「論語」孔子

  難易度 ★★★☆☆
オススメ度 ★★★★☆
 所要時間 3時間30分

論語中国古典入門(まずこの3冊)
この記事を書いた人
人事部長


一般企業に入社以来、経営・財務・営業・人事・海外事業・役員秘書等を経験し、現在は約30名の部下を持つ人事部門のマネージャです。

「才徳兼備」を目指す部下に紹介している「骨太の教養本100冊」を、順次web上にも公開しています。

慶應義塾大学経済学部卒業、シカゴ大学経営大学院修了(MBA)、米国公認会計士。

「論語」孔子

基本情報

初版   戦国時代初期~漢代(BC3-AD3世紀頃、諸説あり)
出版社  角川ビギナーズ・クラシックスシリーズ
難易度  ★★★☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 270ページ
所要時間 3時間00分

著者

孔子 BC 552 -BC 479

孔子

 

 

 

 

 

古代中国の思想家。同時代のソクラテス(BC 469-BC 399)、釈迦(生没年諸説あり)と合わせて「3大聖人」と呼ばれたり、釈迦、キリスト、マホメットと合わせて「4大聖人」と呼ばれたりする。

しかし、孔子は酒好きで、子孫もきっちりいて、人を死刑にした記録もあるという。「聖人」としてはいささか人間臭いが、(宗教的観念論ではなく)現実世界の実利を説いた孔子らしいとも言える。

時代背景

孔子が生まれたのは、「周王朝(BC1046年頃 – BC256年)」成立から600年が経ち、秩序を支えていた法や道徳が崩れ、各地の小国が相互に争う「春秋戦国時代(BC770年 – BC403年)」の真っただ中であった。

各国は政治のアドバイザーを必要とし、この時代には「諸子百家」と呼ばれる多くの思想家が現れた。孔子もその一人。

孔子は「武力によって他者を支配しようとする『覇道』ではなく、君子の徳によって政治をおこなう『王道』で天下を治めるべき」とする思想を説いて回ったが、孔子を受け入れ、彼に政治を任せてくれる君主はいなかった。

こんな人におすすめ

教養の基本と言われる「論語」に触れてみたい人。論理や理性を尊ぶ観念的な西洋哲学より、周囲の人への思いやりとその実践を尊ぶ実用的な東洋思想の方がしっくりくる人。

作者が伝えたいこと

世の中が乱れているが、法律や刑罰を厳しく適用するのは対処療法的で抜本解決に繋がらない。時間が掛かってでも、個々人が「徳(人徳・人間力)」と「才(知識・スキル)」を身に付けて行動することが、根本治療に繋がる。

「徳」と「才」の両方を身に付けた人を「君子」と呼び、「才」だけしか身に付けていない人を「小人」と呼ぶ。人は君子を目指すべきである。

一行紹介

言わずと知れた古典中の古典。約2500年前の聖人、孔子の教えをまとめた儒教の根本文献。人としての生きる道や、国の政治の在り方について論じられている。

要約・あらすじ

■人が生きる上で大切なのは、仁(愛や思いやりの心)、義(利欲にとらわれず、社会のために行動すること)、礼(仁を行動に表したもの)、智(道理をよく知り得ること)、信(人を欺かず、誠実であること)であり、中でも「仁」と「礼」が最重要である。

■人は「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の関係を維持するよう努めなければならない。まず家族を最優先で愛し、そして広く人を愛すべきだ(注:分け隔てない隣人愛を説くキリスト教とは相違している)。

■物事は極端すぎてはいけない。道徳において「中庸」であることは大切である。

※論語のエッセンス中のエッセンスは以上のとおり。孔子の後、儒教を基盤に、孟子が性善説を唱え、荀子が性悪説を唱えた。また、明代には朱熹が儒教を一つの教育体系として整備し、「朱子学」を確立している。

書評

孔子と同時代人であるソクラテスは、「ある命題が真かどうかを、論理を積み重ねて愚直に探求する」という姿勢で、理性的かつ論理的に真実を追求し、哲学の祖と言われている。

また、論語と同時代に成立したと言われている旧約聖書は、神とユダヤ民族の歴史や契約について記述し、ユダヤ教の聖典となった。

しかし、孔子の「論語」は、哲学書でも宗教書でもない。論理的に真実を追求するわけでも、神の存在を認めるわけでもなく、ただ「徳を用いて良く国を治める方」という徹底した実利を追求している。ソクラテスや旧約聖書を「観念的」と呼ぶなら、論語は間違いなく「実用的」な書物である。

つまり、孔子は「国王に官僚が仕え、人民を支配することを通じて、国を良くする」という構図を出ることはなかったのである。どこまでも「国王にどう活用してもらうか、雇ってもらうか、役立つか」を考え続けた人であり、事実、50歳の時に魯国の一都市の行政長官に任じられて、それを受けている。政治を通じて世の中を具体的に良くしよう、というのが孔子・論語の基本精神と言える。

本サイトでは、儒教・論語の超基本は押えつつも、それらの単純な解説に留まるのではなく、ビジネスパーソンや大学生が知っておくべき&考えるべき教養という観点から、論語の主要箇所を噛み砕いていく。

ちなみに、今回取り上げた「角川ビギナーズ・クラシックスシリーズ」の論語は、読み下し⇒原文⇒現代語訳⇒必要に応じて解説、という形式で進むが、解説が乏しく、やや物足りない。

よって、論語に関心を持った方には、齋藤孝さんの「現代語訳論語」(ちくま新書)をお勧めしたい。

学びのポイント

「君子」と「小人」を別を理解する

【読み下し】子、子夏に謂いて曰く、汝君子儒と為れ、小人儒と為る無かれ。

【訳文】(弟子に対して)君子であれ、小人になるな。

論語の全てのエッセンスは、この一文に詰まっていると言っても過言ではない。

「君子」は人徳や人間力を身に付けた人のこと。「何が正しく、何が善く、何が美しいかを判断する力」を身に付け、それを社会や周囲の人のために役立てる意志を持っている人のことだ。一方、「小人」は、知識やスキルを身に付けるにとどまっている、つまらない人のこと。

法律の例で言えば、法律を一生懸命に学んで、過去の判例に照らして判決を出すような裁判官は「小人」の範疇で、究極的には誰がやっても結論は同じになる。しかし、例えば生命倫理にかかわるクローン技術を規制する法律を作るといった仕事は「君子」の範疇で、小人には不可能だ。価値判断は「君子」にしかできないのである。

儒教のこの教えは後代にも大きな影響を与えており、明代末期に洪自誠が著した「菜根譚」では「徳は才の主にして、才は徳の奴なり」と表現されている(徳=人徳・人間力、才=才能・知識・スキル)。

また、昭和の知の巨人、安岡正篤は著書「運命を創る」で同じ趣旨のことを以下のように言っている。

人間は「本質的要素」と「付随的要素」から成る。

「本質的要素」とは、これをなくしてしまうと人間が人間でなくなるという要素であり「徳」とか「道徳」という。具体的には、人を愛するとか、人を助けるとか、人に報いるとか、人に尽くすとか、あるいは真面目であるとか、素直であるとか、清潔であるとか、よく努力をする、注意をするといったような人間の本質部分である。

もう一つは「付属的要素」で、大切なものではあるが、少々足りなくとも人間であることにたいして変わりないというもので、例えば「知性・知能」や「技能」といったものである。

このサイトが「才徳兼備」を推奨するのも、源流は孔子の考え方だ。現代のビジネスパーソンにこの「徳」と「才」の考え方を当てはめると、以下のようになるだろう。

才(才能、ビジネススキル)徳(人徳、人間力)
仕事をうまく回すため&利益を出すための手段
例)MBA(マーケティング、ロジカルシンキング等)
定義何が正しいか、善いか、美しいかを判断し追求する力
例)社会や周囲の人のために何を為すかという意志
ROE5%を目指した経営計画を作る行動例会社の存在意義を定めたビジョン・ミッションを作る
藤沢武夫的人物例本田宗一郎的
算盤(渋)、ロゴス(ア)、幾何学の精神(パ)表現例論語(渋)、パトス・エトス(ア)、繊細の精神(パ)
形式知(言葉や数字で表現可能)知の様態暗黙知(人格そのもの)
理論、理性、情報、ルール
例)市場分析でニーズを探り、商品化する
悪例)ライブドア株価釣り上げ事件
判断根拠直観、感性、想い、倫理観
例)社会を良くしたいという情熱で商品を開発する
悪例)大東亜戦争

※渋:渋沢栄一、ア:アリストテレス、パ:パスカル
是非こちらも合わせて読んでみていただきたいです。(なぜ、今「人間力(徳)」なのか)

才徳兼備こそ、君子の目指す道

【読み下し】子曰く、学びて思わざれば、則ち罔し。思いて学ばざれば、則ち殆し。

知識や情報をたくさん得ても、それをどう社会のために役立てるかを考えなければ意味がない。逆に、社会のために役に立つことを考えるばかりで、知識や情報の裏付けがなければ、独善的になってしまう。

これは、論語の中で最も有名な一節(の一つ)と言えるだろう。皆さんもどこかで聞いたことがあるはずである。

才(知識やスキル)をたくさん得ても、徳(何が正しいか、何が善いことか、何が美しいかを判断し実践する力)が伴わなければ、全く意味がない。それでは「小人」の域を出ない。

一方、徳ばかり考えていて、才の裏付けがなければ、単なる理想論に終わってしまう。両者兼ね備えられる存在が「君子」である、そういう意味になる。

どうだろうか、皆さんの周りにはいないだろうか。確かに頭は良いし学歴もある。論理的には正しいことを言っている。しかし、何となく心に響かない、周囲から慕われない、話をしていてもつまらない、という人が。それは小人の域を出ない。

また逆に、壮大な理想論ばかりを語り、現実味が一切ないという人も、これまた小人に留まってしまう。

真善美を判断・実践する力を持ち、社会のために役に立とうという志と、それを実現するための知識やスキルを伴った「才徳兼備」こそ、孔子が目指す姿と言えるだろう。これは現代のビジネスパーソンにもそのまま当てはまるはずだ。

君子の基本は「仁」

【読み下し】君子は本を務む。本立ちて道生ず。孝悌は其れ仁の本為る。

君子は、人間としての根本である「仁(=人間愛、思いやり)」の修養に努力する。なぜなら、仁が確立すると、生きる道が分かるからだ。仁は、両親をはじめとする家族を敬い、大切にすること(=悌)が、その原点となる。

儒教・論語では「仁(=人間愛、思いやり)」を君子が持つべきものの根本に据える。乱世を治めるには、人を愛すること、その手始めとして家族や先祖を愛することが必要だと説く。

洋の東西を問わず「父母を敬え」という教えはあるが、興味深いことに、東洋では孔子という個人が「教え」として語り、西洋では神が人間に授けるという形を取った。後者は言わずと知れた「モーセの十戒」である。

【参考:モーセの十戒】
主が唯一の神である
偶像を作ってはならない
神の名をみだりに唱えてはならない
安息日を守ること
父母を敬うこと
殺人をしてはいけない
姦淫をしてはいけない
盗んではいけない
隣人について偽証してはいけない
隣人の財産をむさぼってはいけない

東洋では、儒教にしても仏教にしても神道にしても、絶対的な創造主である唯一神という存在を設定しなかった。

まず儒教は、そもそも宗教というより、「いかに良く国を治めるか」という実学に近い性質を持つ。仏教は「世界の真理を悟る」という内面に向かう教えであり、外に神を置く必要がなかった。神道では、全ての自然物に神が宿るとしており、全知全能の唯一の神がいるわけではない。

一方、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は全て共通の唯一神を持ち、各個人が神と契約を結ぶ。洋の東西で何故この違いが生まれたかは定かではないが、宗教論の基本として、押さえておきたい。

「仁」のバリエーション

【読み下し】子曰く、老者には之を安んじ、朋友には之を信じ、少者には之を懐けん。

先輩である老人には心が安んぜられるように接し、同年代である友人にはまごころを尽くし、後輩には慈しむ、そうありたい。

相手の年齢によって、仁の形態は変化するという例。これだけ見ても、儒教の教えが、何らかの絶対的な規範に基づく一神教と異なることがよく分かる。実利を考えれば、相手によって、状況によって柔軟に変化しても構わないし、むしろそうあるべきだと教えている。

そして、現代のビジネスパーソンが特に肝に銘じておきたいのは「後輩には慈しむ」の部分である。

特に昭和生まれの方は、「自分が入社した時は誰も仕事など教えてくれず、自分で這い上がったもんだ。厳しい口調で叱られるなんて当たり前だった」などと言う人もいるが、年長者は新入社員や後輩を「慈しむ」べき時代に変化してきており、パワハラなどはもってのほかである。

では何故、厳にパワハラは慎むべきなのか。背景事情は以下のとおりである。

①社員の退職リスク
⇒最近の若者は特に一人っ子が多く、大切に育てられてきたため、叱られ慣れていない。また、働きがいや自身の成長より「働きやすさ」を重視する傾向がある。少子化の昨今、補充の採用も難しい。
②法令違反リスク
⇒20年6月からのパワハラ法制化に伴い、法令違反のリスクがある。
③レピュテ―ションリスク
⇒SNS等を通じた告発ハードルが下がる中、仮にパワハラが明るみに出た場合、世間にネガティブな印象を与えるリスクがある。

そもそも、パワハラというのは、適切な指導の範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与えることである。「適切な指導」ができないというのは、そもそも管理者として不適格と言えるだろう。

孔子流「無知の知」

【読み下し】子曰く、由よ、女に之を知るを誨えんか。之を知るは之を知ると為し、知らざるは知らずと為す、是知るなり。

孔子は言った。「由君よ、君に「知る」とは何か、教えよう。知っていることは知っているとし、知らないことは正直に知らないとする。それが真に「知る」ということなのだ。」

孔子が亡くなった10年後にギリシャで生まれるソクラテスは、全く同じことを以下のように言った(プラトン著「ソクラテスの弁明」

私も大切なことは知らないが、それを知らないということを自覚している点で、他者よりも智慧があると言えるだろう。

約2500年もの間、洋の東でも西でも語り継がれてきたという点で、人間社会における一つの真理と言える。人間は驕り高ぶってはいけない、常に謙虚な気持ちで学び続けなければいけないという、普遍的な戒めである。

孔子流「隣人愛」

【読み下し】子貢問いて曰く、一言にして以て終身之を行なう可き者有りや、と。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ、と。

子貢が「生涯、行なうべきものを、一文字で表わせましょうか」と問うたところ、孔子はこう言った。「それは『恕』だ。自分が他人から受けたくないことは、他人にもしないことだ

「恕」とは「思いやり」という意味で、「仁」に近い。そしてこちらも、新約聖書「マタイによる福音書7章12」で同趣旨の主張がなされる。

人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

これら2つの意味はほぼ一緒に見えるが、根底に流れる愛に対するスタンスは儒教とキリスト教で異なっている。

一般的に儒教における「恕」は、人間感情の機微の一環であり、自分の周囲にいる家族、主君、配偶者、兄弟、友人を大切にせよという意味と解される。

一方、キリスト教の「愛」は神によって導かれる宗教的・観念的な愛であって、神と隣人(=全ての人)を無条件に愛せと諭す。

神への愛
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(旧約聖書申命記6章5)」
隣人愛
「自分自身を愛するように、隣人も愛せ(旧約聖書レビ記19章18)」
「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい(旧約聖書ルカ6章27)」

まあ、キリスト教のこの「隣人愛」があれば、欧米列強による世界の植民地化や奴隷貿易等もなかったはずだが・・・こともあろうに、スペインやポルトガルは、キリスト教の宣教という仮面をかぶり、まず宣教師を送り込んで実情を把握したうえで、アメリカ大陸やアジアで略奪の限りを尽くした。

ちなみに、スペインによるアメリカ大陸での原住民虐殺の様子を、宣教師ラス・カサスはその著書「インディアスの破壊についての簡潔な報告でこんな風に書いている。

原住民は謙虚で辛抱強く、また、温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。

しかしスペイン人たちは、彼らは、誰が一太刀で真二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を斬り落とせるかとか、内臓を破裂させることができるかとか言って賭をした。彼らは母親から乳飲み子を奪い、その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたりした。

島には約300万人の原住民が暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていない。

この他にも、生きたまま火あぶりにしたとか、逃げ込むインディオを猟犬に襲わせて八つ裂きにしたとか、筆舌しがたい横暴ぶりを報告している。

これが「無償の隣人愛」を説くキリスト教徒のやることか。キリスト教が「偽善の宗教」と呼ばれてしまう一因である。

ちなみに、BC4世紀~AD4世紀に成立したとされるヒンズー教の聖典「マハーバーラタ」にも「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」という記述がある。

富や地位が悪いわけではない

【読み下し】子曰く、富と貴とは、是人の欲する所なり。其の道を以てせざれば、之を得とも処らざるなり。貧と賤しきとは、是人の悪む所なり。其の道を以てせざれば、之を得とも去らざるなり。

誰でも財産や地位のある生活を手に入れたいと思う。だが、道徳に沿った生き方で手に入れたものでないなら、しがみつくべきではない。そして、道徳に反して貧賤な生活に陥ったなら、むりに這い上がってはならない。

論語では「道徳」と「財産や地位」が相反すると解釈されることがあるが、これを読むと、実際にはそうではないことが分かる。

道徳に沿って得た財産や地位であれば、その恩恵に被ることは何ら咎められていないのである。

この孔子のスタンスを踏まえて、後年、渋沢栄一は著書「論語と算盤」において、「利益を得ようとすることと、社会正義のための道徳にのっとるということの両者バランスよく並び立ってこそ、初めて国家も健全に成長するようになる」と主張している。

なぜ、古典的名著を読むべきか

【読み下し】子曰く、故きを温めて新しきを知る。以て師為る可し。

孔子はこう言った。「古人の書物に習熟して、そこから現代に応用できるものを知る。そういう人こそ人々の師となる資格がある」

「温故知新」という故事成語の出典元である。では、何故「古人の書物」が大切なのか。私が思う「古典的名著を学ぶ理由」は以下のようなものである。

①「時の経過」という試練を乗り越え、読み続けられているという事実(何らか有用であろうことが推察できる)
②「人間」についての真理は今も昔も不変であること(自然科学とは異なる)
③古典は教養人の共通言語・共通思想であること
そもそも人間社会というものは、過去から連続的に変化してきているのであって、現在は過去の延長線上にある。言い換えれば、現在は過去の応用なのである。よって、過去には必ず現在・未来のヒントがある。
ちなみに、今から2500年前の人である孔子ですら、以下のように古典に学んだと言っている。

【読み下し】子曰く、我は生まれながらにして之を知る者に非ず。古を好み、敏にして以て之を求めたる者なり。

孔子は言った。私は生まれついたときから、ものの道理や知識が分かっていた人間ではない。古典・古制・古道が好きであり、それをすぐ学ぶことを実践し、ものの道理を求め得た人間である。

人事部長のつぶやき

昔も今も美女の歌と踊りには敵わない

魯国が強くなってきたので、隣国の斉国はそれを妨害するため、美女歌舞団80人を魯国へ贈った。魯国はそれを受納した結果、政府高官が彼女たちの芸に魅せられて、三日も政庁に現われなかった。孔子はこれに幻滅し、流浪の旅に出る。

わはは。昔も今も、美しい女性の歌とダンスは魅力的なことに変わりはない。現代において、乃木坂や日向坂の素敵な歌やダンスに多くの人が魅了されるのも、無理のない話だ。

人事部長

魯国の政府高官、人間味があっていいですね!

自分に限界を定めてはいけない

「先生のお考えに不満で実行しないというのではありません。私が力不足なのです」と述べたとき、孔子はこう言った。「力不足の者は、中途でやめてしまう。今、お前は、はじめから力不足だと自分を限定してしまっている

これはビジネスパーソンにも学生にも広く当てはまる金言だろう。「自分はこのくらい」と思っている以上に、人間はなれない。組織は、リーダーが「自分の組織をこうしたい」と思う以上にはならない。

まずは高望みから入ってみる。その後、理想と現実のギャップを埋めるために何が必要かを考える、というトップダウンのアプローチの方が、今、何が出来るかを積み上げていくボトムアップより思考の幅は広がるのではないか。言い方を変えれば、「ゴールから逆算して、今何が必要かを考える」ということである。

そしてその「ゴール」は、簡単には届かないが、努力すれば届く程度のものがいい。初めから力不足と諦めず、少し背伸びするくらいがいいだろう。

失敗はある。隠さず、改める。

孔子は言った。「過ちを犯したのに改めない。これが真の過ちである」教養人の過ちは、日食や月食の姿のようにはっきりとしており、隠したりしない。過てば人々はみな知っている。しかし、すぐ改めるので、人々はみな侮るどころか、かえって尊敬する

これはなかなか耳が痛い。人間、失敗は隠したくなるものである。しかし、隠す行為自体が美しくないし、どうせいつかバレるのであるから、全てをつまびらかにした上で、対策を打ったり反省すればよい。

褒められたり評価されるために「徳」を目指すのではない

孔子はこう言った。「私の価値を知る者はいない。しかしこれは天が悪いのでもなければ、人が悪いのでもない。私は「才」と「徳」を身に付けてきた。それだけで十分である。私のことを最もよく知っているのは、天であろう

「才」や「徳」は誰かに評価されるために身に付けるのではなく、広く社会の役に立つために身に付けるものである。

儒教に強い影響を受けた西郷隆盛はこういった言い方をしている。

人を相手にせず、天を相手にせよ。天の示す道を実現すべく全精力・精神を傾け、人を咎めたりせず、自分に真の心が不足していることを認識すべきなのだ。

人の見ていないところでも徳を発揮し、何かが上手くいかなくとも人のせいにしない。常に「天」という一段高い視点で自分を見つめよ、ということである。

【補論】儒教の日本への影響

儒教は513年、継体天皇の時代に百済から日本に伝えられたとされている。(仏教伝来は538年なので、それより早い。ちなみに「古事記」「日本書紀」によると、第15代応神天皇の時代(270-310)に伝来したとされている)。

南宋の儒学者だった朱熹が整えた儒教の新体系「朱子学」は、江戸幕府の官学とされる。江戸時代の初期に朱子学者の林羅山が徳川家康に仕え、以来、林家が大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制した。これにより、武士階級には朱子学が広まったが、一般民衆においては、学問としての儒教思想はほとんど普及しなかった。

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