「幸福論」ヒルティ

  難易度 ★★★★☆
オススメ度 ★★★★★
 所要時間 3時間15分

ヒルティ「幸福論」
この記事を書いた人
人事部長

上場企業に入社以来、経営・財務・営業・人事・海外事業等を経験し、現在は人事部門のマネージャです。

「才徳兼備」を目指す部下に紹介している「骨太の教養本100冊」を、順次web上にも公開しています。

慶應義塾大学経済学部卒業、シカゴ大学経営大学院修了(MBA)、米国公認会計士。

「幸福論」ヒルティ

基本情報

初版   1891年
出版社  岩波書店など
難易度  ★★★★☆
オススメ度★★★★★
ページ数 292ページ
所要時間 3時間15分

どんな本?

ストア哲学とキリスト教をベースに、「仕事と愛と理性」を通じて幸せに辿り着くための具体的手法を紹介する。

アラン『幸福論』、ラッセル『幸福論』と並ぶ、いわゆる「3大幸福論」の一つ。

著者が伝えたいこと

「道徳」「教養」「愛」「誠実」「健康」を身に付け、「欲望」「嫌悪」「怒り」「不機嫌」を制御し、「病気」「死」「貧困」を現実として受け入れよ。

その上で、「仕事」に打ち込め。人間の幸福の最大部分は、絶えず続けられる仕事と、そこから生まれる「喜び」や「やりがい」である。「財産」「名誉」「地位」は人を決して幸せにしない。

著者

カール・ヒルティ(Carl Hilty) 1833-1909

ヒルティ

ヒルティ

ドイツの法学者、思想家。元・ベルン大学総長、元ハーグ国際仲裁裁判所判事。1855年弁護士開業。1873年にベルン大学正教授。1909年にはハーグ国際仲裁裁判所のスイス委員にも任命された。

敬虔なクリスチャンの視点から、人生や人間、愛、仕事、生と死などの主題について多くの思想書を著した。「聖書」以外ではギリシャ・ローマの古典、特にエピクテトスとマルクス・アウレリウス・アントニヌスを愛読した。

この「幸福論」は生涯の比較的後期に、師範学校の求めに応じて校誌に寄稿したもの。

こんな人におすすめ

「仕事」を自分の人生の一つの柱とし、幸せの源泉にしたいと願う人。

周囲や自分の感情に振り回されがちで、それが嫌だと思っている人。自分自身を理性で制御する術を知りたい人。

お金・快楽・社会的地位では、人は幸せになれないと感じている人。それに代わって何を追い求めればよいか、まだ自分の中で考え方が整理されていない人。

書評

非常に含蓄が深く、噛めば噛むほど味が出るタイプの本。体系だった思想書、というよりは、特定のテーマについて自由に書いたエッセイに近い。

ただし、哲学者・思想家の本らしく、表現はやや回りくどく、すっと頭に入ってこないことが多い。

それでも語られている内容自体は、誰が読んでも納得できるものが多い。キリスト教の素養があると、より深く理解できるのだろうが、なくても問題ない。

大量の注釈があり、かつキリスト教に由来する引用が多かったりするので、心が折れそうになるが、全部飛ばしても中身は理解できる。いや、むしろ注釈は飛ばした方がエッセンスをしっかり理解できるだろう。

要約・あらすじ

■人間は愛と責任感に基づいて仕事に没頭し、そこに意味を見出し、何かを創造し、成功することに幸せを感じる。最も崇高な時間の消費方法は、常に「仕事と愛」である。財産の所有と管理、大きな名誉や権力を伴う地位は、本当の幸せを与えない。

■良い仕事をするための秘訣は、「まず手を付けてみること(気分は後からついてくる)」「最も大切な部分を優先的に考えること(物事の本質はほんの数パーセント)」「複数の仕事を同時に進めること(状況は刻一刻と変化する)」「体力と集中力が切れたら休むこと」「無駄な活動で時間とパワーを浪費しないこと(社交は時間の無駄遣い)」。

■人格教育の手段は、ストア主義(快楽や欲求の衝動に打ち勝ち、理性に従って生きるべきとする古代ギリシャの哲学)とキリスト教の2つだけである。

■ストア主義によれば、人間にとって負の効果をもたらす要素には2種類ある。一つ目は自ら制御できる「欲望・嫌悪・怒り・不機嫌」で、二つ目は自分では制御できない「病気・死・貧困」だ。前者は自らの手で積極的に避けるべきだし、後者は何をしても無駄だから、素直に受け入れるのが良い。

■ストア哲学の教えを実現するには高い理性と意志力が必要である。一方、キリスト教は、信仰さえ持てば、誰でもストア哲学と同じような結論に達するようにできている。欲望に引きずられがちな青年期においては、文字通りストイックなストア哲学をたたき込んでしまうのが良いのではないか。

■現実主義者は、この世は「人より少しでもよい立場に立つことを追い求める生存競争の場」であると言う。しかし、本当の幸福は、利己主義を脱し、自分は何らかの役に立っているのだという確信を抱いて、落ち着いて自分の仕事にいそしむことのできる状態にある。

■そのためには、人は積極的に「良い習慣」を身に付けなければならない。

(1)恐怖心を捨てること。恐怖心を持ったからといって、その恐れている事柄が起こるのを防げるわけではない。人間が出会う困難は、遠くで見るほど恐ろしいものではなく、耐えうるものである。

(2)「堅固な道徳的確信」「良い精神を伴う教養」「愛」「誠実」「仕事の能力とやりがい」「精神および肉体の健康」「ほどよい財産」のみを追い求めること。人が求めがちな「富」「大きな名誉と権力」「不断の享楽」は、財宝を捨てることによってしか得ることができない。

(3)どんな対価を払っても、習慣的に全ての人々を愛するように努めること。

(4)悪に対して、怒りを以て非難しないこと。相手に悪を気付かせれば、あとは自分の良心で更生するだろう。怒りが相手を良くすることはほとんどない。

(5)これらの習慣を、自然の我欲を心から取り除き、一大決心のもとに、徹底すること。

学びのポイント

働くとはどういうことか

ヒルティは1ページ目からいきなり人生観・価値観を展開する。

人間の本性は働くようにできている。真の仕事なら必ず興味が湧いてくるはずだ。人を幸福にするのは仕事の種類ではなく、創造と成功の喜びである。

人の求める休息は、肉体と精神を全く働かせないということではない。肉体的には睡眠や食事など、自然に与えられる合間の休みであり、精神的には仕事が着々とはかどっているのを見ることによって得られる。

人間の幸福の最大部分は、絶えず続けられる仕事と、そこから生まれる喜びや、やりがいである

人の心は正しい仕事を見出した時ほど愉快になることは無い。失敗の生涯はたいてい仕事を持たないか、仕事が少ないか、適切な仕事を持たないことにその根本原因がある。

いきなり出てきた!敬虔なプロテスタントっぽい仕事観。現代の目で見ると、やや労働礼賛型でブラックというか、「意識高い系」とも捉えられる。例えば、休みの日に趣味に没頭するのも、一つの休息であり、尊重されるべきであろう。

ヨーロッパにおける労働観は概ね以下のように進展してきた。ヒルティの主張はまさに「プロテスタント的」である。

  • 古代ギリシャ
    最高神ゼウスは火の使い方を間違え、戦争を始めた人間に、罰として大地を耕す労働を科した。労働は奴隷が行うものだった。
  • 古代キリスト教
    「善悪の知識の木」になる実を食べたアダムとイブはそれぞれ、労働の苦しみと出産の苦しみを神から与えられた。労働=苦行だった。
  • 中世キリスト教
    使徒パウロの新約聖書の言葉「働きたくない者は、食べてはならない」が教会で実践され始める。修道院で修道僧たちは労働による自給自足の信仰生活をめざし、次第に労働を「忍苦」からむしろ喜ばしいもの、意義あるものとする見方へ変えていった。
  • プロテスタント
    マックス・ウェーバーがその著書「プロテスタンティズムの精神と資本主義の精神」において、行動的禁欲をもって神から与えられた天職に勤勉に励んで得た利潤は「隣人愛」の実践の結果であって、その労働が神の御心に適っている証であると主張。資本主義を肯定的に捉えた。
  • マルクス主義
    マルクスとエンゲルスは「人類の歴史は自由民と奴隷、領主と農奴、資本家と労働者などの階級闘争の歴史である。現在は資本家が労働者の労働力・生産物を搾取している」と説き、労働者が団結して、資本家が独占する資本を奪取し、社会全体の共同資本としなければならないと革命を促した。
  • 現代(例えばマズロー)
    人間は次の順番で欲求を満たす。仕事にも同様のものを求める。
    (1)食欲・性欲・睡眠といった生理的欲求
    (2)経済的なものを含めた安全・安定の欲求
    (3)自分が社会に必要とされていると感じられる社会的欲求
    (4)自分が集団から価値ある存在と認められる自我欲求
    (5)自分の能力や可能性が最大限に発揮される自己実現欲求

なお、ヒルティは以下のようにも言っているので、マズロー的な考え方も持っていたということになる。

仕事の動機には二種類ある。低い方は「名誉欲・貪欲・生活維持の必要」、高い方は「仕事そのもの、或いはその人々のために仕事をしなければならないその人々への愛や責任感情」である。

怒りや不機嫌は制御すべき対象である

例えば君が風呂に行くとする。そこではどんな不都合が起きるかを予め考えておくのがよい。行儀の悪い者、うるさい者などもいるだろう。

そうすれば、入浴中に何か気に入らないことがあっても「自分はただ入浴をしに来たのではない。自分の自由と品性を保とうと欲したのだ。この件で怒ったり不機嫌になったりしたら、自分はそれをよく保ちえないだろう。

自分の不幸のために、他人を責めるのは、無教養者の仕方だ。教養者は、自分も他人も責めない。

人間は意識して「上機嫌」を維持し、感謝し続けなければならないことを言っている。この「上機嫌」は古今東西、数々の偉人が重要性を強調しているので、その一部を紹介したい。

①アラン『幸福論』

何かのはめで道徳論を書かざるを得ないことになれば、私は義務の第一位に上機嫌を持ってくるに違いない。

人生の些細な害悪に出会っても、不機嫌で自分自身の心を引き裂いたり、それを伝染させて、他人の心を引き裂いたりしないように、努めねばならない。

幸福の秘訣の一つは、自分自身の不機嫌に対して無関心でいることだ。相手にしないでいれば、いずれ消滅する。これこそ、本当の道徳の最も重要な部分だ。

自分が不幸であることに不機嫌になってはいけない。

不幸なだけでも十分なのに、不機嫌になることはそれに輪をかけて二重に不幸になる。

②洪自誠『菜根譚』

暴風雨の日には、鳥や獣でさえも悲しそうである。ところが天気晴朗の日には、草木でさえもうれしそうである。天地間には一日として和気がなくては幸せに暮らせない。

人の社会でも、和気を以て互いに相交り、感謝して満足する心がなくては幸せになれない。

③福澤諭吉『学問のすすめ』

表情や見た目が快活で愉快なのは、人間にとって徳の一つであって、人付き合いの上で最も大切なことである。

④佐藤一斎『言志四録』

春風の和やかさをもって人に接し、秋霜の鋭さをもって自らの悪い点を改めよう。

人が自分にどのような態度・反応を示すかは、全て自分の心が整っているか否か次第である。

⑤マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』

克己の精神を持つこと。いろいろな場合、たとえば病気の場合でさえも、機嫌良くしていなければならない。

我々が怒ったり悲しんだりする事柄そのものにくらべて、これに関する我々の怒りや悲しみのほうが、どれほどよけい苦しみをもたらすことであろう。

⑥立命館アジア太平洋大学 出口治明学長

僕は、前職の時代から、現在に至るまで、リーダーのもっとも重要な役目は、「スタッフにとって、元気で、明るく、楽しい職場をつくること」だと考えています(中略)

(私は)部下の前ではできるだけ、不愉快な顔をしないことを心がけています。それがリーダーの最低限の務めです。

これらは一人の社会人として、心に重く響く。自分の精神や心がどんな調子であるかというのは、自分と一緒に働く人にとっては何ら無関係だ。常に一定の状態で接しなければいけないし、不機嫌で周囲のパフォーマンスを下げるなど、プロフェッショナルとして失格である。

進化生物学的には、人間は生存と子孫を残すことに適した形で進化してきたのであって、決して「幸福になるように」は設計されていない。自然界の中で生きながらえられるように、ある程度の用心深さや悲観主義を本能的に持っている。だから、先天的な楽観主義者というものは存在しない。

もし、あなたの周囲に「先天的楽観主義者」のように見える人がいたとしたら、その人は周囲からそう見られるように努力しているに違いない。特にビジネスシーンでは「職業としての上機嫌」が求められるだろう。

また、ヒルティはこんなことも言っている。

病気は肉体の障害であって、意志の障害ではない。何かが君の身に起こるたびに、そう言い聞かせよ。そうすれば、いかなる出来事も君に障害を与えぬことが分かるだろう。

(別の言い方をすれば)君を虐待するものは、君を罵ったり打ったりする人ではなく、これを屈辱と考える君の観念である。

つまり、例えば足を怪我したとしても、それは肉体の障害であって、意志の障害ではないのだから、落ち込んではいけないし、落ち込んでいる自分を足の怪我のせいにしてもいけないということ。

罵られて屈辱だと感じるのは、罵られたこと自体が原因なのではなく、罵られたことを屈辱だと思う人間の観念だということ。

自分に起こるあらゆる不幸を、自ら受容せよ(=周囲に原因を求めるな)という主張。実際には苦しいが、突き詰めて考えていくと、この結論に達することになる。まさに「ストイック(ストア派=快楽や欲求の衝動に打ち勝ち、理性に従って生きるべきとする古代ギリシャの哲学)」と言える。

欲望も制御すべき対象である

人間の欲望には際限がない。例えば、ぴったりと足に合う靴を持てば、次はメッキされた靴がほしくなる。その次は深紅に染められた靴、次にはまた刺繍された靴という具合だ。

これも「ストイック」な考え方。確かに、人間は一度広い家に住むと、それより狭い家には住めなくなるだろうし、5Gの通信に慣れれば、二度と4Gの世界には戻れないだろう。鼻が低いといって整形すれば、今度は目やあごをいじりたくなるだろう。

一方、欲望はモチベーションにもなり得る。自分が際限のない欲望を追い続けるチキンレースに陥ってないかどうか、常に検証することが必要と言えるのではないだろうか。

孤独とはうまく付き合う

ある程度、孤独を愛することは、静かな精神の発展のためにも、また、およそ真実の幸福のためにも、絶対に必要である。

ある大きな思想に生きて、そのために弛まず着実な仕事を続ける生活のうちに、幸福は見出される。これは自然、無用な「社交」を排斥することになる。

孤独を愛せよ、というのは、一部の哲学者でよく見られる主張である。19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーはもっと辛辣だ。

ショーペンハウアー

ショーペンハウアー

・自己の内面の空虚と単調から生じた社交の欲求が、人間を集まらせる。

・くだらぬ人間は皆、気の毒なくらいに社交好きだ。

・優れた人たちがこういう 一般の人間と交際したとして、 いったい何の享楽が得られようぞ。

ショーペンハウアー「幸福について」

基本的なベクトルが自分の内面に向いているであろう哲学者が言うことだから、割り引いて捉えるべきだとは思うが、くだらない社交で時間とお金とパワーを「消費」するくらいなら、孤独の中で内省し、自分に「投資」することも必要なのではないか。

ちなみにヒルティはショーペンハウアーより50年ほど後に生まれており、ショーペンハウアーの以下のような考え方には影響を受けているように思われる。

・幸福の基本は自分の外に何ものも期待せず、自分のうちにあるもので楽しむことである

・人間は誰でも最も完全に融和できるのは、自分自身を相手にしたときだけだ

・自分自身だけをあてにしてきた人間、自分にとって自分自身が一切合切でありうる人間が最も幸せだと結論することができる

ショーペンハウアー「幸福について」

恐怖心を持つくらいなら、一歩踏み込んで対応したほうがいい

恐怖心は無用な感情である。恐れたからといって、その恐れている事柄を防ぐことにはならず、むしろこれに対抗するのに必要な力を使い尽くすことになる。

我々が人生で出会う大抵のことは、決して遠くから眺めたほど恐ろしいものではなく、耐えうるものである。

特に人間の想像力が、苦痛の持続を、実際よりもずっと大きく、そして長く想像するのであって、何か困難なことが起きた時には、これは三日間続くだけで、それ以上続きはしないのだと考えておくと、大概それは当たるし、一層落ち着いて事に臨むことができるのだ。

これは日常生活、特に仕事において大きく当てはまるのではないだろうか。

目の前に厄介な仕事がある。○○部は多分これに反対するだろう。予算の確保も面倒だ。来週は○○という仕事もあるのに。部下の○○にはやる気が見られないし、ああ憂鬱だ・・・などと先行きに対する恐怖心を抱く場面は多い。

しかし、これもヒルティが言うように、恐れているパワーがあるなら、まず一歩目を踏み出してみることが大切だ。もちろん想定より悪いことが起きることもあるが、走り出してみると意外に周囲の協力が得られたり、意外と前向きに取り組めたりした経験はないだろうか。

また、ヒルティは「怒り」についてはこんなことを言っている。

悪は、格別厳しく叱ったり、非難したりする必要はない。多くの場合、それが明るみに持ち出されるだけで十分である。そうすればその人は、表面上はたとえ反抗しようとも、必ず自分の良心の裁きを受けるものである。

だから、我々が非難すべき人と話す場合は、ただあっさりと、人間的な怒り無しに話さなければならない。怒りが相手を良くすることは、ほとんどないからである。

先ほど引用した通り、アランも「幸福論」のなかで、

自分が不幸であることに不機嫌になってはいけない。

不幸なだけでも十分なのに、不機嫌になることはそれに輪をかけて二重に不幸になる。

という趣旨のことを言っているが、本質的には同じ。何らかの事象に対して、恐怖心や怒りや不機嫌を持っても、何もいいことはなく、それに対応するためのパワーを浪費してしまっているだけ。目の前にある物事も人も、決して好転しない。

恐怖や不機嫌や怒りというものは、人間が生物として生存するために必要な「生理的反応」なのだろうが、人間は進化の過程でそれをうまくコントロールしていく理性を獲得したということなのだろう。

時間に対する心構え

時間がない。これは、正式に決まっていない義務や仕事を逃れようとするとき、人が最も普通に用いる便利な口実であるばかりでなく、また事実上、しごくもっともな、そしてもっともらしく見える言い分である。

これはなかなか耳が痛い。19世紀でもこうなのであるから、とにかくやるべきことが溢れている現代においてはなおさらである。

ヒルティは、時間を有効に使う心構えを次のように言う。

①規則正しい生活を送る(残業や休日労働はもっての他)

②とにかく手を付けてみる(気分はあとから乗ってくる)

③断片的な時間を活用する(まとまった時間を取ろうとしない)

④複数の仕事を同時に進める(気が乗らない仕事もある)

⑤手早く仕事をする(100点を目指さない)

⑥無駄な時間をなくす(社交は大いなる時間の無駄遣いだ)

③については「本当に何かを産み出す精神的な仕事においては、最初の1時間、あるいは最初の30分が一番良い時間」とも言っている。これは確かにその通り。

特に管理職になると、時間を要する実務は部下がやってくれる。自分の仕事は大きな方向性を整理したり、今後のスケジュールを考えたりといった比重が高くなる。

そうなるとまとまった時間などは不要で、電車や風呂の中の断片的な時間さえあれば、仕事はできるということになる。

④も含蓄が多い。一つの仕事を始めるとそれに集中したくなってしまうのだが、100点×1、0点×3よりも、70点×4の方が仕事の上では大切である。

また、仕事をとりまく環境は刻々と変化している。仕事は手に付けなければ何も起きないが、いったん始めると加速度的に進むということが往々にしてあるものだ。

他人に心を乱されることほど馬鹿らしいことはない

人が、君の肉体を自由にする力を勝手に誰かに与えたならば、君は憤慨するだろう。

ところが、君が誰かとトラブルを起こして、そのために心をかき乱され、不安に陥り、そのようにしてその者に君の心を自由にする力を与えることを、君は厭わないのか。

人間の本質を突く指摘であろう。日常生活でも、コンビニ店員の態度、満員電車での周囲の人々、券売機の前でモタモタしている人・・・

「イライラ」という反応をしたくなるが、それらに一喜一憂してはいけない。外部からの刺激に、何も考えずに感情的に反応しているだけで、自分をコントロールする力を他者に与えてしまっている。

仕事でも往々にしてあるだろう。相手が快活ならこちらも快活になり、相手が陰気であれば何となくこちらの空気も重くなる。しかしそれではダメなのだ。自分の価値軸に基づいて、自分のありたいように振る舞うべきなのである。

人間の本質を突く指摘であろう。日常生活でも、コンビニ店員の態度、満員電車での周囲の人々、券売機の前でモタモタしている人・・・

「イライラ」という反応をしたくなるが、それらに一喜一憂してはいけない。外部からの刺激に、何も考えずに感情的に反応しているだけで、自分をコントロールする力を他者に与えてしまっている。

仕事でも往々にしてあるだろう。相手が快活ならこちらも快活になり、相手が陰気であれば何となくこちらの空気も重くなる。しかしそれではダメなのだ。自分の価値軸に基づいて、自分のありたいように振る舞うべきなのである。

人から殴られそうになったら、よければいい。人から気分を害されそうになったときにも、よければいい。気にしなければ良いのだ。

古今東西の偉人たちが、同じようなことを言っていることにも注目である。

自分が不幸であることに不機嫌になってはいけない。不幸なだけでも十分なのに、不機嫌になることはそれに輪をかけて二重に不幸になる。

アラン「幸福論」

愚者は汽車に乗り損なえば腹を立てるし、昼飯がまずければ不機嫌になり、煙突が煙ければ絶望に打ち沈む。こうした人たちが些細なトラブルに消耗するエネルギーは相当なものだ。

一方、賢者はこうした問題を「感情抜きで」処理する。怒ったり不機嫌になることは、何の目的にも役立たない感情である。

ラッセル「幸福論」

我々が怒ったり悲しんだりする事柄そのものにくらべて、これに関する我々の怒りや悲しみのほうが、どれほどよけい苦しみをもたらすことであろう。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス「自省録」

(外部からの刺激にのまま反応するような)反応的な人は、社会的な環境にも左右される。人にちやほやされると気分がいいし、そうでないと、殻をつくって身構える。

つまり、反応的な人の精神状態は、他者の出方次第でころころ変わるのである。自分をコントロールする力を他者に与えてしまっているのだ。

私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。その出来事に対する自分の反応によって傷つくのである。

もちろん、肉体的に傷ついたり、経済的な損害を被ったりして、つらい思いをすることもあるだろう。しかしその出来事が、私たちの人格、私たちの基礎をなすアイデンティティまでも傷つけるのを許してはいけない。

簡単に言えば、刺激と反応の間にはスペースがあり、そのスペースをどう使うかが人間の成長と幸福の鍵を握っているということだ。

スティーブン・コヴィー「7つの習慣」

人事部長のつぶやき

そう、仕事はまず「手を付ける」ことが大切なんだよね

ヒルティは、人間の弱いところをグリグリ突いてくる。

習慣的な「勤勉」を身に付けるのに肝心なのは、思い切ってやり始めることである。机に座って、心を仕事に向けるという決心が、結局一番難しいことなのだ。

一度ペンを取って最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打するかすれば、それでもう事柄はずっと容易になっている。

ところが、ある人たちは、始めるのにいつも何かが足りなくて、ただ準備ばかりして(その背後には怠惰が潜んでいるのだが)、なかなか仕事にかからない。

そしていよいよ必要に迫られると、今度は時間の不足から焦燥感に陥り、精神的だけでなく、時には肉体的にさえ発熱して、それがまた仕事の妨げになる。

本当にそうですよね。最初の5%だけでも手を付けてみれば、何が足りないか、誰に話を入れておかねばならないか、何を依頼しておかねばならないかといった点が見えてくる。

人事部長

全てのビジネスパーソンにとって、耳が痛いのでは!!

他にも、仕事を進める上で、こんなアドバイスをしています。

・愛と(何かを人のために為さねばならぬという)義務感をモチベーションとせよ。

・全部を完璧にする必要はない。最も大切な部分のみ、完璧に仕上げよ。

・体力と集中力が切れたら、それ以上働くな。

・無駄な活動で時間とパワーを浪費するな。

現代でもそのまま、通用しますよね。

無駄な飲み会にNo!

無教養な人々との宴会は避けよ。しかし、その機会がどうしても避けられないなら、卑俗に陥らぬように注意せよ。

なぜなら、ある一人が不純であるとき、これと交わるものは、いかに純潔であっても、必然に汚されずには済まないからだ。

明らかに上から目線であることは分かっているけど、会社の無駄な飲み会って本当にこんな感じ。仕事の話をするにしても、人の評価や過去の武勇伝に近いものばかり。面白おかしいことはあるけど、「ああ、興味深い!」と思ったことはない。

なので、私は極力、会社の飲み会からは逃げるようにしています

ただ、私ももう40歳を超えているので、むしろ自分が頑張って、周囲に「ああ、興味深い!」と思わせなければならないのだろうけども。。。

なんとも宗教とは自己中なものよ!

キリスト教は、人類全体を動物的状態から、安全で自由と平等が実現されたより高い生活を約束しうる唯一の教えである。

もちろん信教の自由は守られるべきだが、何とも宗教というものは、それ自体が排他的で傲慢で自己中心的であることよ。これはつまり、キリスト教を知らない民族は「動物的状態」であると言っているに等しい。

この「唯一の教え」というところがミソで、人間らしい生活をするには、何がなんでもキリスト教でならねばならない。「未開の人類にキリスト教の光を当ててあげよう」という上から目線の発想はここからくる。

しかし、スペインやポルトガルがアメリカ大陸でやったことは単純な略奪・強奪・破壊だった。世界史を学ぶと、キリスト教徒の欺瞞がよく分かる。

十字軍も三十年戦争も中東戦争も、全て宗教戦争。日本では宗教同士が大規模な戦争を起こした例がないので、なかなか想像しにくいですね。

(一向一揆も島原の乱も、イデオロギー同士の戦いではなく、被統治側がたまたま宗教勢力だったというだけです)

幸せになるために信じるべきこと

幸福の第一の、絶対に欠くことのできない条件は、倫理的世界秩序に対する堅い信仰である。

「弱肉強食」とか「万物の万物に対する闘争」といった状況は、高尚な人にとってはふさわしくないみじめな状態である(要約)。

常に満足していられる最上の方法は、世間に善を認め、悪は無力なもの、長続きしないもの、いずれ自滅するものと見ることである。

確かに、この世の中がホッブス的な弱肉強食の世界だとは考えたくない。しかし、何故それが事実と反するのか、あるいは何故そう考えてはいけないかについて、ヒルティは説明しない。単に「倫理的世界秩序を信じよ」と言っているだけである。

また、世の中は生来的に善であり、悪は自ら滅びていく、という。なんというか、性善説に基づく、おめでたい議論のような気もする。「信仰」と呼べば、そういうことなのだろうが。

このあたりには「エッセイ」としての限界があるのだろうし、事実、正解はないのだろう。ただ、「万物の万物に対する闘争」的な思想を持った人間というのは、ヒルティの言う「高尚な人」にとっては、非常に厄介で、利害が正面からぶつかる。

そういう人には極力関わらない方が良いのだろうし、そういう人に出会った時の態度は予め心に決めておいた方が良いのかもしれない。

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