【人事部長の教養100冊】「モモ」M・エンデ

モモ

「モモ」ミヒャエル・エンデ

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基本情報

初版   1973年
出版社  岩波少年文庫
難易度  ★★☆☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 409ページ
所要時間 4時間30分

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どんな本?

ドイツ人作家ミヒャエル・エンデによる長編童話。1974年にドイツ児童文学賞を受賞。現代社会の枠組みから外れた不思議な少女「モモ」が、時間泥棒に奪われた現代人の時間を取り戻す冒険ファンタジー。

著者が伝えたいこと

現代人は常に時間に追われて忙しくしている。「将来のため」「よい暮らしのため」と言うが、これでは生きることの意味や喜びを見失っている。「時間泥棒」を生み出したのは、効率ばかりを追う現代人自身なのである。

著者

ミヒャエル・エンデ 1929-1995

ドイツの児童文学作家。10代で迎えた第二次世界大戦では、ナチスへの抵抗運動に参加。戦後は演劇学校に入って演劇を学び、脚本も手掛ける。

しばらく仕事の無い状態が続いたが、1960年には最初の児童書である『ジム・ボタンの機関車大旅行』を発表。翌年にドイツ児童文学賞を受賞し、一躍世間に知られるようになる。

日本への関心も高く、1977年には日本に滞在。1989年に翻訳家の佐藤真理子と結婚するも、1995年に病没する。

こんな人にオススメ

忙しくて疲れている人、何となく人生に充実感の無い人、小学校高学年から中学生くらいのみなさん

書評

「時間の使い方」に関する自省を促すという要素はもちろんのこと、モモと灰色の男たちとの手に汗握る攻防などは、大人が読んでも十分に楽しめる。

「効率ばかりを追い求めてはいけない」「人間らしさを大切に」というメッセージを、共産主義的・懐古主義的と解釈する一部の人々には、あまり好まれないかもしれない。

要約・あらすじ

【モモの主な友達】

第1部 モモとその友達

■大きな都会の外れにあった円形劇場に、身寄りのない、もじゃもじゃ頭の不思議な少女「モモ」が住み着いた。モモは「人の話を聞くこと」が出来たため、街の人から頼りにされた。子供たちもモモと遊ぶと、より一層楽しむことが出来た。

■モモと特に仲が良かったのは、道路掃除夫の老人ベッポと、観光ガイドの若者ジジだった。ベッポは無口で、口を開くと変なことを言うので、周囲からは相手にされていなかった。一方のジジは嘘ばかりのガイドで観光客から金を巻き上げるお調子ものだったが、モモを含めた3人の中は良かった。

■やがてモモ達の住む街に「灰色の男達」がやってくる。全身灰色で、常に何かをメモしている。しかし、モモ以外の誰もその存在に気付くことはなかった。音もなく、人目に付かず攻め入ってくる侵略軍のようだった。モモは強い寒気を感じたが、灰色の男達はやがていなくなった。

第2部 灰色の男たち

■床屋のフージーは、何もかもがつまらなかった。時間さえあれば、もっと違う人生を歩めたはずだと思っていた。そこに時間貯蓄銀行から灰色の男がやってきて「あなたは時間を無駄遣いしている」「毎日、時間を貯蓄せよ」「利子で人生は10倍以上に伸びる」と迫った。

■フージーはその気になってしまい、仕事では無駄口をやめ、使用人の仕事を1秒単位で管理し、好きな人と会う頻度を減らし、ペットを売り、母親を養老院に入れた。そしてフージーはどんどん怒りっぽく、落ち着きのない人になっていった。

■やがて「無駄がない」ことが社会の最優先事項となった。仕事では生産性向上が掲げられ、頭を使わない定型業務が増え、町並みは標準化されていった。人々の生活は日ごとに画一的になり、冷たくなり、貧しくなっていったが、誰もそれを自覚していなかった。モモと子供たちだけが、その異変に気付いていた。

■灰色の男はモモに「人生で大切なことは成功すること。君は友達の時間を奪っている」と説いた。しかしモモが真正面から灰色の男と対峙すると、男は自分の正体と人間から時間を奪っていることを自白してしまう。

■モモがジジにその話をすると、ジジは街中の子供たちを集めてデモ行進し、灰色の男を退治するために団結するよう大人たちに呼びかけた。しかし大人たちは、誰一人として協力しなかった。モモは灰色の男たちに追われる身となったが、「マイスター・ホラ」という時間を司る老人がカシオペイアという不思議な亀を派遣して、モモを時間の世界から連れ出してくれた。

第3部 時間の花

■一方の灰色の男たちは、モモから友達を引き離し、モモの時間の使い道を無くすという反撃に出る。まずジジに「面白い話をする」仕事で成功させてスケジュールを埋め尽くし、ベッポには「10万時間を貯蓄したらモモを返す」と嘘をついた。ジジもベッポも時間に追われる身となってしまい、人生に生きがいを見出せなくなってしまった。

■次に、既に支配下にある大人達を使って、子供たちを「こどものいえ」に収容した。大人達は何かを学べる遊びしか与えなかったため、子供たちは夢中になって何かを楽しむという経験を失い、大人と同じ時間貯蓄家になっていった。灰色の男たちの思惑通り、モモは孤独に苛まれることになった。

■そこに灰色の男が現れ、モモに取引を持ち掛ける。モモは灰色の男にマイスター・ホラの居場所を教える、灰色の男はモモに友達を返すという提案だったが、モモはそれを断った。

■その後、行方不明になっていた亀のカシオペイアが再び現れ、モモを「マイスター・ホラ」の元に連れて行ってくれたが、後を追った灰色の男たちに包囲されてしまう。そこでホラはモモに「時間を止めて、灰色の男たちが(人間から奪った時間を貯めておく)時間貯蔵庫に向かうように仕向ける」ことを提案し、今度はモモが灰色の男を追うことになった。

■モモとカシオペイアは勇敢に灰色の男たちに立ち向かい、ついに時間貯蔵庫にある時間を解放すると、人々にまた充実した生活が戻り始めた。美しい花を眺める時間、小鳥にパンくずを投げる時間、道の真ん中でゆっくり遊ぶ時間が生まれ始めた。モモはベッポやジジ、その他の仲間たちと再会し、円形劇場でお祝いをした。

学びのポイント

「傾聴」が出来るモモ

小さなモモにできたこと、それは他でもありません、相手の話を聞くことでした。

なあんだ、そんなこと、と皆さんは言うでしょうね。話を聞くなんて、誰にだってできるじゃないかって。でもそれは間違いです。本当に聞くことのできる人は、滅多にいないものです。そしてこの点でモモは、それこそ他には例の無い素晴らしい才能を持っていたのです。

本書の冒頭で、モモの特技である「傾聴」について語られる。この物語全体が「時間に追われている現代人へのアンチテーゼ」であることを踏まえると、作者は現代人が「傾聴」を疎かにしていることに対して警鐘を鳴らしていると解することが出来る。

この「傾聴」は、簡単なようで非常に難しい。皆さんには経験がないでしょうか。仕事が忙しい、できるだけ早く業務を処理したい、判断したい。そのために、部下には要点を簡潔に話してほしいと思う、冗長に話されるとイライラしてしまう、話の要点が見えた瞬間に話を遮って、指示を出してしまう、などなど。。。

世の中の賢人たちも、この「傾聴」の大切さについて繰り返し訴えています。3つほど例を挙げておきたます。

わが身を振り返ってみてほしい。誰かと話をしているとき、相手の話を理解しようと真剣に聴くどころか、相手が話し終わった後のリアクションを考えながら聞いていないだろうか。(中略)

共感して話を聴くのはたしかに時間がかかる。しかし、相手に心理的な空気を送らず未解決の問題を抱えたまま、ずっと先に進んでから誤解を正したり、やり直したりすることに比べれば、たいした時間ではない。

スティーブン・コヴィー『7つの習慣』 ※21世紀最強の自己啓発本

「僕、わかっているよ──お母さんが僕をとても愛してくれているってこと」 エスポシト夫人は、これを聞いて胸が熱くなった。「もちろん、とっても愛しているわよ。そうじゃないとでも思ったことがあるの?」 「ううん、お母さんが僕を愛してくれていることはよくわかっている。」

「だって、僕が何かお話ししようとすると、お母さんはきっと自分の仕事をやめて僕の話を聞いてくれるんだもの」

デール・カーネギー『人を動かす』

他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。

たいていの人は、相手の話をろくに聞かずに、聞くふりをしては、助言すらあたえる。その結果、会話している二人はどちらも疲れてしまう。

そういう人に限って、集中して耳をかたむけたらもっと疲れるだろうと思いこんでいる。だが、それは大間違いだ。どんな活動でも、それを集中してやれば、人はますます覚醒し、そして後で、自然で快い疲れがやってくる。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』

今を生きられるベッポ(ニーチェ引用)

少し長いですが、道路掃除夫ベッポによるとっても素敵なお話しなので、引用します。

「なあ、モモ」とベッポは例えばこんなふうに始めます。

とっても長い道路を受け持つことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」 しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまた続けます。

「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見ても残りの道路はちっとも減っていない。だからもっとすごい勢いで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだ残っているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」

ここでしばらく考えこみます。それからようやく、先を続けます。「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、次のひと呼吸のことだけ、次のひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただ次のことだけをな。」

またひと休みして、考えこみ、それから、「すると楽しくなってくる。これが大事なんだな、楽しければ、仕事がうまくはかどる。こういう風にやらにゃあだめなんだ。」

そしてまたまた長い休みをとってから、「ひょっと気がついたときには、一歩一歩進んできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやり遂げたかは、自分でもわからんし、息もきれてない。」 ベッポはひとりうなずいて、こう結びます。「これが大事なんだ。」  

現代人はとにかく計画をたて、その通りに物事を進めたがる傾向がある。特に企業はそうで、遠くを見て、そこに向かってひたすら走り続けている。

しかしベッポは違う。ベッポは「今、この瞬間」を生き、楽しむことができる。過去や未来に執着せず、ただ今、この瞬間のことのみを考えることができる。その意味で「禅」や「マインドフルネス」という感覚に近い。

皆さんは、「今、この瞬間」を楽しむことが出来ているだろうか。日曜日の午後になると、明日以降の仕事のことが気になったりしないだろうか、夜寝る前に「ああ、寝たらまた明日仕事か」と憂鬱な気分になったりしないだろうか、デート中に常に「次はどうしよう」と考えていないだろうか。

このテーマは本書のような児童文学にとどまらず、例えばドイツの哲学者ニーチェは「超人」という概念で、今を生きることの大切さを説いている。

ニーチェ
ニーチェ

・人生に意味のないことを受け入れ、いまこの瞬間を肯定し、自分をさらに強くしよう、さらに美しくなろう、さらに人生を充実させようという本能的な意志を貫いて主体的に生きることこそが「善」であり、人を幸福にする。

・主体的に生きて「生が高揚」することが大切なのであって、結果はどうでもよい。 永遠回帰*の中で、自分の人生を何度でも欲するような「超人」こそが救済の対象となる。 「超人」こそが救済の対象となる。

*永遠回帰・・・人生には目的も価値もなく、永遠に同じことを繰り返しているだけであるという考え方。

「灰色の男」を生み出したのは人間自身

床屋のフージー「おれの仕事じゃ時間のゆとりがなさすぎる。ちゃんとした暮らしは、暇のある人間じゃなきゃできないんだ。自由がないとな。」

モモ「灰色の男たちは人間じゃないの?」
ホラ「人間ではない。似ているだけだ」
モモ「それでは、一体何なの?」
ホラ「本当はいないはずのものだ。人間がそういうものを発生させる条件を作っているのだ」

「灰色の男を生み出したのは人間」という、本書最大のテーマの一つについて語られている。

まず床屋のフージーが「理想の暮らしを送るには、十分な時間が必要だ」という思い込みを披露する。フージーはこの後、灰色の男たちに唆されるがままに、睡眠、食事、仕事、家族やペットの世話、家事、映画、合唱団の練習、お酒、友人との会話、読書、好きな人への献身、毎晩の自省といった大切な時間を「節約」してしまう。

モモのような傾聴ができない、ベッポのような「今を楽しむ」生き方が出来ないというだけでなく、もっと効率的に、もっと豊かに、もっと多くを求める人間自身が、自らの時間を削り、結果的に人生を貧しくしている。

皆さんはどうだろうか。毎日、時間に追われる人生になっていないだろうか。

人事部長のつぶやき

とりわけ困るのは、高価なおもちゃは細かなところまで至れり尽くせりに完成されているため、子どもが自分で空想を働かせる余地が全くないことです。

みんなはそれぞれの住む地区にしたがって、別々に「子どもの家」に放りこまれました。こういうところで何か自分で遊びを工夫することなど、もちろん許されるはずもありません。遊びを決めるのは監督の大人で、しかもその遊びときたら、なにか役に立つことを覚えさせるためのものばかりです。

こうして子どもたちは、他のあることを忘れてゆきました。ほかのあること、つまりそれは、楽しいと思うこと、夢中になること、夢見ることです。

これは現代でも十分あてはまる警句でしょう。もちろん「創造力や想像力を育む」知育玩具もたくさん出ていますが、本来子供たちはおもちゃがなくとも、自分達で工夫して様々な遊びを作り出すものです。

しかし、世の大人たちは子供に「おとなしくしていてほしい」とか「早期教育を施したい」といった理由で、スマホ動画を見せたり、一人で遊べる知育玩具を与えたりします。18世紀フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーは、著書『エミール』の中でこんなことを言っています。

ルソー
ルソー

子どもが何もしないで幼い時代を無駄にすごしているのを見て、あなたがたは心配している。とんでもない。幸せに暮らしているのがなんの意味もないことだろうか。

一日じゅう、飛んだり跳ねたり、遊んだり、走りまわったりしているのが、なんの意味もないことだろうか。

大人達はもう少し子どもに「自由」を与えてもいいのかもしれませんね

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