【人事部長の教養100冊】「福翁百話」福澤諭吉

福翁百話

「福翁百話」福澤諭吉

基本情報

初版   1897年
出版社  慶應義塾大学出版会など
難易度  ★★☆☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 398ページ
所要時間 4時間30分

どんな本?

福澤諭吉が1896年から1897年にかけて新聞「時事新報」に連載した100のエッセイ集。

自宅に来た客人に対して話した数々の「生き方論」を福澤自身が文字に起こしたもの。論客福沢諭吉が、世の中の森羅万象を斬りまくる!

著者が伝えたいこと

人類の歴史は浅く、文明も人間の知徳も甚だ不十分である。しかし、少しずつ前進していることは間違いない。

遥か宇宙から見れば、今を生きる人類など小さな存在ではあるが、学問をし、社会的にも経済的にも独立し、健康に留意し、他人と調和して懸命に生きて文明を前に進めることは尊く、人間にしかできないことである。

中でも教育は大切である。 学校で学問を修めて社会に出ることは、武術において基本的な「型」を学ぶことに等しいのだから、貴賤・貧富・男女にかかわらず、子供には金を惜しまずに教育を施すべきだ。ただし、人の能力はある程度遺伝で決まるのだから、生まれ持った能力を全て正しく開花させるのが教育であると心得るのが正しいだろう。

人付き合いにおいては、完璧な人間など存在しないことを肝に銘じ、自らの品格と教養を磨きつつ、他人の欠点は咎めず磊落に受け入れるくらいの度量が必要である。

著者

福澤諭吉 1835-1901

福澤諭吉

幕末~明治期の啓蒙思想家・教育家。豊前中津藩士。

蘭学を緒方洪庵に学び、江戸に蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設。三度、幕府遣外使節に随行して欧米を視察するも、新政府の招きには応じず、独自の教育と啓蒙活動に専念した。

こんな人におすすめ

福澤諭吉に関心のある人。「福翁自伝」を読んで面白いと思った人。慶應に入りたい人(?)。

書評

頭の良い人が、縦横無尽に世の中をぶった切る、痛快エッセイ集。一話一話が短いので、非常に読みやすい。内容もさることながら、文章の全体構成、論理性、テンポ、比喩表現などなど、「分かりやすい文章のお手本」にもなり得る。

さすがに100年以上前に書かれただけあって、現代の視点から見ると、まだまだ男尊女卑やエリート意識のようなものが節々に見られるが、これは福澤の言うとおり現在まで文明が進歩してきている証拠だろう。

要約・あらすじ

1話~10話:宇宙観

(第1話 宇宙)
この宇宙が一定の物理法則に則って動いていることには、感嘆せざるを得ない。完全に人知を超えている。

(第2話 自然の動き)
自然界も同様である。例えば人類は古今東西、同じ身体機能や感情を持つ。それだけでも驚異である。

(第3話 天道人に可なり)
確かに自然は人間に病気や自然災害をもたらすし、生まれつき悪い人間もいるし、国家は戦争を起こす。しかし人間には善を好み、進歩改良する本能がある。人類は確実に良い方向に進んでいる。いずれ病気や自然災害は克服され、今は幼子のように振る舞っている人間も穏やかになるだろう。

(第4話 前途の望み)
ニュートンは知のみの人、孔子は徳のみの人だった。しかし人類は進歩している。今後は知徳兼備の人間が現れるだろう。人類の前途は洋々である。

(第5話 因果応報)
自然の法則が真実であるのだから、どんなに複雑でも、あらゆる物事には原因と結果がある。悪を行えば必ず禍を被り、善を行えば必ず福を受ける。

(第6話 謝恩の一念発起すべきか否や)
では人類は自然の法則に感謝すべきか。まず感謝の対象が不明であるし、自然の法則は人類だけでなく万物に適応される。よって、特に自然の法則に感謝する義理はないだろう。ただし文明を進化させてきた先祖には謝恩の念を持つべきだ。

(第7話 人間の安心)
遥かなる宇宙から見れば、人間の存在などウジ虫のようである。俗世の貴賤貧富、栄枯盛衰に囚われるのは愚かだ。しかし、真面目に働き、他人を邪魔せず、夫婦仲良く、生涯一点の過失も無いように心がける。これこそがウジ虫、いや、人間が誇るべきものである。

(第8話 善悪の標準は人の好悪によって定まる)
道徳は相手がいるから定まる。「無人島に一人」であれば道徳は不要だ。現代の道徳は何かと言えば「自分が嫌なことは人にしない」ということだろう。

(第9話 善は易くして悪は難し)
人間は苦労より安楽を好む。それであれば、万人が忌み嫌う悪事より、万人が好む善を為すのが自然だろう。人に物を与えるのは簡単だが、奪うのは難しいことなのだ。

(第10話 人間の心は広大無辺なり)
人間の一生など宇宙から見れば小さいのだから、やたらに真面目過ぎない方がいい。一方、生を愛し死を憎み、真面目に生きることも大切だ。これらは一見矛盾するが、人間の心の広さを示しているということだ。

11話~19話:道徳・宗教

(第11話 善心は美を愛するの情に出ず)
「善」の起源は「美を愛する心」である。自分が善を為し、人が喜ぶ声を聴くのを良しとするのは、春の野にウグイスが鳴くのを美しいと感じることと同様である。善いことをするのは人のためなく、自分のためである。

(第12話 恵与は人のためにあらず)
人に何か施しを与える行為は、自分の慈善心を満たすための行為なのだから、殊更人に知られる必要も無いし、隠す必要もない。

(第13話 事物を軽く視て始めて活発なるを得べし)
人間、物事を深く考えすぎない方が良い。軍人は家族や自分のことを忘れて、無私の精神で戦に臨むから勝てるのだ。それは人生でも同じことである。一つの考え方に縛られ、物事の軽重を見誤るようなことは、社会全体にとっても不幸である。

(第14話 至善を想像してこれに達せんことを勉む)
人は財を成してもさらに財を集めようとする。これは人間が「さらに良い状態」を想像できるからだ。善も同じで、人は可能な最高の善を想像し、それに到達するように努めなければいけない。ただそれが可能なのは賢人だけである。だから凡人向けに理想の世界を示した「宗教」があるのだ。

(第15話 霊怪必ずしも咎むるに足らず)
現代の学者は宗教の非科学性を批判するが、宗教の開祖たちは想像力に優れ、一心に人々を救おうとしていたのだから、何らかの奇蹟を起こしたりお告げを受けたりしていても不思議ではない。まして、それらは伝えられるたびに尾ひれが付いたはずだ。凡人の教化に霊的な要素を利用するのは理にかなっている。

(第16話 士流学者また淫惑を免れず)
士族は教育を受けた上流階級なので、宗教に感化するのは難しいという人がいる。しかし、主君への忠義だの仁だの礼だの、それも宗教みたいなものだ。

(第17話 造化と争う)
神は意地悪くも自然災害を引き起こすし、人間を病気にしておきながら治療法を授けない。蒸気や電力といった科学的知識も久しく秘密にしていた。神の力を人間の力で制し、神の秘密を摘発して利用することが、人間の役目である。

(第18話 人間社会おのずから義務あり)
人間は互いに支えあって生きている。まず自身と家族の生計を立て、一生懸命働いて他人の厄介にならないようにし、懸命に勉強して社会公共の利害に注意し、事業を営むのにも間接的に社会に役立つものを選ぶのが本来あるべき姿である。

(第19話 一言一行等閑にすべからず)
何気ない一言や行動が、人を勇気付けたり落胆させたり、あるいは一生を左右するようなこともある。だから普段から言動に気を付けなければならない。幼少の頃から綿密な思考力を養い、習慣化すれば、自分で自分を制御する第二の性格が形成される。

20話~30話:家族

(第20話 一夫一婦偕老同穴)
夫婦は一生添い遂げるべきだ。愛情がなくなれば配偶者を自由に変えればよいとする考え方もあるが、「偕老同穴」は人倫の最も重要な要素として習慣化されてきた。一般の人から見て美しいものが習慣化されるのだから、それに従うのが良いのである。

(第21話 配偶の選択)
配偶者を選ぶ際の基準は、第一は血統、第二は健康、第三は知能である。血統については、家柄も考慮に入れるべきだが、それより遺伝による虚弱等に気を付けるのが良い。

(第22話 家族団らん)
家族は貧富盛衰を平等に分かち合うのだから、苦楽は家の苦楽であって人の苦楽ではない。家族の人々の一挙手一投足が楽しさの元である。これは家族同士にしか分からない。貧困による苦しさや、富貴によるわがままで、楽しい我が家を苦しい魔物の世界に変えてはならない。

(第23話 苦楽の交易)
独身でいることは気楽である。結婚すると様々な制限を受ける一方、苦労の種は2倍になるから割に合わない。しかし楽しみも2倍であるし、子が出来れば苦楽も同じだけ増える。結婚は、人生の活動範囲を広げるということなのだ。

(第24話 夫婦の間敬意なかるべからず)
家計のことを男性が仕切り、妻は渡された金で目の前の生活をやりくりするだけというケースが見られるが、これは良くない。夫婦は同等の権利を持つのだから、夫は妻に実情を丁寧に説明し、共有する必要がある。

(第25話 国光一点の曇り)
一夫多妻制、つまり妾の制度は日本の恥であり、国の威信を削ぐ。せっかく明治維新で旧弊を改めると言っているのに、誰も何も言おうとしない。今、時流に乗っている男性たちの不品行は是非正していただきたい。

(第26話 子に対して多を求む勿れ)
人生における独立とは、父母に養ってもらい、身分相応の教育を受けたら、死ぬまで自活する覚悟を持って生きることである。老後を子に支えてもらったり、十分教育を与えないまま、子を働かせたりすることは避けるべきだ。

(第27話 子として家産に依頼すべからず)
親が子や子孫に財産を残そうとするのは自然なことである。しかし、子の立場としては、たとえ実家が金持ちであっても、自分は無一文と心得て、成人してからは経済的にも自立すべきだ。

(第28話 衣食足りてなお足らず)
世の人々は、様々な理由から蓄財する。子孫のため、先祖の遺産を守るため、死後の名誉、現世の権勢、ゲーム感覚。どれも他愛のない理由であるが、人間の欲求が経済を発展させているのである。

(第29話 成年に達すれば独立すべし)
子は成人に達したら精神的にも経済的にも独立すべきであるし、親は命令したり指図したりせず、情愛のみで接するべきだ。特に子が結婚した際には、子の家庭に干渉すべきではない。

(第30話 世話の字の義を誤るなかれ)
自ら独立できずに誰かの「世話」になっている場合は、その人の言うとおりにしなければならない。そうでない場合、誰かの忠告やアドバイスといった「世話」は聞き入れなくてもいい。この違いを意識しないから不和が生まれる。

31話~40話:教育①

(第31話 身体の発育こそ大切なれ)
子供が小さいうちは専ら身体の発育を大切にして、身体の基礎ができたら精神の教育に進むべきだ。5~6歳の子に本を読ませて道理を説く必要はない。家族が美しい言葉遣いや立ち居振る舞いを心掛け、家族の団らんが穏やかであることが最も良い教師である。

(第32話 人事に学問の思想を要す)
学問の発展に専門の学者は必要である。しかし、その学問を実社会に活用するのは一般国民であるから、豆腐屋から時計職人まで、基本的な物の道理は学ぶべきである。

(第33話 実学の必要)
学校で学問を修めて社会に出ることは、基本的な「型」を学んでから武術をやるのと同じだ。無学なのに商売をうまくやっている人間もいるが、だからといって学問を不要とするのは誤っている。

(第34話 半信半疑は不可なり)
学問については東洋を捨てて西洋を全面的に採用すべきだ。東洋の学問は古いものを盲目的に信じたり、根拠のない陰陽五行説を持ち出したりする一方、西洋は既存の説を常に疑って根本を解明しようとし、物事を分割して定量的に分析する。西洋の学問が文明に寄与した程度は計り知れない。

(第35話 女子教育と女権)
女子教育は疎かにすべきではないし、改善していかねばならない。しかし、まずは一夫多妻や妾のような制度を廃止することが先決である。日本の男性は財力さえあれば多くの女性を囲うことができるし、それが社会的にも容認されている。それでは女性の地位向上は望めない。

(第36話 男尊女卑の弊はもっぱら外形にあるもの多し)
男尊女卑と言われるが、家庭の中では女性が決定権を握っていることが多い。日本女性固有の優美さは保存しながら、男性が女性に接する態度を改めて、男女同等に近づけていくのが良いだろう。

(第37話 やむことなくんば他人に託す)
教育は親の義務だが、それぞれに家庭の事情というものがある。もし家計に余裕があるなら、自宅に教師を雇ったり、家風の良い教師の家に寄宿させたりして、体育・徳育・知育に万全を期すのが一番良い。

(第38話 子弟の教育費に吝なり)
江戸時代においては、士族が他の士族の子供に学問や武芸を手習いで教えることが教育だった。武士のことだから授業料は取らず、わずかな品物や金銭で謝意を受けていた。この慣習があるせいで、世の親はその他の衣食住には贅沢をするのに、教育費を惜しむ傾向がある。非常に嘆かわしい。

(第39話 人生の遺伝を視察すべし)
人間には生まれつき学問に向いているものとそうでない者がいる。そうでない者に学問を強いるよりは、先天的に備わっている能力の生育を助ける方が理にかなっている。

(第40話 子供の品格を高くすべし)
たとえ周囲の家が悪い習慣を持った下流階級で、言葉遣いや行動がが見苦しかったとしても、それらは別人種として見て無視すればよい。少なくとも自分の家だけは美しい品格を保つようにすれば、子も品格を持って育つはずだ。

41話~43話:慈善

(第41話 独立の法)
人が独立するために必要なのは、自分に対する自信と、一定の財力である。財については支出を制御しなければならないが、自らの生計を綿密に立てて見栄を張らないことが重要であって、体面を保つために身分不相応の散財をするようではいけない。

(第42話 慈善は人の不幸を救うにあるのみ)
世の中には働きたくても働けないような人がいる。天災で財を失ったり、不意に病気に侵されたり、生まれつき虚弱な者もいる。そのような人にこそ慈善や施しが与えられるべきだ。単なる道楽者を援助するようなことがあってはならない。

(第43話 慈善に二様の別あり)
慈善には2種類ある。一つは起きた災害に対する物資や金銭の支援であり、それはそれで尊い。しかし、インフラや教育など、将来に向けた寄付の方が効果は大きいと言える。

44話~48話:女性

(第44話 婦人の再婚)
「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫に見えず」という言葉があり、女性が再婚するのは好ましくないとされてきた。しかし、男性だって夫人と死別すれば再婚するのだから、女性だって同じことが認められて当然である。

(第45話 情欲は到底制止すべからず)
酒・たばこ・異性・ばくちなど発露は様々だが、人間には情欲がある。それを抑制することはできないから、せめて琴や将棋、できれば高尚な本や気品のある人との交流に自分の関心を振り向けて、心身の安定を得るべきだ。

(第46話 早婚必ずしも害あるにあらず)
西洋思想の影響で早婚が批判されている。若くして子を成すと生活に困るし、母子ともに体が弱くなるという。しかし、早婚でも壮健な子孫を繁栄させた例はいくつもあるし、晩婚にも弊害はあるはずだ。

(第47話 女性の愛情)
女性が容姿や行儀を大切にするのは、異性へのアピールではなく、他者への優しさや愛情から来るものである。女性の心身は愛情に帰するのであって、例えば再婚を認めない世の中の慣習は改めなくてはいけない。男女同権も大切だが、まず女性の愛情を大切にしていかなければならない。

(第48話 人事に裏面を忘るべからず)
国家経営の一端として国内移住を促進する場合は、移住者に早く家庭を作らせ、移住の辛苦を減ずるべきだ。独身者が多い場合は、現実世界の苦し紛れの方法だが、遊女の往来も法律からこぼれて大目に見なくてはいけない。誰も言いたがらないが、国家の利益のためには清濁を併せのむ必要がある。

49話~61話:個人の処世術

(第49話 事業に信用の必要)
事業を行う上では、事業そのものに加えて、従業員の怠惰・横着等を監督するにも人が要る。監督者として雇われる者は正直に働き、雇い主はその正直の代償として報酬を増やすべきである。

(第50話 人間の運不運)
よく勉強し、善を積み、よく働けば豊かになれるかと言えば、現実は必ずしもそうではない。努力と結果が、運不運や社会構造の欠陥によって少しくらい違うからといって「不公平だ」と不満を持つような人は、宇宙の遠大さを理解していない。

(第51話 処世の勇気)
知性に乏しく眼識のない人々が本能のままに生きているような現代においては、人里離れて道理を説くだけでは社会は良くならない。政治でもビジネスでも外交でも、時に論じ合い、時に喧嘩して、他を圧倒して自分の正しさを証明するような獣勇も必要である。

(第52話 独立は我にありて存す)
個人が独立した状態であるためには、周囲に流されないことを信条とすべきである。ただし、自分の独立が脅かされない限り、その信条は心の底にしまっておけばよい。そうすれば人との交際は円滑に進む。それはあたかも武士が帯刀すれど、安易に振り回したりしないのと同じだ。

(第53話 熱心は深く蔵むべし)
古来、世の中には「熱中人」と言われる人があり、一度何かを信じたら、世の中の状況にかかわらず猪突猛進する。確かに成果は出るだろうが、今の文明社会では、そのような無骨さは心にしまっておくべきだ。

(第54話 嘉言善行の説)
世の道徳家はやたらと「忠孝」を説くが、 忠孝は数多くある道徳の中のほんの一部分である。特に平穏な世の中にあっては、忠君愛国などと声高に主張する必要はなく、胸の中に秘めておけばよいのだ。

(第55話 人を善く視ると悪しく視ると)
ある人が善人か悪人かを見極めるのは難しい。ただし、どうしても判断がつかない場合は、善人と見ておくのがよいだろう。「人を見たら賊と思え」という極端には走りたくないものだ。

(第56話 知恵は小出しにすべし)
昔、秀吉は草履取り、薪炭奉行、そして普請奉行とその場その場で目の前の仕事に知恵を出し、出世していった。最初から英雄気取りで「草履取りは私の領分ではない」と言っていたら、天下を取ることはなかっただろう。一度にではなく、少しずつ継続的に力を発揮することが大切だ。

(第57話 細々謹慎すべし)
一般に「君子聖徳の士は容貌愚なるがごとし」などというが、仙人ならともかく、現代では通用しない。人徳と品格を身に付けた者は容姿もしっかりしてくるのだ。

(第58話 交際もまた小出しにすべし)
人との交際は、マメに長く続けるのがよい。1年も2年も音信不通だった友人から長い手紙が来ても、友情は発生しない。普段、何もない時から連絡を取り合ったり、軽くお茶を飲むなどしておくと、いざという時にたった一言で用が足りるようなことがある。

(第59話 察々の明は交際の法にあらず)
知徳・言行ともに完璧な人間は存在しない。人間、必ず何らかの欠点を抱えている。それを改めさせようとすると交際がうまくいかない。立派な人物にとって大切なことは、小事にこだわらず、磊落であることだ。

(第60話 知愚強弱の異なるは親愛の本なり)
対等の関係というのは、とかく摩擦や反発を生む。親と子、君主と臣下、先生と門下など、立場と能力に差があるからこそお互いに親愛の気持ちが持てる。世の学者は貧富・貴賤・知愚・権利を全て平等にすべきと主張するが、それが達成できていないのは喜ばしいことだ。

(第61話 不行き届きもまた愛嬌の一端なり)
知識や知能に富み、何事にも如才なく、隙のない人間は、完璧すぎて愛嬌に乏しく、逆に疎んじられる恐れがある。自分が失敗をして恥をかくことや、周囲が愚かなことを言ったりすることもあろうが、それも人間の交際に色を添える愛嬌である。

62話~70話:国家と学者のあり方

(第62話 国はただ前進すべきのみ)
言論の自由度は国の文化の程度を示す。江戸時代は言論も学問も相当制限されていたが、明治になって法律や制度も整い、大いに改善した。しかしこれで満足してはいけない。文明学者は常に進歩改新の役割を担わなくてはならない。

(第63話 空想は実行の元素なり)
学者は様々に思案を巡らすべきだが、それを軽々しく口にしたり、実行に移してはいけない。廃藩置県も、必要なことは分かっていたが何も言わず、時機が来たから一気にやれたのだ。何百もの新案を考え、機会を見て世に発表すべきだ。

(第64話 言論なお自由ならざるものあり)
江戸時代の士族の名残なのか、貧乏を是とし、しっかり貯蓄に励む者を拝金者とする風潮がある。しかし藩に養われる時代は終わったのだ。無計画で勝手気ままに生きた結果としての貧乏は受け入れられなくなってくるだろう。

(第65話 富豪の経営はおのずから立国の必要なり)
人間の衣食住を満たすには大きな財産は要らない。しかし、富豪が財力を付け、その子がまた事業を拡大するといったことは、歴史的英雄が権力を得ていくようなもので人間の本能であるし、外国との商戦には必要なことだ。だから富豪の贅沢を非難すべきではない。

(第66話 富豪の永続)
世間の富豪は、財産が代々子孫まで続くかどうかを気にする。その場合、何事も一族で相談して事業を経営すれば、愚者が主人になっても富は保たれるが、最近では人権意識の高まりから、主人の独断で事業が為されるケースもある。政治は民主主義、事業は専制主義とは興味深いものだ。

(第67話 人間の三種三等)
社会を経済の切り口から見るには、人間を三種に分ければよい。①社会の役に立つ者、②人畜無害だが何の貢献もしない人、③社会の足を引っ張る者。①を増やし、③を減らすことが大切だ。これは貧富の差とは無関係である。

(第68話 富者安心の点)
世の人々は金持ちになると家を大きくしたり芸者遊びをするが、彼らはそれ以上に心を安らかにする術を知らないのだ。大人を教育するのは困難なので、機械いじりから物理へ、僧侶の説話から仏教になど、習慣から高尚な域に達するのが良い。無芸・無能・無信な金持ちはどうしようもない。

(第69話 人心転変の機会)
人は突然悟りを開くこともあるが、長年のうちに無意識に関心が変化することもある。幕末、ある大名は時計いじりが高じて海外に関心を持ち、ついには開国論者になった。文明学者は世論を先導するのに苦労するだろうが、世の人の慣れ親しんでいる事物から次第に感化するのも一つの方法だろう。

(第70話 高尚の理は卑近のところにあり)
<前話の続きとして>例えば、慶應義塾の門下生によると、「いろは歌」は仏教的に深遠微妙な解釈が可能であるという。道理に暗い男女に、自然と高尚な思想を抱かせる良い方法であろう。

71話~77話:教育②

(第71話 教育の力はただ人の天賦を発達せしむるのみ)
人間には遺伝的に能力が決まっており、教育で何か新しい能力を授けられるわけではない。教育は、その子の天賦の才能を見落とさず、光を放つように仕向けるという点で、世の中で最も大切なことである。

(第72話 教育の功徳は子孫に及ぶべし)
穀物は何世代かかけて品種を良くすることが出来る。人間も同じで、教育をしっかりすれば、3~4世代で無知無学の貧賤の子を教養ある人格者にすることは可能であるし、教育を怠ればその逆が起こる。教育は社会全体、遠く子孫まで及ぶのだから、国家の盛衰は教育に拠っていると言える。

(第73話 教育の過度恐るるに足らず)
百姓にまで教育を施して視野を広げてしまうと、開明して農業の担い手が無くなるという人がいるが、そんなことはない。知とは相対的なので、一定数いる愚者は百姓や町人に留まらざるを得ないのだ。愚者にも教育は役立つのだから、積極的に教育を広めていくべきである。

(第74話 教育の価必ずしも高からず)
子供の教育に金銭を惜しんではならない。確かに人間の能力には先天的な限界があるが、教育は本人の天性を発揮させるために必要だ。衣食住を満たす以上の財産を築いても、いつ消えてなくなるかわからない。それよりは、一旦身に付けば消えることのない見識を積むために、金を使うべきだ。

(第75話 富者必ずしも快楽多からず)
貧乏は、程度が進むにつれて死にも近づく。一方の富裕は、衣食住が満足されれば、それ以上快楽が増えるかというとそうでもない。年収10万の人の快楽は、年収1000円の人の100倍ではないのである。富者は功名心や自己顕示で蓄財に励んでいるのであって、それはそれで辛苦とも言える。

(第76話 国民の私産はすなわち国財なり)
国の独立を守り、国力を増進するには、資本が必要だ。そして、その資本を出すのは富者であり利殖家である。彼らの蓄財の熱心さが国力増進に役立っているのだから、蓄財の目的が子孫のためだろうと、老後のためだろうと、咎める必要はない。

(第77話 子孫身体の永続を如何せん)
金持ちの子供は、金銭感覚を知らず、飽食・暖衣・安楽の限りを尽くすので、不健康になりがちである。教育をしっかり行い、財産も人も永続させる方ことが、財産家のやるべきことだろう。

78話~82話:健康

(第78話 生理学の大事)
自分自身の体について、生理学の観点から知っておくことは有益である。これを知らないと健康法に無頓着で病気に侵されたり、医者の言っていることが理解できなかったりする。

(第79話 無学の不幸)
ある金持ちの夫人が急病になったが、家族は東洋医学者やら按摩師やら針師を呼ぶばかりで、適切な対処をすることが出来ず、その夫人は亡くなってしまった。最初から洋医学者に見せていれば状況も変わっただろう。人間世界の最大の不幸は、無学から生ずるものが多い。

(第80話 謹んで医師の命に従うべし)
自分が病気になった際に、大よその症状や治療法は知っておくべきだ。これは建築は大工に頼むが設計の概要を把握したり、裁判は弁護士に頼むが法理の基本を知る必要があることと同じだ。ただし、一度医者の診断が下されたら、それに愚直に従わなくてはいけない。生兵法は怪我の元である。

(第81話 空気は飲食よりも大切なり)
健康のために良い食べ物を食べるのはもちろんだが、良い空気を吸うことも大切だ。田舎は家も汚く不潔だという人がいるが、都会の方がよほど埃・塵・生ごみ・動物のし尿などで不衛生だ。医療が行き届いていないのに地方に病人の少ない理由の一つだろう。

(第82話 形体と精神との関係)
身体と精神は密接に関係している。軍隊では平時より戦時の方が精神が緊張していて、健康状態良いという。逆に配偶者を亡くして落ち込むと病気になったりする。都会の紳士が、近頃病気がちで精神が衰えたとよくいうのは、財産が出来て精神が緩んだせいだろう。

83話~92話:文明の進歩

(第83話 有形界の改進)
日本はこの30年で一気に文明が進み、汽車から電話まで身の回りのものは大きく変化している。道徳や人倫と異なり、物質文明はいくら変化があっても世の中を害することはないから、理論的に可能と思われるものにはどんどん挑戦すればよい。

(第84話 改革すべきものはなはだ多し)
都会で快適に過ごすには、改良すべき点が多くある。例えば、都会には人が多く集まるのだから、高層マンションのようなものが必要になるだろう。その場合、道路は高架化して徒歩や馬車と流動を分ければよい。今から期待すれば、必ず実現するだろう。

(第85話 人種改良)
あくまで思考遊びの域を出ないが、馬や豚の品種改良と同様に、人を改良することも可能である。知力や体力に劣る者には結婚を禁じ、良父母を選んで良児を生ませる。優秀な男性は複数の女性と接すれば繁殖は早くなるし、その逆もあり得る。茶飲み話の一端ではあるが。

(第86話 現代は「末の世」ではない)
世の中は確実に進歩している。例えば昔の刑法が苛烈だったのは、民度が低かったせいだ。それなのに、昔の文物や制度を尊ぶ論者たちが、古い風習に恋慕して前に進もうとしないのは不思議だ。漢は夏・殷・周を、唐は漢を、宋以降は唐を手本としたが、これも誤っていたのである。

(第87話 正直は田舎漢の特性にあらず)
田舎の人には正直者が多いという。しかし、田舎では悪事がすぐに伝播してしまうので、悪事を働こうにも働けないだけだ。だから都会でも、郵便・電信・新聞等を通じてあらゆる事物をを報道すれば、悪事に対する抑止力となるに違いない。

(第88話 古人必ずしも絶倫ならず)
昔の詩歌には秀句が多かった、昔の芝居には名人がたくさんいた、今はダメだという人がいる。しかし詩歌は多くの駄作から秀作が残っているだけであるし、名優は老優の陰に隠れているだけである。例えば将棋は戦国から今まで発展の一途を辿った。必ずしも昔の人が優れていたわけではない。

(第89話 古物の真相)
古い物をむやみに美化するのは良くない。彫刻や書は時代によって評価が変わる。建築物は現代の方が進んでいる。善悪は別として、一人の職人が多くの骨董品を偽造したが、専門家も鑑定できないほどの完成度だという。これは個人の技量の進化と呼べるだろう。

(第90話 偏狭の事)
偏狂とは、行いが一方に片寄って、常識からはみ出てしまう病気である。猜疑心の強い人、迷信を信じる人、見栄っ張り、盗み癖、潔癖症、酒びたりの他、守銭奴や政治に熱を上げる人、他の宗教を謗る宗教家など、枚挙にいとまがない。時には特定の考え方から自らを解放する修行も必要だろう。

(第91話 人事難しと覚悟すべし)
誰でもできる簡単な仕事に見えても、念を入れてやれば決して簡単ではない。仕事がうまくいかない原因は、その人の才知不足ではなく注意不足や努力不足だ。鋭敏な秀才よりも根気強い勉強家の方が頼もしい。世の中、仕事にしても学問にしても必ず困難を伴うのだ。

(第92話 銭のほかに名誉あり)
蓄財をすることは悪いことではないが、無学・下劣・粗野ではいけない。富豪なら富豪なりの品性を求め、心を安んじ、人の愚は優しく導き、人の悪は咎めず哀れみ、求めず、急がず、悠々としていれば、人知れず「名誉」が身に付く。世の中、金だけではない。

93話~100話:国家論

(第93話 政府は国民の公心を代表するものなり)
今の文明の程度では、国民を平均すると品格は低く、真実を見抜く能力は皆無である。だからこそ、政府は威厳を持って国民を導き、統治しなければならない。そうなって初めて、国民の私心を高尚な公心まで高めることが可能となるだろう。

(第94話 政論)
「万人の万人に対する闘争」である野蛮な世の中を、政府という威厳で統治することには理がある。イギリスは女王を、アメリカは憲法を威厳としているが、それは仏像(イギリス流)か、南無阿弥陀仏という名号(アメリカ流)かくらいの違いしかなく、どちらも愚民を統治するための窮余の策である。

(第95話 自得自省)
社会の指導者たちは、凡俗の人や浮世の雑事と戯れつつも、そのことを自覚し、心は常に一段高いところに構えていなければならない。金儲けに走ったり、立身出世に熱を上げたり、勲章を求めたりすることは、浮世の雑事が佳境に入っただけである。

(第96話 史論)
歴史家が政権を評価する際、正統かそうでないかを問題にするが、社会の治安を維持できたかどうかで評価すべきである。信長が権力を得た手段は好ましくないと言いながら、秀吉が織田家を蔑ろにしたのは良くないといい、それを滅ぼした家康は輪をかけて悪いなどという。それではキリがない。

(第97話 シャチホコ立ちは芸にあらず)
「正直であること」は文明社会に生きる者にとっては単なる必要条件である。せっかくの教養人が、ひっそり心にしまっておくべき道徳心をひけらかすのは良くない。道徳の発展も重要だが、それだけを求めるのは誤っている。

(第98話 大人の人見知り)
教養人であれば、まず自分自身が清廉潔白に生き、他人の言論の自由を保障し、自らに害を与える人物は近づけず、その他の人々は度量を大きくして受け入れるべきである。諸先輩の中には、自分の信念を周囲が実践しないと不平を言うひとがいるが、他人を変えようとすること自体が間違えている。

(第99話 人生名誉の権利)
自分自身が自由に生きるためには、他人の権利も尊重しなければならない。その基本的な事実を理解せず、ろくに勉強もしないのに偶然に富を得た凡人や権力を得た役人が、傲慢な態度で他人を軽蔑するのは見るに堪えない。彼らが学問を志し、正しい道理を身に付ける日が待ち遠しい。

(第100話 人事に絶対の美なし)
人類の文明は始まったばかりで、「美しい社会」の像は定まっていない。文が過ぎれば武を説き、武が過ぎれば仁を説き、仁が過ぎれば銭を説き、バランスを取るしかない。しかし、科学を進歩させ、人心まで把握できるようになれば、遥か未来には「美しい社会」が実現できるはずだ。

学びのポイント

人類は確実に良い方向に向かっている

自然の法則が真実であって、人間は進化した動物であるとすれば、過去五、六千年の間に行われた人間世界の進歩でもって未来幾千万年を予想することは、決していい加減な考え方ではない。(中略)

人間には善を好むという本来の正しい心がある。進歩改良の知識がある。こうした本来の素質を磨くことで、やがて円満な境遇に到達できることは間違いない。

第3話

福澤はここで「自然の法則に従えば、人類は必ず良い方向に向かう」という趣旨のことを述べている。

本文中ではもう少し詳しく「自然は人類に数々の害悪を与えるが、人類はそれを乗り越えられる」ことを具体例を出して示しており、まとめると以下のとおりとなる。

伝染病・・・医学が進歩すれば予防が可能になる

暴風雨・・・気象学が進歩すれば予報が可能になる

戦争・・・人間は善を好み進歩することで、大人の振る舞いができるようになる

この「宇宙や人類には普遍的な法則や大原則があり、それに従って善く生きる」という考え方は、福澤のみならず、様々な形で主張されてきた。

最上の人は宇宙の真理を師とし、二番目の人は立派な人を師とし、三番目の人は経典を師とする。

佐藤一斎「言志四録」

天が指し示す道理というのは、人為によって左右されるものではないというのが、この天や道についての基本なのである。 だから「私」を差し挟んではいけない。

西郷隆盛「南洲翁遺訓」

利をあげることが生きる目的ではない。誠実、正義、人の道こそ目指すものである。法と道(真理)は違う。法は時代によっても解釈によっても形を変える。

一方、真理は永遠から出てくるものだ。

中江藤樹

人間の繁栄は、全て宇宙の秩序に基づいて与えられるものであります。この秩序に従って生きることが大義であります。

松下幸之助「松下幸之助の哲学」

宇宙を貫く意志は愛と誠と調和に満ちており、すべてのものに平等に働き、宇宙全体をよい方向に導き、成長発展させようとしている。

稲盛和夫「生き方」

西洋でも同じことが述べられている。

神々のわざは摂理にみちており、運命のわざは自然を離れては存在せず、また摂理に支配される事柄とも織り合わされ、組み合わされずにはいない。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス「自省録」

なお、福澤は人類が到達すべきユートピアを、著書『文明論之概略』の中でこう述べている。

戦争もなくなる。刑法も廃止される。政府は世の中の悪を止める手段でなくなり、物事を整えて、無駄な時間や労力を少なくするためだけの存在となるだろう。

約束を破る者もいないから、貸し借りの証文も訴訟の証拠にするためのものではなく、単なる備忘メモに過ぎない。盗賊もいないから、窓や戸はただ雨風を凌ぎ、犬猫が入ってくるのを防ぐだけのもので、鍵を用いる必要はない。(中略)

家庭での礼儀がしっかりしているので、外で説教を聞く必要もない。国全体が一家のようになり、各家庭が寺院のようになる。両親は教主のようになり、子供は宗徒のようになる。世界の人民は礼を空気として、徳の海に浴している。これが「文明の太平」である。

今から数千年後には、このような状態になるだろうか。私には分からない。

独立自尊の精神

福澤諭吉といえば「独立自尊」という言葉に象徴されるように、人間は「社会・政治的」「経済的」「個人的」それぞれの観点で独立を保つことが重要であると説いている。福澤思想の根本でもあるので、いくつかの著書に触れながら紹介したい。

(1)社会・政治的な独立自尊

江戸時代は専制政治だった。身分制度により人々は幕府・大名から搾取されていた。独立の気風もなく、ただお上にひれ伏し、依存するだけだった。

外敵が無い時代はそれでもよかったが、今は諸外国から積極的に独立を守らなければならない時代に変わった。

明治時代の日本人は、自分たちで政府を作ると考えなければならない。あくまで主権は市民側にあるのであって、国家の独立や、治安・財産維持のために、一部の権利を国家に委任しているだけなのだ。

人々は学問をし、独立した個人として国力の増進に努めるとともに、国家に立法権を付与した主権者として自らも法を守らなければらないし、国家の独立維持にも努めなければならない。

『学問のすすめ』より趣旨要約

この他にも、福澤は随所で「国民と国家は対等であるべき」という持論を展開し、日本人に「脱・専制国家(江戸幕府)入・市民国家」を説いている。

主張自体はフランスの思想家ルソーの考え方そのもので、福澤も影響を受けていたかもしれない。

ルソー
ルソー
社会契約論
社会契約論

【参考】ルソーが著書『人間不平等起源論』『社会契約論』で主張したこと

・人間は自然状態においては平等であるが、現実は一部の貴族が専制政治を通じて市民に経済的不平等を強いている。

・しかし本来、国家や政治は、市民の生命や財産を保全するための手段であるべきだ

・そのためには、市民は自分たちが持つ財産や身体などを含む権利の全てを共同体に譲渡し、共同体が単一な人格と一般意思を持つようにしなければならない。

・つまり、国家は自由平等な人間同士の契約によって成立し、法律は人民の一般意思の表現なのだ

また、国自体の独立を守るべきという観点からは、著書『文明論之概略』で以下の趣旨のことを述べている。

日本は「徳」の分野では西洋に負けていないが、文明・学問・技術という「才(=智恵)」では完敗している。日本人は徳川幕府にいいように飼いならされてしまい、独立自尊の気概がない。江戸時代には文明の進歩はほとんど無かった。

攘夷も軍拡も国体論もキリスト教も儒教も役に立たない。早急に国民が智恵を付け、西洋文明に追い付かねば、日本の独立は危うい。

確かに、一国の独立など、人間の智徳からすれば、些細な事柄である。しかし現実の国際政治の有様では、そこまで高遠な議論はできないのだ。国も人もなくなれば、日本の文明も成り立たないではないか。

『文明論之概略』より趣旨要約

(2)経済的な独立自尊

次は経済的な独立自尊である。福澤は、いったん社会に出たら経済的には自立すべきだし、親も子に対して適度な距離感を保って接するべきだと説いている。

人生における真の独立というのは、この世に生まれて父母に養ってもらい身分相応の教育を受けたら、その先は、死に至るまで自活するという覚悟を持って生きることである。

第26話

(親は、子が独立して家から出て)行くのをとがめず、去るのを悲しまず、自由に任せて、あらん限りの力を発揮するのを支援するだけである。そうあってこそ、社会の進歩を期待できよう。  

第29話

また、『福翁自伝』では、福澤自身も「経済的に独立して生きてきた」と振り返っている。

二十一歳のとき家を去って以来、みずから一身の 謀をなし、二十八歳にして妻をめとり子を生み、一家の責任を自分一身に担うて、今年に至るまで四十五年のその間、二十三歳の冬大阪緒方先生に身の貧困を訴えて大恩に浴したるのみ、その他はかりそめにも身事家事の私を他人に相談したこともなければまた依頼したこともない。

人の智恵を借りようとも思わず、人の指図を受けようとも思わず、人間万事天運にありと覚悟して、勉めることはあくまでも根気よく勉めて、ソレでも思う事のかなわぬときは、なおそれ以上に進んで哀願はしない。ただ元に立ち戻ってひとり静かに思いとどまるのみ。

つまるところ、他人の熱によらぬというのが私の本願で、少年の時からソンナ心がけ、イヤ心がけというよりもソンナ癖があったと思われる。

『福翁自伝』より(一部省略)

(3)個人的な独立自尊

中津にいたとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打ち解けて真実に交わることが出来なかった。本当に朋友になって共々に心事を語るいわゆる莫逆の友というような人は一人もなかった。世間にないのみならず親類中にもない。

といって私が偏屈者で人と交際が出来ないというではない。ソリャ男子に接しても婦人に逢うても快く話をして、ドチラかといえばおしゃべりの方であったが、本当をいうと表面ばかりで、実はこの人の真似をしてみたい、あの人のようになりたいとも思わず、人に誉められて嬉しくもなく、悪くいわれて怖くもなく、すべて無頓着だった。

『福翁自伝』より

自分の評価は自分で決める、他の誰かを目標にしたりはしない、だから人間関係もおのずから淡白になるということを述べている。

「他人の評価を気にしない」という点においては、古代ローマの五賢帝の一人、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの著書『自省録』の一節を彷彿とさせる。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス
マルクス・アウレリウス・アントニヌス

何らかの意味において美しいものは、すべてそれ自身において美しく、自分自身に終始し、賞讃を自己の一部とは考えないものだ。

実際、人間は賞められても、批判されても、それによって善くも悪くもならない。エメラルドは人に褒められなくても、その価値を失わない。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』

また、人間関係で「独立自尊」な態度が取れる人は、精神世界が豊かで、内面に備わっているものが大きく、外部の刺激や評価を必要としないということだろう。こちらは、ドイツの哲学者ショーペンハウアーが著書『幸福について』で、以下のように述べている。

ショーペンハウアー
ショーペンハウアー

そもそも人間は、自分自身を相手にしたときだけ、「完璧な調和」に達することができる。友人とも恋人とも「完璧な調和」に達することはできない。個性や気分の相違は、たとえわずかではあっても、必ずや不調和を招くからだ。

価値と豊かさを内面に備えた人は、他人との連帯を得るために多大な犠牲を払ったりはしない。それは自分ひとりで満ち足りた心境にあるからだ。

凡人は、これと反対の気持ちから社交的になり、調子を合わせる。凡人は、自分自身に耐えるよりも他人に耐えるほうが楽だからである。

ショーペンハウアー『幸福について』より(一部省略)

また、福澤は「他人からの評価を気にしない」でいられることの根拠として「自信」を挙げている。

人には自信自重の心がなくてはならない。自分は、これだけの知恵と徳行を備えていて、世間に対して恥ずかしくない人間である、よって、自分の身は尊いものであると、自ら信じ自ら重んずるという意味であって、独立心の生ずる一番の源である。

第41話

慶應幼稚舎の教育論

子供が産まれたときは、人間の子もまた一種の動物であると観念して、賢いか愚かであるかということは考慮せず、もっぱら身体の発育を大切にして、牛馬や犬猫の子を養うのと同じに考えることである。

衣服・飲食の加減、空気・日光の注意、身体の運動、耳目の訓練など一切動物の飼育法にならって発育成長を促進し、動物の体と同じ身体の基礎が出来たうえで、徐々に精神の教育に進むべきである。

精神の教育と言っても、幼児の時には特に教える科目があるわけではない。家庭内の人たちの言葉遣いや立ち居振る舞いを美しくして(中略)、家族の団らんが穏やかな春風のよう、清らかな秋水のようであれば、幼児の柔軟な心にとって、そうした環境は最高の良き教師である。

第31話

これが有名な福澤の「まず獣身を成して後に人心を養う」という教育法である。福澤は著書『福翁自伝』で同じ趣旨のことを以下のように述べている。

子供の教育法については、私は専ら身体の方を大事にして、幼少の時からしいて読書などさせない。まず獣身を成して後に人心を養うというのが私の主義であるから、生れて三歳五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば手習いをさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。(中略)

八、九歳か十歳にもなればソコデ始めて教育の門に入れて、本当に毎日の時を定めて修業をさせる。

ちなみに、慶應義塾幼稚舎(小学校のこと)のwebサイトを見ると、体育の項にこう書いてある。

「まず獣身を成して、のちに人心を養う」の教えに基づき、人間の基盤作りとして取り組んでいます。

体育は目標に向かって一生懸命に努力することで達成感を味わうことができます。その目標を与えるのではなく、自分の力で見つけ出してほしいと考えています。

福澤の教育方針は、今なお着実に根付いていると言えるだろう。

ちなみに、前出のルソーは、著書『エミール』でこう言っている。福澤はこちらにも影響を受けていたのかもしれない。

(児童期において教育に)道理をもちだすのは、それをやりきれないものにして、まだ道理を理解することができない精神に、はやくからそれを信用できないものと考えさせるにすぎない。

肉体を、器官を、感官を、力を訓練させるがいい。しかし、魂はできるだけ長い間、何もさせずにおくがいい。

学問に対する態度の違い(西洋vs東洋)

今、東洋と西洋の学説について、その中心となっているところを比較してみると、両者それぞれ根拠としているものが異なる。

東洋の学説は、陰陽五行説ですべてを包み込み、西洋の学説は、数理論に基づいて事物の条理を細かに分解して研究する。

東は昔を懐かしんで自立しようとせず、西は古人の偽りを排して自ら新しい歴史を作ろうとし、東は現在の状態を無条件に信じて改めようとせず、西は現状に対して常に疑いを持って根本を究めようとし、東は発言はするがその証拠に乏しく、西は実際の数値を示して空論を言うことは少ない。(中略)

私は、一切の学説について、東洋流の旧いものを捨てて西洋文明の考え方に帰することにしたい。

第34話

福澤もこの第34話冒頭で言及しているが、西洋と東洋の学問に対する態度の違いを理解するには、医学を例に挙げると理解しやすいだろう。

西洋医学では、何らかの病気があった際には、まずその原因を特定する。体を臓器や部位に分け、どの部分に不具合があるのかを特定する。まさに福澤の言うところの「事物の条理を細かに分解」するという作業である。

なお、ヨーロッパ近代哲学の生みの親ともいえるデカルトは著書『方法序説』の中で、真実を導き出すための心構えとして以下4つを挙げているが、まさに西洋的態度と言えるだろう。

デカルト
デカルト
方法序説

①自分が真理であると認めたもののみ受け入れる。注意深く即断と偏見を避ける。

②難問は多数の小部分に分割する。

③最も単純で最も認識しやすいものからスタートし、秩序だって複雑なものの認識に至る。

④自分は何一つ見落とさなかったと確信するほど完全な列挙と、広範な再検討を行う。

原因を特定したら、もっとも有効であろう薬を投与したり、手術を施す。ここには当然ながら、因果関係に関する確率論的な数理の考え方が導入されている。

一方の東洋医学では、病気は「体の中の邪気と正気の戦い」であって、病気を治すには体全体の調和を取り戻すことに腐心する。よって、原因を特定するのではなく、体全体の機能を回復することに注力する。

どちらが医学界に貢献したかは言うまでもなく、 「私は、一切の学説について、東洋流の旧いものを捨てて西洋文明の考え方に帰することにしたい。」と言った福澤は100%正しかった。

いわゆる黄金律

今の時代において何を善とし何を悪とするかと尋ねられれば、人に対して、その人の好まないことを仕向けないのが善であり、それと反対の行為が悪であると答えよう。

「己の欲せざるところは人に施すなかれ」というのは昔の聖人の教えで、これを「 恕(思いやり) の道」という。

第8話

ここで言う昔の聖人とは孔子のことで、このエピソードは『論語』に出てくる。

孔子

弟子の子貢から「一生実行していくに足る言葉一文字はあるか」と問われた孔子は「それは『恕(思いやり)』だろう。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ(自分がしてほしくないことは、他人に対してするな)」と答えたという。

孔子だけでなく、世界の様々な宗教が似たようなことを説いている。

「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」マハーバーラタ(ヒンズー教)

人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」聖書(キリスト教)

また、仏教ではこの教えは明示されていないが、根本として人間には「私」や「あなた」と区別する意味がなく、皆、精神共同体の一員であるという教えがある。つまり、他人がしてほしくないことをすることは、自分を傷つけることになるという教えとは整合的と言える。

(以下、余談)ただし、個人的にはどの教えも不完全であるように思える。それは「自分がしてほしいと思うこと」と「他人がしてほしいと思うこと」は異なる可能性があるし、「自分がしてほしくないこと」と「他人がしてほしくないと思っていること」も異なる可能性がある。

主観をもとに判断すると誤ることになるので、「自分がしてほしいことでも、他人はそう思わないかもしれない」「自分がしてほしくないことでも、他人はそうは思わないかもしれない」と「想像」することを説くべきではないだろうか。

限界効用逓減の法則

一年の収入千円の人と一万円の人との苦楽の程度を比べてみれば、どちらも飢えと寒さは免れていて、その上の日常の衣食も大きな相違があるわけではない。

それ以上のはるかにぜいたくな人になれば、一年に五万も十万も使うだろうが、十万を費やす人の快楽が、年収千円の人に比べて百倍ではないばかりでなく、場合によっては、快楽に伴う口に出せない苦痛もあって、苦楽相半ばとなり、無駄に金を捨てる結果になっていたりする事実も浮世の常である。

第75話

これは単純に「限界費用逓減の法則」について述べている。

例えば、東京で衣食住に困らず生活できる水準を年収300万だとする。その場合、年収150万では、食べるもの・着るもの・住むところに困る。幸福度はざっくり半分と言ってもいいだろう。

一方、年収3000万だと、年収300万の10倍幸せだろうか。人間、一日に10食や20食は食べられないし、いくらクローゼットに多くの洋服が掛かっていたとしても、出かけるときに着られるのは一着のみだ。

貧乏側は年収に比例して不幸せになっていくが、裕福側は必ずしもそうはならない。これをグラフで表すとこんな感じになるであろう。

限界効用逓減の法則

簡単に言えば、1杯目のビールはめちゃくちゃ美味いが、10杯目になるとそこまで美味いと感じなくなるのと同じ現象と言える。19世紀後半のオーストリアで経済学の一部として理論化された。

希望を失うと健康も失う

病理の上で、身体と精神とがどんな関係を結んで、どんな影響を及ぼしているかという段になると、まだ精密な論拠は出ていない。

精神の働きは無形で、これを研究することはきわめて難しいからである。そうは言っても、実際の場において両者の間に親密な感応のあることは明らかである。(中略)

せんじ詰めれば、人間は、望みを失ったり、張りつめた精神がゆるんだりすれば、身体に変化を生ずるということである。

第83話

福澤は本引用の論拠として、死に臨む老人を例に挙げている。老人が間もなく亡くなるという時、子が遠方から来るのを待ち、その待っている間は不思議と持ちこたえて、子を一目見ると一言発してそのまま逝くことが多いという。

これは、子の顔を見るまでは生きていたいという「希望」が命を伸ばしている、ということだろう。

ナチスドイツにより強制収容所へ収容されていた精神科医ヴィクトール・フランクル著『夜と霧』に拠ると、「強制収容所という極限状態で生き延びたのは、体の強い者でもなく、歳の若い者でもなく、明日への希望と生きる意味を見失わなかった者」だったという。

V.フランクル
V.フランクル

福澤の時代には医学や心理学はまだまだ発展途上ではあったが、フランクルの言っていることと見事に整合している。

茶飲み話が現実に

人間の婚姻法にも家畜改良法に倣って、良父母を選んで良児を生ませる新しい方法があってよい。

その概略を言うと、まず第一に強弱知愚の雑婚の道を絶ち、体質が弱く心が愚かな者には結婚を禁ずるか避妊させて子孫の繁殖を防ぐ。同時に他の善良な子孫についても、善の中の善である者を精選して結婚を許す。要は、ただ生まれる子の数が多くて、その身も心も美しいことを求めるのである。(中略)

以上の漫語は、もちろん取り留めがなく聞くに足らないものだが、茶飲み話の一端に笑い話にでも供すれば、聞く人の気持ちを広くして、普段縛られている心の内を一転する効能はあるであろう。

福澤はあくまで「茶飲み話」として自説を展開しているが、数年後の1904年、ダーウィンの従兄弟であるイギリスのF・ゴルトンは「優生学(eugenics)」という学問を提唱し、「人間の優良な血統を増やすことを研究する科学」と定義した。

これはなかなか危険な思想で、「優れた」と「劣った」をどう定義するのか、人が子孫を為す権利を誰かが制限する権利があるのかなど、根が深い。

そしてこの優生学を実践してしまったのが、ナチスドイツの最高指導者であったヒトラーだった。ヒトラーは優生学の信奉者であり「アーリア民族を世界で最優秀な民族にするため」に、「支障となるユダヤ人」の絶滅を企てた。

また、長身・金髪碧眼の結婚適齢期の男女を集めて強制的に結婚させ、「ドイツ民族の品種改良」を試みたほか、精神的または肉体的に「不適格」と判断された数十万の人々に対して強制断種を行った。

福澤の「茶飲み話」が現実のものとなってしまったわけである。

なお、この「優生学」の考え方は、遠く2500年前、既にギリシャのプラトンが著書『国家』の中で提唱している。

プラトン

最も優れた男たちは最も優れた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また、前者から生まれた子供たちは育て、後者の子供たちは育ててはならない。

さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会に優れた働きを示す者たちには、他の様々の恩典や褒賞とともに、特に婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。

同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からつくられるようにするためにも。

現在では倫理的に優生学的思想は許されない傾向にあるが、社会福祉として、例えば判断能力の無い者に対する結婚制限、断種、隔離等は議論されてしかるべきであろう。人類が何千年も前から考えているテーマであるという点で、興味深い。

人事部長のつぶやき

福澤的理想の家族

洋々とした人生の楽しさは、家族が平等に快楽を得るところにある。恩恵を与えても気にせず、与えられても自分の徳のせいにせず、家族の美を見て自分の美のように思い、自分の不愉快を家族もまた共にする。

同じような遊びを幾たび繰り返しても飽きることなく、古い物語を何度聞いても初めて聞いたかのようであり、子供たちのにぎやかな談笑の声はまるで音楽のようであり、その合間に大きな間違いがあっても、笑い飛ばして問題にしない。

炉辺の渋茶は甘露のようであり、手製の団子はこの上なく美味である。家族の人々の一挙一動、一事一物、すべて快楽の元とならぬものはない。

第22話

これが福澤が理想とする家族像である。これに続いて福澤は「家族団らんの楽しみは、家族だけが享受できる」としている。

家族との生活に慣れると、それが当たり前になってしまい、「お茶が甘露のように甘い」とか「手製の団子がめちゃ美味い」といった事実を見過ごしがちになる。少なくとも私の場合はそうだが、皆さんはどうだろうか。

定期的に、福澤のこの言葉を噛み締めたいところです

福澤的独身論

もともと人が持っているわがままな性質の側から言えば、独身ほど気楽なものはない。あらゆる快楽を独りで満喫し、苦痛な面があれば自業自得と観念するだけである。日常の寝食、立ち居振る舞い、すべて自由気ままで、遠慮しなければならぬ人もいない。

世の中で自分一人だけが素晴らしい人物──唯我独尊と思えるような境遇だが、結婚して、人の妻となり人の夫となるときは、その日から独身の気楽さは断ち切られて、寝るのも起きるのも、立ち居振る舞いすべて思い通りにならず、食事の時刻や食べ物の中身さえも、あれこれと考えて自分の望みは遠慮しなければならない。

第24話

明治の大思想家福澤諭吉が、かなり柔らかい「独身論」を展開している。本文ではこの後「それでもなお、結婚すべき」と続くが、独身生活をかなりポジティブに捉えていて面白い。

大した娯楽のない明治時代ですらこうなのだから、趣味にせよ仕事にせよ、一人をさらに満喫できる現代の独身者にとっては、結婚によって失うものはより大きくなっているはずだ。

事実、日本の未婚割合は右肩上がりで増えている。

令和3年版 厚生労働白書より

一人でも楽しく生きることができる時代になってしまった。それでもなお、結婚・出産を促すのであれば、税制優遇等の政策面での対応が必要だろう。

紳士の福澤、性豪の伊藤・松方・渋澤

時代が下って明治維新の世となり、万事万物すべて旧弊を改めると言いながら、妾の事についてだけは発言する人がなく、旧弊がそのまま残っている。

その上、維新の変革は豪放磊落な書生を意のままに振る舞わせ、遊女を抱きながら天下の事を論ずるなど勝手気ままで、全く遠慮することを知らないというありさまである。

第25話

明治時代は妾の存在は一般的であったし、社会的にも容認されていた。福澤は「遊女を抱きながら天下のことを論ずるなど勝手気まま」と言っているが、事実、性豪で知られた明治の偉人は多く、以下のようなエピソードが残っている。

伊藤博文・・・掃いてしまえるほど多くの女性と交友したことから、あだ名が「ほうき」

松方正義・・・天皇陛下から「子は何人か」と問われた際に、(多すぎて把握していなかったため)「調査して後日回答します」と返答

渋沢栄一・・・夫人が渋沢を称して「栄一も論語とはうまいものを見つけた。(性に厳しい)聖書だったら守れなかっただろう」

一方の福澤は、女性関係については品行方正であると著書『福翁自伝』で自己申告している。

この通り幼少の時から酒がすきで酒のためにはあらん限りの悪い事をしてずいぶん不養生も犯しましたが、また一方から見ると私の性質として品行は正しい。(中略)

花柳社会の事も他人の話を聞きその様子を見てたいていこまかに知っている。(中略)

緒方の塾にいるその間も、ついぞ茶屋遊びをするとかいうような事は決してない。(中略)

福澤の立場からすると、伊藤・松方・渋沢の振る舞いですね

女性の行動原理

女性が容色や行儀を大切にするのを見て、誰に向かっての愛の表現なのか、何人の愛を得ようとしているのかなどと、直接の関係をとやかく言うのは、真実の姿をとらえていない。

容色や行儀を重んじて言葉遣いや行動を慎み、人の気持ちに逆らわないように努めるのは、これこそ女性の本質で、そうした視点で見るべきだろう。

真の武士は、やたらに武を語らず、誇らず、胸中深く勇気をしまい込んでいるのと同じである。

第47話(一部省略)

これはかなり面白い。私は男性なので確信的なことは言えないが、福澤の言っていることは女性の行動原理の本質を捉えているのではないだろうか。

例えば、女性がネイルをしていていると、一部の男性は「男性はネイルなんて見ていないよ」などと言ったりする。しかし、女性が男性の目線を気にしてネイルをしているとは限らない。

むしろ、自分が「カワイイ」と思えるから常に綺麗にしているのだろうし、或いは周囲の女性の目を気にしている向きもあるかもしれない。最低限のマナーと考えているのかもしれない。軽々しく「異性へのアピールでしょ」などと言ってはならない。

いずれにしても、女性の美意識は男性の想像以上に高いものだと思います

スマホ・SNSによる抑止力

田舎の人には正直者が多いという。しかし、田舎では悪事がすぐに伝播してしまうので、悪事を働こうにも働けないだけだ。

だから都会でも、郵便・電信・新聞等を通じてあらゆる事物をを報道すれば、悪事に対する抑止力となるに違いない。

第87話)要約)

福澤の先見性には脱帽である。時代は進み、現代ではスマホで映像や音声を記録できるだけでなく、SNSでなんでも共有されるようになった。

個人が撮影した動画のおかげで泥棒や痴漢が捕まるようなことは珍しくなくなったし、人間関係においても「何かあったらSNSに晒される」という恐怖心が、パワハラやセクハラを抑止しているような面もあるだろう。まさに福澤の言う通りの世界になっていると言える。

この他にも、いじめが予防できたり、詐欺を防げたり出来ればいいですね!

社会全体を構造化する

世界の人類のおおよその数を数え、その知能の深浅を計って上下二流に分け、その上流の大部分において是と見られるものを是とし、非と見られるものを非とするしか方法はない。

今は、いわゆる文明国で行われている一夫一妻の方式が道徳の本義となって、昔の道徳論は、変わったと言うべきだろう。

第100話

かなりざっくりした論理展開なのだが、さすが福澤、説得力がある。福澤はこの手の「ざっくり二元論」が得意で、著書『文明論之概略』ではこんなことを言っている。

改革や革命を起こすのは、大雑把に言えば、才能があって権限や金のない人である。

これはよく考えればそのとおりである。社会的権力や経済力が平均以下の者だけが、現状打破を志向したり平等を求めたりする。

社会の構造を大掴みで表現できるのは、頭のいい人の特徴ですね

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