「活眼活学」安岡正篤

  難易度 ★★★☆☆
オススメ度 ★★★★☆
 所要時間 3時間00分

この記事を書いた人
人事部長

上場企業に入社以来、経営・財務・営業・人事・海外事業等を経験し、現在は人事部門のマネージャです。

「才徳兼備」を目指す部下に紹介している「骨太の教養本100冊」を、順次web上にも公開しています。

慶應義塾大学経済学部卒業、シカゴ大学経営大学院修了(MBA)、米国公認会計士。

「活眼活学」安岡正篤

基本情報

初版   2007年
出版社  PHP出版社
難易度  ★★★☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 256ページ
所要時間 3時間00分

どんな本?

昭和を代表する知の巨人「安岡正篤」の呼び掛けによって結成された「全国師友協会」の機関誌に安岡自身が投稿した論考集。東洋思想をベースに、物事を「長期的」「多面的」「本質的」に理解する手法を説く。

著者が伝えたいこと

西洋では自然と人間を対立関係と捉え、人間、その中でも自分こそが最も大切な存在であると考える。

一方、東洋の思想では、自然の摂理の中で、天から与えられた能力を完全に発揮し、同時に道徳を実践していくことこそが、人間の生きる意味と考える。

目の前で起きていることに一喜一憂せず、長い目で見て、正義を守り、徳を積むべきだ。

著者

安岡正篤(やすおかまさひろ) 1898-1983

安岡正篤

大阪市生まれ。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大学卒業後に文部省に入省するも、半年で辞めてしまう。その後、1923年に「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。同年より拓殖大学東洋思想講座講師となる。

1932年には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、近衛文麿らとともに「国維会」を設立し、官僚を育成するようになる。同団体から廣田弘毅(第32代内閣総理大臣)会員が入閣したことで世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後には解散に追い込まれる。

1945年8月、天皇陛下の「終戦の詔書」がラジオで放送されたが、この「詔書」に最終的に目を通し、手を入れたのは安岡と言われている。

昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた。

こんな人におすすめ

昭和における知の巨人「安岡正篤」の人間学に気軽に触れてみたい人。東洋的な修養に関心のある人。

書評

非常に平易な言葉で書かれているので、初心者でも安岡哲学の雰囲気を感じることができる。

あくまで入門編といったところで、これ1冊で安岡哲学が網羅的に学べるわけではないが、「活眼活学」「運命を創る」「人物を修める」の3冊を読めば、安岡哲学のエッセンスを理解することは可能。

要約・あらすじ

■人は、表に出る「顕在エネルギー」と、内側に秘めたる「潜在エネルギー」から成り立つが、そのバランスが大切である。潜在エネルギーを蓄えるには、単調な生活や視野狭窄を廃し、手本となる人物と交わり、良い書物を読まなくてはいけない。

■西洋では概念的・論理的な知識や思惟を尊び、東洋では深い直観を含んだ智慧とを尊ぶ傾向にある。これらを更に一段と総合・統一・発展させてゆくことに、世界文明の限りなき発達がある。

■例えば、西洋は物事を細分化し、分析し、因果律を見出そうとする。一方、東洋では物事を総合的かつ統合的に、様々なものを含蓄しようとする。例えば西洋のアルファベットは表音文字で、文字と音が一対一に対応(因果律あり)するのに対し、東洋の漢字は表意文字で、文字と音が一意に対応せず、様々な意味を含蓄する。

■また、西洋は個人主義的で、東洋は没我的である。家庭を見ても、西洋では夫婦は対等。よく言えば平等主義で、権利も義務も明確だが、行き過ぎると利己的・排他的になる。東洋は夫婦は一体。よく言えば相愛し助け合うということだが、そこに個性は認められない。

■何か問題を議論する際には、「長い目で見る」「多面的に見る」「本質的に見る」ことが大切である。もしも「この議論は枝葉末節的の議論である」「一面的な議論である」「目先の議論である」というのであれば、事前に議論相手と目線を合わせなければいけない。

■自分がどういう素質能力を天から与えられているかを知り、それを完全に発揮すること。そして、自分なりの道徳観を持ち、日々道徳を実践すること。それこそが人生の意味である。人間は日々成長するのであって、「すべては予め決まっているのだから、何をしても無為だ」とする浅はかな宿命論に身を委ねてはならない。

■地位や名誉や財産といった自分の外側にあるものは、努力したからといって、必ず得られるものではない。しかし、道徳は自分の内側にあるもので、意識すれば必ず修養できる。禍が福か、福が禍か、自分の外側にあるものは人間の私心で分かるものではない。長い目で見て、正義を守り、陰徳を積むべきだ。

■人が生きていくうえで大切なことをまとめると、このようになる。
一、日常飲食は質量共に適正か。
二、毎夜睡眠の具合はどうか。安眠熟睡ができるか。
三、適当な運動をしているか。
四、心身に害ある悪習はないか。
五、生活上の問題に一喜一憂しやすくないか。
六、仕事にどれだけ自信と希望を持って打ち込んでいるか。
七、徳の実践と内省により内面を修養できているか
八、良き師、良き友を持っているか。
九、日常座右を離さぬ良書を持っているか。
十、独自の信念、箴言、信仰の類を持っているか。

■日本神道の眼目・骨髄は「機前を以て心と為す」ことである。つまり、どれだけ文明が進もうとも、常に一日の始まり(=機前)たる静寂、光明に立ち返り、正直・清浄を実践していくことだ。人間は常に自然に帰らなければならない。自然の真理、それが人間に教えてくれる摂理というものを見失ってはいけない。

学びのポイント

やはり国民国家が国際社会の基本単位

第一次世界大戦後、コスモポリタニズム(全世界の人々を自分の同胞ととらえる思想。世界市民主義とも呼ばれる)という考え方が流行った。これは主として、国民主義、民族主義、ナショナリズムへのアンチテーゼであった。

一方、日本とか中国とかイギリスとかドイツとかアメリカとかいう、そういう民族・国民というものを無視し、否定して、世界がどうのこうのと云々するのは観念の遊戯に過ぎない。排他的ナショナリズムは良くないが、国際社会の基本単位は国民国家である。

本当の意味の世界的発展のためには、多様性がなくてはいけない。その意味で、国民性・民族性はあくまでも尊重され、国際社会の中で磨きだされなければならない。

この発言が安岡から出たのは1958年(昭和33年)である。それから60年経ち、交通の発達による人材流動、IT革命による情報流動の質・量拡大、貿易の拡充による国家間の相互依存といった、いわゆるグローバル化を経ても、やはり国際社会の基本単位は国民国家であり続けている。

もちろんイスラム国のようなテロ組織は現在の存在するが、国民国家ほどの影響力を持つには至っていない。そして、国連をはじめとする国際機関や、多国間の組織・協定も有効に機能しているとは言いがたい。

例えば、国際社会にはロシアによるクリミア侵攻を止められなかった、EUはブレグジットで迷走中、アメリカは気候変動の枠組みを決めたパリ協定から離脱(その後、復帰)、やはり地球市民主義といった考え方はお花畑的発想であって、国民国家がそれぞれの国益を前面に出して、しのぎを削っているのが現実の国際社会である。

そもそも国連は第二次世界大戦の戦勝国で作ったものであり、「五大国に拒否権が付与される」というのも、おかしな話である。しかも、中国や韓国が反日活動を行う拠点のようにもなってしまっている。

ちなみに、日本国憲法の前文にはこのようなことが書いてある。

日本国民は、恒久の平和を念願し、(略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

憲法改正が議論され始めてから久しいが、この前文も見直したいところである。「平和を愛する諸国民」とか「平和を維持する国際社会」など、そもそも存在しないのである。存在しないものに頼ることなど出来ない。

日本も国際社会の常識通り、国民国家として、毅然として国益を主張すべきである。安岡が現代日本を見たら、そのように言うだろう。

才ある人物には報酬を、徳ある人物には役職を

「人間を作る」という意味での学問や修養はなかなかできない。若いうちは義務的な仕事に追われてしまい、気付いてはいても、人格の向上に役立つような修養ができない。

そして地位身分のできる頃に、悲しいかな、自分自身は貧弱になる。下にある間は良かったが、上になるほど駄目になる。これは悲劇である。

これは「(若いうちは才覚だけでも良いが)リーダーになるには人格の修養が必要である」ということを言っている。

これとほぼ同じ趣旨のことを、西郷隆盛がこう述べている。

西郷隆盛

官は、その職に堪えうる人物を選んでその職に就け、功労があるものには、職ではなく、俸禄を与えて賞し、これを褒めておけばいい。これは古代中国の「書経」でも言われている。

西郷隆盛『南洲翁遺訓』

これは文字通りに読めば「要職には人物・人格が出来ている人を選ぶべき。仕事で結果を出した人には給料で報いておけばよい」ということだが、言っていることは安岡と同じである。

「書経」と言えば、紀元前7世紀から紀元前3世紀までに成立したと言われている古典中の古典。その意味でこの一説は、約2500年の歴史を経て現代まで伝わる、人間社会に関する「真理」の一つと言ってもいいのではないか。

また、経営学者として名高いピーター・ドラッカーや、京セラ創業者の稲盛和夫は同じことをこう表現している。

むかし一緒に働いたある賢い人が、私にこう言ったことがある。

「よい仕事をすれば、昇給させることにしている。しかし昇進させるのは、自分の仕事のスケールを大きく変えた者だけだ」

ピーター・ドラッカー『プロフェッショナルの条件』

人の上に立つ者には、才覚よりも人格が問われる。

戦後日本は経済成長至上主義を背景に、人格という曖昧なものより、才覚という成果に直結しやすい要素を重視してリーダーを選んできたが、それではいけない。

稲森和夫『生き方』

実務で成果を出す能力と、リーダーとして人の上に立つ能力は明確に異なるということだろう。

みなさんの会社にもいないだろうか。若いころは評価されていたけど、マネージャークラスになると「なんであんな人が偉くなったのだろう」と言われる人が。

私の経験では、下では良いが上に立つとダメな人の典型例として、

・自分の能力に自信のある人(=これまでのスタイルを変えられない)

・何でも自分でやらないと気が済まない人(=部下が育たない)

・パワハラ体質の人(=一部の人の生産性を落とす)

といったタイプが挙げられる。

しかし、いずれにしても、仕事の「結果」さえ出していれば、上からの評価は継続されることが多い。

それはなぜかと言えば、上が「結果」しか見ないからである。その結果を得るために、どれだけの機会損失があったか(部下が育っていない、メンタル社員が出たなど)を上が気にするようになれば、誰を偉くすべきかは自然と決まってくるはずである。

全てを脱ぎ去ったとき、一体何が残るか

「自分は何か信仰・信念・哲学を持っているかどうか」、これは人間としての一番の根本問題である。

ある人から地位・名誉・身分・報酬・家族などを抜くと、一体何が残るか。一切を剥奪されても、奪うべからざる永遠なもの、不滅なものが何かあるかという時、答えられる人間にならねばならない。

それは突き詰めると、何らかの信仰・信念・哲学を持たなければならないということである。

安岡は様々な場面でこう主張する。そしてこの命題は、私が人生で出会った中で、最も言語化して答えるのが難しいものだ。

皆さんは、どうお考えになるだろうか。

ちなみに私は自らの哲学というか、生き方を以下のように整理している。

1.人生の目標

「思慮深く美しい人生を生きること」

⇒自分の人格と能力を正しく発揮して、社会や周囲のためになること

2.前提

自分と家族が心身ともに幸せであること(自分の人生が大切でないなら、その他の人の人生も大切なものであり得ない)

3.公人として

真善美の判断&理想を示す
⇒何が正しく、善く、美しいかを見極め、理想に導く

②広高深の判断&結果を示す
広い視野で多角的に、高い視座で長期的に、深い思考で合理的に判断し、結果を出す

③周囲をやる気にさせる、成長させる、心理的安定性を確保する
⇒「職業としての上機嫌」で周囲にいる人たちも幸せにする

3.私人として

①明るく楽しく前向きに生きる【進化生物学】
⇒人間は生存に適する形で進化してきたのであって、幸せになるようには設計されていない。悲観主義は気分、楽観主義は意志である。

②修養を続け人格を高める(本・仕事・体験)【東洋哲学】
⇒徳は才の主にして、才は徳の奴なり。目先のスキルではなく、徳を追う。

③理性で感情を制御する【ストア哲学】
⇒制御できるもののみに集中し、そうでないもの(評判・他人など)は気にしない。
自分自身の魂の中ほど平和で閑寂な隠れ家はない。

心を安定させる

日々の出来事でいちいち感情を害したり、一喜一憂していると、「徳」を失いやすくなる。

人間として徳を維持するための美しい精神・態度は「寛容」である。

一語一語が身に染みる名言である。安岡哲学の中で、私が最も自分の人生に取り入れ、参考にしている考え方でもある(普段、出来ていないからこそ)。

一方、全く反対の考え方をする人もいる。ライフネット生命の出口治明さんは「人生の楽しさは喜怒哀楽の総量」と明言されていて、ここは個人の価値観が色濃く出るところ。

ちなみに私自身は「怒」と「哀」をしっかりと抑制し、「喜」と「楽」をたくさん生み出したいと思う。別の項での安岡の言を借りれば、「怒」と「哀」は自分の内側にあるものなので、コントロールできるはずである。

そして「喜」と「楽」は自分自身で生み出していくべきものだ。進化生物学的には、人間は生存と子孫を残すことに適した形で進化してきたのであって、決して幸せに生きるようには設計されていない。

アメリカの進化生物学者であるダニエル・リーバーマンは著書『人体600万年史』でこう言い切っている。

私たちの種が怖がりで、心配性で、ストレスを抱えやすい傾向を持つことは様々な悲劇や不幸の原因になっているが、もともとそれらの性分は、危険を避けるため、あるいは危険に対処するための大昔の適応なのである。

要するに、人間の適応の多くは必ずしも、肉体的、精神的な幸せを促進するよう進化してはいないのである。

つまり、人間はほっておけば「怒」とか「哀」になり、自然に「喜」や「楽」にはならないということだ。

このことを、進化生物学が確立するかなり以前に、フランスの哲学教師アランがズバリと指摘している。

悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。

アラン『幸福論』

ちなみに、近年の研究では、笑顔に似た表情は、快の感情等に作用するドーパミンの分泌を活性化させることが分かっている。

つまり、心地よいから笑顔になるのは当然として、「笑顔を作ると心地よくなる」ことも科学的に正しいということを意味している。やはり「喜」や「楽」は自分で生み出すものなのだ。

人事部長のつぶやき

人間は感覚的な刺激に反応するだけの「機関」になる

都市化や機械化が進み、人間生活が集団化・大衆化すると、個人は主体性を失っていく。

朝からラジオを聞いて、新聞を見て、それから事務所に出て雑務に追い回され、終わったら競輪とか競馬とか野球とかを見て、そうでなければ映画館へ入って映画を見、帰ってラジオを聞き、テレビを見、雑誌を読んでいったなら、もう何の某というものは一つもなくなってしまって、全く感覚的な刺激に反応する一機関になってしまいます。

これは現代にも通ずる警鐘である。通勤電車の中を見渡すと、とにかくほぼ100%の人がスマホをいじっている。ニュースを見たり本を読んでいるならまだいい。しかしほとんど(?)が、ゲームや娯楽の動画、そしてSNSに終始している。

通勤時間でその有様だ。会社に行き雑務に追われ、夜は残業や飲み会。家に帰って来ても、また動画やSNSを見る。休日は趣味でもできようが、平日がそれではあまりに寂しく、没個性的である。

一昔前、webで稼ぐと言えばブログでのアフィリエイトが主流だったが、今では主戦場はYou TubeやInstagramに移っている。「読む」そして「考える」という作業が無く、ただ流れてくるものを受け身で見ていれば良い「動画」や「写真」というコンテンツに人気が集まるのは自然のことなのかもしれない。

そしてYou Tubeに優良なコンテンツを流せる頭の良い人が儲かっていく。何も考えない一般大衆は、自分の時間を奪われていることに気付かず、「全く感覚的な刺激に反応する一機関」に成り下がる。歴史は安岡の指摘を繰り返しているだけだ。

駄本ではなく、まずは評価の定まった名著や古典を読もう

よくできた人間は、難しい内容を平易な言葉で簡潔に表現できる。一方、ダメな人間は難しい内容を難しくだらだらと説明する。簡潔に表現してしまっては、原稿料にならないからだ。

できる人間は単刀直入に、真実を突くような話し方をする。

ビジネスの世界にいると、複雑な中身を簡潔に伝える能力を問われる場面が多い。上位にいけばいくほど、「現状・課題→解決策→必要なコストやリスク→影響」といった流れや要素がシンプルになる。上層部は扱う案件が多いので、そうならざるを得ないのだ。

また、本を読むときには、できれば評価の定まった古典的名著から手を付けることをお勧めする。もちろん「最新iPhoneの使い方」といった本は旬があるので直ぐ読むべきだが、評価の定まっていない本は、1の内容を100に薄めて、ダラダラと書かれている可能性がある。そんな本に捕まるのは、大変に不幸だ。

人事部長

時間は有限なので、良い本を選んで読みましょう!

孤独を愛せない男は本物ではない?

男というものは、元来女よりも孤独になりやすく、さびしい。これに反対する男があったら、これはよほどつまらぬ男であろう。

論理的思考は、一応男の長所ではあるが、理窟なんていうものは枝葉末節のものに過ぎない、さびしいものである。だから、男というものは多くさびしがり屋だ。

男性のほうが孤独になりやすい、というのは事実であろうし、男性の方が一般的に「孤独耐性」があるように思う。科学的に証明するのは難しいが、俗に言えば、人類は30万年以上、男性は狩りを、女性は採取と子育てを担当していて、相対的に女性の方が集団の中でのコミュニケーション能力を問われる環境にあったから、ということだろう。

進化生物学的に言えば、周囲とうまくやれた女性の遺伝子が、これまで残ってきたということになる。

男性も狩りでは他の男性と協調する場面はあっただろうが、あくまでそれは狩りという「目的のための」コミュニケーションである。一方の女性は、常に誰かと一緒にいるがために、周囲と円滑な関係を築く「共感力」のようなものが磨かれたのではないか。

ちなみに、私は「孤独が好き」&「人間関係にストレスを感じやすい」という、いわゆるコミュ障なのだが、コミュ障にも2種類くらいあって、

①そもそも相手の気持ちを察したり、自分の気持ちを伝えるのが苦手

②コミュニケーションは取れるが、疲労してしまう

①はコミュ能力不足、②はコミュ体力不足と言える。私は①にもそれほど自信はないが、典型的な②タイプである。

一方、小中校時代は集団生活がしんどくてしんどくて、人生ってなんて辛いのだろうと思っていたが、大学や社会では集団を強制されることもなく、仕事はビジネスと割り切って最小限のコミュニケーションだけで済ませられるので、人生はだいぶ楽になった。

人事部長

いわゆるコミュ障と自覚している小中高生の皆さん、大丈夫!将来的には楽に生きられるようになりますよ!

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