「才(スキル)」と「徳(人間力)」とは

この記事を書いた人
人事部長

上場企業に入社以来、経営・財務・営業・人事・海外事業等を経験し、現在は人事部門のマネージャです。

「才徳兼備」を目指す部下に紹介している「骨太の教養本100冊」を、順次web上にも公開しています。

慶應義塾大学経済学部卒業、シカゴ大学経営大学院修了(MBA)、米国公認会計士。

「才(スキル)」と「徳(人間力)」とは

「才」と「徳」を単純な二元論で考える

以前、こちらの記事(なぜ、いま「人間力(=徳)」なのか)で、なぜ今後は「スキル(才)」ではなく「人間力(徳)」が求められるようになるかを解説しました。では、「才」と「徳」とはどういうことなのでしょうか。

才(才能、ビジネススキル、マネジメント)

 

徳(人徳、人間力、リーダーシップ)

仕事をうまく回すため&利益を出すための手段
例)MBA(マーケティング、ロジカルシンキング等)

定義

何が正しいか、善いか、美しいかを判断し追求する力
例)社会や周囲の人のために何を為すかという意志

ROE5%を目指した経営計画を作る

行動例

会社の存在意義を定めたビジョン・ミッションを作る

藤沢武夫的

人物例

本田宗一郎的

算盤(渋)、ロゴス(ア)、幾何学の精神(パ)

表現例

論語(渋)、パトス・エトス(ア)、繊細の精神(パ)

形式知(言葉や数字で表現可能)

知の様態

暗黙知(人格そのもの)

理論、理性、情報、ルール
例)市場分析でニーズを探り、商品化する
悪例)ライブドア株価釣り上げ事件

判断根拠

直観、感性、想い、倫理観
例)社会を良くしたいという情熱で商品を開発する
悪例)大東亜戦争

議論を分かりやすくするために、この表のように単純に二元論化してみました。左側が「才」、才能とかビジネススキル。右側が「徳」、人徳とか人間力と呼ぶべきものです。

リストはまだこの後も続きますが、まずは「徳」と「才」を定義付けていきたいと思います。

まず「才」は「仕事をうまく回すため&利益を出すための手段」と定義します。先ほど出てきた計画性とか効率化もそうですし、MBAで学ぶようなこと全般、マーケティング理論とか簿記とかロジカルシンキング等は全てこの「才」に分類されます。具体的な例では、「ROE経営」という理論に基づいて、「ROE5%を目指した経営計画を作る」といった行動が挙げられます。

一方で「徳」は「何が正しいか、善いか、美しいかを判断し、追求する力」と定義します。例えば、社会や周囲の人のために何を為すかという意志は、この「徳」に分類されます。具体的な例では、「会社の存在意義を定めたビジョン・ミッションを作る」といった行動が挙げられます。

一言で言えば、梯子を上手く昇る力が「才」、梯子と正しい位置に掛ける力が「徳」ということです。

分かりやすい人物例として、「徳」は「どこにもないものを作って、技術で社会に貢献する」という意志を持ってホンダを創業した本田宗一郎的、一方で「才」は、技術に偏重しすぎて売掛金の回収もままならなかったホンダを経営面で支えた藤沢武夫的と言えます。

(もちろん本田宗一郎も一定のビジネススキルは持っていましたし、藤沢武夫にも本田の夢を支えるという意志を持っていました。ここでは分かりやすく、本田宗一郎を徳、藤沢武夫を才に割り振ったということでご理解ください)

そして、この「才」と「徳」を昔の人はなんと表現したか。皆さんは渋沢栄一の「論語と算盤」という本を読んだことがあるでしょうか。渋沢は「才」を「算盤」、「徳」を「論語」と表現しました。古代ギリシャのアリストテレスは、「才」を「ロゴス」、英語で言うとロジック(論理)ですね、「徳」を「パトス」と「エトス」、英語で言うとパッション(情熱)とエシクス(倫理)と呼びました。フランスのパスカルは「才」を「幾何学の精神」、「徳」を「繊細の精神」と呼んでいます。

知の様態としては、「才」は言葉や数字で表現可能な「形式知」と言えます。一方の「徳」は「暗黙知」、すなわち言語化できない人格そのものです。

そして「才」の判断根拠は、理論であり、理性・情報・ルールなどです。例えば、マーケティング理論を駆使して、市場分析でニーズを探り、商品化するといったこと。あと、ルールだけに依拠し、倫理観を考慮に入れなかった判断の例として、皆さんはホリエモンによる「ライブドアの株価釣り上げ」事件を覚えていらっしゃるでしょうか。

あれは株式分割という仕組みを巧みに利用して株価を釣り上げて、何の苦労もなく大金を手にするという手法でした。当時は合法、すなわち、ルールに照らせば問題は無かったわけですが、当時は多くの議論を巻き起こしました。

一方、「徳」の判断根拠は、直観、感性、想い、倫理観などです。例えば、体系だった理論に拠るわけではないけれど、社会を良くしたいという情熱で商品を開発するといったこと。あと、先ほどの逆の例で、感性や想いだけに依拠し、理性や情報を考慮に入れなかった判断の例として、大東亜戦争を挙げておきたいと思います。

大東亜戦争が始まる5年前、政府は「総力戦研究所」という組織を設置して、仮にアメリカと戦争をしたらどうなるかを、当時の双方の国力といったあらゆる情報を考慮に入れて緻密にシミュレーションしました。

結論は「日本の敗戦」。理論・理屈の世界では、日本は戦争をすべきではなかったと政府が公式に見解を出しているわけです。しかし、当時の近衛文麿首相や東条英機陸軍大臣らはこの結論を退けました。日露戦争だって勝てると思わなかった、戦争は計画通りにいかないという意見で、当時の世論も、イギリス・アメリカとの交渉に弱腰な政府に業を煮やして「開戦論」に傾いていったわけです。この時は政府が理性的な判断をするべきだった。ライブドアの件でも、大東亜戦争開戦の件でも、やはり才・徳どちらかだけでは不十分ということなのだと思います。

才(才能、ビジネススキル)

 

徳(人徳、人間力)

仕事をうまく回すため&利益を出すための手段
例)MBA(マーケティング、ロジカルシンキング等)

定義

何が正しいか、善いか、美しいかを判断し追求する力
例)社会や周囲の人のために何を為すかという意志

変化と陳腐化が早い

特徴①

時代や場所を問わず普遍的

論理的・専門的・功利的・定量的・分析的(science)

特徴②

観念的・統合的・道徳的・定性的・総合的(art)

西洋&デカルト的理性=根本原理・因果関係を探求
例)西洋医学の対処療法(特定部分を治す)

特徴③

東洋&老子的感性=無為自然の世界で人間性を感じる
例)東洋医学の漢方療法(体全体を正しい姿に整える)

そして、それぞれの特徴です。「才」は変化と陳腐化が早いですね。例えば10年前に流行っていたマーケティング理論は、みんながそれを採用するから、陳腐化して、競争力を失う。そうすると、常に新しい理論にキャッチアップしていかなければいけない。

一方の「徳」は時代や場所を問わず普遍的です。「何が正しいか」とか「社会や周囲のために何を為すか」とか「どう生きるか」といったテーマは、人類が何千年も前から継続的に思索を深めてきたテーマであって、今後も変化することはないと思います。一生かけて取り組むに値するテーマと言って良いでしょう。

そして、これまで申し上げてきた「才」の特徴をまとめると、論理的・専門的・功利的・定量的・分析的、すなわち「サイエンス」と言い換えられます。また「才」は、西洋的かつデカルト的で、根本原理・因果関係を探求するという性質を持っています。

例えばデカルトは「方法序説」の中で、「世の中の全てのものは疑わしいが、疑っている自分だけは確実に存在する」という根本原理や因果関係を追求したことで知られている。これは哲学の範疇だけれども、「サイエンス」的な態度。

西洋の医療は、いろいろ検査をして、悪いところを特定して、そこを治療するという方法を取る。Aという症状があるときはBという病名だろうと、帰納法的に因果関係を推定していく。これもまさに「サイエンス」的な態度。

一方の「徳」は、観念的・統合的・道徳的・定性的・総合的で、言うなれば「アート」の世界です。先ほどのデカルトとの対比では老子的ですね。無為自然、すなわち、ことさら知恵を働かせず、自然に生きていきましょうというスタンス。

東洋医学では、病気は「体の中の邪気と正気の戦い」であって、病気を治すには体全体の調和を取り戻すことに腐心する。まさに「統合的」で「総合的」なわけです。

ここまで、「才」と「徳」の特徴を見てきました。

才(才能、ビジネススキル)

 

徳(人徳、人間力)

仕事をうまく回すため&利益を出すための手段
例)MBA(マーケティング、ロジカルシンキング等)

定義

何が正しいか、善いか、美しいかを判断し追求する力
例)社会や周囲の人のために何を為すかという意志

誰でも理解できる&誰でもほぼ同じ結論
判断理由や成果を説明可能
→担当者が役職者を説得するのに向く(説明責任)

活用法①

誰でも理解できるとは限らない&人により見解異なる
判断理由や成果を説明できない
→役職者が自らの責任で実行するのに向く(結果責任)

過去から連続する課題への解決ツール

例)判例を調べて、企業訴訟に対応する
例)管理会計手法を用いてコストを下げる

活用法②

過去に例のない課題への判断の拠り所
例)クローン技術を規制する法をつくる
例)会社・社会・自分の利益が相反した際の態度

デジタル的(効率重視、評価は生産性が決める)

働き方①

アナログ的(やりがい重視、評価は歴史が決める)

之を知る者

働き方②

之を好む&楽しむ者

才ある人=報酬で処遇

働き方③

徳ある人=役職で処遇

いずれ大部分をAIが代替するのでは

将来

最後まで人間の分野では

では、この「才」と「徳」は実際の仕事ではどのように活用できるのかという話しです。

まず「才」的な素養は、論理的で分析的なので、誰でも理解できるし、誰でも手法の使い方さえ間違えなければ、ほぼ同じ結論に達する。つまり「判断理由や成果を説明可能」という特徴があります。これは、担当者が役職者を説得するようなケースで活用可能ですね。

例えば、何らかの企業訴訟があったとして、過去の判例に基づいて今後の方針を決めていくようなケース。もちろん解釈に色々な相違はあるだろうけれども、過去を分析して将来の対応を決めるというのは「才」的な要素であり、判例をどう分析して、どういう結論に至ったかは言語化できる。

しかし、これは「責任逃れ」の方法として悪用されることも多いです。先ほどの例で、仮に企業訴訟に負けてしまった場合、これは判断が誤っていたわけですが、「過去の判例を集めて検討した結果だから自分は悪くない」と手法のせいにされることも多い。

あとは、管理会計手法を用いてコストを下げ、結果として利益を上げました、というような例。これもスキルの分野の話になりますね。

一方、「徳」的な素養は、誰でも理解できるとは限らないし、人によって見解は異なります。判断理由や成果を説明できないわけです。よって、これはボトムアップで上司を説得できないということを意味しますから、役職者が自らの責任で実行するのに向くということになります。

例えば先ほどの法律の例では、「クローン技術を規制する法をつくる」といったケースだと理解しやすいでしょうか。過去の参考となる法律もなく、ここで主に問われるのは倫理観とか人間観です。クローンという新しい技術にどう向き合うか、過去に例のない物事に対する判断は「徳」の分野になります。

また、会社・社会・自分の利益が相反した際の態度、はどうでしょうか。これも、どうすれば被害が最小限になるか、と分析的・定量的に考えるところまでは「スキル」の世界かもしれませんが、その先にある「では、どうする」という決断は「徳」の世界になるのだと思います。

そして働き方の違いです。「才」の世界では常に効率が重視されます。商品は1円でも安い方がいい、労働者には同じ時間をかけるのであれば、1つでも多くの商品を作ってほしい。評価は「生産性」が決めることになります。

どれだけ利益をあげられるかを戦略的に考える。これは資本主義そのものですね。会社は株主のものであって、株主利益を最大化することが正しいという考え方。これはマルクス主義的な階級闘争の考え方にも繋がりますし、数年前に流行ったピケティに拠れば、現在の資本主義体制下においては、資本収益率rが経済成長率gを上回っていて、経済格差が広がる方向になる。これが効率至上主義の世界。

一方、「徳」の世界ではどうでしょうか。資本主義との対比だから、共産主義でしょうか?いいえ、違います。格差をなくすという理念に向かうという意味では「徳」に近いかもしれませんが、私有財産制を人工的に廃止して、全てを人間の手でコントロールするということですから、どちらかというと才とかスキルに近いと言えます。

「徳」の世界では、仕事はやりがいの源泉です。社会や周囲の人のために、正しいことを、どうを為すかという意志を仕事を通じて実現するということですね。評価は効率性ではなく、歴史が決めるということになります。

それから、孔子の言葉で、「之を知るものは、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」というものがあります。「これ」は勉強でも仕事でもいいのですが、仕事に関する知識があるという人は、仕事が好きだという人に適わない。仕事が好きだという人は、仕事を楽しむ人に適わないという意味です。

「仕事に関する知識がある」というのはまさに「才」の世界ですね。一方、「徳」の世界では、仕事は好きになるものであり、楽しむものと言えます。

それから、中国の歴史書である「書経」には、こんなことが書いてあります。「才」のある人、つまり実務能力のある人間は、報酬、すなわち給料で処遇せよ。一方、人間力のある人間は、役職で処遇せよ、ということです。

どうでしょうか。「才」型の人が上司になった場合、論理的・定量的な案件や、過去から連続する課題は判断できても、観念的・定性的な案件や、過去に例のない課題には対応できないわけです。だから、「才」型の人を主要なポストに就けてはいけない、と言っているわけです。

ちなみに、日本では西郷隆盛がこの趣旨のことを話したとされていますが、元々の出典は中国の「書経」です。紀元前の頃から、現在にも通じることが考えられていたのですね。

そして最後に、この「才」と「徳」がどうなっていくか。「才」は「徳」に比べると、言葉や数字で表現可能な形式知と言えます。これはAIとの相性が非常に良いわけで、例えば、過去の判例を全部データベースに突っ込んで、判決を予想するようなことは今でも行われています。「才」の分野は、いずれ大部分がAIに置き換わっていくのではないでしょうか。

一方、「徳」の分野はどうでしょうか。善悪の判断、何を美しいとするか、人は何のために生きるのか、AIはサジェスチョンはしてくれるかもしれませんが、最後に決めるのはやはり人間です。「徳」の分野までカバーできるAIを搭載したロボットが将来的に表れるとしても、その開発を許すか許さないかは人間が決めなければなりません。やはり、この「徳」の分野は、最後まで人間の分野ではないかと思います。

以上、「才」と「徳」について見てきました。

では、私達は「徳」とか「人間力」をどのように身に付けていけばいいのでしょうか。次の項で触れていきたいと思います。

コメント