世界から見れば小さな小さな問題だ。どうせ人は死ねば何も残らないのだから、死を恐れてはいけない。ただ専念すべきは、いま、正義に基づいて社会のために尽くすことである。
学びのポイント
「宇宙の正道に従い、理性で感情を制御する」という通奏低音
神々のわざは摂理にみちており、運命のわざは自然を離れては存在せず、また摂理に支配される事柄とも織り合わされ、組み合わされずにはいない。
ストア哲学には、以下のような原則がある。
・人間は幸福に生きることを目的にしなくてはいけない
・財産や地位といったものは人為的で生きる目的にならない。宇宙や自然を支配する秩序や法則に従って生きることこそが、人生の目的となり得る。
・幸福とは、この宇宙を支配する秩序に従い、理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制して、不動心(アパティア)に達することである。
・不動心に至るには、我々にはコントロールできるものとできないものがあることを自覚し、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものに執着しないという態度が必要である。
どこかで見たことのある思想だなと思ったら、西郷隆盛が全く同じ趣旨のことを言っている。
正道(正しくて道理のあること)は天が示している。その天を敬い、周囲の人を愛し、自らを謙虚に制御することこそが、人として生きる道である。
生きる指針は他者からの評価ではなく、正道に則っているかどうかだ。
『南洲翁遺訓』より趣旨要約
ストア派の言う宇宙、理性が、それぞれ西郷の言う天、正道である。そして、どちらも自分を制御すること、制御不可能なものは捨ておくことを推奨する。
かつて、イチローが打率争いをしていた際に「他の打者の成績は自分では制御できない。意識していない。」と答えたことがある。まさに、ストア派や西郷の思想を体現したものであろう。
理性で感情を制御し、上機嫌でいる
克己(意志の力で自分の衝動や欲望を制御すること)の精神を持つこと。いろいろな場合、たとえば病気の場合でさえも、機嫌良くしていなければならない。
人間は意識して「上機嫌」を維持し、感謝し続けなければならないことを言っている。まさに「ストイック」、後期ストア派を代表する哲人の言葉と言える。
この「上機嫌」は古今東西、数々の偉人が重要性を強調しているので、その一部を紹介したい。
①アラン『幸福論』
何かのはめで道徳論を書かざるを得ないことになれば、私は義務の第一位に上機嫌を持ってくるに違いない。
人生の些細な害悪に出会っても、不機嫌で自分自身の心を引き裂いたり、それを伝染させて、他人の心を引き裂いたりしないように、努めねばならない。
幸福の秘訣の一つは、自分自身の不機嫌に対して無関心でいることだ。相手にしないでいれば、いずれ消滅する。これこそ、本当の道徳の最も重要な部分だ。
②ヒルティ『幸福論』
例えば君が風呂に行くとする。そこではどんな不都合が起きるかを予め考えておくのがよい。行儀の悪い者、うるさい者などもいるだろう。
そうすれば、入浴中に何か気に入らないことがあっても「自分はただ入浴をしに来たのではない。自分の自由と品性を保とうと欲したのだ。この件で怒ったり不機嫌になったりしたら、自分はそれをよく保ちえないだろう」と考えればよいのだ。
②福澤諭吉『学問のすすめ』
表情や見た目が快活で愉快なのは、人間にとって徳の一つであって、人付き合いの上で最も大切なことである。
③佐藤一斎『言志四録』
春風の和やかさをもって人に接し、秋霜の鋭さをもって自らの悪い点を改めよう。
人が自分にどのような態度・反応を示すかは、全て自分の心が整っているか否か次第である。
④洪自誠『菜根譚』
暴風雨の日には、鳥や獣でさえも悲しそうである。ところが天気晴朗の日には、草木でさえもうれしそうである。天地間には一日として和気がなくては幸せに暮らせない。
人の社会でも、和気を以て互いに相交り、感謝して満足する心がなくては幸せになれない。
⑤立命館アジア太平洋大学 出口治明学長
僕は、前職の時代から、現在に至るまで、リーダーのもっとも重要な役目は、「スタッフにとって、元気で、明るく、楽しい職場をつくること」だと考えています(中略)
(私は)部下の前ではできるだけ、不愉快な顔をしないことを心がけています。それがリーダーの最低限の務めです。
これらは一人の社会人として、心に重く響く。自分の精神や心がどんな調子であるかというのは、自分と一緒に働く人にとっては何ら無関係だ。周囲には常に一定の状態で接しなければいけないし、不機嫌で周囲のパフォーマンスを下げるなど、プロフェッショナルとして失格である。
進化生物学的には、人間は生存と子孫を残すことに適した形で進化してきたのであって、決して「幸福になるように」は設計されていない。自然界の中で生きながらえられるように、ある程度の用心深さや悲観主義を本能的に持っている。だから、先天的な楽観主義者というものは存在しないし、幸福は自然に生れ出てくる感情ではなく、自ら積極的に作り出していかなければいけない。
もし、あなたの周囲に「先天的楽観主義」とか「いつでもハッピー」のように見える人がいたとしたら、その人は周囲からそう見られるように努力しているに違いない。特にビジネスシーンでは「職業としての上機嫌」が求められるだろう。
理性で感情を制御し、不幸の上塗りを防ぐ
我々が怒ったり悲しんだりする事柄そのものにくらべて、これに関する我々の怒りや悲しみのほうが、どれほどよけい苦しみをもたらすことであろう。
これもストア派の哲人らしい主張である。この「不幸の源泉たる事柄そのものに対して感情的に反応してはいけない」という教訓は、21世紀最大の自己啓発本である『7つの習慣』にも受け継がれている。
(外部からの刺激にそのまま反応するような)反応的な人は、社会的な環境にも左右される。人にちやほやされると気分がいいし、そうでないと、殻をつくって身構える。
つまり、反応的な人の精神状態は、他者の出方次第でころころ変わるのである。自分をコントロールする力を他者に与えてしまっているのだ。
私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。その出来事に対する自分の反応によって傷つくのである。
もちろん、肉体的に傷ついたり、経済的な損害を被ったりして、つらい思いをすることもあるだろう。しかしその出来事が、私たちの人格、私たちの基礎をなすアイデンティティまでも傷つけるのを許してはいけない。
簡単に言えば、刺激と反応の間にはスペースがあり、そのスペースをどう使うかが人間の成長と幸福の鍵を握っているということだ。
人間の本質を突く指摘であろう。日常生活でも、コンビニ店員の態度、満員電車での周囲の人々、券売機の前でモタモタしている人・・・
「イライラ」という反応をしたくなるが、それらに一喜一憂してはいけない。外部からの刺激に、何も考えずに感情的に反応しているだけで、自分をコントロールする力を他者に与えてしまっている。
仕事でも往々にしてあるだろう。相手が快活ならこちらも快活になり、相手が陰気であれば何となくこちらの空気も重くなる。しかしそれではダメなのだ。自分の価値軸に基づいて、自分のありたいように振る舞うべきなのである。
「世界3大幸福論」も、全て同じような主張をしていることにも着目しておきたい。
自分が不幸であることに不機嫌になってはいけない。不幸なだけでも十分なのに、不機嫌になることはそれに輪をかけて二重に不幸になる。
アラン「幸福論」
愚者は汽車に乗り損なえば腹を立てるし、昼飯がまずければ不機嫌になり、煙突が煙ければ絶望に打ち沈む。こうした人たちが些細なトラブルに消耗するエネルギーは相当なものだ。
一方、賢者はこうした問題を「感情抜きで」処理する。怒ったり不機嫌になることは、何の目的にも役立たない感情である。
ラッセル「幸福論」
人が、君の肉体を自由にする力を勝手に誰かに与えたならば、君は憤慨するだろう。
ところが、君が誰かとトラブルを起こして、そのために心をかき乱され、不安に陥り、その者に対して君の心を自由にする力を与えることを、君は厭わないのか。
ヒルティ「幸福論」
天の道理を貫く
帝国の要務について日夜心を砕き、その資源を管理していれば、そのために起こる非難は甘んじて受けよ。
まさにリーダーの持つべき心構えである。
リーダーとは責任と情報を一手に持っており、その決断は本質的には誰にも理解できない。また、その決断を論理的に説明することもできない。なぜなら、論理的に説明できる決断なら、とっくに部下がやっているからだ。
その意味でリーダーは孤独である。責任と情報の足りない人間から批判を受けることもある。しかしアントニヌスは、宇宙の正道に則り、やるべき仕事に心を砕き、誠心誠意取り組むことが大切で、結果としての批判は甘受せよ、と諭す。
2000年前でも、現在でも、リーダーの役割は不変である。
諸行無常の世の中、頼めるのは自己の理性のみ
自分自身の魂の中ほど平和で閑寂な隠れ家はない。そこに帰れば心が完全に安らかになれるのに、一体君は何に対して不満に思っているのか。
人間の悪に対してか。人は理性的に生まれてきており、憎しみ合っても詮無いではないか。互いに敵意や疑惑や憎悪をいだき、槍で刺し合った人びとが今までにどれだけ墓の中に横たえられ、焼かれて灰になってしまったかを考えてみるがよい。そしてもういい加減に心を鎮めたらどうだ。
それともつまらぬ名誉欲だろうか。人々の気は移ろいやすいく、思慮も浅い。我々の住む所はこの地球のなんと小さな片隅にすぎぬことよ。全く地球全体が一点にすぎないのだ。そこでどれだけの人間が、またどんな人間が、将来、君を賞めたたえるというのであろう。
事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、煩わしいのはただ内心の主観からくるものにすぎない。すべて君の見るところのものは、瞬く間に変化して存在しなくなるのだ。(第4巻ー3の要約)
極めてわずかな時間の中に、(君を煩わせている)周囲の人も死んでしまい、その後間もなく君たちの名前すら、後に残らないのだ。
では、我々の熱心を注ぐべきものはなんであろうか。ただこの一事、すなわち正義にかなった考え、社会公共に益する行動、噓のない言葉、すべての出来事を必然的なものとして歓迎する態度である。(第4巻ー6、33の要約)
「ローマ皇帝でもこんなことを考えるんだ!」と思える、個人的に非常に共感した内容。
まず、「自分の心を乱す主体は、殆どの場合自分である」ということ。先ほども出てきたフランスの哲学教師アランが「幸福論」の中でこんな風に表現している。
人間には、自分以外にはほとんど敵はいない。人間は、自分の間違った判断や、杞憂や、絶望や、自分に差し向ける悲観的言動等によって、自分自身の敵になる。
ソクラテスの時代、デルフォイにあったアポロン神殿の入口には「汝自身を知れ」と書いてあるではないか。
そして、「自分の直面していることなど、広い世界から見れば小さな小さな問題である」ということ。
いやいや、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位161-180)のローマ帝国と言えば、帝国の領土が最大だったトラヤヌス(在位98-117)時代とほぼ同等の領域を支配していた(トラヤヌスに次ぐハドリアヌスが、アルメニア・アッシリア・メソポタミアの中東地域の支配を放棄した)。
彼が支配していたのは決して「片隅」ではなく、当時においては世界ほぼ全てであったのだ。
もちろん、アントニヌスは、自分の仕事の大きさに関わらず、方法論として「自分の世界は狭い。自分が悩んでいることなどちっぽけなもの」と考えていたのであろう。しかし、かのローマ皇帝ですら、このような(ある意味、庶民的な)考え方をするものかと思うと、感慨深い。
「煩わしいのはただ内心の主観からくるものにすぎない」というのは、結局人間の幸・不幸は自分が決めるものであるということ。
他にも、古今東西の偉人が同じことを述べている。
事態が人間を不安にするのではなく、事態に対する見解が人間を不安にする。
エピクテトス
人生の幸不幸の境目は、みな人の心が作り出すものである。釈迦も同じことを言っている。
洪自誠『菜根譚』
現実世界のいかなる出来事も、主観と客観という二つの側面から成り立っている。
だから、客観的半面が全く同じでも、主観的半面が異なっていれば、また、これとは逆に、主観的半面がまったく同じでも、客観的半面が異なっていれば、現在の現実世界はまったく別様なものになる。(中略)
「客観的に現実にいかなる事態なのか」ではなく、「私たちにとって、いかなる事態なのか、私たちが事態をどう把握したのか」が、私たちを幸福にしたり不幸にしたりするのである。
ショーペンハウアー『幸福について』
世の中の人は皆、幸福を求めているが、その幸福を必ず見つける方法が一つある。
それは、自分の気の持ち方を工夫することだ。幸福は外的な条件によって得られるものではなく、自分の気の持ち方一つで、どうにでもなるのだ。
デール・カーネギー『人を動かす』
悲観主義者はすべての好機の中に困難を見つけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす。
A pessimist sees the difficulty in every opportunity; an optimist sees the opportunity in every difficulty
イギリス首相 ウィンストン・チャーチル
自分の評価は自分で決める
何らかの意味において美しいものは、すべてそれ自身において美しく、自分自身に終始し、賞讃を自己の一部とは考えないものだ。
実際、人間は賞められても、批判されても、それによって善くも悪くもならない。エメラルドは人に褒められなくても、その価値を失わない。
人から評価されるために何かを為したり努力するのは愚かであるし、人から批判されたからといって自分を曲げてしまうのも愚かであるということ。
宇宙の道理に従って、真の心で、善いことを、美しく為すこと自体が大切であって、そうしている限り自分自身は光り輝く。自分の評価は自分で決めるということを言っている。
これは、どうしても人の目や人からの評判を気にしてしまう人には、響く内容なのではないか。ローマ皇帝といえば、とにかく様々な人から「評論」されたはずだ。その雑音をいかに克服するか。並大抵の精神力では成し得なかったに違いない。
運命論と無常観
すべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変わり、その形も千変万化し、常なるものはほとんどない。
我々のすぐそばには、過去の無限と未来の深淵とが口をあけており、その中にすべてのものが消え去って行く。
このようなものの中にあって、得意になったり、気を散らしたり、または長い間ひどく苦しめられている者のように苦情を言ったりする人間は、どうして愚か者でないであろう。
アントニヌスの運命論が炸裂している。そして、冒頭の部分は、無常観の文学と言われる鴨長明の「方丈記」を彷彿とさせる。実際、言っていることはほぼ同じである。
流れ過ぎていく河の流れは途絶えることがなく、それでいてそこを流れる水は、もとの水ではない。よどみに浮かんでいる水の泡は、一方では消えてなくなり、一方ではできたりして、長い間そのままの状態でとどまっている例はない。(中略)
私には分からない。生まれ死んでゆく人は、どこからやってきて、どこに去っていくかを。また、生きている間の仮住まいを、誰のために心を悩まして建て、何のために目を嬉しく思わせようとするのかを。
まるで同一人物が書いているか、或いは鴨長明が「自省録」を読んでいたかと思わせる。どちらも「世の中は移ろいやすいのであるから、何かに執着するのはやめよ」という趣旨であると言える。
そして鴨長明の「生まれ死んでゆく人は、どこからやってきて、どこに去っていくかを」という一節は、フランスの画家ポール・ゴーギャンのこの絵を連想させる。
本作を手掛ける直前のゴーギャンは、愛娘アリーヌを亡くしたほか、借金を抱えた上に健康状態も悪化するなど、失意のどん底にあった。本作を描き上げた後、(未遂に終わるが)自殺を決意しており、この絵を自身の画業の集大成と考え、様々な意味を持たせたと言われている。
自分とは何者なのか、この世はどれほど儚いものか、人間は苦しい状況に置かれると、こういったテーマを考えるのであろう。それには古今も東西もない。
死生観
あなたが死に直面したとき、あなたを良く思っていない人からは、早くお払い箱にしたいといった声が聞こえてくるだろう。
しかし、だからといって、世を去るにあたり、彼らに対する善意が薄らぐようであってはいけない。自分の平生の性質をそのまま保って友好的に、親切に、慈悲深くあれ。
なぜならば、自然は君をこの人びとに結びつけて一緒にしたのである。その絆を今、自然が解くのだ。私は近しい人びとから離れて行くがごとく、抵抗せずに、しかし強いられもせずに離れて行く。これもまた自然にかなった行為の一つなのである。
このように死生観も、運命論や無常観に裏打ちされている。人と人の縁は宇宙の道理が決めたことであって、縁の切れ目も前向きに受け入れよ、ということだ。
現代はSNSを通じて、否が応でも人々は広く薄く繋がっている。インスタやフェイスブックでは、「いいね」の数を気にして数分おきにスマホをチェックし、何を投稿するかに常に気を遣う。
「SNS疲れ」という言葉があるが、これはまさに「世の中の正道や自分の信念」ではなく、「他人の評価」に振り回されているという点で、ストア派が厳しく戒めている生き方だ。このような人は死ぬ前に、何人から「いい人生だったね!」をもらえるかどうかを、気にするのだろうか。
要素に分解すれば制御可能
魅惑的な歌や舞踊等も、ひとたびこれを分解してみれば、君はきっと大したものに思わなくなるであろう。
たとえば、もし君が美しい声の旋律を各音に分析し、その一つ一つについて、「こんなものにお前は心を奪われているのか」と自分に尋ねてみれば、そうだというのは気がひけるだろう。舞踊についても一つ一つの動作または姿勢にたいして同様なことをやっているにすぎない。
要するに、徳と徳のもたらすものとを除いては、物事をその構成部分に解体して根底まで見極めて分解することによって、大したことではないと制御できる。同じ方法を人生全体にも応用せよ。
この一節にはさまざまな要素が詰まっている。
まず、「要素に分解する」という態度である。これは西洋的な科学技術の発展に大きく寄与した考え方と言える。例えば、東洋医学は病気を「体全体のバランスが崩れたもの」と考え、まずは病気を未然に防ぐこと、そして病気に対しては体の全体のバランスを元に戻すことを主眼に、鍼灸・按摩・漢方といった手法を取る。
一方の西洋医学は、体全体を部分に分解し、体の悪い部分に直接アプローチし、投薬や手術といった方法で原因を取り除いて治療していくという手法を取る。それ故、各器官を専門に扱う医者が出てくる。
アントニヌスは、どれだけ大きな事柄や困難であっても、一つ一つの要素に分解すれば、それらが大したものではなく、自分自身で制御可能であろうということを言っている。
そして、もう一つ注目すべきは、この要素分解の手法は「徳と徳のもたらすものとを除いて」という条件を付けていることだ。宇宙の正道や、何が正しいか、何が善いことか、何が美しいか、理性、正義、節制、雄々しさといった「徳」の分野は要素に分解することは不能であり、全体として人格を形成するしかない。
つまり、論理的・分析的な態度で制御できて、あらゆるものを言語化できる「サイエンス」の分野では、要素分解は有効な手段。しかし、観念的、総合的で、言語化の難しい「アート」の分野では、要素分解のような態度では不十分であり、宇宙の正道全体の中で徳に達しているかいないかを直感的に判断するしかない、ということであろう。
ギリシャの哲学者アリストテレスは著書『二コマコス倫理学』で、既にこう指摘している。
徳にかかわる議論はそのおおよその輪郭において語られるべきであり、これを厳密に語ろうとすべきでない。(中略)
「美しいこと」や「正しいこと」には多くの相違やゆらぎがあると思われており、そのためそうした美しいことや正しいことは、ただ単に人々の定めた決まりごとでしかなく、自然本来においては存在しないものだとも思われている。しかし、「善いこと」にもこうした種類のゆらぎがある。
そこで、こうしたゆらぎのある題材をもとに語る場合には、真理を大雑把に、そしてその輪郭だけを明らかにすることで満足すべきである。
人事部長のつぶやき
普段からどれだけ頭の中を整理できているか
突然、人に「今、君はなにを考えているのか」と尋ねられても、即座に正直にこれこれと答えることができるような、そんなことのみ考えるよう自分を習慣付けなくてはならない。
これまたストイックな態度ではあるが、ビジネスパーソンにとっては意外に重要である。
「エレベーターピッチ」という言葉をご存知だろうか。同じエレベーターに乗り合わせた際に話せる程度のごく短い時間で、自分自身や自社のビジネスなどについてプレゼンする手法のことで、アメリカのシリコンバレーが発祥とされている。
ビジネスパーソンには、短い時間で簡潔に要点を伝えなければならない「ここぞ」という場面が必ずある。そこで良いパフォーマンスを見せられるかどうかは、普段からどれだけ頭の中を整理しておくかで決まる。
本当に大切なことのみに集中せよ
色々な時代や国々全体のほかの記録をながめてみるがよい。そうすればいかに多くの人間が力の限りをつくして努力したのち間もなく倒れ、元素に分解して溶けてしまったかを見るであろう。
仮に君が小さなことに必要以上に従事しなかったとしても、落胆する必要はない。
人は何にどれだけ頑張ったとしても、結局それは忘れ去られ、元素に戻ってしまう。人々が、かかずらっている事の大半は、大して重要ではない。
これは、「その人にとって重要なことのみに、自分の資源を投入すべきだ」という教訓であろう。目の前の仕事に没頭するのはもったいないし、つまらないことで悩むのももったいない。自分にとって真に大切なものはなにか。
例えば仕事があるとして、その仕事の全部が全部、大切なのだろうか。その中で、心を砕くべきは2~3割ではないのか。仕事の他にも、家庭・親族・友人・趣味・自分自身等、大切にすべきものはたくさんある。何か一つに資源を配分しすぎてはいけないのであろう。
朝、起きられない時には
朝、起きにくいときには、次の思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果すために私は起きるのだ」と。自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。
それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地よいもの」と君は言う。では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。
小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までが、己の勤めにいそしみ、それぞれ自己の分を果して宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。
言っていることは「朝はちゃんと起きろ」ということだけである。ローマ皇帝アントニヌスは朝に弱かったのであろうか笑。実に人間味溢れる一節だ。
やはりアントニヌスは後期ストア派の哲人として、あらゆるものの行動原理を「(宇宙の秩序が生み出した)人間の務め」に求めている。朝、起床する、という些細な行動でさえも、理性に基づいて行われるべきだという主張である。徹頭徹尾、一貫していて気持ちがいい。
別の個所ではこんな言い方をしている。
眠りから起きるのがつらいときには、次のことを思い起せ。社会に役立つ行為を果すのは君の構成素質にかなったことであり、人間の(内なる)自然にかなったことであるが、睡眠は理性のない動物にさえも共通のことである。
周囲からの指摘やアドバイスを謙虚に聞く
もしある人が私の考えや行動が間違っているということを証明し、納得させてくれることができるならば、私は喜んでそれらを正そう。
なぜなら、私は真理を求めるのであって、真理によって損害を受けた人間のあったためしはない。これに反し、自己の誤謬と無知の中に留まる者こそ、損害を蒙るのである。
これは極めて普遍性が高く、ビジネスパーソンのみならず、あらゆる人に当てはまる教訓なのではないか。2000年前のローマ皇帝と全く同じ感覚を持てるというのも、面白い。過去との対話ができる読書ならではの効用である。
他人からの批判・非難・指摘・アドバイスを、全くクリアな目で、素直に受け入れられる人というのは多くない。どうしても自分や組織を守る態度を取ってしまう。
しかし、大切なのは自分や組織のメンツではなく、唯一「何がよいことか」という目的志向であり、会社であれば全社的なパフォーマンスが上がるか否か、倫理的に正しいことか、美しいと言えるかといった大局に立った観点だ。
もちろん、盲目的に周囲に従えば良いというわけではない。アントニヌスも「自分が間違っているのであれば」という条件を付している。「宇宙の正道」に基づいて行動する。正しいかどうかを決めるのは自分。それでもなお誤りがあれば、躊躇なく、正しさに近づくために修正する。分かってはいても、なかなか実践できないものだ。
この、いわば「自己修正力」については、日本人も多く言及している。
士は過ちなきを貴しとせず、過ちを改むるを貴しと為す
吉田松陰
過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其の事をば棄て顧みず、直に一歩踏み出す可し
西郷隆盛
人間は神さまではないのだから、一点非のうちどころのない振舞などとうてい望めないことで、ときにあやまち、ときに失敗する。
それはそれでいいのだが、大切なことは、いついかなるときでも、その自分の非を素直に自覚し、これにいつでも殉ずるだけの、強い覚悟を持っているということである。
松下幸之助「道をひらく」
徳の実践には能力は無関係
誠実、謹厳、忍苦、享楽的でないこと、運命に対して呟かぬこと、寡欲、親切、自由、単純、真面目、高邁な精神。今すでに君がどれだけ沢山の徳を発揮しうるかを自覚しないのか。
こういう徳に関しては、生まれつきそういう能力を持っていないとか、適していないとかいい逃れするわけにはいかないのだ。
知識や知能といった「才」には先天的な能力が存在する。しかし、アントニヌスが挙げている誠実とか親切とか真面目といった「人間力」や「徳」は、後天的な要素も大きい。
要は「徳」を高めようとしているか否か、或いは発揮しようとしているか否かの違いである。
世の中、才は溢れ出ているのに、徳が伴わずに魅力に欠ける人というのは多いですね。
人間の時間・パワー・お金は有限
最も高貴な人生を生きるに必要な力は、魂の中にそなわっている。ただしそれは、どうでもいい事柄に対して無関心であることを条件とする。
その「事柄」を要素分解してみよ。一つ一つは取るに足らぬし、それに心を煩わされるか否かは自分自身で決めることができる。
まったくその通り。自分の人生に優先順位を付けること、そして優先順位の低いものに悩まされたり、心を乱されたり、時間・パワー・お金を吸い取られることはもったいない。
例えば腹痛に悩んでいる人がいる。今は腹痛に関心を奪われているが、腹痛が治れば肩こりが気になったりするものだ。どうせ肩こりが治れば、鼻が低いとか、誰かに悪口を言われたとか、他の何かに悩まされるに違いない。
何か目標を持つのであれば、何かを捨てなければならない。プロのサッカー選手は、野球選手になる可能性を捨てているのだ。よく新年の抱負で「今年は○○をやる!」と宣言する人がいる。しかし、それは「その代り○○をやめる」という宣言とセットでないと、達成できない。
何かをやるなら、何かを捨てる。これはビジネスでも一緒。ただ、特に偉い人は、実績作りのために何でもかんでもやりたがりますよね。。。
その他の教訓集
人に説明するとき短気を起こしてはいけない。
上司に対しても、部下に対しても。
(父に関する)特筆すべき点は、たとえば雄弁とか、法律、倫理、その他の事柄に関する知識など、なにかの点で特別の才能を持った人びとに対しては、妬みもせずにゆずったこと(が素晴らしい)。それのみか、彼らを熱心に後援して、各々がその独特の優れた点に応じて名誉を得るようにはからった。
妬まず活かす。宇宙の正道に照らして、帝国の運営にプラスなら、妬みなどと言った個人的な感情は制御し、最大限その力を活用せよ、ということ。
他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな。すなわち、誰それは何をしているだろうとか、何を考え、何を企んでいるかとか、こんなことがみな君を呆然とさせ、自己の内なる指導理性を注意深く見守る妨げとなるのだ。
他人は自分のコントロール外。コントロール外のものに気を揉んでも仕方がないというストア派の基本を繰り返している。
何が不幸であるかについて判断を下す能力は君の中にある。ゆえにその能力をして判断を控えさしめよ、しからば全てがよくなるであろう。
不幸の源泉は自分自身である、ということの言い換え。とにかく自省録の中にはこの主張が繰り返し出てくる。しかし、「不幸を決める能力をして、判断を控えさしめよ」というフレーズは、古めかしい表現だが、心に響くものがある。
あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。同様のことが病や死や讒謗や陰謀やすべて愚かな者を喜ばせたり悲しませたりする事柄についても言える。
アントニヌスは3歳の時に父を亡くし、自身の子供も13人のうち5人を失っている。また、ローマ帝国皇帝として、数々の誹謗中傷や陰謀に巻き込まれたことだろう。この一節には、非常に重みがある。
ものの内部を見よ。いかなるものの固有な性質も価値も君の眼を逃れることのないように。
物事の本質を掴め、という意味。物事を見る際には、多角的(広い視野)、長期的(高い視座)、本質的(直感)の3つが重要だろう。
アジア、ヨーロッパは宇宙の片隅。すべての大洋は宇宙の中の一滴。現在の時はことごとく永遠の中の一点。あらゆるものは小さく、変りやすく、儚い。
繰り返し出てくる諸行無常の考え方。やはり、ローマ皇帝が「アジア・ヨーロッパなど宇宙の片隅」と言うところに凄みがある。ローマ皇帝にとって領土が片隅なら、我々にとっての悩みなどどれだけ小さいことだろう。
善事をなして悪く言われるのは、王者らしいことだ。
プルタルコスの「対比列伝」では、アレクサンダー大王の言葉として記録されている。リーダーとは孤独な存在で、万人から理解されるわけではないということ。2300年前から、リーダーシップ論の本質は変わっていない。
顔は従順に心の命ずるがままの形を取り、装いをつけるのに、心自身は自分の思うがままの形も取れず、装いもつけられぬとは恥ずかしいことだ。
これは「内面を磨け」という簡単な話ではなく、不機嫌や怒りは心が命ずるがままに顔に出るのに、心自身は自分の思うがままにならず、不機嫌や怒りが制御できないのは恥ずかしいということを言っている。
元老院において、またあらゆる人びとに対して、整然と、判然と話すこと。健全な言葉づかいをすること。
ローマ皇帝が自分に向けたメモに書いた内容にしては、極めて庶民的で、大いに共感できる。ローマ皇帝でも、元老院で話す際は、緊張したのだろうし、熱くもなったのだろう。ビジネスパーソンも、役員説明やクライアントへのプレゼンの際に肝に銘じたい言葉の一つだ。