「ツァラトゥストラはこう言った」F・ニーチェ

  難易度 ★★★★★
オススメ度 ★★★★☆
 所要時間 6時間00分

「ツァラトゥストラはこう言った」
フリードリヒ・ニーチェ

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基本情報

初版   1883-1885年
出版社  光文社古典新訳文庫(日本)
難易度  ★★★★★
オススメ度★★★★☆
ページ数 上325、下417
所要時間 6時間00分

どんな本?

「神は死んだ」のフレーズが特に有名。人間は「神の前での平等」や「隣人愛」等のキリスト教的価値観に囚われることなく、先天的に持つ「力への意志」に基づいて自らの人生を高揚させるべきだと説いたニーチェの代表作。

ニーチェはこの本を「人類への最大の贈り物」と自負し、聖書のような存在になることを企図して物語風に仕上げている(聖書のパロディと呼ばれることもある)。

著者が伝えたいこと

キリスト教の道徳や善悪は、弱き者が強き者を嫉妬した「ルサンチマン」から生まれたものだ。 隣人愛と平等=善、自己愛=悪という構図は人類を無価値な存在とし、「ニヒリズム」に至らせる。

また、世界は永遠に同じことを繰り返しているだけの「永遠回帰」であり、一見するとそこには生きる意味など見いだせない。

しかし、それではダメだ。まず、人生に意味などないということを前向きに受け入れ、いまこの瞬間を肯定しなければならない。そして、より強くなりたいという「力への意志」を貫き、自分の人生を主体的に高揚させる「超人」にならなければいけない。

そうすれば、何度でも自分の人生を繰り返したいと思えるだろう。そして、不幸を含めたあらゆる運命を「自分の意志で望んだのだ」と受け入れられるだろう。

道徳や善悪の基準は、神にも隣人にも教会にもなく、唯一「自分の生が高揚するかしないか」という点にある。人生をどう捉えるか、どう生きるか、すべては自分の意思次第なのだ。

著者

フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche) 1844-1900

ニーチェ

ドイツの哲学者。 1869年バーゼル大学古典文献学教授となるが、1879年に体調不良により同大学の教授を辞任し、以後は在野の哲学者となる。

ショーペンハウアーの影響のもとワーグナーの創作活動を支援する理論付けを試みるが、その後、厳しい同時代批判、形而上学批判、芸術批判、道徳批判を行うようになり、2500年の伝統を持つ「本質哲学」を否定し「実存哲学」という新しい哲学を創出する。

特にキリスト教を弱者の道徳として批判し、本書『ツァラトゥストラはこう言った』で「神は死んだ」と宣言。「強くありたい」という生命にとって根源的な欲求に光をあて、人間は芸術家のように、生きる価値を自らが創造しなければならないと主張した。

こんな人にオススメ

ニーチェの世界に初めて触れる人、生きる意味について答えが見いだせない人、中学2年生

書評

「新しい善悪を創造するには、まず既存の善悪を破壊せよ!」「既存の価値観に縛られる愚かな一般大衆から抜け出せ!」「隣人ではなく自分を愛し、さらなる高みを目指せ!」と主張する、ロックで過激な一冊。

本書の冒頭で「誰にも読めるが、誰にも読めない本」と書いてみたり、一切憚ることなく「賤民と高級な人々」を区別したりと、中二病的な要素がふんだんに盛り込まれている。

全編が物語風に進み、比喩表現や聖書からの引用も多いので、よく読まないと何が言いたいのか分からなくなることが多い。よって、初心者はまず「ニーチェ入門」のような本を一冊読んでニーチェ哲学の全体像を理解し、本書ではその雰囲気を感じるというのが正しいステップであるように思われる。

要約・あらすじ

赤字下線を引いた「ニーチェ用語」については、「学びのポイント」で解説します

第1部~末人から超人へ~

■30歳の時、 私(ツァラトゥストラ)は故郷を捨てて山に入ったが、10年ほどして「自分が得た悟りを一般人に広めよう」と、山を下りることにした。すると老人が「人間は不完全だ。神を讃えよ。山を下りるな」と言ってきた。老人は「神が死んだ」ことを知らないのだろう。

■街で大衆に「末人」「超人」について語ったが、理解できる者はいなかった。幸福・理性・徳・正義・同情といった既存の価値観に縛られ、何も主体的に考えずに羊のように群れている愚かな人間たちを救い出そうというのに。

■精神はまずラクダに、そしてライオンに、最後に子供に変化する。ラクダは義務を負う存在だ。しかし「汝為すべし」という価値観が息苦しくなり、自由を求めてライオンになる。しかし、本当に無邪気で自由で、新しい価値を創造できるのは、子供だけである。君達の精神は、まだ新しい価値を創造するに至っていない。

■君達は徳が高いことを誇るべきではない。為した善には程度の差がある。それが嫉妬や不信や中傷を生む。徳のせいで君は破滅するかもしれない。人間は徳を克服しなければならない。

■そもそも君達の徳は、キリスト教の説く既存の善悪に基づいている。それではダメだ。君達は新しい道徳、新しい善悪の基準を創らなければならない。新たな価値評価の基準を作ること、これこそが創造であり、人間にしかできないことだ。

■旧来のあらゆる価値観から解放されよ!神は死んだ!超人万歳!「力への意思」に基づいて「自らの人生を充実させる」ということこそ「善」であるという、新しい価値観を創造せよ!ついにあらゆるものを照らす「大いなる正午」がやってきたのだ。

第2部~力への意志~

■ツァラトゥストラは再び山に帰るが、自分が広めた「超人の理想」が歪められていることを知り、やはり弟子たちを助けようと山を下りる。

■キリスト教は、偽物の価値と妄想の言葉でつくられた首かせのようなものだ。愚かな一般大衆だけでなく、賢者までもがその毒に犯されている。永遠の善悪基準など存在しない。善悪は常に自分自身で克服していくべき対象だ。

■例えば「同情心」や「隣人愛」は偽善だし、「人は神の前で平等である」という考え方も、強い人間、富める人間への復讐心を、正義で包み隠したに過ぎない(=ルサンチマン)。人間が平等であるはずがない。善悪、貧富、高低、人生には目指すべき高みが必要だ。生をのぼり、自分を克服する人間と、そうでない人間には明確な差があるではないか。

■その高みを目指す意志こそが、人間を突き動かす唯一の動機である。しかも、その意志は固く、周囲からの影響で揺らいだり傷ついたりしない。「力への意志」の遂行は、自分との闘いであり、新しい価値基準の生成であり。人生の目的でなくてはならない。

■すべての『そうだった』を『俺はそう望んだのだ』につくり変える。幸福も不幸も自分の運命として自分の意志で前向きに受け入れる。それこそが救済と呼ばれるものだ。人生を幸福と捉えるか不幸と捉えるか、この先どう生きるか、すべては自分の意思次第なのだ。

第3部~永遠回帰~

■荒涼とした岩礁に、若い羊飼いが横たわっていて、その口には黒くて重い蛇が入り込んでいる。私は「頭を嚙み切るんだ!」と叫んだ。若者は「キリスト教の道徳・善悪」に苦しんでいる。早く解放してやらねばならない。

■キリスト教徒は「強くありたい」という自分欲を抑制する生き方を望み、それを「徳」と呼んできた。まさに奴隷である。隣人を自分自身のように愛する前に、自分自身を愛さなければ、自分の人生を楽しむことができないではないか。ついに人類がキリスト教から解放されるべき時が来たのだ。

■神はいるのか、いないのか。その論争はとっくの昔に片付いている。キリストが「我こそは唯一の神だ」と傲慢にも宣言したことに対して、神々が笑って「神というものは、複数で存在するものであって、単数で存在するものではないのではないか?」と答えたその時に。

■全ての物事は永遠回帰する。今の人生の次に待っているのは、新しい人生でも、よりよい人生でも、似たような人生でもない。今と全く同じ人生に帰ってくるのだ。 あたかも指輪の周囲をグルグル回るように。お前はそれに耐えられるか。それでも今の自分の人生を選ぶか。

第4部~大いなる正午~

■最も忌むべき道徳・善は「同情」である。その他にも、服従、謙遜、利口さ、勤勉、配慮などなど、小さな徳たちが長い行列をしている。それらが今では、人間の運命の主人になろうとしているではないか。おお、吐き気がする!だから神には死んでもらうしかなかったのだ。

■賤民たちは「神の前での平等」を主張する。しかし、高級な人間と卑しい人間が平等であるはずがないではないか。人間よ、強くなれ!あらゆる善悪の判断から自分を解き放ち、自分自身を愛せ!この世界を愛せ!永遠回帰でいいではないか!人生は素晴らしいのだ!

学びのポイント

末人とは

軽蔑すべき者のことを話してやろう。 最後の人間のことを話してやろう。(中略)

最後の人間の種族は、蚤のような害虫とおなじで絶滅不可能。最後の人間は一番の長生きだ。 

ニーチェはここで「末人(まつじん)」の概念を提示する。末人とは、簡単に言えば「既存の価値観に縛られ、生きる意味を失い、主体性なく流されて生きる人間」のことを指し、それではいけないと諭す。

ニーチェは末人の特徴として以下のような要素を挙げている。

【末人とは】

・理性、徳、正義、同情等のキリスト教的価値観を信じる

・自分と同様の価値観を持つ人間達と群れる

・ニヒリズムに陥り、人生に意味を見出せない

・金持ちになろうとも、何かを支配しようとも思わない

・安楽に生きることを望む、健康を損ねないように注意する

・誰もが平等を望み、実際に平等である

ニーチェの時代もそうだっただろうが、現代日本でも、キリスト教云々の部分は「現代的価値観」に読み替えるとして、このような一般大衆が大多数を占めているのではないだろうか。

グローバリズム・少数派尊重・環境保護といった世の中の流れを無思考で受け入れ、リアルでもSNSでも自分と近しい人間とだけ群れて、特に主体的にやりたいこともなく、健康に注意しながらささやかな快楽で満足する、そんな人々。

ニーチェは彼らのことを「末人」と呼び、救済の対象であるとした。

ルサンチマンとは

人間は嫉妬心や復讐心から解放されなければならない。しかし人間は「我々と平等でない者には、必ず復讐をし、罵ろうではないか」と話し合っている。

お前たちは正義を隠れ蓑にして「神の前での平等」を説いているが、強い者に対する嫉妬心や復讐心が噴き出ているではないか。「強くなりたい」という極秘の欲望が、覆面をして、徳を語っているだけではないか!

(第2部、第3部より趣旨要約)

ルサンチマンについて端的に述べられている。

『旧約聖書』において、時代が古いページでは「いつか神様がやってきて、ユダヤ民族をいじめる敵を滅ぼしてくれる!」と言っているのに、時代が進むと「神の名のもとに、他者のために苦しみを引き受けましょう。他者のために死にましょう」という徹底的な受苦の教えに変質しキリスト教も基本的に同じ考え方を引き継ぐことになる。

ニーチェはこれを「決して強者になれない弱者が『弱者=善、強者=悪』という価値観を打ち立て、強者に対する自分たちの嫉妬や劣等感を道徳的正義として正当化した」と分析し、この嫉妬や劣等感のことを「ルサンチマン」と呼んだ。

強者とそれを嫉妬する弱者

「人間は神のもとに平等である」というイデオロギーも、「世の中には強者と弱者が存在する」という事実を認めたくないという欲求から生じるルサンチマン思想に他ならないということになる。

これらを踏まえ、ニーチェはキリスト教のことを「弱者が強者に対して妬みを持ったことに端を発した奴隷道徳」と断罪した。

大いなる正午とは

大いなる正午とは、人間が、動物から超人への軌道の中間地点に立って、夕方にむかう道を最高の希望として祝う時のことだ。夕方にむかう道は、新しい朝への道なのだ。(中略)

『神はみんな死んだ。さあ、超人万歳、と言おうではないか』──いつか、大いなる正午に、これを俺たちの最後の意志としよう!」

「末人」「ルサンチマン」で見てきたように、ニーチェは、人々が社会から押し付けられた価値観に囚われることが不幸の源泉であるとした。

そこで、「正午」には太陽が真上に来て全てを照らし出すように、全ての価値観から解放された世界を体感せよ!と主張する。

力への意志とは

弱い者が強い者に献身する。それは弱い者が、自分より弱い者に対して力をもちたいからだ。それと同じように、一番強い者でさえ献身して、力を手に入れるために──命を賭ける。(中略)

どの民族も、頭のうえに善の石板をかかげている。見よ、それは、その民族が自分を克服してきたことのリストだ。見よ、それは、その民族の、力への意志の声なのだ。

ニーチェは、人間が先天的に持っている「さらに強くなりたい」という本能のことを「力への意志」と呼んだ。別の著作における言及も併せてまとめると、概ね以下のようになる。

・あらゆる有機体は、すべからく「生長しよう」と欲する。「生長したい」「強くなりたい」という根源的欲動を持つ。これを「力への意志」と呼ぶ。

・「力への意志」の本質は、肉体・性欲・恋愛・恍惚・陶酔・支配欲といった生命感情であり、人間が生きる意味はそれらを求めることにしかない。

・よって、人間が作り出す目標や意味は、「力への意志」の派生的形態に過ぎない。言い換えれば、人間が「より強くなろうと欲すること」が本質で、人間が設定する目標や人生の意味は仮象に過ぎない。

・隣人愛とは、自分を捨てて他者を受け入れ、自分より他者を愛せと説く。しかし、それは不可能だ。人間は自己への欲望を捨てて他者を愛することはできない。むしろ、自己への愛を通じてはじめて、他者を愛することが出来る。なぜなら、人間にとって「力への意志」が唯一の源泉だからだ。

・そして最も重要なこととして、神や理性や真理がどうであれ、「力への意志」に基づいて自分をさらに強くすることこそが「善いこと」である。既存の善悪の判断基準は、キリスト教によるルサンチマンに基づくものであり、破壊しなければならない。

永遠回帰とは

何もかもが行って、何もかもが戻ってくる。存在は輪のように永遠に回る。何もかもが死に、何もかもが花をまた咲かせる。(中略)

僕らにはあなたの教えがわかっている。全ての物事が永遠に回帰する。僕らも一緒に回帰する。僕らは無限回、存在していた。全ての物事も僕らと一緒に存在していた。(中略)

俺が帰ってくるのは、新しい人生でも、よりよい人生でも、似たような人生でも ない。俺は永遠にくり返して、この、細大漏らさず、全く同じ人生に帰ってくるのだ。再び、あらゆる物事に永遠回帰を教えるために。

ニーチェがスイスにあるシルヴァプラーナ湖を散歩中に辿り着いた「永遠回帰」について語られている。

永遠回帰」とは、端的に言えば「世界の出来事は円環運動のように永遠に繰り返す」という考え方のこと。例えば、摩擦のないビリヤード台の上を複数の球が運動してる時、1億年、1兆年という長いスパンで見れば、今この瞬間と全く同じ球配置になるタイミングがいつか訪れる。その先は永遠に同じことが繰り返されることになる。


→→(1億年後)→→

ニーチェは「これが自分の人生だったらどうか」と問う。

過去の人間を救い、すべての『そうだった』を『俺はそう望んだのだ』につくり変える

──そういうことこそ、はじめて救いと呼べるものなのだ!

自分の人生が何度も何度も永遠に繰り返されることになっても、我々は自分の人生を選ぶかどうか、不幸を含むあらゆる出来事を「自分が望んだこと」と受け入れられるかどうか。

ニーチェは「永遠回帰の世界でも、自分の人生を選べる人間にならなければいけない」と説き、「隣人愛」ではなく「運命愛」を持つべきだとした。

超人とは

(超人とは)最高に出来のよい人間のことである。「近代」人や、「善」人や、キリスト教徒や、その他のニヒリストに対立する人間のことだ。

(別著より引用)

ここでは「超人」について語られている。本書では、数多くの場面で超人について比喩的に語られるため、以下にその特徴をまとめる。

【超人とは】

・ 人生に意味のないことを受け入れ、いまこの瞬間を肯定する

・ 自分をさらに強くしよう、さらに人生を充実させようという本能的な意志(=力への意志)を貫いて主体的に生きる

・生まれ変わるとしても、自ら再度自分の人生を選ぶ

・どんな不幸なことが起きても「これが私の人生。私がこう欲したのだ」と前向きに捉える

人事部長のつぶやき

キリストを全否定

兄弟よ、俺の言うことを信じろ!イエスはあまりにも早く死んだ。

もしも俺の年齢まで生きていたら、自分で自分の教えを撤回していただろう!撤回するほどには高貴な人間だった! (中略)

善悪を創造しなければならないのなら、実際、まず破壊しなければならない。価値を壊さなければならない。

ニーチェはキリスト教の価値観を全否定したことで知られているが、それを端的に示している。

神は死んだと言ってみたり、イエスがもう少し長生きしていれば自分の教えを撤回していただろうと言ってみたり、当時のキリスト教会が反発するのも無理はない。

とはいえ、過激な言葉を使ったがゆえに、現代まで語り継がれていることなのでしょうね

カントの「定言命法」を継承

高級な人間よ、この「……のために」を忘れるんだ。どんなことも、「……のために」や「……の目的で」や「……だから」ではやらないことこそ、まさに君たちの徳が望んでいることなのだ。偽りの小さなこういう言葉には、耳をふさぐべきだ。

「隣人のために」が徳になるのは、小さな人間の場合だけだ。

ニーチェは著書『善悪の彼岸』において、カントが著書『実践理性批判』で展開した「定言命法*」を全面否定しているのだが、この引用は「定言命法」そのものである。

*定言命法 カントが説いた最高の道徳法則の形。「〇〇のために〇〇する」という「仮言命法」に対して、道徳的に正しいことを無条件で為すこと。

カントによれば、例えば「真実を話すこと」は「定言命法」に属する。仮に殺人犯から友人をかくまっているケースでも、道徳に従うのであれば、殺人犯に対して「私は友人をかくまっている」と真実を告げなければいけない。

「友人を助けるために嘘をつく」ことを例外的に許容すると、例外が拡張して道徳が成り立たなくなると考えるためである。

ニーチェはキリスト教の隣人愛を否定するために、カントの考え方を使っているということですね

寝るために生きる?

賢者の知恵は、『よく眠るためには、目を覚ましてろ』ということだ。

実際、もしも人生に意味がなく、俺が無意味を選ぶしかないなら、俺にとってもこれが、もっとも選ぶに値する無意味ということになるのかもしれない。  

ニーチェの著書には「ニヒリズムの克服」を扱う場面が数多く登場する。人間が生きる意味は、一体どこにあるのか、という命題だ。

ニーチェの最終結論は「主体的に生きて生を高揚させること」であったが、ここでは最も極端な例、すなわち末人が考えそうなこととして、「夜、よく眠るため」という理由を提示している。

ニヒリズムに関する考察の一つとして、なかなか興味深いですね!

結婚に関する格言

物を買うときは、みんな慎重だ。みんな抜け目がない。だが妻を買うときは、どんなに抜け目のない男でも、袋に入ったまま買っている。

ニーチェが生きた19世紀はまだまだ男尊女卑的で、ジェンダーに関する感覚が現代とは異なっていたこともあり、「男性を被害者」とする結婚格言が多くみられる。

ニーチェのほかにも例えば、、、

できるだけ早く結婚することは女のビジネスであり、できるだけ結婚しないでいることは男のビジネスである。

結婚をしばしば宝くじにたとえるが、それは誤りだ。宝くじなら当たることもあるのだから。

イギリスの劇作家バーナード・ショー

独身者とは妻を見つけないことに成功した男である。

18世紀フランスの作家アンドレ・プレヴォ

結婚するとは、彼の権利を半分にして、義務を二倍にすることである。

ドイツの哲学者ショーペンハウアー

なんともシニカルな格言が多いですね、、、

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