【人事部長の教養100冊】
「菊と刀」R・ベネディクト

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菊と刀(表紙)

「菊と刀」
ルース・ベネディクト

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基本情報

初版   1946年
出版社  光文社古典新訳文庫
難易度  ★★★☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 545ページ
所要時間 6時間00分

どんな本?

日本は「恥」の文化、欧米は「罪」の文化という綺麗な二元論で日本を論じたロングセラー本。

「外国人による日本人論」のジャンルでは定番であり、最高峰。日本人が日本人を知るうえで、必読の一冊。日本人が忘れてしまったものは何か、また、依然として日本人を突き動かしているものは何かを客観的に理解できる。

著者が伝えたいこと

日本人の思考・言動が欧米人にとって不可解なのは、根本にある行動規範が、以下2点に立脚しているからだ。

・他人から受けた施しをどう返すかという「恩」

・他人からどう見られるかという「恥」

つまり、行動規範に常に他人が存在する故に、その他人によって言動が相対的に変化するのである。絶対的な神や理性を信じる欧米人にはそれが不可解に見えるのだ。

著者

ルース・ベネディクト
Ruth Benedict
1887‐1948

R.ベネディクト

アメリカ合衆国の文化人類学者。ニューヨーク生まれ、コロンビア大学卒。1923年に同大学の教員となる。

1936年、アメリカが第二次世界大戦に参入するにあたって戦争情報局に招集され、日本班チーフとなる。その時にまとめた報告書「Japanese Behavior Patterns (日本人の行動パターン)」を基に、「菊と刀」を執筆した。

こんな人におすすめ

現代では薄れてしまった「日本人の精神、日本人の行動規範」を、「日本礼賛!」のような軽薄な視点ではなく、客観的かつ冷静な視点から理解したい人

背景解説

太平洋戦争(大東亜戦争)中の1944年6月、米国政府は筆者に「日本人とはどのようなものか、文化人類学者として駆使できるあらゆる手法を総動員して説明せよ」と依頼した。

日米は戦争中であり、当然ながら筆者は日本でフィールドワークをしたわけではなく、文献や日系人を頼って本書を執筆した。日本人が読むと「?」という部分はあるが、日本の歴史や文学、行動規範などを丹念に調べて書いている。

当時のアメリカ政府は、日本をいかに降伏に導くかを検討していた。明らかに不利な状況でも捕虜にならず、白兵戦を挑んでくる日本兵を見て「この国民を屈服させる(=戦争に勝つ)ことができるのだろうか」という疑念を持ったと言われている。

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ルース・ベネディクト
(光文社古典新訳文庫)

※読みやすい光文社版がおすすめ!

要約・あらすじ

日本人はアメリカ人と全く異なる行動パターンを持っている。「そうは言っても同じ人間だろう」などと安易に考えてはいけない。アメリカ人に理解し得ないのは以下のような点である。

2種類の「恩」が行動規範になっている。
恩1:天皇陛下や両親に対する恩(忠・孝)。無制限、無際限。
恩2:金銭の貸し借りのような恩。それをいかに返すかが大切。

■忠や孝は、尊敬すべき対象に従うという意味であり、何らかの論理的な主義主張ではない。「尊敬すべき対象」という他者が介在するために、日本人の主義主張はその他者に応じて変化する(あれだけ徹底抗戦を叫んでいた日本人が敗戦と同時に従順になったのは、忠の対象である天皇陛下が終戦を宣言したからである)

日本人の行動を律するものは「恥の意識」である。人間の中心は善だが、その周りに煩悩があり、行動は煩悩を通じて現れる。日本人にとって、その煩悩を制御するのは、「他人からどう見られるか」という相対的な「恥の意識」である。対照的に、西洋人は「○○することは悪いことである」という絶対的・普遍的な罪の意識により行動が規定される

恥の意識と罪の意識

■例えば、軍人は死ぬことが最も尊く、捕虜になることは許されない(命の軽視、精神論への傾倒、恥への恐怖)。しかし、いったん捕虜になると、「もう恥をさらして母国には帰れない」と、大多数は連合国側に協力するようになった。アメリカ人から見ると180度の方向転換に見える。日本人の行動規範が「相対的」と言うのはそれ故である。

学びのポイント

日本は市民革命が起きない不思議な国

江戸時代から明治維新に至る歴史は、以下のような流れで理解できる。

・江戸時代は幕府による体制維持が最優先であった。徳川家は諸大名の力を削ぐ政策(参勤交代、関所で物流抑制、鎖国など)に注力した。

・その一環で身分制度も固定化されるが、豪商が武士の地位を「買う」養子縁組の影響もあって、西欧のような貴族vs新興ブルジョワの構図にはならず、商人と下級武士の「特殊な」連合が生まれることとなった。

よって、西洋のような市民革命や産業革命は起きず、旧態依然とした日本は黒船の圧力をはね返せなかった。

・明治維新以降、身分制度はなくなったが、政府は軍や財閥(産業)を創出することにより、日本人に「応分の場」を与えた。国民は進んでそれを受け入れたため、やはり市民革命が起きることはなかった。

筆者の言う通り、日本ではフランス革命やアメリカ独立戦争のような、市民階級が革命や戦争を経て政権を握った事例は一つもない。

明治維新にしても、形式的には旧幕府(武士階級)が朝廷に政権を返上したということになっているが、実質的には旧幕府から薩長軍(こちらも武士階級)に実権が移っただけである。西洋的価値観からすると、日本の歴史はやや異質に見えるのだろう。

ちなみに、政府や外務省は主に中国を意識して「自由・民主主義・基本的人権・法の支配といった基本的価値観」という表現を多用する。しかし、自由にしても基本的人権にしても、日本人自身が革命のようなプロセスを経て勝ち得たものではなく、あくまで戦後にアメリカから与えられたものであることは、理解しておく必要があるだろう。

負け方の方法を知らなかった日本人

日本人が敗戦を受け入れ、何なら米兵を笑顔で迎え入れた理由は以下2点である。

①終戦を天皇陛下が決めたから

②敗戦を認めることが名誉を保つ唯一の手段だから

日本にも「徹底抗戦」を叫んだ人はたくさんいた。しかし市民革命が起きるわけでもなく、GHQの言う通りに戦後処理がなされた。日本人は無気力だった。

一方、例えばドイツ人は、なにしろ昔から勝ったり負けたりを繰り返してきているから、たまたま負けても動ずるところがなかった。憲法についても、「独立の暁には戦後の仮憲法は効力を自然に失う」という付則をつけてあった。

日本はどうなのか。日本国憲法は、世界の成文憲法を保有する188カ国で古い方から14番目で、改正されていない成文憲法のなかでは「世界最古」となっている。日本国憲法は戦後の暫定憲法などという考え方は一切ない。これまで60回以上の改正を重ねるドイツ憲法と好対照である。

なお、日本国憲法の中には、明らかに敗戦国ならではのフレーズがちりばめられている。例えば、前文の一部にこんなものがある。

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

うーん、これをそのまま受け入れてもいいのだろうか。日本以外の国は、「平和を愛し」「専従と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」のであろうか。

いやいや、ヨーロッパ列強がアメリカ大陸やアジアを侵略し、蹂躙し、植民地化した事実はどこへ行ってしまったのか。ロシアがクリミア半島やウクライナ東部を、中国が南沙諸島を勢力圏に収めようとしている事実をどう理解すればよいのか。日本人はそんな人々を易々と「信頼」してもいいのか。

やはり現在の日本国憲法は「戦後暫定憲法」とも言え、その意味では、日本人の手で、新しい日本国憲法を起案する必要があるのかもしれません。
(アメリカから見た日本占領政策に興味のある方は、「アメリカの鏡・日本」をご参照ください)

日本人は精神論に傾倒しすぎ?

死んだつもりになって生きる」というフレーズに対する捉え方は、欧米と日本で大きく異なる。

欧米→人間の自我が滅び、この世の足手まといになる肉体のみを残したということ。不快な表現。

日本→自己観察を一切やめて、不安と警戒心を悉く取り払う。行動について思い煩う必要を超越する。悟った人が行きつける境地、というポジティブな表現。

日本式解釈は、古くからある仏教の「空(くう)」とか「解脱」とか「涅槃」が近い。般若心経も「真実の世界では、形あるすべてのものや、人間のあらゆる感覚もなければ、悩みや苦しみという概念もない」と説いている。日本人には比較的馴染みのある考え方で、それほどの違和感はない。

ただし、この仏教的素養のない欧米人からすると、日本人は精神論に傾倒していると見えるのだろう。

最近でこそ、「禅」という東洋思想が西洋に広まったり、あるいは禅が脳科学等のサイエンスの力を借りて「マインドフルネス」という西洋的体系になったりしているが、大東亜戦争当時のアメリカ人には奇異に映ってもおかしくない。

アメリカ人と日本人の行動制約に関する違い

アメリカ人
(幼少期)厳しくしつけられる→(青年~壮年期)自由と創意を発揮する→(老年期)人を頼りにしなければならず、行動が制約される

日本人
(幼少期)自由にのびのび育つ→(青年~壮年期)仕事優先・家族優先で行動は制約される→(老年期)恥の意識に囚われなくなる

つまり、日本は乳幼児と老人が「わがままで自由」ということ。これがアメリカ人には理解できない。


少なくとも日本については、現代でも当てはまるのでは。確かに老人たちは活き活きと楽しそうで、ビジネスパーソンや子育て世代はいつも疲れている。私たち日本人は、もっと青年~壮年期を自由にのびのびと楽しんでいいのかもしれない。

ちなみにこの文脈で、筆者は日本人の行動規範が「相対的」であることを示す、もう一つの例を挙げている。

日本人は少女の頃から貞操を教えられ、結婚してからも性生活については慎ましやかに生きるが、子どもを産んで一定の年齢に達すると、男衆の宴会で下ネタを連発する。あるいは卑猥な踊りを踊ったりするころがある。

ここにも「純潔」「あばずれ」という一貫した性格はなく、恥の意識が変わることによる相対的な変化が見られる。

もちろんこれは極端な例だし、諸外国にもこういった例はあるだろうが、日本人の場合は「抑制と解放」の振れ幅が大きいのかもしれない。「個人」を大切にする欧米から見ると、「その人らしさは一体何なのだ!」ということになるのだろう。

欧米=絶対的・理性的、日本=相対的・感情的

日本人の行動規範には絶対的な価値軸はなく、あくまで「他人からどう見られるか」という恥の意識によっている。

これは状況に応じて言動が変化することを意味し、大きな例では天皇陛下が「終戦」と仰れば、それまでの主義主張を抑えて周囲に合わせて陛下のご意向に従うし、小さい例では、他人の目線を意識しなくてもよい状況になれば、老人はわがままになるし、老女は下ネタを言うようになる。

仮にベネディクトの言うことが正しいとして、なぜ、日本人には「絶対的な価値軸」が無いのか。

まず、欧米に「絶対的な価値軸」がある理由は、以下のようなものであろう(あくまで仮説です)。

・古代オリエント世界ではエジプト、アッシリア、バビロニア等の巨大勢力がひしめいており、その中でユダヤ民族は国を滅ぼされ、各地域で奴隷のような身分に甘んじていた。

・その逆境の中でユダヤ人は「この世の創造主であり全知全能の神がユダヤ民族を救ってくれるはず」という唯一絶対的な神の存在と、細かい行動規範を定めた律法から成るユダヤ教を確立し、民族の精神的支柱とした。

・「この世の創造主、全知全能の唯一の神」というユダヤ教の考え方は、キリスト教やイスラム教にもそのまま引き継がれることになる。

・一方、時代は下り、民主主義が花開いた古代ギリシャでは、自分の政策を民衆に正しく理解させるために、「論理学」が発達した。また、「ある命題が真かどうかを、論理を積み重ねて理性的・論理的に探求する」という哲学も発達した。加えて、数学、天文学、物理学、生物学など、理性や論理に拠る学問も発展することになる。

・ギリシャの学問はヨーロッパでは衰退したが、イスラム世界でよく維持・発展され、それが逆流入する形で14世紀イタリアにおいてルネサンスが始まる。ルネサンスというと芸術分野が注目されがちだが、科学技術の分野でも大きな進歩があった。

・その背景には「世界は神が創ったのだから、あらゆる現象には原因があるはずだ」という確信と、世の中の神羅万象を説明する「原理」や「法則」を普遍的・論理的に記述できる能力という伝統的な2つの要素があった。

・以上のように、欧州やイスラム世界、そして後の米国には、神という絶対的な存在を前提に、理性や論理を重んじる文化的背景があったと言える。

・例えば、イスラム原理主義を掲げるISが戦争に負けたからと言って、その思想を撤回するだろうか。どうもそれは考えにくい。

以上が「欧米が絶対的で理性的な価値軸を持つ理由」である。

一方、ISとは全く異なり、日本は太平洋戦争に敗れてそれまでの思想を撤回し、「自由・民主主義・基本的人権・法の支配」といった欧米の価値観を(強いられたわけではあるが)許容した。アメリカ人が驚くほど、抵抗がなかった。

終戦翌週の朝日新聞には「従来の姿勢(註:軍国主義のこと)から生じる利益は少なく、損失は甚大であった。わが国はそれに代えて、国際協力と平和愛好に立脚する姿勢を取るべきである」と言っている。180度の転換である。ISがこんなことを言うだろうか。いやいや、それは想像できない。

ではなぜ、日本人はここまで柔軟なのか。これはなかなか難しい。こちらも仮説ですが、、、

・日本は海に囲まれていて外敵が少なく、海産物・農産物にも恵まれていたので、周囲と争う必要性が薄かった。みんなが少しずつ譲り合えば、それなりに幸せに生きていける、それが周囲の民族から常に虐げられていたユダヤ人と違ったところ。

・国内の内戦はあったが、一般庶民を巻き込むことはなく、あくまで武士階級同士の戦いだった。欧米や中国でありがちな、皆殺しや街ごとの焼き払い、民族を根絶やしにするような行為は、(一部にあったかもしれないが)一般的ではなかった。

・つまり、日本人は外に対する結束よりも、内での処世のほうが重要な関心事だった。

・また、日本は地震・津波・火山・台風と世界の中でも自然災害が多く、人々は自然を畏怖しながら生きてきた。人間は自然の一部であり、自然に生かされているという感覚が根底にある。

・事実、宗教も八百万の神を奉る神道や、様々な仏さまが登場する仏教が主体で、何か人知を超えて絶対的に存在する神はなく、そこから演繹的に導き出される行動規範もなかった。

・このような民族が、実利的・歓楽的に生きるのは当然の帰結であって、形而上的・観念的な思考を持つ必要もなかった。

そうなると、日本人の行動規範が「他人からどう見られるか」を気にする相対的な「恥」の文化であるという指摘は、なるほど的を射ているように思える。

人事部長のつぶやき

日本人がまだまだ未熟な側面

本書は、太平洋戦争中に敵国(=日本)を分析するという目的で書かれたことから、「日本人は不可解で劣等」という見方が通奏低音として流れています。しかし、私が2000年代にアメリカに留学して日本を見た際にも、日本人ながらに「まだまだ未熟だなあ」と思わされることがいくつかありました。

【政治】やたらと首相や政策が変わる、民主主義未熟の国

【ビジネス】グローバルに活躍するビジネスパーソンですら、仕事とゴルフの話しかできない。全般的に教養が薄い。

【学問】圧倒的に日本の教科書は分かりにくく、アメリカの教科書は分かりやすい(日本人にとって、論理を一つずつ積み上げるという作業はあまり得意ではないのかもしれない)

政教分離の守り方

私は全く知らなかったことなのですが、戦前の神道(国家神道)は政府から「宗教ではない」という扱いを受けていました。これは明治憲法下の信教の自由と、天皇陛下崇拝の矛盾を解消するためです。

ベネディクトはこれを「アメリカ人に星条旗への敬礼を強要しても、信教の自由には反しないのと一緒」と説明しています。なるほど!

日本人が「恩」を行動規範としている例

日本人にとって、いかに「恩」が行動規範となっているかを示す例が2つほどある。

【事例1:夏目漱石 坊ちゃん】
主人公は友人から氷水を奢ってもらっていた。しかし後日、友人が主人公の悪口を言っていると知り、そんな奴から恩は受けられないと、氷水代を友人に投げ返した。

【事例2:集団心理】
例えば何らかの事故なり病気などで、街の一角に人だかりができている。その時、群衆は何もしようとしない。それは率先して行動する力が無いのではなく、一般人が無用の手出しをすると、助けられた側は恩を負うことになる。それを避けているのだ。

「事例1」は何となく分かりますが、「事例2」には若干?となる。皆さんはどうでしょうか。

ルース・ベネディクト
(光文社古典新訳文庫)

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