「宋名臣言行録」朱熹
基本情報
初版 12世紀頃
出版社 ちくま学芸文庫
難易度 ★★☆☆☆
オススメ度★★★☆☆
ページ数 458ページ
所要時間 5時間00分
どんな本?
北宋時代の宰相・大臣クラスが残した箴言集。朱子学の開祖でもある朱熹が編纂。唐代の「貞観政要」と並び立つ中国古典の金字塔で、明治天皇もご愛読。王安石の新法をめぐり、新旧両世代が対立する中、悲喜こもごもの人間模様が展開される。
大きめの組織に属して仕事をしている人や、自分以外にも苦労している人がいることを知りたい人には特におすすめ。お気に入りのエピソードが必ず見つかるはず。
著者
朱熹 1130-1200年
中国南宋の儒学者。朱子と尊称される。「朱子学」の創始者。
福建省に生まれ、科挙に合格したが、その新思想が当時は受け入れられず、ほとんどを地方の下級官僚で過ごした。
朱熹の死後、朱子学が儒学の正統とされるとともに、朱熹が『論語』『孟子』『大学』『中庸』のいわゆる「四書」に注釈を施した書は科挙の教科書にもなった。
また、朱子学が身分制度と君主権を尊重したため、日本では江戸幕府によって幕藩体制の支配理念として利用された。
こんな人におすすめ
大きめの組織に属して仕事をしている人、自分以外にも苦労している人がいることを確認したい人、中国エリート層の処世術やドロドロに関心がある人
書評
本書は、中国における正式な「宋名臣言行録」75巻のうち、朱熹自身が編纂した北宋八代150年分の24巻分から抜粋したもの。朱熹の方針により、王安石の新法(中小農商工者を手厚く保護する社会主義的政策)に反対する穏健保守派の名臣を中心に取り上げられている。
要約・あらすじ
本書は様々な書物からの引用(=寄せ集め)であり、朱熹自身が「急いで作ったから誤りも多い」と認めている。史実として読むよりは、教科書的に読むのが正しい姿と言える。お気に入りのエピソードをいくつか拾えれば十分だろう。
※本書は雑多なエピソードの寄集めのため、要約・あらすじは省略します
※エリート同士の足の引っ張り合い、能力を正当に評価されない左遷、官僚主義者から破天荒な者まで、色々出てきます
学びのポイント
「名臣は読書人たるべし」の伝統
太祖は年号を改めるよう宰相に指示し、「乾徳」としたが、既に別国で使われていた。
太祖は「宰相にするには読書人でなければいけない」と慨嘆し、これ以降、文臣が重んぜられることになった。
唐滅亡以降の戦乱に終止符を打った宋の太祖が、文官・科挙官僚中心の方向を明白にした有名なエピソード。
科挙は隋(589-618)に始まるが、北宋の時代に整備され、皇帝専制政治を支える官僚の登用法として完成した。結果、科挙は清代の1905年まで存続することになる。
その最大の特長は、行政・財政・法律等の専門知識ではなく、主に儒教を中心とした教養を問われた点である。結果として、学問で民衆を啓蒙する統治術に重きが置かれ、事務処理能力や技術は一段下に見られた。
この「特定の知識・技術より、人格や徳の方が重要」という考え方は中国では根深く、例えば明代に書かれた『菜根譚』では「徳は才の主にして、才は徳の奴なり」と表現されている。
もちろん教養とは言っても、儒教の知識や作文・詩歌の技巧に偏っており、自然科学や社会科学は含まないので、いくら科挙に合格したからといって、有能な官僚ばかりではなかったようである。
陰口を受けた際の態度
呂蒙正が副宰相になる儀式の際、ある者が「あんな男まで副宰相か」と指をさした。
蒙正の同僚は怒り、人物を特定しようとしたが、蒙正は「もしその名前を知ったら、一生忘れられない。知らない方が良い。聞かないでおいてどんな損になるのか」と言った。人々はその度量に感服したそうだ。
これはそのまま現代のビジネスパーソンにも参考になるだろう。
何らかの意見に対する批判であれば、これは真っ向から受け止め、反応すればよい。しかし、単なる妬みや僻みから来る陰口は、何も考えずに受け流すのが最も良い。それを知ったところで何の益にもならず、精神衛生上は害になるだけだ。どのような集団にも、自分のことを忌み嫌う人間は複数名いるものだ。
後楽園の語源
范仲淹(はんちゅうえん、宋代の士大夫)は年少の頃から確立した自己を持ち、富貴貧賤や毀誉褒貶などに全く左右されなかった。
天下国家のことを深く心に思い、いつも「士たる者は天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむべきである(先憂後楽)」と繰り返し話していた。
范仲淹著「岳陽楼記」からの引用で、この「先憂後楽」を座右の銘としている経営者も多い。これは、「リーダーとは不測の事態や最悪のケースを事前に想定しておかなければならない」という教訓に他ならないだろう。
古代ローマの英雄、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)も、著書『ガリア戦記』で、部下ティトゥリウスについてこう言っている。
(ガリー人との戦闘において)何も予測していなかったティトゥリウスはこうなると慌てふためき、軍隊をまとめるにしても恐れ慄いて、全くどうしていいか分らなくなったようであった。
それは、せっぱ詰らないと考えをまとめようとしない人によくあることだ。
これは、リーダーが「先に憂う」ことを怠ったために、混乱に陥ってしまった失敗例と言える。最悪の事態を想定し、手を打ち、最後に安堵する、これがリーダーのあるべき姿だと教えている。
制度疲弊した組織には、賢明な大改革者が必要
(財政再建を任された進士首席の王堯臣は)国家財政の状況を分析し、「これが根本、あれは枝葉」と、重要性や緩急の度合いを測り、根本的弊害を取り除き、無意味な施策や小さな利益はあるが大きな本質を損なうものを退けた。
また、大蔵省の次官、局長で役に立たぬ15名を罷免し、改めて才能のある賢明な人物を推挙した。結果、翌年には借り入れを返済し、3年目には黒字も多く溜まった。
これは王堯臣の棺に刻まれた文章なので、真実かどうかは分からない(死者を飾り立てている可能性はある)。
にしても、正しい改革の方向性を示しており、興味深い。これは現代のビジネス、特に大企業には当てはまるのではないか。
組織が成熟してくるにつれて、仕事や経費支出はどんどん増えていく傾向にある。「これはA部長の肝煎りで始めたものだから」「若干でも利益は出ているから」「やめる理屈を作るのが面倒だから」などと、やめるべき仕事や支出もやめられなくなってくる。
大企業において、ボトムアップで何かを「やめる」のは非常に難しい。そこには必ず「以前は○○で正しかったが、環境が変化したので○○はやめて、新たに●●とすることで○○の本来の目的を担保する」みたいな官僚的ロジックが必要になる(少なくとも私の働く会社ではそうです・・・)
そうなると嘱望されるのは「重要性や緩急の度合いを測って仕事を再構築してくれる」大胆な改革者だ。これは現代日本の政治でも同じことが言えるのかもしれない。
腐敗が当たり前?
包拯(ほうじょう)は科挙に合格した後、年老いた親に仕えるため十年近くも仕官せず、親孝行の名を高めた。
開封府知事として、剛毅厳正で裏取引に応ぜず、このため都では「賄賂の利かぬ閻魔の包大王」と呼ばれた。
この包拯という人物は、中華圏では「清廉潔白な官吏の典型」として非常に有名な人物で、テレビドラマにもなっている。日本で言えば水戸黄門、大岡越前、遠山の金さんなどに相当する存在とも言われる。
しかし、賄賂を受け取らないくらいで「清廉潔白」と言われるのは、どうなのか。それほど賄賂が一般的だったということだろう。
2013年から、習近平が「虎(共産党の大物)もハエ(地方の役人)も同時に叩く」という大々的な反腐敗運動を展開したが、権力闘争という側面はあるものの、やはり現代でも賄賂なり横領といった慣習(?)が残っているということだろう。
老害と言われる前に、、、
曾公亮は非常に高齢だったが精神・体力ともに衰えず、長らく政治の中枢にいた。しかし無邪気な若者が次のような詩を作り、揶揄したため、曾公亮は官職を退くこととなった。
「老いたる鳳が池のほとりにうずくまり、動かない。飢えたるカラスは黙って声も立てられない」
中国流のスマートな(?)「引導の渡し方」と言えるだろう。この「やるべき仕事を追えたなら、さっさと引退すべし」というのは、老子の頃から言われている。
功成り身退くは、天の道なり。(老子)
また、渋沢栄一は著書「論語と算盤」の中で、こんな言い方をしている。
ある書物の健康法のなかに、こんなことが書いてあった。「もし年老いてまだ寿命に恵まれていたとしても、ただ食べて、寝て、その日を送るだけの人生では、そこには生命などなく肉の塊があるだけだ。」と。
今日でも、世間に名高い人で、「まだ生きていたのか」と思われる人がたくさんいる。これでは肉の塊でしかない。
いわゆる「老害」というやつである。以前、メガバンクが「相談役」を廃止することが話題になったが、それまでは秘書・個室・車の3点セットがほぼ終身で付いていたという。会社にしか居場所のない人にとって、確かにそれらは手放したくはないだろう。
相談役や会長といった方々に期待されているのは、「困ったときに助けてくれる」という機能であって、日々のオペレーションに口を出されることは、現役世代は望んでいない(ことが多い)。
現役世代の人間が肝に銘じておくべきは、「自分達がOBになった際、自分が思っているほど、現役世代は自分を必要としていない」という客観的事実だろう。
どれだけ仕事のできる人でも、また、成果をあげてきた人でも、いつまでも影響力を持っていては下が育たない。組織にとっても、引き際は大切だ。
会社も、顧問や相談役を設置する際には「あなたに期待するのは、我々が困ったときに助けてくれることであって、日常の社業には口を出すな」と言えればいいのだろうけども。
そういえば昔日、部活やサークルのOBと称する人が何人かでやって来て、俺たちの頃はこうだったと説教を垂れるのを、全現役生が白々しく見ていたことを思い出します。
王安石の改革
神宗が「そちは何を為したいのか」と問うと、王安石は「風紀を変え、法度を確立するのが現在の急務です」と答えた。
こうして、青苗、市易、坊場、保甲、保馬、導洛、免役などの政策が次々打ち出された。
王安石といえば、世界史の授業では必ず出て来る、中国史上稀に見る大改革者である。
彼の主な仕事は財政再建であり、大商人・大地主達の利益を制限して中小の農民・商人たちの保護をすると同時に、その制度の中で政府も利益を上げるという、見方によっては弱者救済の社会主義的な政策が多かった。
例)青苗法
国家が貧民に低金利で穀物や資金を貸し出し、収穫の時に返済させる。
→高利貸しで儲けていた大地主の反発に遭う
例)均輸法
各地の生産物を国が買い上げ、一定の価格で必要とする地域に転売する。
→中間マージンで儲けていた商人の反発に遭う
例)市易法
国家が売れない中小商人の商品を買い上げたり、それを抵当に低金利で資金を融資する。
→高利貸しや価格操作で儲けていた商人の反発に遭う
これらのいわゆる「新法」は、一時的に宋の財政を立て直すことに繋がったものの、大地主・官僚・豪商といった既得権益層からの猛反発を受け、王安石ら新法派と司馬光ら旧法派が政争を繰り返すことになる。
これが結果的に国家としての宋の寿命を縮めたとされている。
人事部長のつぶやき
前任者は前任者、自分は自分
開封府長官の包拯はやり手で、その名は都中に鳴り響いていた。しかし後任の欧陽脩は「人は様々。私は自分なりに長所を発揮してやっていくだけだ」と気にもしなかった。
欧陽脩は複雑だった仕事の仕組みを簡素化するとともに、部下に「厳しくしない」「急がせない」指導をした。その結果、事務は5~6割削減され、常にバタついていた役所は整然となり、しかも物事はうまく運ぶようになった。
大きな組織に勤めている方であれば、この「前任者を意識する」という気持ちは分かるだろう。
特に前任者が色々なものに手を出すタイプの人間だった場合、「○○を始めました!」という花火だけ上げることが多く、後任者は直ぐにそれをやめるわけにもいかず、後処理に苦労することが多い。
個人的な感覚では、着任後半年くらいは、前任者が散らかした仕事を整理するために使っています、、、!
立ち居振る舞いも能力のうち
呂公著の勉学は、修練を根本に置いていた。
欲望を抑え粗食になる、早口で話したり顔色を変えたりしない、せかせか歩いたり怠惰な様子を見せない、冗談や下品な言葉は決して口にしない、浮世の利益や華やかさには興味を示さない。それは天性としか言いようがなかった。
現代のビジネスマンにもそのまま通じる内容だろう。大きな組織になると、一定以上の能力を持った人というのは一定数存在する。
その時に評判を左右するのは、時の運の他、まさに「堂々としている」とか「冷静沈着」とか、表面的で演出可能な要素であることも多い。
宋名臣言行録と並ぶ「貞観政要」
曾肇は次のように上奏した。
「近世の帝王でよく世を治めたのは唐の太宗をおいていない。太宗の貞観の治は、周の成王や康王の治世にも匹敵し、歴史編纂官はその大要を集めて『貞観政要』と呼ぶ書物を作った」
既に宋代から、『貞観政要』は天子が読むべき本として位置付けられていた。
本書『宋名臣言行録』が雑多なエピソードの寄集めである一方、『貞観政要』は唐の太宗の言行録なので、リーダーシップ論として一貫性があり、読みやすい。
派閥でも、無派閥でも
哲宗の元では正しい政治が行われていたが、賢い人々が派閥を組むのは避けられなかった。各派閥は互いに非難し合い、閑職に追われたグループは深い怨念を抱いて復活の機を伺った。
そのグループが権力に返り咲くと、今度は対抗派閥が地方に飛ばされる。派閥に入らなかった者も、罪を着せられて追放になったりした。
まるで現代の中国共産党を見ているようである。どのような組織でも、派閥争いや権力争いはある。信念に基づいて派閥に入るのか、権力の流れを見て派閥に入るのか、あくまで中立を保つのか、会社でも教室でも部活でも、誰もが常に選択を迫られる。