【人事部長の教養100冊】
「善悪の彼岸」ニーチェ

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善悪の彼岸(表紙)

「善悪の彼岸」
フリードリヒ・ニーチェ

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基本情報

初版   1886年
出版社  光文社古典新訳文庫(日本)
難易度  ★★★★★
オススメ度★★★☆☆
ページ数 529ページ
所要時間 6時間00分

どんな本?

哲学・宗教・道徳・社会システム等の既存の価値観を痛快に全否定し、「力への意志に基づき、この瞬間を高揚して生きる」ことを説いた、ニーチェのロックで過激な代表作。

ルサンチマン、ニヒリズム、永劫回帰、力への意志、超人など、ニーチェ思想の神髄がエッセイ風に語られる。ニーチェに関心を持ったら、まず「善悪の彼岸」でニーチェ哲学の要点を押さえ、その後「ツァラトゥストラ」でその世界に浸り、最後に「この人を見よ」でニーチェ自身とともにニーチェ哲学全体を振り返るのがオススメ。

著者が伝えたいこと

隣人愛や神の前の平等を説くキリスト教も、最大多数の幸福を追う功利主義も、形式上全員に同じ権利が与えられる民主主義も、神や理性から道徳を説いた西洋哲学も、私から言わせればどれも虚構であり”まやかし”である。

人間の本質は、自分が強くありたい、自分が人を支配したい、自分が幸せでありたいと願う存在なのであり、この「力への意志」こそが人類を強くしているのだ。人に優劣があるのは当然であって、平等や道徳といった偽善を説くのは、常に劣った人々の方である。

著者

フリードリヒ・ニーチェ
Friedrich Nietzsche
1844-1900

ニーチェ

ドイツの哲学者。1869年バーゼル大学古典文献学教授となるが、1879年に体調不良により同大学の教授を辞任し、以後は在野の哲学者となる。

ショーペンハウアーの影響のもとワーグナーの創作活動を支援する理論付けを試みるが、その後、厳しい同時代批判、形而上学批判、芸術批判、道徳批判を行うようになり、2500年の伝統を持つ西洋哲学を全面的に否定し「生の哲学」という新しい哲学を創出する。

特にキリスト教を弱者の道徳として批判し、著書『ツァラトゥストラはこう言った』で「神は死んだ」と宣言。「強くありたい」という生命にとって根源的な欲求に光をあて、人間は芸術家のように、生きる価値を自らが創造しなければならないと主張した。

【ニーチェ思想の特徴】

①背後世界
社会から押し付けられた価値観に囚われることが人間を不幸にしている。

②大いなる正午
太陽が真上に来て全てを照らし出すように、全ての価値観から解放された世界を体感せよ。

③ルサンチマン
キリスト教は、弱者が強者に対して妬みを持ったことに端を発した奴隷道徳である。「神の前での平等」は強い人間への復讐心を正義で包み隠した、弱者こそが求めた考え方だ。隣人愛と平等=善、自己愛=悪という構図は人類を無価値な存在とし、ニヒリズムに至らせる。

④ニヒリズム
あらゆるものに価値、目的、真理などない。

⑤永劫回帰
人生には目的も価値もなく、永遠に同じことを繰り返しているだけ。神を信じることもルサンチマンを抱くことも一切無意味である。「神は死んだ」のだ。

⑥力への意志
一方、人間は動物と同じく自分をさらに強くしようとする意志を先天的に持っている。この意志は様々な苦しみを生み出すが、この意志以外に人間が生きる意味はない。神も理性も真理も存在せず、そこには力への意志に基づく人間の解釈があるだけだ。

⑦超人
人生に意味のないことを受け入れ、いまこの瞬間を肯定し、自分をさらに強くしよう、さらに美しくなろう、さらに人生を充実させようという本能的な意志を貫いて主体的に生きることこそが「善」であり、人を幸福にする。

主体的に生きて「生が高揚」することが大切なのであって、結果はどうでもよい。永遠回帰の中で、自分の人生を何度でも欲するような「超人」こそが救済の対象となる。「超人」こそが救済の対象となる。

⑧運命愛
この世のあるがままを運命として受け入れ、それを愛すべきだ。すべての『そうだった』を『俺はそう望んだのだ』に創り変えること、それこそが救済なのである。

こんな人にオススメ

ニーチェの世界に初めて触れる人、人間が生きる意味について答えが見いだせない人、中学2年生

書評

「ドイツ語で書かれた最も深遠な作品、言語の上で最も完全な作品」とニーチェ自ら評して世に送り出した著書『ツァラトゥストラはこう言った』が大きな反響を呼ばなかったことを受けて、同書を分かりやすく書き直したのが本作品。

ニーチェはとにかく自分が正しいと信じて、ニーチェはプラトンからカントまで、あらゆる哲学者を斬りまくるので、麻薬のような魅力があることは事実。

ただし(少なくとも本書では)批判の根拠が詳しく解説されているわけではないので、読んでいる側は「ふーん、そんな風にも考えられるかもねえ」くらいで読み進むことを要請される。

また、本書も『ツァラトゥストラ』と同じく散文調で書かれているため、体系的・論理的であるとは到底言えず、話題が飛ぶこともしばしばで、読みにくい箇所も多い。第8篇「民族と祖国」は、ニーチェによるドイツ人論なので、時間が無ければ読み飛ばしても問題ない。

なお、「善悪の彼岸」はあまり適切な日本語訳ではなく、より分かりやすく言えば「善悪を越えて」(英語タイトルはBeyond Good and Evil)となる。

\本書は30日間、無料で読めます!/
\専用端末無しで読めます!/

フリードリヒ・ニーチェ
(光文社古典新訳文庫)

※晩年のニーチェが自らの思想を振り返る!

要約・あらすじ

第1篇 哲学の先入観について

■哲学者は古代から「真理とは何か」を考えてきた。そのために、経験の及ばない形而上の世界があることまで想定した。確定的なものは不確定なものより価値があり、真理は仮象より価値があるなどとしてきた。しかし、それらは誤りである。

■哲学者は道を誤りやすい。カントは「定言命法*」という芝居じみたことを主張し、スピノザは倫理学に数学を持ち込むことで、自分自身の哲学体系に対する保身を図った。ストア派も「自然に従え」と言っておきながら、自分達の信じる価値観を「自然」に対して押し付けているだけである。

*定言命法とは?

カントが説いた最高の道徳法則の形。「〇〇のために〇〇する」という「仮言命法」に対して、道徳的に正しいことを無条件で為すこと。

カントによれば、例えば「真実を話すこと」は「定言命法」に属する。仮に殺人犯から友人をかくまっているケースでも、道徳に従うのであれば、殺人犯に対して「私は友人をかくまっている」と真実を告げなければいけない。

「友人を助けるために嘘をつく」ことを例外的に許容すると、例外が拡張して道徳が成り立たなくなると考えるためである。

■「自由意志の存在」についても怪しいものだ。意志が強い者は、自分で全てを制御できると驕り、意志が弱い者は「宿命論」や「人類の苦悩の宗教」をでっちあげて同情を誘う。

■物理学や生理学にしても、世界を説明しているようでいて、単に人間が把握できる範囲内の事象を解釈し、整理しているに過ぎない。心理学は道徳的な先入観にとらわれすぎている。今こそ、道徳を含むあらゆる価値判断から離れていくべきなのだ。

第2篇 自由な精神

■道徳には3つの時代があった。先史時代には、ある行為の善悪は、それがもたらす「結果」から判断されていた。1万年ほど前になると、その「起源」で判断されるようになり、その後は「意図」への変化していく。しかし今は、反道徳の入口にいる。これらの道徳観を乗り越えなくてはならない。

■自己犠牲や献身、隣人愛といった「意図」を持った道徳は、単に甘美で魅力的に見えるだけだ。人間はあらゆる有機体と同様に、生長したい、強くありたいという欲求がある。この「力への意志」こそが、人間が生きる理由である。人間が作り出す目標、意味、道徳などは、全てまやかしに過ぎない。

■最近流行っている「権利の平等」や「すべての苦しめる者たちへの同情」は、この「力への意志」とは正反対の考え方である。「力への意志」こそが、人間という種を高めているのだ。

■これまでの哲学者は「万人が正しいと認める範囲」を拡張してきた。しかし未来の哲学者は「これは私の考えだ」と独自の主張をするようになるだろう。「共通の善」などはまやかしである。

第3篇 宗教的なもの

■キリスト教の信仰は最初から、犠牲を捧げる行為だった。キリスト教の「道徳」の本質は、互いに互いの自由を制限しあうということ以外の何ものでもない。

■大多数の人々にとって、宗教とは生の価値を高めてくれる存在であり、常に虐げられている自分達を少しでもマシなものに見せてくれるための手段である。弱者が強者を妬むルサンチマンという奴隷根性こそが、キリスト教の本質なのだ。

■キリスト教は「神の前での平等」を説き、強きを挫き、弱きを守った。その結果、キリスト教は本来「没落すべき」であったものを、あまりに多く維持してきてしまった。キリスト教はヨーロッパ種族を劣悪なものにしたのである。

第4篇 箴言と間奏曲

■ただ唯一神を愛するということは、隣人愛を否定することになるではないか!(キリスト教は矛盾だらけだ!)

■道徳的な現象は存在しない。あるのは現象の道徳的な解釈だけだ。

■個人の狂気は稀だが、集団・党派・民族・時代は狂っているのが常だ。

第5篇 道徳の博物学のために

■人間が善とか道徳とか呼んでいるものは、「誰も害することなく、できるだけ多くの人を助ける」ための家畜の群れとしての人間の本能である。しかし、道徳など偽善に過ぎない。世界の本質は「力への意志」で出来ているのだ。

■人類の歴史では、先導する者より服従する者の方が圧倒的に多かった。服従者は「道徳を守ること」こそが美徳であると説き、無条件に命令を下すものに喜んで従う。ナポレオンがその典型だ。

■ストア派哲学は、人間の欲動を抑え付ける。キリスト教は穏やかな隣人愛を奨める。アリストテレスは中庸を薦め、スピノザは情動をなくせと主張する。しかしそのような奴隷的状況では、個人の「力への意志」を奪うことになる。

■民主主義は人間の堕落した姿である。「最大多数」など無意味な概念だ。社会主義もキリスト教も弱者が平等を求めているだけだ。今こそ、未来を己の意志のとおり切り拓く新しい哲学者が必要なのだ。

第6篇 われら学者たち

■科学を哲学より上位に位置付けるのは誤っている。しかし科学が隆盛する一方で、哲学は単なる「認識論」にまで落ちぶれている。

■科学にしても哲学にしても「学者」は人類にとって単なる道具であり、一人の奴隷に過ぎない。なぜなら彼らは何も生み出さないからだ。創造でも第一原因でもなく、支配者であることを望む強い意志を持っているわけでもない。

■最近の哲学者は押しなべて「懐疑的な人間」であるが、彼らの間で最も退化しているのは「力への意志」である。真の哲学者は人の「生き方」や「生きる意味」といった価値を生み出す存在でなければならない。力への意志に溢れる者こそ偉大なのだ。

第7篇 私たちの徳

■人間が多様であり優劣があるのと同様、道徳も多様であり優劣がある。「ある人に正しいものは、他の人にとっても正しい」と主張することは、不道徳的なことだ。

■快楽主義も悲観主義も功利主義も、すべて快楽と苦痛によって事物の価値を測ろうとする。しかし、人間を高めるのは、大いなる苦悩がもたらす鍛練だけなのである。苦痛や苦悩をゼロにしてはいけないのだ。

第8篇 民族と祖国

■ヨーロッパは「民主化」の過程にある。つまり、風土や階級から解放され、諸民族が均等で凡庸で、家畜的で奴隷的な人々になりつつある。一方、教育が身分や出自に拠ることなく行われることにより、意志を持つ強い人間が生まれる可能性もある。

■ユダヤ人・ローマ人・ドイツ人は無から有を産出する男性的な存在であり、イギリス人・フランス人は形成し、成熟させ、完成させる女性的な存在と言える。

第9篇 高貴なものとは

■貴族社会の起源は、野蛮人が、平和的で文化的な種族に襲い掛かって支配階級になった時に遡る。我々が高貴な人々と呼んでいるのは、精神力のある野蛮人のことなのだ。

■生の本質とは、他者や弱者をわがものとして制圧し、搾取することである。貴族とは生来的にそのような集団であり、同じ立場にいる人間同士で群れる。

■道徳には主人の道徳と奴隷の道徳の2種類がある。主人の道徳には同情も無私もなく、ただ力の横溢から生まれる欲動そのものが道徳とみなされる。奴隷の道徳は、主人の幸福は本物ではないと信じ、自らの生存に危険を及ぼさない人を「善」と定義付ける。

■一つの思想が理解されるには、とても長い時間を要する。最も遠くにある星の光は、人間に届くのに時間がかかるのと同様だ。光が届かない間、人間はその星の存在を否定するのだ。

学びのポイント

ストア派を否定する

ストア派は「自然に従って生きよ」と教えたが、君たちは本当に生きることを望んでいたのか。

生きるとはまさに、この自然とは〈違ったものとして存在しようとすること〉ではないのか。生きるということは、評価すること、選り好みすること、不正であること、限られたものであること、関心をもとうと[違ったものであろうと]欲することではないだろうか?

ニーチェは、これまでのあらゆる哲学体系を批判するが、ここではストア派がやり玉に挙がっている。

まずはストア派哲学の基本的な考え方を押さえておこう。

・人間は、幸福に生きることを目的にしなくてはいけない。

・財産や地位といったものは人為的で、生きる目的にならない。宇宙や自然を支配する秩序や法則に従って生きることこそが、人生の目的となり得る。

・幸福とは、この宇宙を支配する秩序に従い、理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制して、不動心(アパティア)に達することである。

・不動心に至るには、我々にはコントロールできるものとできないものがあることを自覚し、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものに囚われないという態度が必要である。

この考え方は、ローマ皇帝であり、ストア派哲学者でもあったマルクス・アウレリウス・アントニヌスの著書『自省録』の以下の箇所で典型的に現れている。

神々のわざは摂理にみちており、運命のわざは自然を離れては存在せず、また摂理に支配される事柄とも織り合わされ、組み合わされずにはいない。

克己の精神を持つこと。いろいろな場合、たとえば病気の場合でさえも、機嫌良くしていなければならない。

バーゼル大学でギリシャ・ローマの古典を研究していたニーチェは当然理解しているわけだが、ストア派は別に「自然と一体化して生きろ」と言っているわけではなく、自然を支配する理性に従って、自分自身も理性で感情を制御しなければならないと言っているだけである。

ニーチェにとっては、「〇〇に従って生きる」と、価値判断を何か自分以外のもの(この場合は自然)に委ねているという点が、批判の対象だった。ストア派は自然に従っているように見えて、自分たちの価値観に合った自然を求めているだけだ、とまで言っている。

しかしながら、何も拠りどころにせずに生きていくというのは、なかなか困難だ。ちなみにストア派の「宇宙の秩序に従って生きる」という考え方は特別なものではなく、多くの日本人も同じようなことを主張している。

天が指し示す道理というのは、人為によって左右されるものではないというのが、この天や道についての基本なのである。だから「私」を差し挟んではいけない。

西郷隆盛「南洲翁遺訓」

人間の繁栄は、全て宇宙の秩序に基づいて与えられるものであります。この秩序に従って生きることが大義であります。

松下幸之助「松下幸之助の哲学」

宇宙を貫く意志は愛と誠と調和に満ちており、すべてのものに平等に働き、宇宙全体をよい方向に導き、成長発展させようとしている。

稲盛和夫「生き方」

力への意志

私たちの欲動の生の全体は、意志の唯一の根本形式が、すなわち私の命題では「力への意志」が形成され、分岐して生まれたものだと説明することができたならば、全ての有機的な機能をこの「力への意志」から導き出すことができる。

なかなか回りくどい言い方ではあるが、本書で初めて「力への意志」について述べられる箇所である。

ニーチェの言う「力への意志」とは、簡単に言うとこうだ。

・あらゆる有機体は、すべからく「生長しよう」と欲する。「生長したい」「強くなりたい」という根源的欲動を持つ。これを「力への意志」と呼ぶ。

・人間が作り出す目標や意味は、「力への意志」の派生的形態に過ぎない。言い換えれば、人間が「より強くなろうと欲すること」が本質で、人間が設定する目標や人生の意味は仮象に過ぎない。

・よって、「力への意志」の本質は、肉体・性欲・恋愛・恍惚・陶酔・支配欲といった生命感情であり、人間が生きる意味はそれらを求めることにしかない。

・キリスト教の隣人愛は、自分を捨てて他者を受け入れ、自分より他者を愛せよと説く。しかし、それは不可能だ。人間は自己への欲望を捨てて他者を愛することはできない。むしろ、自己への愛を通じてはじめて、他者を愛することが出来る。なぜなら、人間にとって「力への意志」が唯一の源泉だからだ。

ルサンチマン

大多数の人々にとっては、宗教とは自分たちの境遇と性質に満足できるようにするための計り知れないほどの貴重な手段である。(中略)

宗教と、宗教によって価値の高いものとなった生は、つねに虐げられているこうした人々に光をあて、彼らが自分の姿を眺めても耐えられるようにするのである。(中略)

宗教は、病気に苦しむように生きることに苦しむすべての人々を正しき人々とみなし、生についてほかの考え方をするのはすべて間違ったことであり、不可能なことであると主張するのである。

『旧約聖書』において、時代が古いページでは「いつか神様がやってきて、ユダヤ民族をいじめる敵を滅ぼしてくれる!」と言っているのに、時代が進むと「神の名のもとに、他者のために苦しみを引き受けましょう。他者のために死にましょう」という徹底的な受苦の教えに変質してしまう。

これは、決して強者になれない弱者が「弱者=善、強者=悪」という価値観を打ち立て、自分たちの嫉妬や劣等感、つまりルサンチマンの発露としたために生じた。

「人間は神のもとに平等である」というイデオロギーも、「世の中には強者と弱者が存在する」という事実の否認から生じるルサンチマン思想に他ならない。

この人間の「平均化」は何を意味するか。それは、互いにその「自由」を拘束しあうこと、そのことによって一層凡庸化し、虚弱化した人間を制度的に作り出すことである。

自由からの逃走

この家畜的なヨーロッパ人にとっては、無条件に命令を下す者の出現が、どれほどまでに好ましいものであることか、そして耐えがたくなりつつある窮地からどれほどに解放してくれるものであることか。

ナポレオンの出現がきわめて大きな影響を及ぼしたことが、その最後で最大の証言となるのである。

ニーチェは本書の中で「歴史を振り返ると、先導者より服従者の方が圧倒的に多数派だ。人は自由に耐えられず、自ら喜んで服従する性質を持っている」という趣旨のことを述べており、この引用箇所も同じことを言っている。

ニーチェはこの時ナポレオンを先導者の例として挙げたが、歴史はその後も繰り返すことになる。

本書の発刊から下ること約150年、ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムは著書『自由からの逃走』で以下のようなことを述べ、自由から逃れたかった人々がナチスに傾倒したと結論付けている。

エーリッヒ・フロム

・人間は、自分の意思で「自由」を求めていると信じている。

・しかし、人間は自由になればなるほど、心の底では耐えがたい“孤独感”や“無力感”に苛まれる。

・そして孤立する恐怖から逃れるため、自由から逃避し、盲目的に何かに服従するようになる。

ニーチェの先見性には脱帽するばかりである。

人事部長のつぶやき

よく知られているニーチェの名言

怪物と闘う者は、闘いながら自分が怪物になってしまわないようにするがよい。

長いあいだ深淵を覗きこんでいると、深淵もまた君を覗きこむのだ。

このフレーズは「ミイラ取りがミイラになる」という趣旨と理解するのが一般的であるが、特に後半部分は魅力的な響きを持っているので、引用されることが多い。

普段、哲学に触れない人でも、アニメ好きの方やSNSに感度の高い方は、このフレーズを聞いたことがあったり、オマージュを見たことがあるかもしれない。

例えば、ゲゲゲの鬼太郎第68話「極刑!地獄流し」では、私利私欲にまみれた強盗が宝石を覗き込んでいると、向こう側からもこちらを覗く眼が現れて・・・という場面がある。作者の水木しげるは、ゲーテ、カント、ヘーゲル、ニーチェ等を好んで読んでいたので、恐らくニーチェのオマージュとして描いたのだろう。

また、IT名言の中に「あなたがGoogleで検索しているとき、Googleもあなたを検索しているのだ」というものがある。本人はGoogleで何かを調べていると思っていても、Googleはその人がいつ何を調べたかというデータを取っているという意味である。

なかなかよく出来た名言ですね!

天才の宿命

一つの精神が理解されるまでは、いったい何世紀を必要とするのだろう。

最も遠くにある星からやってくる光は、最も遅く人間に訪れる。そして光が人間に届かないあいだは、そこに星があることを──人間は否定するのである。

本書の終盤で、ニーチェはこのように吐露する。

自信作として世に送り出した『ツァラトゥストラはかく語りき』があまり読まれなかったため、ニーチェは改めて本書を出版したという事実を踏まえると、「あまりに先進的な思想は、なかなか世の中に理解されない」とニーチェ自身が思っていたのだろう。

ニーチェは現在でも変人扱いされることが多いですが、本人はそれを自覚していたのでしょうね

フリードリヒ・ニーチェ
(光文社古典新訳文庫)

※晩年のニーチェが自らの思想を振り返る!