なぜ「教養」なのか
(本サイトのコンセプト)

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このサイトのコンセプトは「本を読んで教養を身に付けよう!」というシンプルなものです。しかし、今、なぜ、教養を身に付ける必要があるのでしょうか。詳しく解説してみたいと思います。

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これまでの自己啓発はAI時代に無意味化する

皆さんは「自己啓発」と聞いて、何が思い浮かぶでしょうか。  

簿記?英語?MBA?ロジカルシンキング? 

一昔前のビジネスパーソンは、資格取得に語学習得に、大幅な時間を割いていたものです。

しかし、これから迎えるAI時代に、これらのスキルは一切役に立たなくなります。

簿記?決まったルールで物事を仕分けるのはAIが最も得意とする分野です。財務諸表は読み方さえ知っておけば、その作り方まで学ぶ必要は一切ありません。

英語?遠くない未来にGoogleがストレスのない翻訳機をリリースするでしょう。私達が無理に英語を話す必要はなくなります。

MBA?いわゆる「経営学」は、会社経営を理論化した学問です。市場分析の方法やマーケティング理論ですね。MBAのクラスでは「ケース」と呼ばれる過去の企業の成功・失敗事例を書いた教材で、それらの理論をどう活用するかを学んでいきます。

しかし、これも大量の経営データさえサーバーに入れられれば、誰でも簡単に、ボタン一つで、直面する経営課題に対する正しい(と過去の事例から類推される)対処法を得られるようになるでしょう。そしてそれを実践しても、誰もが同じ答えを得ているので、競争には勝てないということになります。

ロジカルシンキング?これも考え方の「型」なので、数多くのパターンをAIに学習させれば、前提条件をいくつか打ち込むだけで、人間に代わってパソコンが考えてくれるようになるでしょう。

今後のビジネスにおいて必要な素養とは

これまで見てきたように、一般に「ビジネススキル」と呼ばれるものは、AI時代においては何の差別化要素にもならず、時間を掛けて身に付ける意味はほとんどなくなります。

では、人間しかできないこととは一体何なのか。

それは、「こんなことを実現したい」という意志や、「どうすれば社会や周囲の人のためになるか」という利他的な思考、そして「何が正しいか、善いか、美しいか」を判断する力であり、「徳」や「人間力」とも呼べるものではないでしょうか。

例えば、ソニーの創業者の一人・井深大は「不当なもうけ主義を廃し、真面目な技術者の技能を最大限発揮できる理想の工場を作る」という志で会社を立ち上げました。こういった、志を持ち、何らかのアクションを起こし、周囲を巻き込むということは、AIにはできません。

また、善悪の判断もAIの苦手とする分野です。日本で施行されている全ての法律・判例をデータベースに入れても、必ずグレーゾーンが残ります。

例えば分かりやすい例ですと、少し前に話題になった「夏休みの宿題代行業」。儲かるビジネスモデルではありますし、取り締まる法律もありませんので、AIならゴーサインを出すかもしれませんが、倫理的に良いのか、子供と社会の未来にとって正しいと言えるのか、といった判断は人間でしかできないわけです。

また、「ビジネススキル(=才)」は時代とともに変化します。一昔前まで常識だったことが、少し時間が経つと直ぐに通用しなくなる。例えば会計制度の変遷を見ていれば明らかです。最新の情報を一生懸命仕入れても、直ぐに陳腐化してしまうのです。

一方、「人間力(=徳)」、つまり「何が正しいか、善いか、美しいかの判断」は、人間が何百年もかけて追い求めている普遍的なテーマであり、時代背景によって変化はあるものの、根本の部分はソクラテスや孔子の時代から変わっていません。

AIの普及に伴い、スキルを身に付ける時代は終焉を迎え、これからは「人間」を学び、「徳」を身に付けることがより重要な時代に入ってきたと言えます。才では差別化できなくなった今、徳こそが、個々のビジネスパーソンの価値を高める時代なのです。

年齢や役職が上がるにつれ「才<徳」になる

 業務能力例対人能力例
20代実務遂行周囲と協調する
30代計画・リスク管理・効率化同じ方向にまとめる
40代高い視座・広い視野・長い視点やりがいを創る(やる気と能力を引き出す)
50代~真・善・美の判断何を為すかという意志を示す

これは私が考える「年代別に必要な素養」で、業務能力と対人能力に分けて記載してあります。

もちろん業種や職種、組織の大きさ等によって違いはありますが、概ね、経験を重ねるにしたがって、求められる能力も変化してきます。

まず20代は養成期間として、周囲と協調しながら、しっかり実務を遂行する能力が求められます。

そして30代。係長とかグループリーダーになるような時期です。業務能力としては、計画的に物事を進める力とか、最小のインプットで最大のアウトプットを効率的に生むオペレーション力とか、リスク管理といった能力が求められます。そして対人能力としては、チームのメンバーを同じ方向にまとめていくようなリーダーシップが必要になります。

次は40代。課長とか、そういったクラスになってきます。業務面では、社内の他部署との調整や、何らかの大きなプロジェクトの立案と実行、そして社外との関係等も出て来るので、「高い視座・広い視野・長い視点」が必要になってきます。

対人面では、もはや自分が頑張る時代は既に終わっていて、チームメンバーの能力とやる気を引き出すために、やりがいのある仕事や職場環境を創出するという仕事が求められます。

そして50代以降。このステージになると、業務面では「真・善・美の判断力」、すなわち、何が正しくて、何が善いことで、何が美しいかを判断するような局面に出くわすようになる。そして対人面では組織の幹部として、「社会のためにこういうことを為していきたい」という意思を社内外に発信するようなことが求められます。

青色=スキル(=才)、良い仕事をするための手段

赤色=人間力(=徳)、良い仕事をするという目的

これらをざっと見返すと、青色の部分は「スキル」とか「才」と言うことができます。ある程度、社会人として仕事をしていれば身に付くであろう能力です。ただ、これらは「仕事をするための手段」でしかありません。例えば私たちは、計画的に業務を進めるために仕事をしているわけではない、高い視座・広い視野・長い視点を持つために仕事をしているわけでもありません。

一方、赤色の部分は、短期間の訓練で身に付くような素養ではない、いわば「人間力」とか「徳」と言うべき分野になります。そしてこれらは「目的そのもの」と言ってもいいと思います。

少し分かりにくいかもしれませんが、この赤色の部分は、自分や周囲の能力を最大限活かし、社会に役立つ正しいことを、会社という組織を通じて為す、という人生の目的の一つ(=どう生きるか)とも言える領域ではないかと思います。

ひっくるめると、良い仕事をし、やりがいを感じるためには、才も徳も必要。しかし「才」は今後AIに取って代わられる可能性が高い。つまり大きな目で見れば、これからのビジネスパーソンは「才徳兼備」「才<徳」を目指していく、というのが正しいのではないでしょうか。

しかも、少子高齢化・働き方改革・コンプラ重視という環境の中、合理性や論理性(=才)を大義名分に、部下を使い込み、不適なら交代させるという、グイグイ系のリーダーは時代遅れになりつつあります。これまでより「人」という資源が希少になる中、長時間労働やパワハラなどはもっての他ですし、「やりがい」や「働きやすさ」が無ければ、人はどんどん会社を去って行ってしまいます。

よって令和の時代においては、最低限の才に加えて、人間力(=徳)で、やりがい・成長・心理的安全性を提供し、部下の力を最大限発揮させるリーダーシップこそが求められるのです。

「才」と「徳」を単純な二元論で考える

では、「才」と「徳」とはどういうことなのでしょうか。もう少し詳しく見ていきます。

才(才能、ビジネススキル、マネジメント) 徳(人徳、人間力、リーダーシップ)
仕事をうまく回すため&利益を出すための手段
例)MBA(マーケティング、ロジカルシンキング等)
定義何が正しいか、善いか、美しいかを判断し追求する力
例)社会や周囲の人のために何を為すかという意志
ROE5%を目指した経営計画を作る行動例会社の存在意義を定めたビジョン・ミッションを作る
藤沢武夫的人物例本田宗一郎的
算盤(渋)、ロゴス(ア)、幾何学の精神(パ)表現例論語(渋)、パトス・エトス(ア)、繊細の精神(パ)
形式知(言葉や数字で表現可能)知の様態暗黙知(人格そのもの)
理論、理性、情報、ルール
例)市場分析でニーズを探り、商品化する
悪例)ライブドア株価釣り上げ事件
判断根拠直観、感性、想い、倫理観
例)社会を良くしたいという情熱で商品を開発する
悪例)大東亜戦争
渋=渋沢栄一、ア=アリストテレス、パ=パスカル

議論を分かりやすくするために、この表のように単純に二元論化してみました。左側が「才」、才能とかビジネススキル。右側が「徳」、人徳とか人間力と呼ぶべきものです。

リストはまだこの後も続きますが、まずは「徳」と「才」を定義付けていきたいと思います。

まず「才」は「仕事をうまく回すため&利益を出すための手段」と定義します。先ほど出てきた計画性とか効率化もそうですし、MBAで学ぶようなこと全般、マーケティング理論とか簿記とかロジカルシンキング等は全てこの「才」に分類されます。具体的な例では、「ROE経営」という理論に基づいて、「ROE5%を目指した経営計画を作る」といった行動が挙げられます。

一方で「徳」は「何が正しいか、善いか、美しいかを判断し、追求する力」と定義します。例えば、社会や周囲の人のために何を為すかという意志は、この「徳」に分類されます。具体的な例では、「会社の存在意義を定めたビジョン・ミッションを作る」といった行動が挙げられます。

一言で言えば、梯子を上手く昇る力が「才」、梯子と正しい位置に掛ける力が「徳」ということです。

分かりやすい人物例として、「徳」は「どこにもないものを作って、技術で社会に貢献する」という意志を持ってホンダを創業した本田宗一郎的、一方で「才」は、技術に偏重しすぎて売掛金の回収もままならなかったホンダを経営面で支えた藤沢武夫的と言えます。

(もちろん本田宗一郎も一定のビジネススキルは持っていましたし、藤沢武夫にも本田の夢を支えるという意志を持っていました。ここでは分かりやすく、本田宗一郎を徳、藤沢武夫を才に割り振ったということでご理解ください)

そして、この「才」と「徳」を昔の人はなんと表現したか。皆さんは渋沢栄一の「論語と算盤」という本を読んだことがあるでしょうか。渋沢は「才」を「算盤」、「徳」を「論語」と表現しました。古代ギリシャのアリストテレスは、「才」を「ロゴス」、英語で言うとlogic(論理)ですね、「徳」を「パトス」と「エトス」、英語で言うとpassion(情熱)とethics(倫理)と呼びました。フランスのパスカルは「才」を「幾何学の精神」、「徳」を「繊細の精神」と呼んでいます。

知の様態としては、「才」は言葉や数字で表現可能な「形式知」と言えます。一方の「徳」は「暗黙知」、すなわち言語化できない人格そのものです。

そして「才」の判断根拠は、理論であり、理性・情報・ルールなどです。例えば、マーケティング理論を駆使して、市場分析でニーズを探り、商品化するといったこと。あとは、ルールだけに依拠し、倫理観を考慮に入れなかった例として、皆さんはホリエモンによる「ライブドアの株価釣り上げ」事件を覚えていらっしゃるでしょうか。

あれは株式分割という仕組みを巧みに利用して株価を釣り上げて、何の苦労もなく大金を手にするという手法でした。当時は合法、すなわち、ルールに照らせば問題は無かったわけですが、当時は多くの議論を巻き起こしました。

一方、「徳」の判断根拠は、直観、感性、想い、倫理観などです。例えば、体系だった理論に拠るわけではないけれど、社会を良くしたいという情熱で商品を開発するといったこと。あとは、先ほどの逆の例で、感性や想いだけに依拠し、理性や情報を考慮に入れなかった例として、大東亜戦争を挙げておきたいと思います。

大東亜戦争が始まる5年前、政府は「総力戦研究所」という組織を設置して、仮にアメリカと戦争をしたらどうなるかを、当時の双方の国力といったあらゆる情報を考慮に入れて緻密にシミュレーションしました。

結論は「日本の敗戦」。理論・理屈の世界では、日本は戦争をすべきではなかったと政府が公式に見解を出しているわけです。しかし、当時の近衛文麿首相や東条英機陸軍大臣らはこの結論を退けました。日露戦争だって勝てると思わなかった、戦争は計画通りにいかないという意見で、当時の世論も、イギリス・アメリカとの交渉に弱腰な政府に業を煮やして「開戦論」に傾いていったわけです。

この時は政府が理性的な判断をするべきだった。ライブドアの件でも、大東亜戦争開戦の件でも、やはり才・徳どちらかだけでは不十分ということなのだと思います。

なお、この時の日本政府の動きを猪瀬直樹が著書「昭和16年夏の敗戦」で見事に描き切っています。

才(才能、ビジネススキル) 徳(人徳、人間力)
仕事をうまく回すため&利益を出すための手段
例)MBA(マーケティング、ロジカルシンキング等)
定義何が正しいか、善いか、美しいかを判断し追求する力
例)社会や周囲の人のために何を為すかという意志
変化と陳腐化が早い特徴①時代や場所を問わず普遍的
論理的・専門的・功利的・定量的・分析的(science)特徴②観念的・統合的・道徳的・定性的・総合的(art)
西洋&デカルト的理性=根本原理・因果関係を探求
例)西洋医学の対処療法(特定部分を治す)
特徴③東洋&老子的感性=無為自然の世界で人間性を感じる
例)東洋医学の漢方療法(体全体を正しい姿に整える)

次に、「才」と「徳」それぞれの特徴です。「才」は変化と陳腐化が早いですね。例えば10年前に流行っていたマーケティング理論は、みんながそれを採用するから、陳腐化して、競争力を失う。そうすると、常に新しい理論にキャッチアップしていかなければいけない。

一方の「徳」は時代や場所を問わず普遍的です。「何が正しいか」とか「社会や周囲のために何を為すか」とか「どう生きるか」といったテーマは、人類が何千年も前から継続的に思索を深めてきたテーマであって、今後も変化することはないと思います。一生かけて取り組むに値するテーマと言って良いでしょう。

そして、これまで申し上げてきた「才」の特徴をまとめると、論理的・専門的・功利的・定量的・分析的、すなわち「サイエンス」と言い換えられます。また「才」は、西洋的かつデカルト的で、根本原理・因果関係を探求するという性質を持っています。

例えばデカルトは「方法序説」の中で、「世の中の全てのものは疑わしいが、疑っている自分だけは確実に存在する」という根本原理や因果関係を追求したことで知られている。これは哲学の範疇だけれども、「サイエンス」的な態度。

西洋の医療は、いろいろ検査をして、悪いところを特定して、そこを治療するという方法を取る。Aという症状があるときはBという病名だろうと、帰納法的に因果関係を推定していく。これもまさに「サイエンス」的な態度。

一方の「徳」は、観念的・統合的・道徳的・定性的・総合的で、言うなれば「アート」の世界です。先ほどのデカルトとの対比では老子的ですね。無為自然、すなわち、ことさら知恵を働かせず、自然に生きていきましょうというスタンス。

東洋医学では、病気は「体の中の邪気と正気の戦い」であって、病気を治すには体全体の調和を取り戻すことに腐心する。まさに「統合的」で「総合的」なわけです。

ここまで、「才」と「徳」の特徴を見てきました。では、この「才」と「徳」は実際の仕事ではどのように活用できるのでしょうか。

才(才能、ビジネススキル) 徳(人徳、人間力)
仕事をうまく回すため&利益を出すための手段
例)MBA(マーケティング、ロジカルシンキング等)
定義何が正しいか、善いか、美しいかを判断し追求する力
例)社会や周囲の人のために何を為すかという意志
誰でも理解できる&誰でもほぼ同じ結論
判断理由や成果を説明可能
→担当者が役職者を説得するのに向く(説明責任)
活用法①誰でも理解できるとは限らない&人により見解異なる
判断理由や成果を説明できない
→役職者が自らの責任で実行するのに向く(結果責任)
過去から連続する課題への解決ツール例)判例を調べて、企業訴訟に対応する
例)管理会計手法を用いてコストを下げる
活用法②過去に例のない課題への判断の拠り所
例)クローン技術を規制する法をつくる
例)会社・社会・自分の利益が相反した際の態度
デジタル的(効率重視、評価は生産性が決める)働き方①アナログ的(やりがい重視、評価は歴史が決める)
之を知る者働き方②之を好む&楽しむ者
才ある人=報酬で処遇働き方③徳ある人=役職で処遇
いずれ大部分をAIが代替するのでは将来最後まで人間の分野では

まず「才」的な素養は、論理的で分析的なので、誰でも理解できるし、誰でも手法の使い方さえ間違えなければ、ほぼ同じ結論に達する。つまり「判断理由や成果を説明可能」という特徴があります。これは、担当者が役職者を説得するようなケースで活用可能ですね。

例えば、何らかの企業訴訟があったとして、過去の判例に基づいて今後の方針を決めていくようなケース。もちろん解釈に色々な相違はあるだろうけれども、過去を分析して将来の対応を決めるというのは「才」的な要素であり、判例をどう分析して、どういう結論に至ったかは言語化できる。

しかし、これは「責任逃れ」の方法として悪用されることも多いです。先ほどの例で、仮に企業訴訟に負けてしまった場合、これは判断が誤っていたわけですが、「過去の判例を集めて検討した結果だから自分は悪くない」と手法のせいにされることも多い。

あとは、管理会計手法を用いてコストを下げ、結果として利益を上げました、というような例。これもスキルの分野の話になりますね。

一方、「徳」的な素養は、誰でも理解できるとは限らないし、人によって見解は異なります。判断理由や成果を説明できないわけです。よって、これはボトムアップで上司を説得できないということを意味しますから、役職者が自らの責任で実行するのに向くということになります。

例えば先ほどの法律の例では、「クローン技術を規制する法をつくる」といったケースだと理解しやすいでしょうか。過去の参考となる法律もなく、ここで主に問われるのは倫理観とか人間観です。クローンという新しい技術にどう向き合うか、過去に例のない物事に対する判断は「徳」の分野になります。

また、会社・社会・自分の利益が相反した際の態度、はどうでしょうか。これも、どうすれば被害が最小限になるか、と分析的・定量的に考えるところまでは「スキル」の世界かもしれませんが、その先にある「では、どうする」という決断は「徳」の世界になるのだと思います。

そして働き方の違いです。「才」の世界では常に効率が重視されます。商品は1円でも安い方がいい、労働者には同じ時間をかけるのであれば、1つでも多くの商品を作ってほしい。評価は「生産性」が決めることになります。

どれだけ利益をあげられるかを戦略的に考える。これは資本主義そのものですね。会社は株主のものであって、株主利益を最大化することが正しいという考え方。これはマルクス主義的な階級闘争の考え方にも繋がりますし、数年前に流行ったピケティに拠れば、現在の資本主義体制下においては、資本収益率rが経済成長率gを上回っていて、経済格差が広がる方向になる。これが効率至上主義の世界。

一方、「徳」の世界ではどうでしょうか。資本主義との対比だから、共産主義でしょうか?いいえ、違います。共産主義は、格差をなくすという理念に向かうという意味では「徳」に近いかもしれませんが、私有財産制を人工的に廃止して、全てを人間の手でコントロールするということですから、どちらかというと才とかスキルに近いと言えます。

「徳」の世界では、仕事はやりがいの源泉です。社会や周囲の人のために、正しいことを、どうを為すかという意志を仕事を通じて実現するということですね。評価は効率性ではなく、歴史が決めるということになります。

それから、孔子の言葉で、「之を知るものは、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」というものがあります。「これ」は勉強でも仕事でもいいのですが、仕事に関する知識があるという人は、仕事が好きだという人に適わない。仕事が好きだという人は、仕事を楽しむ人に適わないという意味です。

「仕事に関する知識がある」というのはまさに「才」の世界ですね。一方、「徳」の世界では、仕事は好きになるものであり、楽しむものと言えます。

それから、中国の歴史書である「書経」には、こんなことが書いてあります。「才」のある人、つまり実務能力のある人間は、報酬、すなわち給料で処遇せよ。一方、人間力のある人間は、役職で処遇せよ、と。

どうでしょうか。「才」型の人が上司になった場合、論理的・定量的な案件や、過去から連続する課題は判断できても、観念的・定性的な案件や、過去に例のない課題には対応できないわけです。だから、「才」型の人を主要なポストに就けてはいけない、と言っているわけです。

ちなみに、日本では西郷隆盛がこの趣旨のことを話したとされていますが、元々の出典は中国の「書経」です。紀元前の頃から、現在にも通じることが考えられていたのですね。

そして最後に、この「才」と「徳」がどうなっていくかについて検討してみましょう。

「才」は「徳」に比べると、言葉や数字で表現可能な形式知と言えます。これはAIとの相性が非常に良いわけで、例えば、過去の判例を全部データベースに突っ込んで、判決を予想するようなことは今でも行われています。「才」の分野は、いずれ大部分がAIに置き換わっていくのではないでしょうか。

一方、「徳」の分野はどうでしょうか。善悪の判断、何を美しいとするか、人は何のために生きるのか、AIは示唆はしてくれるかもしれませんが、最後に決めるのはやはり人間です。「徳」の分野までカバーできるAIを搭載したロボットが将来的に表れるとしても、その開発を許すか許さないかは人間が決めなければなりません。やはり、この「徳」の分野は、最後まで人間の分野ではないかと思います。

以上、「才」と「徳」について見てきました。

「徳」を身に付けるために必要なこと

それでは、どうすれば「徳」を身に付けることができるのでしょうか。

当然ながら、「徳」の涵養法を理論化した人はいないわけです。暗黙知を「才」の力で理論化するというのは、そもそもの定義から不可能なわけですね。私も含めて、全ての人間は成長途上です。

では、なす術はないのでしょうか。視点を少し変えてみて、「徳」が絶対に身に付かない状態、ということを想定して、その状態を脱するというアプローチを採ってみましょう。

そう考えるとどうでしょうか。少なくとも「毎日同じような生活を繰り返し、何も考えずに生きているだけでは、何も身に付かない」ということは言っても良いのではないでしょうか。これを乱暴に一般化することは危険ですが、おおかたの人の了解を得られるのではないかということを前提に、思考のプロセスとして、このまま前に進んでみます。

まず「同じような生活を繰り返さない」ようにするにはどうしたら良いか。これには何らかの「活動」が必要ということになる。そして「何も考えずに生きない」ためには「内省」が必要ということになります。ここまでは概ね了解できるのではないでしょうか。

そしてここから先は、各個人が自分で考えていかなければなりませんが、「私はこう考えて生きている」という例として、お話を進めていきたいと思います。

「活動(人・体験・本)」と「内省」

まず、私達が住む世界の全体を表してみる。横軸は時間。左が未来で右が過去。縦軸が空間。そしてその交点に自分がいる。これで自分に関係するすべての世界が、「重複なく・漏れなく」考えられます。

ちなみにこの「重複なく・漏れなく」を、英語では「MECE(ミーシまたはミース。Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)」と言い、MBAでは必ず習う項目です。このアプローチは完全に「才」の世界に属するものですね。ただ、思考を進めるためのツールなので、うまく活用していきたいと思います。

この私たちを取り巻く世界の中で、どうやって「活動」と「内省」を実現していくのか。どのような要素が「徳」や「人間力」を高めるのかを考えていきます。

まずは、私たちが生きている、今この瞬間の世界。X軸は原点Oだけれども、Y軸の空間は広がっている。

ここではやはり「人」ではないでしょうか。様々な価値観、年齢、性別の人と交流する。ここには家族や親族、親しい友人も、もちろん含まれます。人との交わりの中で、感受性が磨かれ、他者を受容する力が養われ、或いは目標となるような人が見付かったりするわけです。

その次は「体験」だと思います。ここには色々な体験が含まれますが、私が特に大切な体験だと思うのは「仕事・芸術・異文化」の3つです。

まず「仕事」は人を成長させます。様々な困難、対人関係、何かを成し遂げた際の充実感ややりがい、仕事は「才」の側面も大きいですが、こういった「徳」の側面を涵養することにもなります。

そして芸術です。何が正しいか、何が善いことか、というのは時代と場所でそれなりのバラツキがありますが、何が美しいかというのは洋の東西を問わず、それほど変わらないと思います。私達東洋人が、古代ギリシャの彫刻を見ても、印象派の絵画を見ても、「美しい」と思うわけですよね。

もちろん、この「芸術」には、彫刻や絵画だけでなく、音楽・映画・舞台・漫画等も含まれます。ギリシャ時代のリベラル・アーツ、いわゆる教養科目には音楽が含まれていました。芸術は、人間の発想・思索・認識等の発露です。芸術に触れることは、人間に触れることに他なりません。

この「美しい」という価値観。時代や場所に左右されない、人類に普遍的な感覚を養うことには、大きな意味があるように思います。

そして異文化です。異文化については、触れること自体に意味があるというよりは、自分と異質の文化・言語・習慣・価値観に触れることによって、自分を相対化するというか、自分の価値観を比較によって浮き上がらせて、深く理解するということに意味があると思います。これまで当たり前だと思っていたことが、実はそうでもないということが分かる、といったことですね。

異文化への触れ方は、旅行や留学で海外に出る、ということには限りません。これまで触れてこなかった分野、例えば新しいスポーツに挑戦してみるとか、これまで付き合ってこなかったような人たちの輪に入ってみるとか、そういうことも異文化に含まれます。

ここまで、時間軸は「現在」として、空間軸の話をしてきました。次は、時間軸を「過去」とします。

私たちが「現在」という立ち位置から「過去」を知ろうと思うと、手段が限られます。おじいさんやおばあさんに話を聞く、といっても、せいぜい100年前の事柄くらいが関の山です。

そこで出てくるのが「本」です。もちろん、過去の芸術作品や、いわゆる世界遺産等も過去をしる手掛かりではありますが、情報量としては本が圧倒的です。「徳」を身に付けるうえで、最も大切なものは、この「本」ではないかと私は思います。

ではどんな本が良いのかというと、まずはジャンルを問わず、古典です。古典の何がいいかと言えば、評価が定まっているということです。内容の薄い「駄本」は時代とともに淘汰されて、多くの人が「価値がある」と判断した本だけが、現代に残ってきているわけです。

読書論については、それだけで何時間もかかってしまうので、ここでは話を進めていきます。

次に、X軸とY軸の交点、つまり自分です。人・体験・本といった「活動」を通じて、自分は何を考えるのか。今をどう生きるか、そして将来どうしたいのかを考える「内省」も、人間力や得を涵養するうえでは必要不可欠です。

では、具体的にどのように「活動」し「内省」すればよいのか、ということを考えてみたいと思います。

具体的に為すべきことは

まず「活動」から。キーワードは「同じような生活」を脱するということでした。

人間、長く生きていると、自分が心地よくいられる領域が固まってくる。それを一般的に「comfort zone(心地よい領域)」と言ったりします。

皆さんはどうでしょうか。例えば読む本、同じようなジャンルや特定の作家に偏っていないでしょうか。あるいは会う人ですね。いつも同じようなメンバーで飲みに行ってないでしょうか。行く場所も同様です。それらを積極的に広げていく努力は必要なのではないでしょうか。

それから、例えば関心を持つニュースやスポーツ。別に、興味の全くないニュースとかスポーツに手を広げろとは言いません。今、国際情勢に関心があるのであれば、それをもっと深めてみるとか、今、フットサルにハマっているのだとしたら、もう一段上のレベルに行くにはどうしたらいいかを仲間と真剣に考えてみるとか。

つまり、いま自分が気持ちよくいられるComfort Zoneが広がったり深まったりすればいいわけです。それだけで、「同じような生活を脱する」という目的は達成されることになります。

次に「内省」です。Comfort Zoneを広げたり深めたりするのはいいですが、それだけでは不十分だと思います。仕事に向かう姿勢、何かを判断する軸、今の時間の使い方に自分は納得しているのか、どう強みを伸ばし、弱みを補うのか、負の心をどう制御していくか、家族とどう向き合っていくかなどなど。

論語の言葉を借りれば、「活動して内省せざれば即ち罔し、内省して活動せざれば、即ち殆し」とでもいえると思います。「活動だけして内省しなければ、活動を人生に活かすことはできず、内省ばかりで活動しなければ、内省を人生に活かすことができない」というようなことですね。

以上、長々とお話ししてきましたが、徳を身に付けるには「活動(人・体験・本)」と「内省」が必要で、その中でも「本を読むこと」が最も大切ではないかと私は思うのです。