「生きがいについて」神谷美恵子

  難易度 ★★★★☆
オススメ度 ★★★★★
 所要時間 4時間00分

生きがいについて「人が生きる」とは何かを問う
この記事を書いた人
人事部長


一般企業に入社以来、経営・財務・営業・人事・海外事業・役員秘書等を経験し、現在は約30名の部下を持つ人事部門のマネージャです。

「才徳兼備」を目指す部下に紹介している「骨太の教養本100冊」を、順次web上にも公開しています。

慶應義塾大学経済学部卒業、シカゴ大学経営大学院修了(MBA)、米国公認会計士。

「生きがいについて」神谷美恵子

基本情報

初版   1966年
出版社  みすず書房
難易度  ★★★★☆
オススメ度★★★★★
ページ数 360ページ
所要時間 4時間00分

著者

神谷美恵子 1914-1979

神谷美恵子

精神科医、著述家。津田英学塾を卒業後、米国コロンビア大に留学し,ギリシア文学と医学を学ぶ。帰国後、東京女子医学専門学校に学び、東大病院精神科医局に入る。

神戸女学院大に勤務するかたわら、1958年−1972年瀬戸内海のハンセン病国立医療所(長島愛生園)で医療活動に従事。この施設で患者と生活をともにする中で、本書「生きがいについて」を執筆。1963年−1976年津田塾大教授。

こんな人におすすめ

日常生活を何となく過ごしてしまっている人、困難・苦難に直面している人、人生に生きがいが見いだせない人、人の生きる意味を考えたい人。

作者が伝えたいこと

通常、人は日々を忙しく過ごしている。効率よく生きていくために学問や思索に励み、人生を豊かにするために哲学や芸術に勤しみ、平穏な心で過ごすために宗教を信じる。

しかし、通常の日常生活が送れなくなると、切実な必要に追いやられて、人は「生きるとは何か」「何を生きがいとするか」を問う精神世界に基盤を置くようになる。

そして、自分は天に、神に、宇宙に、人生に必要とされていて、それに対して忠実に生きぬく責任があるのだという使命感を感じ、何かに打ち込むところまで達すると、人は前向きに生きられるようになる。

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。私たちにできることは、どのような環境にあっても、絶えず新たに光を求め続けることだけである。

一行紹介

ハンセン病施設で医療活動に従事した精神科医神谷美恵子が、苦しみや悲しみの底にあっても、なお朽ちない希望や尊厳を患者の中から見出す。そして、健康な者に「生きる意味」を問う。日常への感謝、生きる力が湧いてくる一冊。

要約・あらすじ

どのような時に生きがいを感じるか

■生きがいを表す言葉には2種類ある。
生きがい・・・生きがいの源泉、対象(この子は私の生きがいです)
生きがい感・・生きがいを感じている精神状態

■生きがい感を感じている人を定義するなら、自分の生きている必要を確信し、自分がしたいと思うことと義務とが一致し、その目標に向かって全力を注いでいる人、つまり使命感に生きる人と言えるだろう。

■生きるのが苦しい時間のほうが、生きがい感を強めることがある。ただしその場合は、未来に向かった希望が存在しなければならない。

■生きがいの基礎となるものは、次のようなものへの欲求である。

①生存充実感・・・趣味、遊び、スポーツ、日常生活
②変化と成長・・・学問、読書、旅行、登山、冒険
③未来性・・・社会的・政治的な目標、夢、野心
④反響・・・共感、友情、愛、尊敬、名誉、必要とされること
⑤自由・・・自分の世界を解き放つ存在。スターやアイドル。
⑥自己実現・・・自分だからこそできること、創造
⑦意味と価値・・・自分の存在意義を感じられるもの、信仰、哲学、孝行

■生きがいには以下のような特徴がある。

①人によって様々な形を取り得る、全く個性的なもの
②実利実益とは必ずしも関係ない
③やりたいからやる、という自発性を持つ
④それを持つ人に何らかの価値体系や心象世界をもたらす(人生に優先順位ができる)

生きがいが奪われるとき

■人は「難病に罹ったとき」「愛する人に先立たれたとき」「罪を犯したとき」「死と直面したとき」などに生きがいを失う。

■生きがいを失った者が共通して言うのは、「足元が崩れる」「底知れぬ闇の中に無限に転落していく」「目の前が真っ暗になる」「安住していた心の世界が音を立てて崩れ去る」という感覚だ。ひどいと気絶したり、無感覚無感動の状態になるが、それは一種の防御反応と考えられる。

■人は苦しんでいるとき、エネルギーの多くが精神の内部に逆流し、それが反省的思考を促す。自分自身と向き合うことになる。人は苦しむことによって初めて人間らしくなるとも言える。

苦しみから見いだせるもの

■人は苦しみに意味を見出したがる。苦しむことで何かの目的が果たされるなら、苦しみもまだ耐えやすいのだろう。仏教は「前世の因果」を説き、キリスト教は「苦しみは神の手から来た」と説く。苦しみは人格を向上させ、完成させるのに役立つと考える人もいる。

■人が苦しみから何かを得たとすれば、それは知識や教養など、外から加えられたものとちがって、内面から生まれたものだ。それは何者にも奪われることはない。その意味で、苦しみは人格を向上させると言えるのだろう。

■生きがいを失った者は自殺を考えることもあるが、①世の中への好奇心、②自分をここまで追いやったものへの攻撃性、③生への責任感、で踏みとどまることも多い。

■避けられない苦しみや悲しみという感情を理性で抑制して耐え忍び、その中から精神の深みや飛躍を見出すというストア派哲学の考え方は、これからも必要となるだろう。そうすることで人は、避けられない運命は受け入れるしかないという事実を、理屈ではなく全存在で受け止めることになる。

■人は死を覚悟した時こそ最も自由になる。現世で生きて行くための功利的な配慮もいらなくなる。自分の本当にしたいことだけすればいい。その中からは、驚くほど純粋な喜びが湧きあがりうる。

生きがいを発見する

■生きがいを失った人は、自分の存在は誰かのために、何かのために必要なのだということを強く感じさせるものを求める。

■新しい生きがいを見出す時には、大きく3つのパターンがある。

①代償(配偶者を失ったが再婚する)
②変形(人を失い神を愛する、一人を失い人間全体を愛する)
③置き換え(職業を捨て芸術に心酔する、自分を捨て未来に託す)

■生きがいは社会的にも時間的にも広がりを持ちうる。精神薄弱の子を失った母親が、精神薄弱児を支援する活動に従事するのは社会的な広がり、自分の行いや死が将来の人類にとって役に立つと確信するのが時間的な広がりである。

■精神は誰にも備わっているが、普段は日々を忙しく過ごしてしまい、その存在を意識することはない。精神は存在するが、日常生活の従属物である。認識や思索は効率よく生きていくための手段であり、芸術や美は人生を豊かにするための手段であり、宗教は悩み少なく平穏な心で過ごすための手段だ。

■しかし、病気になり肉体的自由を奪われると、健康者よりも遥かに切実な必要に追いやられて、精神の世界に生存の基盤をおくようになる。

■その最たるものが宗教だ。宗教には二種類の目的がある。一つは「自己防衛」であり、もう一つは「生きがい感を与えること」だ。

■宗教の本質は後者だと言える。昔から宗教は人生の苦しみを緩和したり耐え忍ぶために存在するものと考えられて来たが、そうであれば、苦悩が取り除かれれば、宗教は必要なくなることになる。しかし実際には、宗教を通じて人格を再形成し、生きがい感を得る場合が多い。

■生きがいをうしなった人が、精神の世界に新しい生きがいをみいだすきっかけとして、神秘体験や変革体験を挙げることが多い。その特徴は、①特異な直観性、②実体感、すなわち無限の大きさと力とを持った何者かと、直接に触れたとでも形容すべき意識、③歓喜高揚感 、④表現の困難の4つだ。

■変革体験には、多かれ少なかれ使命感を伴う。自分は天に、神に、宇宙に、人生に必要とされていて、それに対して忠実に生きぬく責任があるのだという使命感である。

■愛生園には、変革体験を経験せず、底知れぬ虚無と絶望を生きる人もいる。しかしそれは病人に限ったことではない。健康な者は、仕事や家族など、現世の中で自分の義務と居場所を与えられ、忙しく生きているがゆえに、その虚無と絶望を感じないでいるだけだ。

人が生きる意味とは何か

■人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。考える力を失ったり、病気に苦しむような人、野に咲く花のように、ただ「無償に」存在している人も、大きな立場からみたら存在理由があるに違いない。

■もし彼らの存在意義を問題にするなら、人類全体、動植物全体、宇宙全体の存在意義も同時に問われなければいけない。

■「人はなぜ生きるか」という問いには答えはないが、人は精神世界の中に、生きがいを求める。私たちにできることは、病気の人と、苦難に満ちた人と、あらゆる人々と一緒に、絶えず新たに光を求め続けることだけである。

学びのポイント

幸せに対する態度

一番生きがいを感じる人とはどんな人だろうか。それは、自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力をそそいで歩いているひと――言い換えれば、使命感に生きる人ではないだろうか。

生きがいや幸せというのは、主観的で、なかなか議論は難しい。百人いれば百通りの生きがい論や幸福論が出てくる。
よって、従来の幸福論は、誰もが「そうだよね」と納得できるものを、少しづつ拡張していくことで展開されてきた。
ここでは、思考の幅を広げておくために、幸せや生きがいに対する4つの態度を整理してみる。本書では「使命感に生きる」ことが生きがいであり幸せであるとされており、以下の4分類では②に該当する。
①利己的遺伝子説②理性万能論③幸せ脳内物質説④仏教
幸せになどなれない幸せは自分で決める幸せを人工的に創る幸せを追わない

①利己的な遺伝子説

人間は他の生物と同様、生存に適した形に進化してきたのであって、幸せになるようには設計されていない(例えば、100%楽観的な人間より、ある程度心配性な人間の方が、生存には適していたであろう)。人間はDNAに支配されており、外からの刺激に機械的に反応しているだけであって、幸せになどなれない。

②理性万能論

人間は放っておけば刺激に反応するだけの物体だ。しかし人間には理性の力がある。必要なのは、信じ、期待し、微笑むことだ。人生の幸不幸の境目は、みな人の心が作り出すものであって、幸せになれるかどうかは、自分の心持ち次第。幸福は自分で作るものだ。

③幸せ脳内物質説

人間の幸福は、神経やニューロン、シナプスや、セロトニン・ドーパミン・オキシトシンといった化学物質の作用により感じられる。薬物によって人は幸せになれる。

④仏教

人生は思い通りになどならない。あらゆるものは変化するのに、人間は何か特定のものに執着する。あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になれば、結果として幸せに生きることができる。つまり、幸せを追わないことこそが、幸せなのだ。
なお、ナチスドイツにより強制収容所へ収容されていたヴィクトール・フランクル著「夜と霧」に拠ると、「強制収容所という極限状態で生き延びたのは、体の強い者でもなく、歳の若い者でもなく、明日への希望と生きる意味を見失わなかった者」だったという。これは本書と同じく、②の態度と言えるだろう。

最後に残るのは、社会的地位でも財産でもなく自分自身

(社会で重要な地位にあるといった)事実に自信を持っている人が、らい病だと診断され、施設に入れられたらどうなるか。

施設内の社会では、もはや上層部にはいられない。なぜならここの社会には別の価値基準があり、病気の進行程度や肢体不自由度の軽い人ほど価値が認められる。社会での前歴などは無視されるのだ。

このような中に入ってみて、入園者は以前の生活で支えとなっていたものをみな剥ぎ取られ、裸の自己に対面することになる。(趣旨要約)

自分が生きている世界の価値体系が、全て崩れ去るという経験をした人は多くないだろう。しかし、らい病患者は病気の宣告により、療養施設というまったく新しい社会で生きていくことになる。

そこでは、学歴や社会的地位、財産や家柄等は何の意味も持たない。最後に残るのは、自分自身の人格だけである。

どうだろうか。人間は無意識的に、社会的身分や学歴、家族、所属する階層や貯金等々を「自分自身であること」の拠り所にしているのだろうし、それが意味を為さなくなる可能性があることなど思いもしない。そして、仮に全て失っても、揺らぐことなく人生を歩んでいける自信を持っている人は(恐らく)多くない。

しかし、そのために、読書をしたり、人と話をしたり、旅行をしたりして、自己の人格を磨いていくのだろう。社会的身分や学歴といった見せかけの拠り所に頼らずとも、自分自身の価値軸に沿って生きていけるような人間にならなくてはいけない。

病気に直面した人は、その作業が突然やってくる。もし、まだ恵まれた環境にいるのであれば、それが永続するという前提を捨てて、全てを失っても地に足を付けて生きていけるかを問うてみるのが良いのではないだろうか。

肉体と精神の分離

「人間の存在の価値というものは、人格にあり、精神にある」と、もし人がはっきりと考えるならば、自己の肉体の状況がどうあろうと、これにかかわりなく自己の精神の独立の価値を認めていいはずである。

病者が自己の存在に正しい誇りをもち、自尊心を維持し、積極的な生きがいを感じようとするならば、この道しかないであろう。

私を含めて、大きな病気を経験したことのない方には、ピンとこないかもしれない。これはつまり、例えば足を怪我したとしても、それは肉体の障害であって、精神の障害ではないのだから、落ち込んではいけないし、落ち込んでいる自分を足の怪我のせいにしてもいけないということだろう。

ドイツの法学者・思想家であるヒルティが著書「幸福論」で、こんなストア派哲学の考え方を紹介している。

ヒルティ

ヒルティ

病気は肉体の障害であって、意志の障害ではない。何かが君の身に起こるたびに、そう言い聞かせよ。そうすれば、いかなる出来事も君に障害を与えぬことが分かるだろう。

(別の言い方をすれば)君を虐待するものは、君を罵ったり打ったりする人ではなく、これを屈辱と考える君の観念である。

ちなみに、著者の神谷美恵子は、医学に転向する前、ヒルティを読んでいた。また、後期ストア派の代表者でもあるローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス著「自省録」を翻訳している(岩波文庫)。大きく影響を受けたのであろう。

普段は日々の生活に追われ、精神を意識することは少ない

精神は誰にも備わっているが、普段は日々を忙しく過ごしてしまい、その存在を意識することはない。精神は存在するが、日常生活の従属物である。

認識や思索の世界は現実のなかで能率よく、効果的に生きて行くための手段として存在し、芸術や美の世界は現実の生活を楽しく送り、豊かに味わうためにある。宗教の世界も現実の生をなるべく悩み少なく、平らかな心で過ごすためのものだ。必要に応じてそれぞれの精神の領域に出入りはするけれども、すべてほどほどに留め、現実の生活のバランスを崩さぬように気をつける。

ところが病床に釘づけになっている人、四肢を失い、視力さえ失っている人にとって、精神というものがどんなに大きな意味と役割をもっているかということは、愛生園で病室に入っている人たちを少し観察してみればわかる。
(一部要約)

これにはドキリとさせられないだろうか。普段、人は日々を忙しく生きている。手帳が埋まっていないと気が済まない人もいる。自分は大切、家族も友人も大切、仕事も頑張ろう、趣味は楽しもう、それだけでも時間は勝手に過ぎてゆく。

筆者の言う通りだ。本を読んで思索することはあるが、仕事の役に立てようとか、何かをうまくやろうとか、実利に結びつくケースは多い。芸術は人生を豊かにするための手段だし、宗教は、何らかの信仰を持っている場合は別として、特に日本人は普段、意識することなどない。困ったときにすがるもの、くらいの認識しかない。思索も芸術も宗教も、自分が主体的に生きていくための手段だ。そういった方は多いのではないか。

しかし、例えば大きな病気になったとき、私たちは一体何を思うのだろう。仕事を頑張りたいのに頑張れない、友人に会いに行きたいのに会いに行けない、時間の流れは突然ゆっくりになる。

そうなると、自分とは一体何なのかと悩み、思うことができないと絶望する人もいるだろう。そこで残されているのは精神世界だけである。ここは大きく広がっている。健康な者にも広がっているが、普段は忙しくてほとんど意識されない。

日々を不自由なく送っているとしたら、仮に自由がなくなったときに自分はどうするか、方法論として考えてみることには意味があるだろう。具体的な答えがなかったとしても、何気ない日常に感謝する気持ちが生まれてくるのではないだろうか。

人事部長のつぶやき

時間という概念を考え直してみる

余暇というものは、仕事が忙しい人には思いがけない贈物のように楽しいものであるが、生活全体が余暇になってしまった人にとっては倦怠と苦痛でしかない。

時間を「つぶす」ために色々なことを試みてみても、空虚さと無意味さの感じがつきまとう。

時間が「潰すもの」となってしまうことを、皆さんは考えてみたことがあるでしょうか。私はありませんでした。

これは幸福なことだと言わざるを得ませんが、いつでも時間とは足りないもので、あれもやりたい、これもやりたいけど、泣く泣く優先順位を付けて、やりくりするものだとばかり思っていました。

仮にだらだらYouTubeを見たり、惰眠を貪っていたとしても、「空虚さと無意味さ」を感じないのは、それ以外で「未来」に向かった活動をしているからに他なりません。未来が無くなってしまった時、時間の概念が変わるのでしょう。

人事部長

本書は普段考えないことについて、考えさせられます

生きる意味と直面することを、忙しさでごまかしているだけ

愛生園には、変革体験を経験せず、底知れぬ虚無と絶望を生きる人もいる。しかしそれは病人に限ったことではない。

健康な者は、仕事や家族など、現世の中で自分の義務と居場所を与えられ、忙しく生きているがゆえに、その虚無と絶望を感じないでいるだけだ。

(要約)

非常に痛烈だが、胸に手をあてて、冷静に考えてみたいテーマだ。つまり、普段忙しく生きている人は、「生きる意味」という命題に直面することから逃げているだけ、ということだ。

もちろん、普通は「逃げている」という意識などない。結果的に「人はなぜ生きるのか」という答えのない問いと向かい合わずにいる。これは人生を豊かに生きるという観点から、望ましいことなのかどうか。

答えの無い問いと格闘する意味はあるのか。病気や苦難があって初めて「生きる意味」を考えるのであれば、普段から考えておいた方がいいのか。これもまさに、答えのない問いである。

人事部長

忙しく日々を過ごし、あっという間に1年が経つ経験も、「自分はこのままでいいのだろうか」という疑問を惹起します、、、

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