【人事部長の教養100冊】
「人物を修める」安岡正篤

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人物を修める(表紙)

「人物を修める」安岡正篤

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基本情報

初版   1986年
出版社  到知出版社
難易度  ★★★☆☆
オススメ度★★★☆☆
ページ数 255ページ
所要時間 3時間00分

どんな本?

昭和を代表する知の巨人「安岡正篤」による「人間学」の講演録。理性や論理といった西洋思想をもとに科学技術は発展したが、それを制御するのは徳や善といった東洋思想であるとする安岡哲学の基本教科書。

仏教・儒教・道教のうち、「徳」の涵養や「人間学」にとって有用な教えに絞って解説されている非常に密度の濃い一冊。本書のほか「運命を創る」「活眼活学」の3冊をまとめて読むと、安岡の思考・思想を網羅的に追体験できる。

著者が伝えたいこと

日本は四方を海に囲まれ外敵に攻められることなく、万世一系の天皇を戴いて歴史を重ねてきた。良く言えば生一本な国民性だが、悪く言えば単純で戦略性がない。

その点、中国は四方を異民族に囲まれ、人間的にはまさに老獪である。日本人は中国人、ないしは中国に源流を持つ東洋思想に学ぶべき点が多くある。

本物の学問というものは、人間学、人格の学問、叡智の学問が本体で、知識・技術の学問はそこから出て来るものである。全人格的なものでなければ、本当の学問とは言えない。元来、東洋の学問は全人格的なものだった。

著者

安岡やすおか正篤まさひろ 1898-1983

安岡正篤

大阪市生まれ。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大学卒業後に文部省に入省するも、半年で辞めてしまう。その後、1923年に「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。同年より拓殖大学東洋思想講座講師となる。

1932年には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、近衛文麿らとともに「国維会」を設立し、官僚を育成するようになる。同団体から廣田弘毅(第32代内閣総理大臣)会員が入閣したことで世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後には解散に追い込まれる。

1945年8月、天皇陛下の「終戦の詔書」がラジオで放送されたが、この「詔書」に最終的に目を通し、手を入れたのは安岡と言われている。

昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた。

こんな人におすすめ

昭和における知の巨人「安岡正篤」の人間学に気軽に触れてみたい人。東洋的な修養に関心のある人。

書評

「東洋思想十講」とあり、仏教・儒教・道教に触れられているが、それらが体系的に学べるわけではない。「徳が大切だ」という安岡哲学を軸に、それら3つが交差・展開される。

非常に平易な言葉で書かれているので、初心者でも安岡哲学の雰囲気を感じることができる。あくまで入門編といったところで、これ1冊で安岡哲学を網羅的に学べるわけではないが、「人物を修める」「活眼活学」「運命を創る」の3冊を読めば、安岡哲学のエッセンスを理解することは可能。

安岡正篤
(致知選書)

※「西洋の科学や論理を制御するのは、東洋の徳や善」と説く安岡哲学の基本教科書!

要約・あらすじ

■西洋の理性・論理に拠った科学技術は相当に進歩したが、それを制御するには「徳」の力が必要である。徳とは世界の本質が人間を通して現れたものであり、人々を正しい方向に導く力でもある。その徳を身に付けるには、古典的教養が不可欠である。

■本講演(本書)では仏教・儒教・道教のうち、「徳」の涵養や「人間学」にとって有用なものを紹介する(=仏教・儒教・道教を体系的に解説するわけではない)。

引用例)仏陀は最初の説教で「八正道」を説いた。これは仏教の根本であり、理解しておく必要がある。
正見(正しい考えを持つ)
正思惟(正しく善く美しい目的を持つ)
正語(正しい言葉で語る)
正業(殺さず、盗まず、姦淫しない)
正命(正しい運命観を持つ)
正精進(正しい努力を行う)
正念(常に現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいる)
正定(何ものにも動じない境地に達する)

引用例)儒教とは、この天地を支配する理法に則って生きる道を解明し、それに沿って生きるところに本質がある。中国は歴史的に異民族に周囲を囲まれ、権謀術数・謀略・奸計にまみれていたが、やはり人間である以上は道義には勝てない。

そのことに気付いた中国の先人が、修身・斉家・治国・平天下の道義的思想・学問・教養・人物を養うことを第一に発達させたのが儒教である。

引用例)儒教では人を観察し、良し悪しを判断する基準として「六験」という考え方がある。①喜ばせてみる②楽しませてみる③怒らせてみる④恐れさせてみる⑤悲しませてみる⑥苦しませてみる

■近代西洋文明は、物事を細分化して分析することで発達してきた。医学がその典型である。現代人の職業も同様で、分業化が進み、視野の狭い人間が増えている。

■しかし、政治や社会を指導する立場の人間であれば、東洋思想が依拠するように、教養・見識・信念といった人間全体の修養が必要である。

学びのポイント

中国と日本の違い

中国は歴史的に終始、異民族からの攻撃・征服、それに対する反乱・革命という惨憺たる悲劇を繰り返してきた。夏・殷・周・秦・漢・晋・隋・唐・宋・元・明・清と、王朝の「姓」が変わる。

このことを易姓革命(※)と呼ぶが、神武天皇から姓を持たずに万世一系の皇統を戴いている日本と大きく異なる。

日本の場合は歴代の支配層も天皇に対しては謙虚であったし、明治維新も国家体制を転覆させる革命ではなく、征夷大将軍の任にあった徳川幕府が平和裡に大政を奉還しただけであった。

中国人はその歴史ゆえ、相当に老獪である。容易に喜怒を外に出さないし、真実を表さない。一方の日本人は単純である。中国人には相当注意してあたらなければ足を掬われる(要約)。

※易姓革命とは
中国古代の政治思想。天子は天命を受けて国家を統治しているから、天子の徳が衰えれば天命も革(あらた)まり、有徳者(他姓の人)が新たに王朝を創始するという考え方。

中国には学ぶべき点が多いが、その「老獪さ」には注意しなければならない。

1895年の日清戦争勝利以降、表面上の日中関係は日本優位だった。経済的にも軍事的にも、日本は中国の一歩先を行っていた。

しかし、中国とは恐ろしい。内需だけで食べていける規模と、支配層がどれだけ変わろうとも、民衆は大家族制をもとに、確固たる国家基盤を作ってきた。日中戦争で日本がいつまでも中国を制圧できずに泥沼に追い込まれたことを忘れてはいけない。

そして現代である。習近平は2019年11月に外国人記者と会見し、こんなことを言っている。

・中華民族の偉大な復興という『中国の夢』は断じて『覇権の夢』ではない

・れわれは誰かに取って代わろうと準備しているわけではない。ただ、あるべき尊厳や地位を回復し、過去の半植民地国家の屈辱を再び味わいたくないだけだ

いやいや、ちょっと待て。これは明らかに太平洋側にいるアメリカを意識した発言である。

一方、中国国内の過剰生産のはけ口としての「一帯一路」政策は着実に進んでいる。そして「同エリアの投資を保護するため」という名目で、世界各地に新たな軍事拠点を建設していくだろう。

中国の一帯一路政策
中国の一帯一路政策

まさに老獪そのものである。日本を挟んで米中が覇権争いをする中、日本はどういう態度で臨むべきなのだろうか。中国を取り巻く国々を仔細に見ていくと、インドをインド洋・ベンガル湾・ヒマラヤ山脈に囲まれた「島」と考えれば、

海洋国家 アメリカ・日本・台湾・インド・オーストラリア・ニュージーランド

VS

大陸国家 中国・ロシア・朝鮮半島

という大きな構図が見えてくる。

海洋国家vs大陸国家

たまたまなのか、構造的なのかはよく分からないが、海洋国家=民主主義国家大陸国家=共産主義国家、という構図ともきっちり重なる(韓国は民主主義国家だが、最近では中国・北朝鮮に近づこうとしている)。

日本の基本戦略としては、中国を海洋国家(シーパワー)にしないために、アメリカや台湾などと協調していく他、ないのであろう。まず太平洋を中国の海にしない、そしてインド洋も中国の海にしない、ということだ。

老獪な中国には心してかからなければいけない。

西洋と東洋の人間観

東洋では人間は自然の一部であるが、西洋では自然は人間が支配する対象である。

だから西洋人は山に登っても「アルプスを征服した」とか「ヒマラヤを征服した」とか言う。

これはよくある話だが、非常に納得感がある。事実、旧約聖書は「はじめに神は天と地とを創造された」「人間は海の魚と、空の鳥と、地の動物を全て治めよ」と言っている。まさに西洋では人間が自然界の頂点にあるのだ。

これは庭園を見ればさらに一目瞭然となる。

ヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ宮殿
枯山水
枯山水

西洋の庭園は一般的に左右対称で、実に整然としている。人間が自然に手を加えており、「どう美しいか」「どう美しくしたか」を論理的に言語化できる。

一方の東洋の庭園は、自然が活かされているか、「人工的に」自然を表現するような形式をとる。主役は自然自身であって、人間ではない。

では西洋と東洋の差はなんだったのか。これはあくまでも仮説ではあるが、直接的にはユダヤ人が置かれた過酷な環境にあるのではないだろうか。

西洋の思想を規定したのはキリスト教であり、そのルーツはユダヤ教である。ユダヤ民族は中東の砂漠しかないような厳しい自然環境で生きてゆかねばならず、しかもエジプトで奴隷として抑圧されており、「いつか自分達を助けてくれる」絶対的なものを設定し、民族の求心力とする必要があった。

それが「神」であり、神は全知全能である必要があったから、全ての創造主となった。その神に一番近い存在である人間が、自然を支配するのは自然だった。

一方、東洋の文明圏(ここでは中国と日本)は、土地は肥沃で、各民族がそれなりに幸福に暮らしていたため、絶対的な存在に頼る必要はなかったのかもしれない。事実、儒教も道教も仏教も神道も、西洋で言う神のような、自然を超越した存在を想定していない。

そしてこれは東西の思考法の違いにも表れる。例えば「人間は自分を律しなければいけない」という主張でも、西洋は神から演繹的に導き出し、東洋は歴史的から帰納的に導き出している。

人間は神によって理性的に創られたのだから、理性に基づいて生きなければならない。自らの内なる「自然」に従わなければいけない。

私利私欲や不機嫌等は理性で制御し、死・貧困・不健康等の理性ではどうしようもないものは粛々と忍ぶだけだ。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』

もし天下を安定させようとするのなら、まずは自分自身を正さなければならない。国が亡びる原因は、決して外圧ではなく、みなトップ自らの欲望によってその禍根を作ってしまうのだ。

太宗 李世民『貞観政要』

これはなかなか面白い。

徳の時代は続く

1964年のNATO会議で、ニクソン大統領の特別補佐官がこう言った。

ここまで発達した科学・技術は、今後改めて道徳と結びつかなければ、恐るべき破滅に瀕するに違いない。今日の文明がこのまま進むと、恐らく10年ないし20年以内に、文明民族の半数がその犠牲になるだろう」

これは当時の核開発競争を念頭に置いた発言であろう。人類はその後、愚かな戦争は繰り返しながらも、滅亡は免れている。これは人類が賢くなったからではなく、国家間で働く抑止力に依存しているに過ぎない。

環境汚染や地球温暖化についても、世界は統一した行動をとれていない。これは50年前から状況は変わっていない。

その後、現れたのがAI(人工知能)である。これは人間の持っている「論理的思考力、記憶力と検索力、集中力と持続力」をはるかに凌駕する。このAIを制御するのも「徳」に他ならないのではないか。

そしてこの「論理的思考力、記憶力と検索力、集中力と持続力」は、日本の受験競争に必要な能力とぴったり重なる。高学歴の秀才が淘汰される日も遠くない

今後、社会や組織から求められるのは、イノベーションを起こしたり、真善美を判断したり、周囲を成長させたりパワーを与えたりできる人材だろう。

偉くすべき人、すべきでない人

明末の学者・行政家である呂坤はその著書で、「大臣のあるべき姿」を6ランクに分けて論じている。

一位
遠大な見識と広い度量の持ち主。大きな手柄があるわけではないし、頭が良いという評判もないが、知らぬうちに民衆はその賜を受ける。

二位
てきぱきしていて自分の意見をはっきり述べる。仕事のことばかり考える。たまに能力や意欲を出し過ぎて、周囲の反発を招く。

三位
良いことも悪いことも、目立つようなことはしない事なかれ主義。面白くはないが、安全は安全。

四位
自分の立場や評価に気を遣う。最終的には自分さえ良ければというタイプ。

五位
私利私欲を優先させる。

六位
自らの野望のためには動乱も辞さない。

さすがに五位・六位はいないにしても、まあ世の中に二位~四位の多いこと。特に二位は、自分も自信を持っているし、周囲からも頑張りだけは評価されるので、偉くなってしまう可能性が高い。

しかし、二位のタイプは、「才」はあっても「徳」が追い付かないケースが非常に多い。皆さんの周囲にもいるのではないだろうか、仕事はできるが人望の無い人が。

成果はいいとして、そこに至るまでに、部下を疲弊させていないか、部下の力を最大限引き出しているか、余計なコストを掛けていないかなど、総合的に評価する必要がある。

一位のタイプの人には役職を、二位のタイプの人には報酬を与える、というのが、正しい姿。組織のトップには、「誰がどのタイプなのか」を見抜く力がほしいところだ。

人事部長のつぶやき

母親と父親の役割分担

戦後の日本は、西洋に倣って「愛」を強調しすぎであり、「敬」が軽視されている。家庭では「愛」は母親の、「敬」は父親の役割だ。

子供に愛情を持って接するのは母親、子供に敬の念を抱かせるための態度、言葉、振る舞いを見せるのが父親の役割。父親はあまり子供に口うるさくしてはいけない。

安岡が生きた40年前であれば許されたであろうが、このジェンダー論かまびすしい現代では、炎上しそうな内容ではある。しかし、特に男性諸氏には何となく理解できる部分があるのではないか。

イクメンブームも良いが、父親と母親が全く同じ機能を果たすというのは、どうも自然の理に反する気がする(根拠はないが)。

少なくとも私は安岡の言う「父親」の機能を果たしたいと思います!

ものを考える基本原則

ものを考える上で大切な3つの基本原則は以下のとおりである。

1.目先にとらわれず、長い目で見る

2.物事の一面だけを見ないで、できるだけ多面的・全面的に観察する

3.枝葉末節にこだわることなく、根本的に考察する

いやあ、そうなんですよ。企業内の研修なんかでも、よく出てきますよね。分かります、理屈としては。でも、この3つの基本原則、普段の仕事で意識することってあまりないんですよね。無意識に考慮できているのであれば、それでいいのですが。

ここで安岡の言っていることは、「物事を細部に分割して分析的に見るのではなく、総体として考えろ」ということだろうと私は理解しています。

論理や目の前の情報にとらわれず、①全体の中でどう位置付けられるか(経営計画、組織、ステイクホルダーなど)②背後に何があるのか(人の欲求であったり怠惰であることが多い)③将来どうなるかを気に掛ける。こう言い換えると、少し腹落ちするかもしれない。

女偏の漢字

女偏の漢字には悪い意味のものが多い。嫉妬は両方女偏である。一方、女性が子供を抱いているのは「好」、女性が家にいるのは「安」でどちらも良い感じである。やはり女性は子を抱き、家にいるのが自然なのだ。

これも40年前だから炎上せずに済んだのだろう。法律や慣習には「不遡及の原則」があるので、鎌倉時代の武士に「なんて封建的な奴だ」と言っても無為なのと同様、安岡を責めてもあまり意味はない。

確かに女偏の漢字を思い浮かべるに、奴・婢・媚・奸・嫌などなど、確かにあまりいい意味ではないものが多い。だからといって、これも「Political Correctness」よろしく、全て書き換えられるような時代がやってくるのだろうか。

BusinessmanをBusinessperson、FiremanをFire Fighterくらいは分かるけど、それであればHistory (=His Story)はHisherstoryとでもするのでしょうかね。

前からテレビのテロップに出るようになった「この後、スタッフが美味しくいただきました」的な予定調和になりかねませんね。

安岡正篤
(致知選書)

※「西洋の科学や論理を制御するのは、東洋の徳や善」と説く安岡哲学の基本教科書!