「平家物語」作者不詳
基本情報
初版 鎌倉時代初期に原型完成
出版社 角川ソフィア文庫、岩波文庫等
難易度 ★★★★☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 318ページ
所要時間 3時間30分
どんな本?
平氏の栄華と没落、そして源氏の台頭を主題とした軍記物語。鎌倉時代に原型が完成。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の書き出しでも有名。前半では平清盛を中心とした平家の興隆と繁栄、後半では平家の都落ちと壇之浦での敗戦・滅亡までが描かれる。
よく「平家物語は軍記もの」「源氏物語は宮廷もの」と区別されるが、どちらも「栄華に驕れる者の没落」「因果応報」「無常観」といった仏教的要素が通奏低音として流れており、日本人としてはどちらも読んでおきたい古典の傑作。
本書が伝えたいこと
あれだけ繫栄した平氏も、権力や奢侈に溺れてしまい、数十年で滅亡することになった。源氏側でさえ、義仲や義経のように、その権力に驕った者は落ちぶれていった。
世の中に永遠などなく、常に変化し続ける。源平合戦はそのような世の道理をよく表している。
著者(とされている人物)
信濃前司行長 生年不詳-没年不詳
兼好法師著『徒然草』の第226段に「後鳥羽院の御時、信濃前司*行長、稽古の誉れありけるが(中略)、この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり」という記述があるため、平家物語の作者は信濃前司行長とされている。*信濃の国の前知事のこと
しかし、そもそもこの人物は信濃ではなく下野の守である上、その人物像も明らかではない。
その行長が、生仏という名の盲目の僧に平家物語を語らせたという。そのおかげで文字の読めない庶民にまで浸透し、結果的に他の軍記ものより著名になった。なお、琵琶を伴奏に使ったため、語り部の僧は琵琶法師とも呼ばれた。
こんな人にオススメ
軍記が好きな人、義理人情に篤い人、平安末期から鎌倉初期の無常観を知りたい人
書評
全12巻を全て読み通すのは大変だが、主に1156年の保元の乱から、1185年の壇ノ浦の戦いまでが時系列で整然と語られるので、まずあらすじで概要を押さえ、関心のある場面のみ「つまみ読み」することができる。
主な出来事と掲載巻をまとめたページとしては、こちらが分かりやすい。
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源平の政治的・軍事的争いを軸としつつも、忠義、親子愛、貴族的雅さ等の要素とともに、数多くの個性的なキャラクターが登場するので、読んでいて飽きることはない。さすが、歴史の荒波に揉まれてきた古典中の古典と言える作品。
要約・あらすじ
第1巻~平家の躍進~
■世の中に永遠不滅のものなどない。どんなに栄えた者でも、おごり高ぶった瞬間に、衰退への道を歩み始める。中国でも日本でも、主君に反逆し、権勢を拡大し、周囲の忠告に耳を貸さなくなって没落する例は多い。最近では平清盛の権勢と驕りがひどいと聞く。
■平清盛は保元・平治の乱で武勲を挙げ、武士として初めて太政大臣になった。やがて一族は政府要職の半分を占めるようになり、娘の一人は天皇の后となった。領地は国土の半分を占めるに至った。一方、清盛は都中に300人の少年密偵団を放ち、平家の悪口を言う者を次々逮捕する恐怖政治を敷いた。
第2巻~清盛と後白河法皇の確執~
■平家一族の躍進を快く思わない藤原成親や西光法師は、後白河法皇とともに平家打倒を計画する。しかし清盛に密告があり、首謀者たちは捕えられた。
■清盛は後白河法皇が黒幕だと見抜き、兵を出そうとするが、息子重盛が「日本は神国である。神の子孫である法皇の行動には理があるはずであり、清盛の側に問題があると考えるべきだ。もし法皇を討つなら、私は父を討つ」と父を諫め、清盛は派兵を控える。
第3巻~人格者重盛の死~
■1178年、清盛の娘徳子が、夫である高倉天皇の子を懐妊し、皇子(安徳天皇)を出産した。清盛は娘が将来の天皇を生んだことで、感極まってうれし泣きした。
■重盛は父清盛の暴政に心を痛め、熊野を詣でて「子孫が繁栄するなら父の悪心を和らげよ。繁栄が父一代なら我が命を縮めよ」と祈願すると、その直後に亡くなってしまう。一方、清盛は後鳥羽法皇を幽閉したり、主要官職を自分の人脈で固めたりと暴政の限りを尽くした。
第4巻~平家追討の失敗~
■1180年、高倉天皇は安徳天皇(3歳)に譲位したが、これは清盛の意向であった。
■後白河法皇の子で高倉天皇の兄にあたる以仁王は、平家の横暴に恨みを持っていた源頼政や三井寺を頼って平家追討の指令を出す。しかし、清盛側は源頼政・以仁王ともに宇治平等院にて敗死させ、三井寺を焼き討ちにしてしまう。完全なる平家側の勝利であった。
第5巻~維盛の敗走と清盛の暴挙~
■1180年、源頼朝が伊豆で挙兵する。後白河法皇の平家討伐の命令書を持った僧が説得したのであった。平家軍(平維盛*)7万騎、源氏軍(源頼朝)20万騎は富士川で相まみえることになるが、合戦前夜、平家軍は水鳥の羽音を源氏の大群と誤認し、戦場から逃亡してしまう。
*重盛の子、清盛の孫
■同年、清盛は以仁王の謀反に加担した罪で、東大寺や興福寺に攻め込み、奈良を焼け野原にしてしまう。後白河法皇、高倉上皇ともに、さすがに驚きと嘆きの色を隠せなかった。
第6巻~清盛死す~
■ついに清盛が病床に臥す。高熱を発し、水で体を冷やしてもすぐに熱湯になってしまう。清盛夫人は、清盛の度を越した悪行がもとで、猛火に包まれた車が清盛を地獄に連れていく夢を見た。清盛は遺言として「供養は不要。頼朝の首を墓前に供えよ」と残し、亡くなった。
■越後守で平家一門の城長茂は、4万騎を率いて3千騎の木曽義仲を信濃で追討しようとするが、逆に義仲の奇略にはまって惨敗する。平家は力を失い始め、宗教界も既に源氏に内通しはじめていた。
第7巻~源義仲の進軍~
■平家は義仲追討の軍を募ったが、応じたのは西日本の武士だけだった。ついに両軍(平維盛vs源義仲)は倶利伽羅峠で激突。源氏軍は平氏軍を夜間に挟み撃ちして、大多数の軍勢を崖下に落とし、大勝利を収めた。続く篠原の戦いでも源氏は勝利し、ついに京の都に迫った。
■平家は比叡山を味方に引き入れようとするが、比叡山は既に源氏と内通していた。そこで平家は安徳天皇を擁して西国に逃げる決意をする。後白河法皇は事前に察知し、平家に同行せず姿を眩ませた。今や平家の栄華は完全に終焉を迎えた。
第8巻~源義仲の京入り~
■義仲軍が都に入ると、後鳥羽上皇は源義仲に平家追討の指示を出すとともに、故高倉天皇の4歳の子を後鳥羽天皇として即位させた。これで京と西国に二人の天皇がいることになった。
■平家が敗走を続けるなか、源頼朝は征夷大将軍に任命される。一方の都では源義仲が乱暴狼藉を働き、清盛以上の悪行と評され、源頼朝や後白河法皇との対立が生じた。今や日本は西国の平家、京の義仲、鎌倉の頼朝に三分されてしまった。
第9巻~義仲追討と平家の敗走~
■源義仲の横暴に対し、源頼朝は源義経を司令官とする数万の大軍を京に派遣した。義経軍は義仲を打ち取り、京に入った義経は後白河上皇から大歓迎を受けた。後白河法皇は三種の神器奪還を源氏に命ずる。
■源義経軍は「鵯越」という高台から狭い崖を一気に駆け下がり、平家を背後から襲撃した。源氏の武将熊谷直実は、自分の息子ほどの歳の若武者と一騎打ちになるが「ここで討ち死にしたらこの子の親はさぞかし悲しむだろう」と思い躊躇する。最後は泣く泣く斬ったが、その若武者は平敦盛だった。
第10巻~維盛死す~
■後白河法皇は、捕虜となった平重衡(清盛の五男)を解放する代わりに、三種の神器を返すよう、屋島にいる平家本陣に使者を出した。しかし平家側はこれを拒否し、断固として戦う姿勢を示した。
■一方、平維盛は「ああ、人間は妻子を持つべきではない。妻子の安穏を願う気持ちが成仏を妨げる」と懺悔しながら、勝浦の海に身を投じた。維盛の入水を聞いた頼朝は、維盛の父重盛から受けた恩義を思い、助命の機を逸したことを惜しんだ。
※恩義・・・平治の乱で頼朝が平家に捕えられた際、重盛の仲介で頼朝は死罪を免れた
第11巻~安徳天皇死す~
■1185年、源義経は後白河法皇から平家との最終決戦の許可を得る。源氏は屋島に陣取る平家を攻めるが、日暮れで両軍が引き上げる頃、平家が小舟に扇を掲げた。源氏側の弓の名手である那須与一は見事にそれを射抜き、扇は春風にもまれ、舞い上がった。両軍ともに喝采し、戦場は雅な場となった。
■壇ノ浦の最終決戦は、源氏の圧勝だった。最高司令官の平知盛が「もはやこれまで」と自軍に告げると、8歳の安徳天皇は「私をどこに連れていくのか」と問うたので、祖母(清盛の妻)は「波の下にも都はございますぞ」と言って、二人で海に身を投げた。
■安徳天皇の母(清盛の娘、建礼門院)は入水するも、源氏に救助された。知盛は「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害をせん」と言い残し、鎧を二領着て海に飛びこんだ。義経は後白河法皇に戦の終結と八咫鏡・八尺瓊勾玉の奪還について報告した。草薙剣は紛失したまま見つからなかった。
第12巻~平家滅亡~
■源義経は平家追討に大きな功績を挙げたが、兄頼朝から謀反の嫌疑を受けていた。後白河法皇をはじめ、誰もが首をかしげていたが、全ては(義経のライバルである)梶原景時による中傷を真に受けたためだった。
■義経追討軍が鎌倉を出ると、義経は最終的に奥州に逃亡した。一方、平家の嫡流である平六代(維盛の息子)は出家していたが、危険人物として鎌倉に連れられ斬られた。ここに平家の子孫は永久に途絶えた。頼朝は全国に守護・地頭を置き、支配体制を確立した。
灌頂の巻
■壇ノ浦で入水後に救助された建礼門院(安徳天皇の母、清盛の娘、高倉天皇の中宮)は、京都大原の寂光院で安徳天皇の菩提を弔う念仏生活を送っていた。
■そこに後白河法皇(高倉天皇の父)がお忍びで訪問する。建礼門院は最初茫然と立ち尽くしたが、涙ながらに法皇と対面し、平家一門の栄枯盛衰を語った。後白河法皇が建礼門院を見舞うことで、平家による朝廷への反逆罪が許されたのである。建礼門院はその5年後に亡くなった。
※灌頂:もとは仏教で弟子が師から法を受ける時の儀式。転じて秘曲の伝授。
学びのポイント
有名な冒頭文
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
(現代語訳)
釈迦が説法したという祇園精舎の鐘の音には、諸行無常の響きがある。釈迦が滅したときにいていたという沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという物事の道理を示している。驕り高ぶっている人の栄華も長くは続かない。まるで直ぐに覚めてしまう春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまう。全く風の前の塵と同じである。
平家物語の冒頭はあまりにも有名であり、かつこの物語全体に通奏低音として流れる思想を端的に表す点で、非常に重要でもある。
「祇園精舎」は釈迦が説法をしていたことで知られるインド北部の寺院。ジェータ(漢訳で祇太)という王子が持っていた土地に、地元の資産家が黄金を敷き詰めて作った僧院(=精舎)であることからこの名が付いた。
「諸行無常」は釈迦が唱えた原始仏教のころからある考え方で、「世の中のすべての現象は常に変化し生滅して、永久不変なものはない」という意味。
「沙羅双樹」は、釈迦が亡くなった場所の四方に植えられていたという伝承のあるインド北原産の花。悟りを開いた釈迦でさえ亡くなってしまうものという比喩で使われている。
この「平家物語」では、平家の栄枯盛衰はもちろんのこと、木曽義仲や源義経といった源氏側の登場人物が驕り高ぶり、没落していく様子も描いている。つまり、本書全体に「諸行無常」「盛者必衰」という思想が流れているということになる。
驕れるものは久しからず
(平時忠)
「平家でない者は人間ではない」という言葉を残す。(平資盛)
(天皇を代理する)摂政の行列に出会ったが、馬から降りるという礼を欠いた。(平清盛)
東大寺の大仏すらも焼き払う。官職を自分の派閥で固める。(源義仲)
牛車の乗り方を知らず、牛飼いを困らせたあげく、切り殺した。(源義経)
勝手に官職を受けたり、仲間に横柄な態度をとったりした。
「平家物語」では、驕る平家が没落していく様子とともに、源氏側であっても驕れる者は容赦なく滅びる姿を描き出している。上の引用は、各者がどのように驕ったかの例。
本書の冒頭部分は「驕る平家は久しからず」という諺にもなっている。
成仏する気の無い清盛
清盛は、発病以来、湯水ものどを通らない。体の熱いことは火を焚いたようだ。
清盛夫人の二位殿が見た夢はじつに恐ろしかった。猛火に包まれた空車が邸内に入って来るのを見た。前後に立っている牛や馬の顔をしたものはこう言った。
「平家の太政大臣清盛入道殿の悪行が度を超したので、閻魔王庁から来た迎えの車です」「東大寺の大仏を焼き払った罪により、無間地獄の底に沈むという判決が閻魔庁より下りました」
清盛は最後にこう言った。「頼朝の首を見なかったことが、何よりも無念だ。私の死後は、法事・供養はするな。堂や塔も建てるな。ただちに討っ手を派遣して、頼朝の首をはね、わが墓前に供えよ」
第6巻より抜粋
平家物語で清盛は、人情厚く、善行・功績もある一方、横暴・独善・非道な人物として描かれている。特に死の場面は顕著で、清盛が極楽往生できない理由が複数組み込まれている。
①熱にうなされて死ぬ
985年にまとめられた極楽往生に関する仏教書である『往生要集』では、熱にうなされて死ぬ人は悪人であるとされている
②夫人が夢で猛火に包まれた車を見る
作中では「東大寺の大仏を焼き払った罪で、無間地獄の底に沈むという判決が閻魔庁で下った」と説明される。
③供養させない
清盛は自分自身で「供養は不要(=極楽に行けない)」と遺言し、頼朝の首を墓前に供えるように命ずる。
潔い武士の死にざまと見るべきか、仏を仏とも思わない非人道的な死にざまと見るべきか、見解は分かれている。
安徳天皇(8歳)の悲劇
安徳天皇は今年8歳になるが、年齢よりも大人びて、端麗な容貌は照り輝くようだった。
天皇は「いったい、尼ぜ(祖母のこと、清盛の妻)、私をどこへ連れていくのか」と尋ねたので、祖母は次のように答えた。
「君は前世の良い行いによって帝としてお生まれになったが、悪縁のため運が尽きてしまいました。まず東の伊勢大神宮(皇室の祖先神)に向かってお別れを告げ、次に西の浄土に向かって念仏を唱えなさい。あの波の下には極楽浄土がございます」
すると安徳天皇は顔を涙で一杯にしながら、小さなかわいい手を合わせ、まず東に向かって伊勢大神宮にお別れし、それから西に向かって念仏を唱えたので、祖母は素早く天皇を抱きかかえると「波の底にも都のさぶらふぞ」と慰めながら海底深く沈んでいった。
第11段より要約
安徳天皇は、歴代の天皇で最も短命であるとともに、戦乱で命を落としたことが記録されている唯一の天皇として歴史に名を刻んでいる。
非常に涙を誘うシーンではあるが、冷静に考えると、一介の平家が、正式な皇位継承を受けた天皇を(いわば)殺害したということであり、清盛の暴君ぶりも目立つが、その妻の横暴さも描かれていると言えるだろう。
このシーンは2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第18回で登場し、世の中にも知られることとなった。
人事部長のつぶやき
三種の神器なき皇位継承
後白河法皇は義仲軍五万騎に守られ、源氏とともに入京した。ただちに法皇は義仲・行家に平家追討を命じた。
八月五日、法皇は故高倉院の遺児と対面、兄の三の宮をはずして、人なつこい四歳の弟の四の宮を新帝(後鳥羽天皇)に選んだ。(中略)
これで、京と西国に二人の天皇がいることになった。
これは、後白河法皇が源義仲とともに京都に入り、平家追討の指示を出すとともに、後鳥羽天皇を次期天皇に指名する場面である。
この前段で平家は安徳天皇を連れて西国に逃げているため、数年間は、後鳥羽天皇と安徳天皇が並び立つことになり、宮内庁のHPにある天皇系図でもそのように示されている(1183年~1185年は両天皇が並列)。
平家は皇室継承の象徴である「三種の神器」を持って逃げたため、後鳥羽天皇は、神武天皇以来、初めて三種の神器無しで皇位を継承した天皇となった。平家物語では以下のように描かれている。
同じき二十八日、都には新帝の御即位あり。内侍所(八咫鏡)、神璽(八尺瓊勾玉)、宝剣もなくして御即位の例、神武天皇より以来八十二代、これ始めとぞ承る。
なお、三種の神器は安徳天皇とともに全て壇ノ浦の戦いで海に沈んだが、「八咫鏡」と「八尺瓊勾玉」は源義経に回収されたとされている(草薙剣は、戦後に朝廷と源氏が必死で捜索するも見つからず、後に別の剣が草薙剣となった)
一度に二人の天皇がいたことは、南北朝以外にもあったのですね