【人事部長の教養100冊】
「方法序説」デカルト

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方法序説(表紙)

「方法序説」ルネ・デカルト

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基本情報

初版   1637年
出版社  岩波書店など
難易度  ★★★☆☆
オススメ度★★★☆☆
ページ数 137ページ
所要時間 1時間30分

どんな本?

「神が無条件で正しい、教会が無条件で正しい」という世界観を打ち破り、人間でも思考によって真理にたどり着けることを主張した、まさに近代哲学の第一歩と言える記念すべき一冊。

「我思う、故に我在り」という言葉で端的に示された理性を出発点とする思考法は、近代の哲学のみならず自然科学や社会科学といった学問の礎を成すものであり、教養を身に付けるうえで避けて通れないと言える。

著者が伝えたいこと

この世の中にある、ありとあらゆる疑わしいものを排除したとしても、その疑っている主体は確実に存在する。

これが「我思う、故に我在り」ということだ。あらゆるものを疑っている私の存在自体は、神ですら否定できない。

この事実は誰でも「そうだ」と言える真理である。よって、あらゆる思考の第一歩として良い。

神の存在を意識して思考を狭める必要はないのである。

著者

ルネ・デカルト
René Descartes
1596-1650

デカルト

フランスの哲学者・数学者・自然学者。精神と物質の徹底した二元論、機械論的自然観などによって近代科学の理論的枠組を最初に確立した。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。

こんな人におすすめ

哲学の世界に一歩、踏み込んでみたい人。「我思う、ゆえに我あり」が、一体何を意味するのか気になる人。

書評

「誰も疑うことのできない真理から思考をスタートする」という、従来のキリスト教の世界観(=人間は神の啓示なくしては真理に到達できない)を超越する斬新な考え方を世に示した功績は大きい。「聖書は正しい」「教会の言うことは正しい」という理屈からの脱却を試みたわけである。

しかし、デカルトは神の存在を否定したわけではない。「我思う、ゆえに我あり」から出発しても、神の存在に到達することができる。デカルトはあくまで出発点を人間に置いただけである。

むしろ「人は国の法律と慣習に従うべき」と言ってみたり、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイがカトリック教会から有罪判決を受けたことを見て、ガリレイを支持する論文の発表を取りやめたりと、保守的な面が強く、「社会を変えたい」という衝動を持つ革命家タイプでは決してない(神の否定に行きつくには、ニーチェ(1844-1900)の登場を待つ必要がある)

という、読みごたえのある本ではあるのだが、いつの時代もそうであるように、なぜ、こうにも哲学書というのは回りくどい言い方しかできないのか!

第1部~第4部までは真剣に読む価値があるが、特に当時の科学発見を記した第5部と、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイがカトリック教会から有罪判決を受けたことを見て、ガリレイを支持する論文の発表を取りやめた経緯を弁明する第6部は、とにかく読んでいてイライラするレベルの回りくどさである。読んでも得られるものは少ないので、飛ばしてしまうのが良い(これで哲学書を嫌いになっては元も子もない)。

哲学を専門としている方には怒られてしまうかもしれないが、科学や経済の教科書をあそこまで分かりやすく書けるヨーロッパ人が、哲学となると、いきなり修辞学というか、言葉をもてあそび始めるのはやめてほしいものだ。

ルネ・デカルト
(岩波文庫)

※「我思う、ゆえに我あり」の本当の意味とは?西洋科学文明の理解に必須

要約・あらすじ

■人によって多寡はあれど、人間には生来的に、物事を正しく理解し、真偽を判断する能力が備わっている。私は歴史の本や寓話を読んだり、人と交わったりして、ある一つの真理を見出した。そこで、皆さんにその過程をお示ししたいと思う。

■一人の者が仕上げた仕事は、たくさんの人の手を経た仕事に比べて完全である。思考も同じで、多くの人間がかかわった学問よりは、一人の常識人が導き出した推論の方が優れている。私はその「一人の常識人」を周囲に見いだせなかったので、私自身がその役割を担うことにした。

■論理学は素晴らしい学問だが、無駄な要素も多い。真実を導き出すには、以下4つを守っていれば十分だ。

①自分が真理であると認めたもののみ受け入れる。注意深く即断と偏見を避ける。

②難問は多数の小部分に分割する。

③最も単純で最も認識しやすいものからスタートし、秩序だって複雑なものの認識に至る。

④自分は何一つ見落とさなかったと確信するほど完全な列挙と、広範な再検討を行う。

■加えて、私は以下3つの行動指針を定めた。

①国の法律と慣習に従う(失敗しないように)

②一度決めたらブレない(迷わないように)

③世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように努める(余計なことに執着しないように)

■私が本書の最初で触れた「見出した真理」とは、少しでも疑問を差し挟む余地のあるものを全て排除したとしても、そう考えている「わたし」は確実に存在するということだ。これは人間であれば全員が了解できる真理であり、私はこれを「哲学の第一原理」とした。

■この出発点に立っても、神の存在が証明できる。「疑う存在があることは否定できない」⇒「何かを疑うのは人間が不完全だから」⇒「不完全は完全に由来する。その逆はない」⇒「だから完全な神がいる」、ということだ。

学びのポイント

我思う、ゆえに我あり(脱・キリスト教、入・理性)

私は思考の出発点として、誰もが真実であると認められる「共通了解事項」を探した。それは「何かを疑っている私自身は、誰にも否定することはできない」ということだった。

何かを考えている私自身は、神の存在に関係なく、確実に存在するのである。

私はこれを「哲学の第一原理」と呼ぶこととした。

(趣旨要約)

これが有名な「我思う、ゆえに我あり」という命題である。この考え方が哲学史上、極めて重要とされている理由は大きく2点ある。

一つ目は、時代・宗教・地域性などを超えて、人間であれば必ず「そうだよね」と言える「共通了解事項」を明示したということ。確かに、何かを疑っている自分自身の存在は、何者によっても否定できない。真理を探究する第一歩を踏み出したわけである。

二つ目は、この命題が、従来のキリスト教の世界観(=存在の有無は神が決定する、人間は神の啓示なくしては真理に到達できない)を超越する当時としては斬新な考え方だったこと。17世紀といえば、宗教改革やルネサンスを経たとはいえ、まだまだ神学的要素が支配的だった。

特に2点目により、デカルトは「近代哲学の祖」と呼ばれている。ちなみに、このデカルトが成し遂げた「真理に近づくための第一歩」を否定する哲学者が現れるのは、約150年後のカントを待たなければならない。

イマヌエル・カント

カントは(超絶簡単に言えば)以下のような主張により、デカルトを否定した。

人間が認識している世界は、たかだか人間の認識能力の範囲内である。人間と異なる認識能力を持つ者とは真理は共有しえない。人間は何かを「A」と思っているかもしれないが、他の認識者は「B」と認識しているかもしれない。つまり、「人間はAを認識する」のではなく「人間が認識したからAはA」なのだ。

例えば、人間は3次元で世界を把握するが、宇宙には4次元や5次元で世界を把握する生命体があるかもしれない。また、虫や魚は人間とは異なる方法で世界を認識している。

人間には赤いリンゴでも、宇宙人には異なって認識されているかもしれないし、色を識別できない動物にとってはリンゴは赤くもなんともない。

つまり「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」のだ(←カントはこの逆転の発想を自身で「コペルニクス的転回」と呼んだ)。

その場合、認識方法が異なるのだから、人間は「人間にとっての真理」にしか到達できない。人間にとっての真理は、果たして本当の真理と言えるのか。

真理とは、たかだが、人間によって規定されるものなのだ。

「欧米型理性(科学的思考法)」の出発点

真実を導き出すには、以下4つを守っていれば十分だ。

①自分が真理であると認めたもののみ受け入れる。注意深く即断と偏見を避ける。

②難問は多数の小部分に分割する。

③最も単純で最も認識しやすいものからスタートし、秩序だって複雑なものの認識に至る。

④自分は何一つ見落とさなかったと確信するほど完全な列挙と、広範な再検討を行う。

デカルトの言う4原則のうち、②と③は、極めて欧米的理性(このサイトで「才」と呼んでいる要素)に基づく考え方と言える。

例えば西洋医学と東洋医学を比べてみる。西洋医学は何らかの症状が出た際に、まず体のどの部分に障害が起こっているのかを調べ、原因を特定し、その原因に対して対症療法を取る。

肝臓は大丈夫、心臓も大丈夫、ああ、腎臓が悪いんだ!と特定して、腎臓を摘出するとか、腎機能に効く薬を投与するといった思考法。自動車を修理するような発想と言える。これは「体の調子が悪い」という難問を小部分に分割して考えていることに他ならない。

一方の東洋医学は、「病気ではなく病人を診る」という態度を取る。体の一部分だけを調べるのではなく、原因や症状、体質など、全身の状態を総合的にとらえて、体全体を整える、あるべき姿に近づけるという治療を行う。

慢性疾患や生活習慣病、そしてストレスなどさまざまな要因が複雑に絡み合って生じる疾患にはこちらのほうが向いている。

どちらの考え方も間違いとは言えず、おそらくそのバランスが大切なのだろう。しかしデカルトは、前者の思考法を徹底的に突き詰めたわけである。方法序説の凄みはまさにそこにある。

キリスト教もデカルトも、結局は「人間中心主義」

また、若干の古代人が考えたように、我々は動物の言葉が分からないが、動物も話しているのだと考えてはならない。

なぜなら、もしそれが真実だとしたら、彼らは我々に対しても自分の同類に対するのと同様に、自分を分からせることができるはずだから。


動物が言葉を扱うなら、人間はそれを理解できるはずだ、ということで、これは人間を動物界の最上位に置くキリスト教の基本的な考え方を示していると言える。動物たちは、独自の言語でお互いを理解し合っているかもしれないのに(現代の生物学的には、そちらが正しい。例えばイルカは人間には聴き取れない超音波で意思疎通している)。

確かに旧約聖書で神は「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ」と人間に命じているし、カトリック教会が(ヒトは猿から進化したという)ダーウィンの進化論を認めたのは1996年になってからだ。

つまり「自然界は人間が支配するべきもの」という思想、これはキリスト教であれデカルト以降の近代科学であれ、一貫している。しかし、日本人としては少し違和感があるのではないだろうか。

地震・津波・火山・台風等々、自然からの脅威とともに生きてきた日本人は、八百万の神(すべてのものに神が宿る)というアニミズムを信仰してきたし、自然と共に生きてきた。

「自然を人間が支配する」などといったおこがましい考え方はあまり馴染まない。どちらかと言えば自然は畏怖し、尊敬する対象と見る方がしっくりくる。

そう考えてみると、例えばヨーロッパの庭園は左右対称で人工的だが、日本庭園は曲線が多いし、人工的に置いたにしても、石一つで大きな山や海、島などをイメージさせる「枯山水」みたいなものまである。これは宗教観の違いからくるものなのかもしれない。

ヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ宮殿
枯山水
枯山水

人事部長のつぶやき

仮に人間の形に似せた機械があったとしても、我々はそれが真の人間でないことを確かめる方法を持っている。

それは、言葉を組み合わせて、他人に意思表示することだ。(要約)

現時点で既に、言葉を組み合わせて、我々人間に意思表示するような人工知能は存在する。17世紀人にマウントしても仕方ないが、どれだけ名著と言われているものでも、無批判に書いてあることを鵜呑みにしてはいけないという好事例。

特に哲学の世界では、後世において否定されて、時代から消え去ったものもあるので、要注意です!

ルネ・デカルト
(岩波文庫)

※「我思う、ゆえに我あり」の本当の意味とは?西洋科学文明の理解に必須