「韓非子」韓非

  難易度 ★★☆☆☆
オススメ度 ★★★☆☆
 所要時間 3時間00分

この記事を書いた人
人事部長

上場企業に入社以来、経営・財務・営業・人事・海外事業等を経験し、現在は人事部門のマネージャです。

「才徳兼備」を目指す部下に紹介している「骨太の教養本100冊」を、順次web上にも公開しています。

慶應義塾大学経済学部卒業、シカゴ大学経営大学院修了(MBA)、米国公認会計士。

「韓非子」韓非

基本情報

初版   紀元前3世紀
出版社  角川ビギナーズ・クラシックス
難易度  ★★☆☆☆
オススメ度★★★☆☆
ページ数 254ページ
所要時間 3時間00分

どんな本?

徳で国家を統治する儒家思想に対し、乱世には徹底した法治主義・信賞必罰が必要と唱える。秦の始皇帝も感銘を受けた非常時のリーダーシップ論。

秦の始皇帝も感銘を受けた非常時のリーダーシップ論。西の「君主論」、東の「韓非子」とも言われる。

著者が伝えたいこと

儒家は「徳」や「礼」を重視するが、世の中の大多数の人間にとっては、そのような高尚な理想など実現できない。平均的な君主が、平均的な人々を治めるだけである。

平均的な君主が国を治めるには、法律を整備し、徹底的に臣下の仕事を管理し、権力と地位が維持できる仕組みを確立することが大切だ。

そして平均的な人々とは、徹底的に利己的で打算的な存在である。妻子でさえも、彼女達に都合が良ければ、自分を裏切るかもしれない。誰も信用などできないのだ。

利己的であることには利点もある。誰でも「人のためにやってあげた」と思うと見返りを求めたくなるが、「自分のためにやったのだ」と思えばそのような雑念はなくなる。

平和で生活水準の低かった古代であれば仁や徳は機能したかもしれないが、今の乱世においては、富が人々の欲望を刺激し、食うか食われるかの状況だ。世の中を「善い」とか「悪い」とか判断しても無益であって、力のみが支配する目の前の現実を見なければならない。

著者

韓非 BC280?-BC233

韓非

春秋戦国時代末期の韓(現在の中国の一部)の思想家。いわゆる「諸子百家」の一人。

「人間は本来的に悪人であるので、礼の力で矯正すべき」とする儒家の荀子に学んだが、自身は「人間は本来的に悪人であるので、法の力で押さえつけるべきだ」と法家の立場を取った。

その思想は韓の敵対国である秦の始皇帝に高く評価され、始皇帝にして「この作者に会って話し合えるならば死んでもかまわない」と言わしめる。始皇帝は韓非を登用しようとするが、それを妬んだ秦の宰相李斯の讒言により投獄され、韓非は自ら命を絶った。

こんな人におすすめ

これから管理職になる人、現実的なリーダーシップ論を学びたい人、マキャヴェリの「君主論」に共感した人

書評

やや観念・理屈が先立つが、儒家(徳や礼に頼んで国を統治する)へのアンチテーゼとして、考え方が整理されている。

「国をいかに良くするか」より「国をいかに統治するか」に軸足が置かれており、マキャヴェリの「君主論」と同じく、「非常時のリーダーシップ」として理解するのが良いと考えられる。

韓非は儒家と異なり、物事の「善い」とか「悪い」は判断せず、ただ現実のみを見つめるという態度で一貫している。「現実世界でどれだけ有用であるかをもとに、ある概念が正しいか否かを判断する」というプラグマティズムの考え方に近いと言える。

要約・あらすじ

※韓非子は全部で20巻55編にわたるが、角川ビギナーズ・クラシクスシリーズでは、入門編として主要な10編が厳選されている。

説難篇(自分の意見を君主に説く難しさ)

■君主に何かを説く際には、君主の心の奥底を見抜き、それに合ったことを言え。君主の建前と本音を掴み損ねると、仮に一般論として正しい助言をしても、採用されることはない。

■君主のメンツを立てろ。絶対に逆鱗に触れるな。例えば、君主が何かを計画したら、それに直接意見するのではなく、類似の事例を取り上げて間接的に諭せ。それが自分を守る術である。

■長い年月を経て君主の信頼を得れば、疑われもせず罰せられもせず、存分に国政を支えることができる。これが君主に説く者の目指すゴールである。

孤憤篇(法術の士は、権力者を向こうに孤軍奮闘)

■国家には君主がいるが、実際に権力を握っているのは宰相と大臣クラスである。権力があるが故に、外部の人、役人、学者等は彼らに媚びへつらう。そして彼らは君主に媚びへつらう。

■そもそも君主と臣下の利害は一致しない。君主の利益は有能な臣下を雇い、結果を出させることである。一方、臣下の利益は自分に能力が無いのに官職を得、功績がないのに冨貴を得ることだ。

■しかし、君主は宰相以下が具体的にどのように動いているかまで見えない。功績を確かめずに褒章を与えたり、事実を確かめずに懲戒したりする。だからさらに大臣クラスが跋扈する。私(韓非子)のような「法術の士(国家戦略アドバイザー)」は、君主や大臣に媚びへつらうことをせず、地位も高くないので、常に孤軍奮闘である。

問田篇(韓非子と儒家との対話)

■礼や徳に従う政治よりも、厳格な法治と冷徹な権謀術数による君主権力の確立こそ、儒家も追求するように、人民のためになる。

定法篇(術と法の双方が重要)

■君子が用いるべき統治方法には2種類あり、双方揃わなくてはいけない。

①術
いかに臣下の生殺与奪を握り、目標管理で仕事をさせ、かつ情報をしっかり上げさせるかという人心掌握術。

②法
臣下・人民が広く認識しており、かつ厳格に定められた法律。

二柄篇(アメとムチ)

■「術」を行使するにあたっては、アメとムチの双方を自分の意思で使いこなす必要がある。臣下の意見を取り入れるようになると、市民はその臣下を恐れ、君主を侮るようになる。

■臣下を正しく制御するには「形名参同」が必要だ。すなわち、臣下が「やります」と言ったことをしっかり履行しているかを確認し、出来ていれば恩賞を、出来ていなければ処分を与えるということだ。

■君主が好き嫌いの感情を明らかにすると、臣下はそれに合わせて能力を偽ったり、道徳や倫理を捨てて君主に媚びたりと、うまく立ち回るようになる。すると真実が見えなくなり、臣下を操るどころか、国の利益も損なわれることになる。

難勢篇(権力と地位と勢いが大切)

■君子が天下を治めるために必要なのは、徳や礼ではなく、権力と地位と勢い(モメンタム)という仕組みであり、それらは「術」と「法」により担保される。

■歴史上、徳や礼に優れたとされる堯や舜でさえ、盤石の権力がなければ、三軒の家すら治められなかっただろう。大多数の君主は「人並み」なのだから、仕組みに頼るのが現実的だ。

■世の中には「この乱世を上手く治めるには、賢明な君主の出現が必要だ」などと言う人がいるが、それは誤っている。仕組みがしっかりしていれば、誰も天下を治めることができる。

備内篇(家族すらも信用してはいけない)

■臣下から見れば、自分達は君主の権勢に縛られて仕えているだけであり、君主に肉親同士のような親愛の情などあるわけがない。君主はそれを忘れて立場に胡坐をかくので、不意に反乱を起こされたりする。

■君主は妻や子供たりとも信用してはいけない。それを見た臣下が家族に取り入るようになるからだ。妻や子も信用できないのだから、この世の誰も信用してはいけないのだ。儒家の言う忠や孝に期待するのは誤っている。

■しかし、妻子や世の人が凶悪だということではない。棺職人は人が早死にするのを願うだろうが、それは車職人が顧客の収入増を願うのと何ら変わらない。それぞれ、自分の利益を追っているだけである。

外儲説左上篇(利己的であることを前向きに認める)

■人は「誰かのためにやってあげた」と思うと、見返りを求めたくなる。そうでなく、自身の動機が利己的であることを認めてしまえば、雑念は起こらない。

■君主は権勢を誰にも奪われないという自分のため、臣下も言われのない罰を避け、適切な恩賞をもらうという自分のために努力することが、結果的に国をよく治めることに繋がる。

五蠹(ごと)篇(乱世において仁や徳は無益)

■堯や舜の時代は仁や徳が、その後の時代には知慮策謀が、そして乱世である現代では軍事力と精神力が重んじられている。時代によって求められる統治方法は異なるのだから、儒家のように古代の仁や徳を礼賛するのは誤っている。

大体篇(政治の本質とは)

■為政者は、「天理に逆らわず」「自然に因り」「道に因って」、法と術を行使し、国家を治めるべきである。厳格な法治国家は抑止力を生み、戦乱も恨みもない理想の世界を実現する。

学びのポイント

徹底したリアリズム

君主とは以下のように接するべきだ。

①自分の意見はさておき、まずは君主を褒め、肯定し、守り、やりたいことを応援する。君主に気に入られるようにする。

②決して欠点を指摘したり、意見を否定したりはしない。メンツを潰さない。逆鱗に触れない。自分をしっかり守る。

③そのように長年振る舞っていれば、君主からの信頼を勝ち得て、思う存分に自分の意見を言えるようになる。

(趣旨要約)

「韓非子」が冷徹な現実主義に徹していることがよく分かる。もちろん、①や②あたりは「自分がない」「君主も誤ることがある」「単なるご機嫌取りか」といった批判もあるだろう。直観的にはやや受け入れがたい。

ただ、韓非子の言うことはやや極端だとしても、上司部下の関係においては信頼感が重要ということには洋の東西も時代も変わりない。新入社員が理想論を並び立てても誰も聞かないのと同様、まずは上司に合わせ、実績を積み、その後自分の色を出していくというのは、正しい手順なのではないか。

ただそれも、大きく安定した組織での処世術。ベンチャー企業のような機動力やリスクテイクが必要な組織には合わないだろう。

上からはよく見えないことがある

宰相と大臣クラスが権力を握ると、周囲の役人や学者を自分たちの都合の良いように操るため、君主に正しい情報が入らなくなる。

その結果、功績を確かめずに褒章を与えたり、事実を確かめずに懲戒したりする。

(趣旨要約)

ここまで極端でなくとも、組織で働くビジネスパーソンであれば経験があるのではないだろうか。

「評価」というのは本当に難しい。上司が部下を評価する場合、見えるのはアウトプットだけであって、例えばその過程で誰かをメンタル寸前に追いやったとか、顧客との長期的信頼関係を損なったというような要素は見えにくい。

善いものが評価され、悪いものが排除される組織でないと、国と同様に滅びることになる。それくらい評価というものは重要である。

上司と部下の相互評価は、上司→部下の一方的評価の弊害を補うものであるが、上司と部下には一般的に情報の非対称があって、上司は部下よりも広い視野、高い視座、長い視点で物事を判断する。それが部下から見ると不可解に思えるようなこともある(事情をよく分かっていない人がTwitterで政府の政策を安易に批判するようなこと)。

よって、現実的には、上司は部下をアウトプットで評価する、部下は上司を「やる気にさせてくれたか」「成長させてくれたか」「倫理に反していないか」といった点で評価し、それを多階層で行うことが、少しでも正しい評価に繋がるのではなかろうか。

力こそ正義

君主はアメとムチを自分の意思で使いこなす必要がある。臣下の意見を取り入れるようになると、市民はその臣下を恐れ、君主を侮るようになる。

そもそも虎が犬を服従させられるのは爪と牙が有るからだ。もし虎にその爪と牙を捨てさせて犬にこれらを使用させたならば、虎は反対に犬に服従させられることになる。

(趣旨要約)

「韓非子」では、臣下をいかにコントロールするかが重要なテーマになっており、「アメとムチを失った状態で、国が亡ばなかったことはない」と言い切る。

その上で、君主が力を失うパターンとして5つが挙げられている。

① 臣下が君主に真実・事実を知らせなくなった場合
② 臣下が財政や利益を掌握した場合
③ 臣下が法令を勝手に行うようになった場合
④ 君主が行うべき正義の行為を臣下が代わりに行う場合
⑤ 臣下が個人的な利益のために党派を作った場合

なお、こちらも非常時のリーダーシップ論として名高い、マキャヴェリ著『君主論』では、こう表現されている。

マキャヴェリ

(君主は)愛されるよりも恐れられる方がはるかに安全である。それというのも、人間に関しては一般的に次のように言いうるからである。

人間は恩知らずで気が変わり易く、偽善的で自らを偽り、臆病で貪欲である。

これは「君主論」の中でも、最も有名な一節である。

しかし注意しなければいけないのは、マキャヴェリにしても韓非子にしても、どちらも乱世という「非常時」における最適のリーダーシップを説いているということである。

君主と臣下、現代なら上司と部下の間の緊張感は重要であろうが、報酬や恐怖といった外部刺激に基づくモチベーションは長続きしないまた、君主論や韓非子の時代であれば良いが、現代では「恐怖」に軸足を置きすぎると、パワハラ扱いされかねない。

現代日本においては、少子高齢化・働き方改革・コンプラ重視という環境の中、恐怖心に基づくマネジメントはもう流行らず、人間力(=徳)で部下のやる気と能力を内側から引き出せるリーダーシップこそが求められるのだろう。

ちなみに、かつて元日弁連会長の中坊公平(なかぼうこうへい)が、リーダーたるもの部下に対しては「正面の理、側面の情、背面の恐怖」が必要と言ったそうだ。つまり「部下には論理的に説き、ときどき愛情をかけ、恐れらることで律しろ」という意味で、これを座右の銘にしている管理職も多い。

しかしこれらは「外部刺激」でしかなく、不十分だ。部下が内側から「こう成長したい、これを達成したい、こうやりがいを感じたい」と思えるような手助けを行えるリーダーこそ、今後は求められるだろう。

内政という部分最適

むかし、韓の昭侯が酒に酔って眠ったところ、君主の冠を管理する者がそれを見て衣を昭侯の体の上に着せ掛けた。

昭侯は眠りから覚めると、衣を掛けた者と、君主の衣類を管理する者の双方を処罰した。職域を越えることを放置すれば、いずれ他の官職を侵害することになり、統治が乱れると考えたからである。

いわゆる「縦割行政」「官僚主義」はこの辺りを源泉としているのだろう。良いことだからと言って越権すると、上からは叱られるし、組織間の軋轢は生むし、良い事など一つもない。

しかし、内政統治という観点では昭侯の措置で良いだろうが、「縦割りの則を超えてでも、全体最適を志向する合理的な組織」と戦えば、全体の国力では明らかに負けてしまうだろう。

福澤諭吉は、著書「文明論之概略」で、江戸幕府がまさにそのような組織だったと指摘している。

福澤諭吉

日本では古来、政府と人民は敵対関係と言っていい状態にある。例えば、徳川幕府が(参勤交代や普請で)諸侯の財産を費やさせたのは、敵に勝って賠償金を取ったのと同様である。

国民に造船を禁じ、大名に築城させなかったのは、戦争に勝って敵国の砲台を破壊するのと同様である。これが同国人に対するやり方だろうか。

内政統治という部分最適を追うのは良い。ただし、競争に晒されると弱い。

欧米が近代以降、個人という概念や組織の合理性を確立した一方、アジア諸国は韓非子的な「内政重視」「お上の意向を覗う」「個人ではなく組織で動く」ことを続けた。グローバル化はこの違いを如実に暴いてしまったということだろう。

また、現代企業でも同じことが言える。一般的に、規制に守られた大企業ほど、人事部門や総務部門が強く、内政統治にパワーが割かれる。その分、受益者たる消費者の利益は損なわれているかもしれない。

内政統治の方法論としての韓非子は素晴らしいが、同時にその限界も感じさせる内容である。

現実主義者の韓非も原始共産主義にはNo!

多くの学者は、貧窮の民を救済せよと言う。しかし、いま同じ条件の人間が二人居たとする。そして臨時の収入もなく、 饑饉疾病などの不慮の出来事もないと仮定する。

もし一方の人間が自給生活ができているとすれば、それは努力や倹約をしているからである。他方の人間が貧窮したとすれば、それは 奢侈な暮らしをしたり怠けたりしているからである。奢侈な暮らしをして怠けた者は貧しく、努力して倹約した者は富むのである。

いま富んだ人間から税を徴収して貧しい家に施すのは、努力し倹約した人間の成果を奪い取って奢侈な暮らしをして怠っている人間に与えることに他ならない。

さすが現実主義者の韓非、紀元前3世紀にして、既に共産主義の限界を見抜いている。そもそも「各人は能力に応じて働き、必要に応じて分配を受ける」ような社会を実現が困難であることは、少し考えれば分かることだ。

『歴史の大局を見渡す』の著者、ウィリアム・ダラントは、「社会主義的実験(の失敗例)」として以下5つを挙げている。そして著者の死からちょうど10年後、ソ連が崩壊し、また一つ失敗例が増えることとなった。

①プトレマイオス朝エジプト
土地を国家が保有し、農業・流通・小売を国が管理した。国は大勢の書記官をかかえ、住民や財産に関する複雑な登録制度を維持し、全ての人・取引・事業等から徴税した。

アレクサンドリアのムセイオン建設等、文化面は充実したが、最後は市民が努力するインセンティブが無かったことから経済は衰退し、モラルは退廃。ローマの支配下に入ることになる。

②ディオクレティアヌス帝のローマ帝国(3世紀)
大規模な公共事業を行って失業者に職を与え、貧者には無料か割引で食料を配給した。経済を細かく統制するため官僚制を整え、市民には重税を課した。当時は異民族が迫っていたことから、個人の自由を制限して集団を維持する意図があったが、人々は働く意欲を失った。
③宋代の王安石
農民や資本のない商人に低利で融資をしたり、全国に賃金や物価を管理する役人を置くなど、大商人・大地主達の利益を制限して中小の農民・商人たちの保護をする政策を進めた。

大規模な土木事業で雇用の促進を図るとともに、商業を国営化し、高齢者、失業者、貧者には扶助料が支払われた。しかし、高い税金や役人の腐敗により、失敗に終わる。

④ドイツ農民戦争のトマス・ミュンツァー
1524年から始まるドイツ農民戦争で指導者となったトマス・ミュンツァーは、諸侯、聖職者、金持ちを倒し、すべてが共有される「神の国」を建設しようと主張し、農民団を結成して共産主義的思想を吹き込んで、戦いへ導いた。しかし農民側は敗れて5000人が命を落とし、ミュンツァーは斬首された。
⑤イギリス・フランスの左派
1642年のピューリタン革命では急進左派の「水平派」が、1789年のフランス革命では同じく急進左派の「ジャコバン派」が一時勢力を持つが、最終的には革命主体の主流派に敗れることになる。

古代を礼賛しても無益だ

人は古代の為政者達を「仁」や「徳」に富んでいたと尊ぶが、それは間違えている。

古代は人口も少なく、貧富の差は小さかった。為政者がその地位に固執しなかったのは、権勢が小さかったからであるし、手放す富も大きくなかったからだ。決して古代の人が高潔だったわけではない。

これは、豊作時には旅人にも食事を提供できるが、凶作時には家族も満足に食べさせられないのと似ている。全ては環境がそうさせているだけであって、人々の仁や徳とは関係ない。(要約)

これまた儒家たちを真っ向から否定する、韓非らしい議論である。

人は徳や仁があるから高潔な行動を取るのではなく、環境がそうさせているだけであって、仮に堯や舜が韓非の時代に生きたならば、その時の為政者とやることは変わらないだろう、ということだ。

現代日本でも「昔は土日出勤に残業は当たり前だった。量をこなすことで、成長できた」と仰る方がたまにいるが、それは単に周囲も同じような働き方をしていて、それに流されていただけだろう。

また「成長できた」かどうかは対照実験ができない限り立証できず、単に「自分はあんな頑張ったんだから、成長できたと思わないと釣り合いが取れない」という、いわゆる認知的不協和である可能性が高い。だから、おじさんの昔話は(韓非が言うように)今と環境が異なるのであるから、聞き流してもいいだろう。

コメント