「徒然草」吉田兼好
基本情報
初版 不明
出版社 角川ソフィア文庫、岩波文庫等
難易度 ★☆☆☆☆
オススメ度★★★★☆
ページ数 293ページ
所要時間 3時間30分
どんな本?
枕草子、方丈記と並ぶ日本三大随筆の一つ。「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて」の書き出しで有名。全244段。鎌倉時代的な「無常観」が通奏低音として流れるが、テーマは都での処世術から理想の生き方まで多岐にわたる。
日本中世を代表する知識人である兼好法師により、人生に関する深い洞察や、鋭い人間観察眼が展開されるが、一部、兼好の主観が爆裂している章(結婚はしない方がいい、女は底意地が悪い等々・・・)もあり、楽しみながら読むことが出来る古典の名作。
著者が伝えたいこと
世の中は無常であり、何かに執着するような人生ではいけない。人間はいつか死ぬのだから、様々なしがらみを捨て、今この瞬間を大切にし、本当に自分が生きたいような人生を生きなければならない。
著者
吉田兼好
卜部兼好
1283頃年-1352年頃
鎌倉・南北朝期の公家・歌人・随筆家。本名は卜部兼好。卜部氏の嫡流が後に吉田姓を称するようになり、江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。
卜部家は古くから「占い」を司る神職の家柄であり、兼好の父兼顕も京都吉田神社の神官。兼好は朝廷に仕えて働くが、30歳頃に出家。理由は不明。出家後は、仏道修行に励んだり、和歌を詠んだりした。
儒教・老荘の思想にも通じており、50歳前後で本書「徒然草」を完成させたと言われている。
こんな人にオススメ
「日本人の知恵の古典」に関心のある人、歴史の中に日常生活での「あるある」を発見したい人
書評
まさに「つれづれなるまま」に、思うところを書き付けていったエッセイ集。兼好がこれまで見聞きした事柄から、特定の教訓や感情を紡ぎ出すという徹底した「実用的・経験的」書き物。読者は「そういうこと、あるよね」と共感しながら読むことが出来る。
(角川ソフィア文庫)
※大人になって改めて読むと非常に深みのあるエッセイ集
著名な段の要約
(序段)つれづれなるままに
最近は特に用事もないので、のんびりと独りでくつろいで、心に思い浮かぶことをあてもなく書き付けてみる。そうすると、自分自身と向き合うことができる気がして、不思議な気分になるものだ。
(第1段)人間は欲望まみれ
人間は富と権力に対する欲に憑りつかれている。天皇や貴族は威厳があるが、それ以下の下級貴族は出世欲にまみれていて品位が無い。家柄と容姿は先天的なものだから仕方ないが、誰でも実学(法律)・教養(和歌)・芸(楽器)・社交術を身に付けることは可能だし、そうするべきだ。
(第3段)良い男の条件
どれだけ良い男でも、恋を知らない男は物足りない。親や世間からの非難をかわしつつ、ひたすら女に言い寄っては、成功したり失敗したりする。それでも、あまり性欲丸出しでガツガツするのではなく、節度を持って行動するのが理想である。
(第11段)物欲を見るのは興醒め
神無月のころに人を訪ねて山里に分け入ったところ、樋から滴る水以外に音はしない。しかし閼伽棚(仏に備える水を置く棚)に菊や紅葉の枝を折って置いてある。その質素な生活に感心していたところ、枝もたわむほどの実をつけた蜜柑の木が厳重に囲ってあるのを見て、非常に興醒めした。
(第13段)読書は古人との対話
独り読書を通じて、作者や登場人物など、知らない昔の人を友とするのは、何よりも良い。読むなら中国の「文選」「白氏文集」「老子」「荘子」などがいいだろう。
(第15段)旅の効用
どこでもよいので、ちょっと小さい旅をすると、新鮮な気分になるものだ。日常生活と異なるものに触れると、残してきた家族への思いが強くなったりする。遠く離れた寺院や神社に泊りがけで祈願にいくのもいいものだ。
(第25段)藤原氏に見る無常観
絶世の権力者だった藤原道長は法成寺を豪華に造営したが、その後南門は焼失し、金堂は倒壊した。仏像はいまだ荘厳に並んでいるものの、これもいつまで存在するのやら。自分の一族だけが末永く反映することを願ったのだろうが、まさに無常そのものである。
(第52段)仁和寺にある法師
仁和寺のある僧は、石清水八幡宮に参拝したことがなかったので、思い切って徒歩で出掛けた。しかし、麓にある極楽寺と高良神社だけ参拝し、肝心の八幡宮を拝まずに帰ってきてしまった。独善に陥ることなく、周囲の人の話をよく聞いておけば、こんなことにはならなかったものを。
(第55段)住まいは夏をむねとすべし
住まいは夏向きに作るべきだ。冬はどのような場所でも住めるが、暑い夏に配慮しない家は住めたものではない。また、部屋は明るい方がいいし、特に使い道を定めない部屋というものがあると便利である。
(第59段)人生の優先順位を考える
悟りを開くという一大決意をした人は、様々なしがらみを捨てなければならない。「これを片付けてから」と思っていると、いつまでたっても一大事を決行する日がやってこない。世の中を見ると、計画倒れで人生を終えてしまう人が多い。
(第74段)蟻のような人生
人間、老いも若きも、貴きも賤しきも、蟻のように東西南北にあくせく動き、朝は仕事に行き、夜は家に帰って寝て、また起きるをひたすら繰り返す。一体、何のための人生なのだろう。思考を停止している者は、老いも死も恐れない。そして愚かな人間は、無常の理を理解しないから、老いや死を恐れる。
(第75段)世の中は生きにくい
「時間を持て余す」人の気が知れない。一人の時間が人生で最高ではないか。人と交われば、自分のペースを乱され、一喜一憂することばかりで平常心を保てない。それでは自分を見失ってしまう。日常の雑事や義理付き合いとは縁を切るべきだ。
(第92段)怠け心を制御する
弓の初心者は、射るときに矢を2本持ってはいけない。二本目があるからと、一本目がいい加減になる。勉強にしても、夜は「明朝、頑張ろう」と思い、朝は「夜、頑張ろう」という人がいる。一日の中で怠け心に気付かない人は、矢を射る一瞬で現れる怠け心には決して気付かない。
(第109段)高名の木登り
木登り名人が、人に指図して高い木に登らせ、枝を切らせた。その人が高いところにいるうちは何も言わず、軒ほどの高さまで降りて来て初めて「気を付けろ」といった。人は、明らかな危険に直面しているときは注意力を働かせるが、逆に何でもないところで失敗するものなのだ。
(第137段)盛りが全てではない
桜の花は満開だけを、月は満月だけを、祭は当日だけを楽しむものではない。例えば今にも花開きそうな蕾や、花びらが舞い落ちて絨毯のようになっている庭を見るのは味わい深い。また、肉眼で楽しむだけでなく、想像するのもまた良い。無教養な人間は何事も現物にしか関心を示さない。
(第141段)関東人 vs 京都人
ある関東出身者が「京都人は返事だけ調子よくて誠意がない」と言ったところ、同じ関東出身の優れた僧侶は「そうではない。京都人は思いやりがあるのできっぱり断れないだけだ。逆に関東人は優しさに欠けて鼻っ柱が強いということだ」と答えた。実に懐が深い。
(第142段)理想の政治とは
心から愛する親や妻子を養うために、恥を忘れて人にへつらったり、時には盗みを働くようなことを、何の束縛も無い独身者が頭から軽蔑することは誤っている。人間は生活が安定しないと、平常心を失う。犯罪者を処罰するより、衣食住の生活を安定させる政治が行われるべきだ。
(第175段)酒の功罪
酒飲みの醜態は見るに堪えない。わめきちらしたり、泣き出したり、喧嘩を始めたりときりがない。酒はつらいことを忘れさせると言うが、かえって昔のことまで思い出させる。逆に、ゆっくり会話を楽しみながら飲む酒は格別だ。親しくしたいと思っていた人と酒で意気投合するのもうれしいものだ。
(第190段)結婚などするものではない
男は妻を持ってはいけない。どんな女でも朝から晩まで一緒にいれば、気に入らない点が出てきて、家庭内離婚のようになる。普段は互いに離れて暮らし、たまに女を訪ねて泊まるようにすれば、二人の仲は長続きするだろう。
(第243段)私が子どもの頃
私が8歳の頃、父にこんな質問をした。「人間が仏の教えで仏になったなら、最初に仏になった人間は何を手本としたのか」。父は大いに困り「空から降ってきたか、地面から湧き出たのだろう」と言って笑った。父はこのエピソードを頻繁に人に語って面白がっていた。
学びのポイント
「徒然草」は賢者の楽しみ
つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆく由なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。
最近は特に用事もないので、のんびりと独りでくつろいで、心に思い浮かぶことをあてもなく書き付けてみる。そうすると、自分自身と向き合うことができる気がして、不思議と気分が高揚するものだ。
序段
これは本書『徒然草』の超有名な冒頭部分である。「あやしうこそもの狂ほしけれ」の解釈が様々あるが、要は「これから他の何を気にするでもなく、独りで自分自身と向かい合い、思いつくことを書き留めていくぞ!」という兼好の宣言になっている。
そして「独りでいること」について、兼好は別の段でこう述べている。
一方、時は下り19世紀のドイツ、哲学者ショーペンハウアーは著書『幸福について』で、孤独についてこう述べている。
仕事以外での人間の「楽しみ」は以下3つに分類できる。
①生きる楽しみ(飲食、睡眠など)
②身体的な楽しみ(スポーツ、行楽など)
③精神的な楽しみ(読書、思索など)このうち、成熟した賢者のみが、③を享受できる。だからこそ、賢者は孤独を好む。何故なら③を楽しむには内面に備わっている要素で事足り、外部刺激を必要としないからだ。
逆に愚者は①と②しか楽しみがないから、是が非でも気晴らしや社交を求め、空虚な自分から逃れようとする。
多くの人が、味気なく空虚で悲しみに満ちた日々の生活そのものを目的とする一方、賢者は精神的生活が人生の目的となるのだ。
これはショーペンハウアー流の、かなりひねくれた(?)ものの見方ではある、しかし、外部刺激がなくとも、孤独を好み、自分自身と向い合うことだけで何かが紡ぎ出せるという点では、兼好は間違いなく賢者の部類に入るのだろう。
孤独が一番
同じ心ならむ人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなきことも、うらなく言ひ慰まむこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらむと向かひゐたらむは、独りある心地やせむ。
気持ちのぴったり合うような相手と、心静かに語り合い、おもしろい話題や人の世の無常などを取り上げ、本音を吐いてすっきりするのは、楽しいに決まっている。
しかし、そんな相手はいるはずもないので、相手の意に反しないように、気を遣いながら向かい合っているとしたら、 逆に孤独感が湧いてくるのではないだろうか。
第12段より抜粋
序段で兼好は「独りで思いつくことを書き留めていくと、自分自身と向き合えるようで気分が高揚する」と言っていたが、ここにその理由の一つが述べられている。つまり、誰かと議論したところで、自分と全く同じ意見の人間などおらず、気疲れしてしまうから、独りのほうがいいよねということだ。
兼好は別の段でこうも言っている。
つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るる方なく、ただ独りあるのみこそよけれ。
世に従へば、心、ほかの塵に奪はれて惑ひやすく、人に交はれば、言葉よその聞きに従ひて、さながら心にあらず。人に戯れ、ものに争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定まれることなし。分別みだりに起こりて、得失やむ時なし。惑ひの上に酔へり。
時間をもてあます人の気が知れない。何の用事もなくて、独りでいるのが、人間にとっては最高なのだ。人と交われば、自分のペースを乱され、一喜一憂することばかりで平常心を保てない。それでは自分を見失ってしまう。日常の雑事や義理付き合いとは縁を切るべきだ。
第75段(前半)
ここでまた、ショーペンハウアーに登場していただくことになる。出典は先ほどと同じく『幸福について』。
そもそも人間は、自分自身を相手にしたときだけ、「完璧な調和」に達することができる。友人とも恋人とも「完璧な調和」に達することはできない。個性や気分の相違は、たとえわずかではあっても、必ずや不調和を招くからだ。
だから、心の真の深い平和と完全な心の安らぎという、健康に次いで最も貴重な地上の財宝は、孤独のなかにしかなく、徹底した隠棲のうちにしか見出すことができない。
時代も場所も全く違うが、言っていることの本質は全く同じである。徒然草が現代まで読み継がれているのは、そこに普遍的な要素があるからだろう。
人生の「第2象限」にパワーを振り向ける
大事を思ひ立たむ人は、避り難く心にかからむことの、本意を遂げずしてさながら捨つべきなり。「しばし、この事果てて」など思はむには、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう人を見るに、少し心ある際は、みなこのあらましにてぞ一期は過ぐめる。
悟りを開くという一大決意をした人は、様々なしがらみを捨てなければならない。「これを片付けてから」と思っていると、いつまでたっても一大事を決行する日がやってこない。世の中を見ると、計画倒れで人生を終えてしまう人が多い。
第59段より抜粋
これは現代人にこそあてはまる、非常に普遍性の高い人生訓と言えるだろう。この段のエッセンスは「何かをやろうと思ったのであれば、現時点で優先順位の高い何かを捨てなければならない」ということだ。
確かに出家するのであれば、日常の雑事や人間関係等をきれいさっぱり捨てられるだろうが、現代人はなかなかそうもいかない。
そこで、20世紀最強の自己啓発本『7つの習慣』は、優先順位の高い事柄を「捨てる」のではなく、「効率よくこなす」ことで、本当にやりたいことに時間を割くことを薦めている。
■人生の充実度は、長期的な視点で「緊急ではないが重要」な第Ⅱ領域にどれだけ資源を振り向けられるかで決まる。
■第Ⅰ領域の危機や問題は、大きくなる前に芽を摘む「予防活動」を通じて極力減らすべきだ。緊急度という刺激に反応し続けて人生を終えてはならない。
■自らの時間を第Ⅱ領域にうまく配分するには、「将来ビジョン」と「今、何をすべきか」を整理し、1週間単位でスケジューリングしていくことや、何でもかんでも自分でやるのではなく、特定の分野に優れた他者を活用することが有効だ。
遺産は残さず
身死して財残ることは、智者のせざるところなり。
自分が死んで後に財産の残ることは、賢明な人間のすることではない。
第140段より抜粋
世の中に確実なものなど一つもなく、あらゆるものは変化し続けるという「無常観」に裏打ちされた教訓と言える。読者の中には、西郷隆盛の「子孫のために美田を買わず」という言葉を思い出された方がいらっしゃるかもしれない。
ちなみに西郷の言葉は、一般的には「子供を堕落させてしまう恐れがあるから財産を残すな」と解釈されるが、前後の文脈を読むとそうでないことが分かる。
いくたびか苦しいことを経験してこそ、人の志は初めて堅くなるのだ。真の男は潔く玉となって砕けることを本懐とし、志を曲げてまでして生きながらえるのを恥じるものでなければならぬ。
私の家の遺訓を人が知っているかどうかわからないが、それは子や孫のために美田を買うなどということはしないということだ。
つまり、「私利私欲に走るようでは志を遂げることはできない、志を果たすためにはすべてのものを犠牲にする覚悟を持て」ということで、美田を買うというのは私利私欲の一例に過ぎない。
人事部長のつぶやき
性欲は普遍的
世の人の心惑はすこと、色欲にはしかず。人の心は愚かなるものかな。
性欲ほど人間を迷わせるものはない。なんて人間は愚かなんだろう。
第8段より抜粋
これは数万年前も、鎌倉時代も、現代も、何ら変化することのない、人間の普遍的な真理なのだろう。例を挙げればいくらでも出てくるが、古代ギリシャの哲学者プラトンまでが、著書『国家』で、この性欲の問題を取り扱っている。
ある男は、(三大悲劇詩人の)ソポクレスにこう問うた。「どうですか、愛欲の楽しみのほうは。あなたはまだ女と交わることができますか?」
ソポクレスはこう答えた。「よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、狂暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなものだ」
私はそのとき、このソポクレスの答を名言だと思ったが、いまでもそう思う気持にかわりはない。まったくのところ、老年になると、その種の情念から解放されて、平和と自由がたっぷり与えられることになるからだ。
ちなみにソポクレスは、ギリシャ最大の傑作と言われる悲劇『オイディプス王』の作者。さすが、気の利いた返答をしています。
古今東西、人類は皆、この性欲の扱いに困っているんですね、、、
女性がいないと
女のなき世なりせば、衣紋も冠も、いかにもあれ、引き繕ふ人も侍らじ。
この世に女がいなかったら、男は、着るものも、かぶるものも、どうでもよくなり、身なりを構わなくなるだろう。
第107段より抜粋
わはは、これは鎌倉時代も今も、全く変わらない。逆に女性は、もちろん男性の目を気にする人もいるだろが、基本的には自分が美しくありたいという願望が強いのかもしれない(例えば、手の込んだネイルアートは、男性に見せるというよりは自分のためだろう)
偏見ですが、確かに男子校出身者は、大学に入ってから身なりが綺麗になるケースが多いような気がします
ポリコレ的にアウト
女の性はみなひがめり。(以下、例を羅列)ただ迷ひを主としてかれに随ふ時、優しくもおもしろくもおぼゆべきことなり。
女の本性はゆがみきっている。自分中心、欲深い、道理を弁えない、口が達者、余計なことを言う、外見を飾る、素直でない。
女というものは、その色香に支配されて、彼女の言いなりになっているときだけ、優しくて魅力ある存在に思えてくるような代物にすぎない。
第107段より抜粋・編集
またまた女性に関する段を引用してしまったが、これは現代では完全にアウトであろう。いわゆる「ポリティカル・コレクトネス(=社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策または対策などを表す言葉の総称)」違反に当たる。
どうせなら兼好には「男もゆがみきっている」というバージョンも作ってほしかったですね
老人の若き人に交はりて、、、
おほかた、聞きにくく見苦しきこと、老人の若き人に交はりて、興あらむともの言ひゐたる。
だいたい、耳障りで見苦しいことといえば、年寄りが若者の間に交じって、おもしろがらせて受けようと思い、しゃべりまくっていることだ。
第113段より抜粋
これも昔からあるのですね。若者が批判しているのではなく、(歳のいった)兼好が指摘しているという点に、兼好のバランス感を感じます。
年寄りが気持ちよくしゃべれるのは、若者が気を使っているからなのでしょうね
フェイクニュースもそれなりに見えてしまう
あるにも過ぎて人はものを言ひなすに、まして年月過ぎ、境も隔たりぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがてまた定まりぬ。
だいたい、人間は実際以上に話をこしらえて言うものだが、まして、時間的にも空間的にも遠く隔たると、無責任に話を作り変える。そして、文字で記録されると、それがまた、そのまま事実として定着してしまうのだ。
第73段より抜粋
科学的に証明されているという話は聞いたことが無いが、紙に書いてあるものを信じてしまう心理は、何となく理解できるのではないだろうか。しかも、手書きより活字になっている方が、なんとなく信ぴょう性が高いような感覚が気がします。
フェイクニュースが量産されるようになったのも、文字に出来るSNSが広がったからかもしれません
(角川ソフィア文庫)
※大人になって改めて読むと非常に深みのあるエッセイ集